2014/10/22

NO,35  報恩講

Photo 今日10月22日(水)朝から休まず一日中小雨である。
今年は本年は春からお寺の世話役の一年の期間となり配り物等を配布している。
昨日は早朝の小雨の降る前に大至急で13戸の檀家に「同朋新聞」10月号とお寺の寺報を配布した。
「同朋新聞」は真宗大谷派東本願寺が毎月出している。
12ページであるが書かれている内容は難しく一般の人は祖父や祖母の方が若い衆が勤めに出ていられる家であれば若い衆は読んでいないのではないだろうか。
編集者の内容の狙いはこの読む人の学歴をどこに中心を置いているのだろうか。

Photo_2 お寺の宗教感について一般的にいわゆる寓話としていわゆる子供の頃から信州・善光寺の「牛につれられ善光寺」の善光寺に近く住んでいながらお寺をお参りをしていない。
越前・福井の寺の若い嫁の宗教心に嫉妬を焼いてお婆さんが鬼の面をつけて脅した「嫁おどしの肉つきの面」で嫁と一緒にお寺へ行き改心した話である。
何れも2人のお婆さん、年寄りであるが現在のこの「同盟新聞」は読まれているだろPhoto_3 うか。

家の西性寺さんには今月の10月29日(水)は報恩講であるから大勢の人の参拝を願つている。
この報恩講は宗祖親鸞聖人の命日(弘長2(1262)11月28日・90歳)であり、特に聖人750回御遠忌讃迎記念に力を入れている。
本来はこのように11月28日頃になると雪が降り出す荒れ模様の季節であり、参拝者の年寄りを考えて昔から当お寺は1ケ月を早くしている。
梶屋敷・田伏の子供達は「雪が降りやゴマンさん」(御満座のこと)と言つていた事が子供の時に聞いていたものである。
越中・富山は真宗王国、この頃になると荒れる、「荒れは鰤おこし」、この時節でもある。

高田別院と言う、真宗大谷派高田別院である、秋になると高校に通学していた頃に「おたや」と言う法要があつた。
稲の刈り取りの最盛期の頃であるが、3日間であるが多くの人が近郷の農家から参拝に来ていた。
通学の途中にあるお寺であるがその法要を見るとは思わず見た事は級友からも声がかかる事がなかつた。
「おたや」とは何んであつたのかは知らなかった。
稲刈りの多忙の最中に参拝するそれが高田の人達の信仰心が高かつたのである。
この高田の仲町に瞽女(ゴゼ)の住む家がある、早春から西頸城を始めとし中頸城、東頸城えと廻り信州善光寺平、松本平方面までも旅をしていた。
その中でただ「おたや」には必ず帰り参拝していた。
Photo_4 これが高田瞽女の宗教心であり、旅を毎年行う旅人であり、この旅で倒れをしなく健康で回れる事に感謝をしているのである。
盲目は仏の願いである。

米 「絵日記ごぜを訪ねて」斎藤真一著(日本放送出版協会) 高田瞽女 杉本キクイ6人の家族であるという資料がある。

写真の説明
1枚目は 「おこさん袋」と言う主に米の1升と2升を入れていた。
2枚目は 横町・西性寺家の菩提寺である。
3枚目は 親鸞聖人の像、郷津の浜陸上の地に立つ。
4枚目は 瞽女の旅姿である。

2014/10/21

NO、34  焼山

Photo今日は10月21日(火)朝からくもり時々小雨である。
最近は噴火した御嶽山以来山について関心が急に高まつている。
深田久弥(1906・3~1971・3)よつて昭和3年1月の「小説新潮」の「わが愛する山々」によつて雨飾山(1963)が百名山によつて有名となり、頚城三山と言う焼山(2400)、妙高山(2454)、火打山(2462)も百名山に入っている。
深田は昭和16(1941)年に入つて38歳の秋の10月に下早川・新町をバスで通り笹倉温泉に宿泊して焼山に登山をしたと言う記録がある。

Photo_2 焼山は昭和39(1974)年7月28日に噴火により国立千葉大学生・園芸学部の学生3人が高山植物調査の為に遭難している。
それ以来登山には禁止されていたが、いつの頃からか指導者が居れば良いとされた。
昭和に入り噴火は何回もあるが、昭和24(1949)年2月5日の朝に突然噴火し、火山灰は風に流され東は200km離れているが茨城・筑波山(877)まで火山灰が降つたと言われている。

11192 私達が中学2年生で全校生徒が梶屋敷の浜の畑からそれを見たことがあつた。
戦前、戦後はこうした有名な山があるから、白馬岳(2932)や雨飾山(1963)、焼山は学校行事で元の中学校や女学校の生徒は登山が行われていた。
私が小学校1年の蓮華温泉の湯治の際に女学校生徒と同席し白馬岳の途中であつたように、学校行事となつていた。
しかし戦後になつてからわそうした学校行事の登山はまったくなくなつたようである。
私達は中学校も高校時代にも無く登山はなくなり焼山には登る事がなかつた。
青年団の時代に入りようやく県教委の登山者指導者講習が白馬岳で行われ参加した。
近年はようやく郷里の山を知り、山を誇れるようにと上早川は鉾ケ岳、根知は雨飾山、小滝は明星山(1188)は公民館行事として行われるようになつた。

御嶽山の噴火で多くの登山者が死亡して以来、登山者向けの安全対策が強化されるよう要望されているが当然であるが、安全の登山の機会を失うようになつてはならない。
特に世界ジオパークとは皆んなで考えなければならない。
洞爺湖有珠山、当市糸魚川、山陰海岸、島原半島、室戸、隱岐、阿蘇の7ケ所が世界ジオパーク ネツトワークに認定されており、これが観光が根幹であるとされているが、これは地球活動に関する自然遺産を保護し、それを教育や科学の普及とされ、これが地域づくりに一層の力を入れなければならない。
丁度良い機会となつた。

写真の説明
1枚目は 笹倉温泉である
2枚目は 焼山が昭和49年7月の噴火の際の写真である
3枚目は 早川・鉾ケ岳である。

2014/10/17

NO,33  秋たけなわ

1014 昨日は晴れを迎え里芋掘りや、花の手入れのアジサイやジンブキ(うるい)の手入れを行なつた。
朝夕は寒くなり、畑の仕事も遅くなると「秋の日はつるべ落とし」である。
地元の秋祭りは11月であり、祭りの行事もなくその準備も特別にはない。
今日の17日(金)は午前は雨を時々降っていたが昼過ぎには晴れとなつた。

この時季の秋の花は色々と咲いているが、もう少し大菊はまだである。
108 山野草の中に家に色々と多くあり、彼岸花は早く終わつているが、ホトトギス(ユリ科)、シユウカイドウ(シユウカイドウ科)、シユウメイギク(キンポウ科)、ツワブキ(キク科)などが咲いている。

今年の夏の海は天候が悪く海水浴が残念であつた。
こと当大和川の海岸は浜がなく、急な岸となり深くなつている。
この海岸を埋める事をなんとかならないか、テトラポツトや沖防波堤を入れるような要望は何年も前から行って来た。
ようやく今年の6月より「海岸養浜工事」と言う事業が始まった。
こんな事は始めてであるが、これは珍らしいものでどこかにもあるのだろうか。
1013 砂を運搬するトラツクは姫川港の砂を掘つたものを大変の大量を運搬するのである。

国道第8号の東バイパス工事も来年3月14日(土)に北陸新幹線の開通日であり、これに合わせて通行がされているが本当に出来るだろうか。
竹ケ花の海川にかかる陸橋と国道8号線をまたぐ橋もようやく出来ている。
こんな工事は大工事でありたいしたものである。

1041枚目の写真は家の前の柿の木が赤く実つている。
2枚目は「やましのほととぎす」である
3枚目は養浜でテトラポツトに砂を入れ埋め立てるので
あるが、一昨日には大波でだいぶ採られている。
4枚目はバイパス立陸橋である。

2014/10/14

NO、32  寒露のころ

101011 今日は10月14日(火)雨が19号の台風くずれで時々降っている。
9月
にブログを一回投稿以来忘れたか、辞めたように1ケ月の間わ過ぎた、本当に1ケ月を過ごす事は早いものである。
8日(水)は寒露(かんろ)であり、急に朝夕は冷気が増し散歩は堪えるようになつた。
農作物や草木の葉も冷えいるが、農作物の収穫の米は全て終わり豊作に喜こんでいる。
野菜は大根や白菜、野沢菜などはまだであるが、里芋やサツマイモは掘り起こしているがイノシシなどの獣なども収穫を手伝つてくれて残念である。
十五夜の月は「芋名月」、「豆名月」そして「栗名月」とも呼ぶが今年はこれも多く採れ1011 た。
里芋は大根、コンニヤク、厚焼き、昆布、玉子などの煮付け
の時期となつて何食も大鍋で食している。
栗も今年も多く採れ、枝を振つて拾い、栗ご飯は何回も作つてくれた。

この時季スポーツ、文化であり、地区の運動会があつたが年寄りは見る事も出来ない。
文化の方は音楽会、演奏会、短歌や人形教室(衣装人形、押し絵、羽子板、まり、など)相馬御風の顕彰、書道等の枚挙にいとまない。

11日(土)には市展第10回がビーチホールまがたまで
行われ、絵画(33点)、彫刻・工芸(3点)、書道(32点)、写真(49点)、和紙絵(21点)、陶芸(20点)等が出品されている。
31011 家内が書道に出品し始めての入賞であり喜んでいただろうが顔には見えなかった。
こうした学習は若い頃の生涯一生でありこうした研鑽で、絵画の「街道の大松」は大工さんの知り合いで2点の出品であり、若い頃からの学習である。
同じ絵画の倉又、小田島さんも今回は入賞してないが今後も頑張るのだろう。

家内の書「宋之問詩」である。

1011_2 この絵が「街道の大松」で田伏の「ゴンばい大松」なのである。
残念ながら約40年前頃に伐さいされているものである。

2014/09/04

iNO,31  二百十日

Photo 今日は9月4日(木)、朝から南風が吹いて快晴であつたが昼過ぎから曇り、小雨となって来た。
9月1日は二百十日で11日は二百二十日で台風の特異日とされ注意が必要とされている。
この日は地域では西海谷・御前山の雲台寺の秋祭りであつたり、根知谷・山寺の「おててこ舞い」である。
昔はこの里には賑やかであり青年の時代の頃には浜辺の青年でなく「おててこ舞い」よりも御前山であつた。
ところが昭和30年頃に「おててこ舞い」と言う「山寺の延年の舞」(国指定文化財・昭和55年2月1日)の方が年毎に賑やかになつて来る。
その御前山集落や市野々、余所、余川の青年はその反面で秋の農作業を早めて東横方面に車のタイヤ臨時工に始める事になつていつたし、これが定職となり一家が離村となつていつた。
又農協にいた青年は賃金が安く証券会社が条件も
良いと富山市方面に出たがそれPhoto_2 も2~3年で条件が悪くなつたりして村に帰るようなこともあつた。
こんな話は各地の農村にはこんなような話があつた。
当時魚沼地方で「出稼ぎの歌」が歌われていた。
県の青年は「青年問題研究集会」に集まつた人が多くなり議論が行われた。
薮神青年は「サンヨ サンヨ」の「浦佐昆沙門堂裸押合大祭」を行い出稼ぎから帰り盛大に集まるようになつた。
こうして地域づくり、村おこしが始まるのであつた。

私の地域の今年の盆は15日も16日も雨が降り年一回の盆踊りは出来ず、27日は諏Photo_3 訪神社の盆踊りも出来ずであつた。
23日は「処暑」(しよしよ)二十四節気の涼風も吹き暑さがおさまるといわれる、そして8日は「白露」(はくろ)で大気が冷え始め朝夕の風にもいくらか肌寒さを感じさせる。
この1~3日は八尾「おわら風の盆」が盛大であつた。
稲も豊作黄金の花が咲く。
盆踊りがないと盆踊り歌がわかる人が段々となくなつている。
こうして大和川の「盆踊り唄」を記載してみた。

大和川 大村なれど
踊る若い衆はこればかり
若い衆やおしこめかいこめ踊れ
あき間の風は毒だ
二百十日の風さえ吹かにや
稲にや黄金の花が咲く
今年は豊作穂に穂が下がる
枡はとり除け箕ではかる
若い衆や盆だらこそ踊れ
秋の八月誰が踊る
若い衆の白手拭は

藍の惜しみか身の伊達か
若い衆を踊らしよ為に
派手な浴衣を染め置いた
若い衆や精を出して踊れ
唄は袂に千もある
唄の数千までいらぬ
唄を三つ持ちや夜を明かす
若い衆やでつかい事しよまいか
小豆五斗煮で団子しょまいか

根知の根小屋の棚戸の川原
抱いて寝ごろの石ばかり
根知の大神堂の吾作の娘
目許ばかりで五両がもの
御前山 在郷だと仰言つる
開張ある時は場でござる
見て来たか富山の町を
二階造りの白壁を
夜が明けたそな
天の川原も西、東
Photo_4 一の谷敦盛様は
弓を片手に矢を腰に
若い衆や網かけまいか
沖に小鯖が三つ飛んだ
若い衆や残り多いれけど
これで終いましよあなかしこ

写真の説明
1枚目 「おわら風の盆」のポスター
2枚目 御前山の観音堂
3枚目 「おててこ舞い」の「鉾の舞い」
4枚目 水保の神楽の「弓の舞え」

8月は1回しか投稿が出来なかった、今月もようやく1回出来たが大変である。
7月に治療以来副作用と言う聴力低下、視力低下、白内障を心配しているのである。。

2014/08/09

NO,30   お盆も近く

Photo 今日は8月9日(土)朝から小雨が時々降っておりここ2~3日続く盛夏でなく海水客は裏の浜茶屋はカッコウドリが鳴いている。
強い11号台風はもう2日程続くようである。
7日は「風祭り」であつたが、「立秋」の暦でもありお盆の準備も進めている。
15日のお盆は「盂蘭盆会」(うらぼんえ)であり氏子の神社の境内で行うが多くの人が集まつて仮想盆踊りであるが近年は集まらなくなつている。
それで直ぐに案内の通知が配布されて来ている。
昔は青年団が主催であつたが、今は公民館となり変わつたものとして男女の若い衆をPhoto_2 当にしているがなかなか上手く行かない。

こんな涼しさが昔は浜の屋敷に「とうちんぼ」(俗名)や「よのみ」(えのき)の雑木がありセミ(蝉)が多く飛んでいたりして多くの声もあつたりは今はすっかり聞こえなくなつたりしている。
子供の頃はよく蝉とりに木に上つたりしていたものであつたが、祖母は蝉の寿命が短いので取つたり、トンボ等の生き物をつかまえる事はしないようにとよくいつていた。

Photo_3 稲の架木(はさき)は当地域では浜に作り「とうちんぼ」のものと、主流のものは杉の木や「もうそう竹」であつたが家では杉の架木は何本も多く準備して保存していた。
そうした秋の刈り取りの風景は「稲の架木」が主流であつたがまつたくなくなつてしまつた。
コンバインによる収穫になりその時代になりまつたくなくなつた。
現在は蒲原・岩室に一ケ所に「稲架木」として新潟市の文化財にする状況となつているのである。
この「満願寺の稲架木並木」の表示がある。
今年の刈り取り時期も早まり、もうすぐにコンバインの音が聞こえてくるようである。

2014/07/29

NO,29 「金比羅」・「琴平」・「風祭り」

Photo_2  今日は7月29日(火)、朝から晴れとなるが最近は涼しく海が少ない。
海水浴の時期になり、小雨が降った日が多くあつた。
昨日は北陸地方は梅雨明けとなる、平年よりは4日遅れ、昨年よりは10日も早かつた。

糸魚川・寺町の琴平神社の夏祭りは7月10日では前の日は宵祭が9日で寺町通りは夜店が並び子供達も多く出歩いた。
2729 「うぐいす餅」が琴平祭りの名物であり食べた。
今頃の「うぐいす餅」は春だけでなく年間通して銘菓として店頭にあたるようである。
この宵祭りには15~16歳の高校生の年が始めてであり、友達は直江津の商業高校に通学する琴平神社の向かいに海産物店を行う長男であり二階の部屋でその「うぐいす餅」を戴いた。

この糸魚川・寺町の琴平神社は「琴平神社」であり、当大和川は「金比羅宮」でありここも7月10日が祭りである。
「琴平神社」と「金比羅宮」の他に「さぬきのこんぴらさん」として親しまれる海の神様は「金刀比羅宮」で総本宮なのだろう。
糸魚川の「琴平神社」は「金比羅大権現」があつたが遷宮で昭和4年の火災で変わっていつた。

Photo_3 大和川は10年程前に7月10日の祭りを行うのは大変で8月7日の「風祭り」に日わ平併して祭りを行うようになつた。
この大和川の「金比羅宮」は小丘のエントビラで祠を明治初期の時点に建立したものである。
カマボコ、クシガタ、鰯の漬物、鰯の煮干し、エビのしめこみ等四十物師と言う者や、米酢作りが地元の親方となり氏子になつた。
昭和の初めには神社に相撲場があり近郊の寄り相撲があつたり、鳥居は木製であつたが朱色のものであつた。
スヤの庭には旗竿の囲いがあつたり旺盛な時代もあつたが、昭和に入り立ち待ちに農村恐慌が村中が襲いかかり、漁業、勧業興産が微塵もなくなつた。
金比羅の仲間講もあつたが抵当権の早いのは明治30年に「長代の春」の者もいたが「砂原」や「あわら」、「前波」地があつた。
これを機会に金比羅宮を大和川惣代(自治会)に革命し、更に水頭・児出にある
ある児出神社や、同水頭の小富山(241)の富士神社、中原の山崎の秋葉神社、同稲荷神社を全部惣代のものとし管理した。

8月7日の「風祭り」は「金比羅宮」といつしよに夕方に行い、「風祭り」の神事は大松の高い所に若い竹に幣帛を立てて結び付ける。
この地域にはこの時期に神社の松や杉に幣そくを立てたもの、又
水田の神田に幣そくを立てるものもある。
4 この時期の能登の気多や藤懸(ふじがけ)、重蔵(じゆうそ
)、須須(すず)等の海辺に鎮座する多くの社叢(しやそう)には神木という「タブノキ」に「鎌打ち」神事を行うもので、風神を奉(まつる)つて風避けを祈願する奇祭なのである。
稲穂と白木綿を付けた2丁の鎌の打ち込こむのは残酷でもある。                             タブ
ノキは神木であり魂、旅、賜(たまわ)ぶ、食ぶに通じ るタブ(椨)は能登のさまざの神事舞台にも登場している。
能登には諏訪神社は無いと思つていたが中能登町金丸にある。

このタブノキはこの地方の能生・白山神社境内にも多くあり、浦本・中浜の諏訪神社境内、田伏の奴奈川神社境内にもあり、大和川神社にはないが、秋山旧神主にはあつたが10年程前に伐さいした、岩﨑大主(割り元・大肝煎)の庭には2木の古木となつている。

Photo_4 「風祭り」は作物わ風の害から守るための竿の先に薙鎌(なぎがま)を付けて立つ風切り鎌と言う祭具にされている。
これは当糸魚川市根知谷の信越国境の白池の「塩の道」南側を小谷村(戸土)としている。
この国境も今も600m程の境界が入つていないのである。
領土境界と言うよりも諏訪信仰の諏訪大社の勢力範囲、神社境界の標識として使われている。
小谷の地は昔から諏訪大明神の敷地として7年に一度の「薙ぎ鎌」(または内鎌)打ち神事が行われ、根知・山口村の方こそ越境して行うセレモニーである。
薙ぎ鎌打ちは「信濃の木」(しなのき)とか、諏訪大社の御柱の神木は樅(もみ)、ヒノキとし、戸土は杉の木神木として打ち込んでいる。
この鎌は古い時代から、竜蛇を象つたもの、タツノオトシゴのような形になつているもの、背中に鋸歯状の切り込みが刻まれている。

安曇地方で現在は鶏の頭部、丸みを帯びる鶏冠を思わせる刻みが付いている。

Photo_5 「風祭り」に際し少し調べて見たが、6月から「脳神経の放射線治療」が始まり副作用で物わすれや記憶がなくなるようになり、こんなの程度になつた。

写真の説明
1枚目は 西海・真光寺の神田の幣帛
2枚目は 岩﨑旦那の庭の「タブノキ」、保存が大切
3枚目は 能登「鎌打ち」神事・中能登町金丸の鎌宮諏訪神社
4枚目は 諏訪大社の鎌・「鶏冠」の箱入れ・昭和24年9月17日のもの
5枚目は 神木に打ち込んだ「薙鎌」
6枚目は 大和川の「風祭り」と「金比羅宮」の祭り案内

2014/07/23

NO,28  浜

Photo 今日は7月23日(水)、朝から晴れで今日は4日位の盛夏となる、21日(月)は7月の第3月曜日を「海の日」とした。
「海の日」は平成7(1995)年に制度され、翌年平成8から施行された。
「海の日」は以前の昭和16(1941)年6月5日に次官会議において「海の記念日」と制定され、第1回が「7月20日」となつた。
明治天皇陛下が明治9(1876)年東北ご巡行の帰途、灯台視察船「明治丸」で青森から函館を得て横浜にご安着された日に由来されたのだそうである。

723 19日(土)の土曜日から当大和川地区の海水浴場が開設された、大和川小学校の東側に監視場を毎年のようにしている。
大和川のテトラポツトで海水浴場でなくなり、海岸を「養浜」として姫川港の屈折の砂を5月から運搬しているのである。
反面梶屋敷や田伏は海岸は広いが、海水浴場の乗用車の駐車場がなく困つている。
昔から海水浴場や魚釣り等もあるが、これからが恵まれながらトイレも無いなどそうした施設がない。
この海は「福寿海無量」でありながらこれを知らない。、

2 最近は海の波叩きの散放が多くなつているが、田伏には3ケ所の祠(ほこら)があり、漁師は御万度社(おまんどさん)といつている。
大和川にも西区の浜の市道海浜線に新らしく移転した「ほこりこ」を作った。
子供のころからイワシの漁師とアキモノ師(四十物)等が祭りを行っていた。

6月22日(日)に県立海洋高校の「さかなまつり」が姫川港と魚市場で行われた。
実習船「くびき」も体験航海を行つたり、又海水産物も販売していた。
珍しい産物として「魚しょう」もあつたが高校生の加工は珍しく、能登の「道の駅」等では売つておられていた。
昨晩のNHKのニュースでは高校生の大型実習船「海洋丸」が17人の実習生が能生港に寄港したとの事で、函館港、長崎港を40日間も航海したのだと報道されていた。

2014/07/17

No,27   電車

79 今日は7月17日(木)、朝から時々小雨であるが、こんな日がここ2~3日続いて涼しさが私の体に豪暑よりもよい。
先般富山市内の特殊の病院に電車で出かけた、妻と一所にしてもらつたが、富山市の事は知らない。
約30年前に富山空港から札幌に忘年会に旅行をした頃があつた。
富山駅は新幹線大工事であり不便であつた。
病院を駅前からハィヤーを利用した、ハイヤーも住所が判からずカーナビで目標がわかったが賃金が少し高くなつた。
難しい住所の「鵯島」(ひよどりじま)がある、「鵯」(ひよどり)と読む書物があり、こんPhoto_2 な面倒な町名にしたのは歴史かなにかがあつたのだろうか。
新幹線の新しい客にもこんな事の例が無いのはサービスになる。
新幹線はもう8ケ月で開通し、上越市、当市糸魚川、金沢等も大変な行事がおこなわれている。
富山も一生懸命にやつていないとは言わないが、ハイヤーの一つでもその悪点が目に見える事もある。
昼過ぎに帰るために駅構内に入った。
もう直ぐの越中の「おわら風の盆」のポスターを見かけた、これ一枚でも本当の観光の大切さを見かけた。

それと富山県東部地方のどこの駅だつたか女子高校生が乗車されたが、夏休みの試験上りだつたのか、想像出来る。
客席が少数で生徒は皆んな座り、小声で何かを語り楽しんでいた。
こんな光景を私はもう65歳も前に通学した、そんな同じのような光景を思い出した。
糸魚川から高田への通学は農業高校と工業高校の男子、女子は家政高校の二校があつた。
車内ではお互いに話したり、交流をするような事はなかつた。
当時は当然のようにその時代はそんな事がなかつた。
今頃のはこの時季の夏の服装はどんな服装であつたがシャツは白色だが、胸に学校の校章が付いていたので学校は当然判る。
もう時期の夏は長く、この女子の生徒とは顔を見られない、会えなくなり寂しくなり初恋、思慕などないだろうか。

今高校生の女子の制服がカッコよいものでないと入学生が少ない等の話が何10年も前にあつた聞いた事があつた。
この富山市東部の女性高校生はどこの駅から乗車し、数駅に下車した。
女子生徒の服装は上着のシャツは白色の少し厚地のもの、スカートは極端に短い丈のものでなく、長くもなく丁度のよい丈であつた。
これが私たちの時代の服装が目に浮かび出て、これがこの女子生徒と同じように思われた。
C 80歳になつたが、15歳の高校になつたのであるが、こんな事もあるのであつた。
当時は農業高校には女子は一人も入ない時代であるが、ただ高士の分校の定時高校には女子はいた。
高校3年の夏(昭和27年8月4日)に新潟県学校農業クラブ臨時大会が赤倉・日本鋼管(株)厚生寮であり、これで高士分校の女子と合い写真を撮つた。
一番後ろの左側2人は私である。

2014/07/07

NP,26  祇園

Photo 今日は7月7日(月)夜から雨が一日中降つている。
今日の7日は「七夕」であるが、東京・台東区浅草寺は「ほうずき市」、入谷は「朝顔市」と夏の風物詩である。
京都の八坂神社は「祇園祭」が行われている。
貞観11(869)年に疫病が大流行し、鍞める祈願が始まる行事となつた。

この地方でも夏の行事として海辺地方は7月7日には祇園の行事が行われるが、山間部にはその祭りはない。
田伏の漁村はこの祇園は7月7日、そして14日には御帰りになられる祭りである。
ところで近年は日曜日にならないと祭の子供と若い衆が参加できず、近年は7日に近い日曜日としている。
そうした日に変更してもう何十年以上もたつている。
昨日は一日中晴れとなり、午前は地元の田伏の一部と大和川と竹ケ花を神輿の巡行が行われ、午後は残りの田伏と梶屋敷が巡行し、梶屋敷駅前には旅所が出来て宿276 泊する。
神輿の巡行の露払いはジョバ、ペタ、ハナが出て、子供達を払つたりしたものであるが、子供達の行事がほかにもありそうした姿が見えていなく寂しい巡行であつた。
夕方には住民皆に祇園の御札という「蘇民将来子孫門也」が配布された。

当大和川は子供の保育園児の「七夕祭り」も日曜日に行つて夕方に行事を行つた。
夕方の舟は麦からで作ったものでこれに子供が乗つて地区内を引いて廻つたものであるが、ずつと何年も前から、麦がらから耕運機になり、それからは軽自動車へと変Photo_2 わっていつた。
この七夕行事の歴史も古く、戦争前から行われていた。
各集落の集会所や農作業所に女の子が集まり、紙の人形や、布の人形やサルボボ等を作ったり、遊戯の練習をおこなつていた。
道路にそうした人形やサルボボを吊していたので、女の子の手芸の上達や、この行事は女の子の厄祓と健やかな成長を願う行事なのである。
このサルババは飛騨地方の民芸品となつている。

2014/06/29

NO,25  六ケ月のころ

Photo 今日は6月29日(日)、夜中に雨が降り続き、朝方からは雨が上がつたり、陽性の梅雨と言えるもので湿っぽくないのがよい。

今年は何もしない中でとうとうその半分が過ぎ去る。
家の檀家のお寺では今日は「永代経」と「追悼法要」が行われ、お斎も用意するので多くの方の御参りをして欲しいとの通知が来ていた。
氏子の神社は明日の30日は正半年の夏越えの大祓え祭りである。
大きな神社では半年が過ぎ「茅の輪」(ちのわ)が新しいものに取り換えられている。
石川・羽咋市の気多神社と群馬・富岡市の一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじや)の茅の輪に農協の農家組合長の旅行の際に参拝する機会となつたものである。
新潟県にはあまりないようであり、新潟市の護国神社は行われているようである。

623 この時季の暑い夏を乗り切るために特に「半夏生」(はんけしよう)の日には食べるものがあるとされている。
この地域では特別にないが、古くからこの時期にはラッキョや梅つけや梅酒が少しであるが行っている。
子供の頃は土蔵のヒサシに味噌桶と一所にラッキヨの亀が並んでいたものであるが、今は自家用の味噌は作らなくなつて味噌桶はなくなつてもう数10年にもなる。
食べ物の中には本県では昔から「クジラ汁」があつたが、今は貴重品となり口には入らなくなつている。
物の本などによると、福井県では「焼きサバ」であり、老化防止、ビタミン群も豊富でPhoto_2 栄養優良食品である。
江戸時代の大野藩の時代から奨励されて来たものである。
「タコ」もこの時季の食べ物として関西地方では疲労回復等の食品として奨励し、「タコの日」の指定日まである。
「うどん」は四国、香川は讃岐(さぬき)は「うど
ん」の本場であり「うどんの日」さえもある。

「うなぎ」は土用の日、「恵方まき」は節分と一所に多くのものが市民権を得て活躍している。

写真の説明
1枚目は 明日の大祓いの掲示
2枚目は 家の「半夏生」が23日に咲いた
3枚目は 群馬・富岡市の一之宮貫前神社の「茅の輪」である

2014/06/20

NO,24  花菖蒲

Photo_2 今日は6月20日(金)、朝から時々小雨が午前中に降っていたが午後は晴れとなる。
明日の21日は二十四節気の「夏至」である。
昼間が一年で最も長い日で夜は一番短いと言われている。
梅雨の最盛期でアジサイは咲き出したり花菖蒲(はなしようぶ)も咲き出した。
県内の各地の名産地や全国の有名園(苑)では花菖蒲が「まつり」の最盛期である。

県内では新発田市は城跡園と五十公野(いじみの)公園が花菖蒲のまつりが行われ、特に新発田城は「あやめ城」とも言われたり、市内には「あやめ」の名のつくものが多く、幼稚園を始め高校に至る校章にもあるそうである。
先般はテレビを観ると新発田城に明治神宮から花菖蒲を頒布され整備されているものだとの内容であつた。
この市内の多くの人の願いの中で昭和43~45年頃に実施されたようである。

6242 明治神宮は古くから育苗の頒布事業を行っていたので、当大和川の灌漑用水の「水頭」を築造し昭和9(1934)年に竣工し、この溜池に少しの花菖蒲の白色と紫色の二種類を頒布を受けている。
祖父はこの溜池工事の監督であり、少しの育苗を家にも山田の畦畔に分植していた。
溜池の苗が痛んだ時に補植用に育てていたものである。
それに関わらず溜池の花菖蒲はいつの間にかまつたくなくなつている。
私が役所を定年後には用水の役に関わる事になつたが、そんな事が残念ながら明Photo_3 治神宮から頒布された事は今の人は誰れ一人も知っていない。
私の家の山田にはそうした経過の中で少し残っているが、なかなか増殖しようと手入れをするが中々増えないでいる。

明治神宮の御苑の花菖蒲は明治26(1893)年、明治天皇がお后の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)をいたわつて植えられたものだと言われている。
現在約150種1500株が咲きますが、明治神宮の花菖蒲は「江戸系」の品種が多く、特に江戸時代に数多くの名花を作出したその流れをくんだものが多くあるのだとPhoto_4 されている。
私の家の白色と紫色の二種類を守つているが、私の80歳と同じ80年の経過で残念ながらその品種の名前は解からず終いである。
江戸時代の原種は原種として今後も永く種の保存が必要だが、改良種もこれと別に新しい品種の改良に永い年数を要するものであり大変の事業でもある。

写真の説明
1枚目は 明治神宮御苑のポスター
2枚目は 私の育てている花菖蒲・昨年の6月24日に撮影されたもの
3枚目は 明治神宮御苑の花菖蒲「都の巽」である
4枚目は 同じく御苑の「宇宙(おおぞら)である。

2014/06/13

NO,23  思い出のギオン

25 今日は6月13日(金)、夜中雨が降って朝の9時頃にようやく上がった、大きい雨は梅雨でなく豪雨である。
3日程の降雨が続き、気温も30度程も続いた暑さは22~23度となり寒い体感で体調をくずしてしまつた。
晴天がいつかも続いた時は雨が欲しいと言い、雨が続けばもう雨はいらないと好きかつての我がままを言う。

そうした梅雨期の晴れ間は貴重な天気である。
田伏の奴奈川神社のギオン祭はこんな時季の祭りである。
子供の頃のギオン(祇園祭)の思い出はなんとなく楽しいものの一つであつた。
田伏の人達はその太鼓の音はドンデンドンが鳴れば今でも血が沸きたつと言うが、そんな事があるまいと思うが、一の宮の喧嘩祭りもそうであPhoto り、男衆だけでなく女性の人も生り立つ位であると言われている。
私達大和川の子供は田伏の子供でないからギオンの祭りには参加することがないが、神輿巡行の露祓いの「ジョバ」と「ハナ」と「ペタ」に追われて逃げるのが楽しみである。
大開道の国道だけを逃げまわるのでなく奥屋の路地までも、農道であつたりで所構わず逃げ廻わつたものである。
この頃になるとギオンは待ちきれずに「ギオンごつこ」を行つたものである。
又、ギオンが終わった後にも「ギオンごつこ」があつた。
ペタとハナの表面をボール紙で作り、面を被る役と逃げる役があるが、面を被る役は当然上級生である。
ペタの面は平らだから作るには簡単であるが、ハナは、鼻が高いのでこれを上手につくるのが大変である。
面を付けて走ると直ぐに鼻が取れてしまう、ノリで貼るのだが、ノリはなかなか上手く行かない、ご飯の粒で貼つていたものである。
Photo_2 面を付けて追うもの、逃げる者も皆んな一生懸命であつた。
奥屋の狭い路道が遊び場所である、たまには「エドシロ」(お勝手の排水溜め)にはまりこむなどはしょつちゅうであつた。
そんな光景は今では考えられない風景でもある。

田伏の祇園の露祓いの「天狗」は「ハナ」であり、まさに恐ろしい天狗の形相である。
梶屋敷・立壁神社のお祭りの露祓いにも天狗がいるが子供達を追い払う事はない。
同じように下早川・日光寺の春祭りと、西海・水保の春祭りにも天狗が出ているが、何れもその面を何と呼んでいるかを調べていない。
肝心の天狗のハナの鼻は高いが、それに反して低いもの、又曲がつているようなものもあり、それぞれ、それは何にか由来があつたのだろう。
651 それにしても面白い表面もある。

写真の説明

1枚目は 田伏のギオンの「ハナ」
2枚目は 梶屋敷の祭りの露祓いの天狗
3枚目は 下早川・日光寺の春祭りの天狗
4枚目は 西海・水保の春祭りの天狗

2014/06/12

NO,22  ほたる

610 今日は6月12日(木)夜中から小雨が降る典型的な梅雨である、何日も快晴が続き今年は梅雨入りは遅いのかとおもつていたが、それに反し平年よりも7日、昨年よりも13日も早く梅雨入りの気象庁が5日に発表があつた。
快晴が続き休耕田や畑の草刈りの毎日が続いてブログの投稿がおごそかになつてしまつた。
少し気を緩めるとたちまちの内に日数が飛んでしまい、6月の半年の「夏越の祓い」も直ぐに来ていまう。

6日は二十四節気の「芒種」(ぼうしゆ)で「種子まきや麦の刈り入れ、稲を植えつけ62 るのに適した時季とされ、梅雨入りの前でもあり、農家は一気に忙しくなつたり、梅も黄色く色づき始め、黄昏時には夏の風物詩、蛍が飛び始める」とあるが、この地方とは時季の合わないものもあるが、麦の刈り取りはもう少し後になつたり、「かいこ」(養蚕)の上蔟も皇后さまの伝統的作業として行われている。

行事のユニークなのは「狐の嫁入り」を津川町(現新潟・阿賀町)ではこの時期に行い第24回にもなる(第1回は1990年に開始)。
この行事は他にも全国何か所にもあるようである。
529 夜の神秘さと、晴天なのに小雨が降る「日照り雨」とか「天気雨」は、昔は晴れているのに雨が降ると言う現象は怪奇そのものである。
そう言う不思議なことは何でも狐の仕業と考えられていたのである。
この「狐の嫁入り」は夏の季語になつているのである。

ほたるの方も既に飛び始めたと報道されている、私の庭の「ホタルブクロ」の白色も紫色も一斉にこの間の暑さで咲き始めた。
このホタルブクロの開花の期間が長いようであるが、「カキツバタ」(杜若)や「センダイハギ」の開花の期間は暑さのためいつもの年依りも短い期間で終わってしまつた。
当地区の「ホタル祭り」は29日の日曜日の夜に現地で行う事になつている。
515 子供の頃はホタルは田伏の「おてんのさん」(祇園祭)について飛び立ち、「おてんのさん」について上がる、たつたの一週間の短い寿命だと聞かされていた。
ゲンジボタルの発光周期はホッサマグナを境に西日本型はせっかちで2秒位、東日本型はそれよりもゆっくりと4秒位である事がわかっていると言われるようになつた。

写真の説明
1枚目は 家の庭の「ホタルブクロ」 6月10日撮影
2枚目は 「カキツバタ」
3枚目は 「センダイハギ」紫色
4枚目は 「センダイハギ」黄色

2014/05/16

NO,21 神楽(かぐら)

Photo今日は5月16日(金)、朝から晴れとなつたが朝は寒い
西風が吹いている。
今日は「旅の日」である。その由来は松尾芭蕉が江戸を立つて東北方面に向かって旅に出た日であるからである。
そして私は今日は傘寿の誕生日である。

ブログ先回のNO,20「後の祭り」はあまりにも「神楽」を今年は日光寺も水保の春祭りの後に奉納されるのを見そこねた事にあまりにも落胆し「後の祭り」となつた。
神楽を始めて見たのは中学1~2年生のころで昭和22~23年の時で田伏の奴奈川Photo_2 神社の秋祭りの大祭に「鯛釣り舞い」と言つ能生谷の「太(た)よさん」が来て舞つた。
神楽の事を「鯛釣り舞い」と一般的にはいつているが、本当の演目は「海彦の舞い」であり、「「太さん」一人であり、「太さん」とはこの辺では神職・神主の事である。

「能生ふるさとサークル」(旧能生町)が発刊した「翡翠」(かわせみ)第15号記念特別号(平成20年3月1日)に伊藤伸一さんが「木浦舞楽」・「十二の舞い」について調査研究された資料の中では神主を「太夫(たい)さん」と能生地区では呼んでいたと言つている。
「神楽」であるが、旧能生町では旧磯部村や旧木浦村、そして旧能生谷村の各集落や各神社では「鯛釣り舞い」と称して春祭りや秋祭りに奉納して来た実績がある。
旧能生町の地理不案内であったり、頼れる人達も知らず貴重な文化財的な資料を見い出す事が出来ず誠に残念なのである。

24 旧磯部村の筒石では4月27日が浜祭りであり、午後3時頃より笛と太鼓で「鯛釣り舞い」が始まる。
舞い手に披する「船玉大神」(ふなたま大神)が登場し、舞台を取り囲む若い衆は竹竿で舞台を叩き挑発し竿を挟み、舞い手と若い衆が竿を引き合うような大物を釣り挙げ
る際の格闘そのもの、舞い手が見事に釣り挙げると竿先には水揚げ直後の鯛やアンコウがどつさりと、舞い手は観衆に釣りの結果を自慢げらに報告し、賑やかに大漁を祈願する。

村が異なるが隣の名立・名立小泊でも4月28日に日前神社の春祭りで「海幸の舞い」があり、鯛の釣り挙げが観衆に大喝采を受けている。(平成19年の上越タイムスより)

旧木浦村では中尾、新戸、浜木浦、鬼舞、鬼伏の5集落があり、各神社があり、春と秋の大祭があり奉納舞いがあつた。
この村では「神楽」ではなく「舞楽」(ぶがく)と言つており、又、「十二の舞い」とも呼んPhoto_3 でいた。
そしてこの舞楽は神主であり「太夫(たい)さん」が舞うので「太夫舞い」とも言い能生谷や木浦、磯部などの近郷の神主が祭礼の際にはお互いに行き来し継承をして来たのである
この「太夫舞い」から段々と地元の青年に舞いが継がれるようになり、上越地方(上越市五智・善光寺浜諏訪神社等)や妙高、柏崎等の呼び名は色々のようである。

「神楽」の演目については、西海・水保の今年の目録は、1 獅子の舞い 2  鈴の舞い 3 御幣の舞い 4 弓の舞い 5 鉾の舞い 6 鏡の舞い 7 海幸の舞い 8 山幸の舞い 9 榊の舞い 10  岩戸の舞い の10曲である。
下早川・日光寺の演目は今年は行けなかったので平成24年4月15日(日)は 1 獅子の舞い 2  幣三重 3 海幸(鯛釣り舞い)の3曲であつた。
木浦の「十二の舞い」と言われるようになつた演目は、1 獅子 2 太平楽 3  三番叟 4 當社(とうしゃ)  5 狩護(かりご) 6 魔王伐(まおうぎり)  7 児屋根太玉(こやねふとだま)  8 鏡舞い  9 海幸 2 10 戸隠(とがくし)  11 天女(てんによ)  12 十二増気大兵(ぞうきだいおう)の12曲である。
3神社の演目を挙げて見れば名称が異なるものがあるが「海幸」の「鯛釣り舞い」や、天照大神を天の岩戸から誘い出すものなど同じ場面がある。
こうした神楽の伝承のルーツは戸隠神社を始めとする長野県北部の「太太神楽」と、「三条神楽」の由来によると「出雲神楽系統」に属する舞いが山陰から北陸を径て本県三条に約200年以前から伝わつたものと考えられている。
笛や太鼓の旋律や太鼓も締め太鼓や脇に胴長太鼓を置いて演奏する様式など神楽と言えども奥が深い。

Photo_4 三条市内には6社があり新潟県の無形民俗文化財に昭和38・1963年3月22日に指定されている。
文化庁ホームページを見ると佐渡市羽茂村山「鬼舞つぶろさし保存会」他佐渡には2団体も県の無形民俗文化財に指定されていて、昭和25・1977年3月31日である。
又、「下中野神楽舞・下中野神楽連中」・燕市吉田下中野も平成10
・1998年3月31日に指定されている。

古代出雲は神々のふるさと、島根県石見地方は全国でも有数の神楽どころ、100をPhoto_5 越える神楽団体の多くが盛んに活動を行って神社の祭典以外にも各種のイベントなども上演されて地域で愛される存在となり、観光などの産業とも成り立つている。

写真の説明
1枚目は 今年の石見の夜神楽のポスター
2枚目は 木浦の太夫舞い 何年であったかは記録がなくなつた。
3枚目は 下早川・日光寺の「鯛釣り舞い」24年4月15日のもの
4枚目は 西海・水保の「鯛釣り舞い」(海幸の舞)                                                    
5枚目は  佐渡の「佐渡つぶらさし保存会」
6枚目は 下中野神楽舞
7枚目は 石見神楽「大蛇」

文化庁ホームページをクリックすれば文化庁の神楽資料が見られます。

2014/05/13

NO,20  後の祭り

51 今日は5月13日(火)、昨日の夕方から夜に小雨が久しぶりに降ったが、野菜ものにはもう少し欲しい雨量となり、今日は曇り後晴れの天気となつた。
疲れ休みの「晴耕雨読」となつた。

今年の春祭りは一番早いのがこの地方では来海沢・日吉神社が3月9日に積雪の中で始まり、最後は5月1日の水保・日吉神社の喧嘩祭りであろう。
昔であればこの祭りは「谷祭り」で盛大に行いゆっくりと親戚を招いて観覧し楽しんでいたが、今は一斉に平場も山間部も田起こしや田植えが始まつている。
せわしい、寂しい春祭りとなつている。

4月10日(木)は一の宮の喧嘩祭りで久しぶりに見にいつたが、すつかり準備も出来て、これから神輿巡行とお走りがあろうと言う時間になり551 小雨が降り出した。
私は体調を心配して風邪でもひいては困るので急いで帰えつた。
雨の中をお走しりは行われたが、舞楽は中止され、翌日の11日に奉納された。
1曲目「振鉾」(えんぶり)と2曲目「安摩」(あま)を見て帰えつた。
天候は悪くはないが平日の精もあるのか、参拝や見学の人出は少ない。
651 そんな中、どの祭りでも多いのは中高年の人で、女性のカメラマンが目につく。
拝殿に三脚を定め一番良いアングル位置で構えている人が多い。
皆んないい場所でいい写真を撮りたいと一生懸命になるのが解るが、お互いにそうなのだからしんしゃくが必要である。
最近の中高年の写真ブームの一端が伺える。

1251 日光寺の喧嘩祭りは本来は4月17日であるが、神輿担ぎの若い衆を集めると今年は4月20日の日曜日となり晴天となつた。
昨年は見に行く事が出来ず、今年こそは行きたいと思つていたが、風邪で微熱が出たので当等行く事が出来なくなつた。
神輿の喧嘩祭りよりも神楽の方に興味があるので残念なのである。

そんな事で水保の祭りでも神楽の奉納があるので見に出かけた。
神輿巡行は少し離れた日吉神社から観音堂の急な石段を2基が登り、観音堂を2~3回回り、神輿を重ねて喧嘩が行われるが、担ぎ手の人も年毎に少なくなり、高齢化し、若い衆が多く集まらず、神輿のキシギ合いの怪我と、神輿の保修に出費を懸けないようにとの思いが伺えるものと思われる。
正午から観音堂の一段と高い舞台で神楽であるが、その頃から小雨が当たり出し、2基の神輿は早速又、急な石段を下って日吉神社に戻す仕事にかかり時間がかかつた。
神楽をやるとか、観音堂の中にしようとかでまよつていた。
神楽の演目は張り出されていたが、その内に保育園児や小学生が帰り始めた。
14 私も残念ながら体を気遣つて帰ってしまつた。

今年は日光寺の神楽も、水保の神楽も見る事が出来なかつた。
こう言う機会でないと神楽を見る機会はなく「後の祭り」となつてしまつた。

写真は5月1日の春祭りの風景です。

2014/05/12

NO,19   野ぶき

512 今日は5月12日(月)、5日程の連続の晴れとなつているが、昼過ぎに雨になる予報が出ている。
すっかり初夏のよそおいとなり昨日は上越高田の最高気温が25.5℃であつた。
ブログの投稿をダラケテいたら2日は八十八夜、5日は立夏となり山は日増しに緑が深く濃くなつている。
当地の田植えの最盛期であつたり、夏野菜のトマトやナスの苗木の方も配られ定植が最盛期となつている。

こうした時期、家内の産直市場に山菜のワラビや野ぶきを売るので採取の手伝いをした。
その前にはウドやギンブキ(ウルイ)を少し山田の休耕地に栽培しているものを出した。
何れも200円位の束にして出荷しているが、何れも山菜を料理するには手間がかかり、若い主婦の皆さんにはあまり歓迎されなく持ち帰りも出ている。
2 家では食べ切れないので隣り近所にオマイソをすると又何かになつて帰って来る。

野ぶきは休耕田に毎年多く繁茂し、植栽したものではないが長く太く良いものになる。
「ラワンブキ」に比較すれば天と地の違いがあるが時季のものとして美味しく食している。
この野ぶきの時季となると思い出す事がある。
子供の頃はそれ程美味しいとは思わないが、小学校就学前の年には信州・小谷温泉、そして小学1年生の年には蓮華温泉に湯治に行き、自炊であるから野ぶきや竹Photo の子を採つて食した事を覚えている。

「絵日記ごぜを訪ねて」(斎藤真一著・日本放送出版協会)を読んだ事がある。
「高田ゴゼ」杉本(家)キクイ(明治31・1898年生まれ・死亡平成12・2000年 84歳)さん25歳の大正12・1923年6月20日に5人で根知谷から小谷村戸土を径て小谷温泉に旅回りし、山田旅館に当留した。
旅館の沢に入り、ふきなど多くの山菜を採つて料理した。
温泉旅館には多くの湯治客や村の若い衆や、役場の人も多く来ていたのでいい稼ぎとなつたようである。
ある時、ふき等の山菜を砂糖等の調味料を使つて料理していたら小谷の村長さんが通り、ツマミ食いし「これは美味しい」と驚いていたこともあつた。
どうせお世辞でいつているのだろうか、盲人のゴゼだからろくな物が出来ないだろう位に思われていたようだが、その後にその村長さん宅に呼ばれ芸の披露の慰労の席で、奥さん手料理のふきの料理が出たが、砂糖や調味料が使われずまずい料理であつた。
山の中で砂糖も調味料も使われず貧しい山村と、高田の街の生活の差が出ているようであるが、当時の西頸城や東頸城の山村でのゴゼ宿での料理はどうであつたのPhoto_2 だろうかは記述にはなかつた。
それから、まずい料理が出ると「小谷の料理」が出たと人前で大きな声で話していた。
ゴゼさんだけの符丁であつたのである。

写真の説明
1枚目は 我が家の野ぶきである、草丈55㎝前後である。
2枚目は 小谷温泉山田旅館である
3枚目は ゴゼの巡業の貴重な写真である
4枚目は ふきの料理「きゃらぶき・佃煮」が一般的な料理である。

2014/04/11

NO,18    闘魚と喧嘩祭り

26 今日は4月11日(金)朝から晴れとなつた。
昨日は一の宮の喧嘩祭りで天気を心配しながら何十年振りに出かけたが予報よりも早く雨が降り出した。
体が心配なので小雨が降り出したすぐに帰つたが、10時半から神輿降臨祭でありその準備中に帰つた事になる。

小学校就学前には祖父の弟さんが寺町に分家していたので祭りには祖父と出かけ、喧嘩祭りを見てから夕食にご馳走になつていた。
そんな事は数年あつた事を覚えている。
小学校の4~5年生になると友達3~4人と歩いて行つたものである。
ある年は今の奴奈川線は農道位の幅員であり、北陸本線のガードから一の宮までの間には住宅はまだ一軒もなかつた時代であり、田圃であり、田は水が多く冠水していた年も何年かはあつた、糸魚川駅裏からは水湖のようであつた。
22 小さな用水路も多くあり、この用水路には「城の川」から遡上するエトイゴ(イトヨ)が多くいて一の宮の祭りに着く前にこのエトイゴを追つて捕まえる遊びがあつた。
このエトイゴの中には鮮紅色の魚がいたもので、これはエトイゴでなく「とうぎよ」(闘魚)だといつて呼んでいたが見たのは始めてであつた。
まつたくエトイゴと同じ大きさで背鰭と腹部に鋭い棘があり、エトイゴだろうと言うと「と26410 うぎよ」は別の魚なのだと皆んなが信じていた。

このエトイゴ、いやイトヨは海から3月下旬頃にこの辺では「城の川」と「前川」にしか遡上しないし、用水路に上がり、雄は巣を作る事位しか知らなかった。
たぶん中学生の何年の時で何の教科の時に習つたのだろうか。
海から遡上し、産卵後には再び海に下る「降海型」と区別されている。
産卵期は5~6月と言われているが、この地域ではもつと早いように思う、用水路の砂泥底のくぼみに雄が水草や繊維を集めて巣を作り、そこに雌が産卵する、雄はナワ張りをもち、巣や仔稚魚を保護する。
体長は6~10cm位で背鰭に独立した太い棘をもち、この産卵期の雄は喉から腹にかけて鮮紅色になり、鮮やかな「婚姻色」を示し、雌を巣に入れるために誘いの求愛ダンスをする。
Photo 雄はこうした役割を果し、鮮紅色の「婚姻色」を示す事等は当時は知らずイトヨでなく「とうぎよ」と言う魚だと言い思いこんでいたのである。

国の天然記念物に指定(1934・昭和9年5月1日に)されている福井県大野市のイトヨは「陸封型」であり、一生を清水域で住んでいるもので体長は「降海型」より小型で頭部はやや大きくずんぐりした体形と言われている。

こうした喧嘩祭りに行く前に「とうぎよ」との格闘があり、神輿の競り合いや舞楽の観賞よりも多くの人出に酔い、露天を見て回るのが楽しみなのである。
小遣いは持つていたり、もらつて出たかはあまり定かでないが、食べ物などは買つた覚えがない。
多くの人の出る所は行つて見たい、これが目的みたいなものであつた。
こんな昔の祭りの思い出がよみがえつた。

2014/04/04

NO,17  「清明」のころ

B 今日は4月4日(金)、朝から予報通り小雨が降る天気となつた。
昨日まで2日続きの快晴で、南風の暖かい風が吹き込んで日中は暑い位で上着を脱いで畑の草取りを2日も続けて疲れてしまつた。
今日の雨は「晴耕雨読」の体休めの良い日となつた。

この辺では、子供の頃から北アルプスから吹き降ろす南の風を「ジモン」とか「ジモン風」とかいつて、暖かい風で時にはナマ臭い風の時もある。
又、この時期には水稲の育苗が始り、ビニールハウスをいく棟も作る農家や農協が強い南風で吹き飛ばされたり、壊されたりしたものである。
こうした災害をもたらす強風でなく、ここち良い南風により、昼頃にはこの時季に一の宮の喧嘩祭りの太鼓の練習の音が流れて来たものである。
2 このドンデンドン ドンデンドンは糸魚川の春を呼んでいるのである。
 ♪ つもる白雪  サラリと解け
   春は太鼓の  音から明けりや
   若い力で  せり合う神輿
    稚児の舞う手に  花が散る
糸魚川小唄(作詞 相馬御風 作曲 中山晋平)の一節である。

21 又、夕方や夕方近くの静かな一時には汽車(電車)が海川の鉄橋を渡る時のゴト ゴト ゴトの音が南風の微風に乗って聞こえて、この音がリズム感がいいのか、何か安堵感がいいのか、何かを感じさせる音であり、子供の頃の音と、齢とつた今も何一つ変わっていない音である。
そしてこの音は汽車に乗って遠くえ旅した事が思い出せるし、又、遠くへ行きたいものだと思いにかられる音でもある。
そして又、子供達を一生懸命に育て、大きくなつたら皆なゴト ゴト ゴトと音のする汽車に乗って親元から遠くへ離れて行つた時の音でもある。

万物が春の陽光を受けて明るくすがすがしい様子を表す「清明」は明日であり、桜前線も関東地方から北陸地方にも到達し富山は昨日咲いたと放送がされた。
そして8日は花祭りのお釈迦様の誕生日である。
こうした草花も咲き始め、里山には野草の「猩猩袴」(子供の頃はキセルバナと呼んでいた)が咲き出し、白梅が満開である。
畑仕事は馬鈴薯も「男爵」と「キタアカリ」、「メークイン」の3種類の品種を栽培し食にあわせる料理となるような贅沢な時代となつて、狭隘な猫の額いほどの小面積でも区割りしている。
Photo 耕起の前には草取りがあるが結構雑草が繁茂している。
一番手におえないのは「スギナ」であつたり「ツクシ」であり、すでに「スギナ」となつて太刀が悪いが、「ツクシ」の時には料理になつたり、童謡に歌われたりし万人に親しまれている厄介者なのである。

それと同じようなものに「イヌノフグリ」(オオバコ科クワガタソウ属)がある。
丁度今花が咲いている最中である。
42 年毎に増えているが、これが環境省の絶滅危惧類(VO)に指定されているとは驚いた。
最近は多くの人達に親しまれているようで有るが、どこが良いのか理解出来ない。
畑作農家の天敵みたいなものまで幅を利かせて咲いている。

写真の説明
1枚目は 寝台特急「日本海」のB寝台、平成24年3月17日のダイヤ改正で引退した、一度だけ函館の叔母さんの病気見舞いにこれに乗車した思い出がある。
2枚目は 糸魚川一の宮喧嘩祭りの舞楽「鶏冠」
3枚目は 野草「猩猩袴」
4枚目は 「ツクシ」
5枚目は 雑草「イヌノフグリ」の花、今が最盛期

2014/03/31

NO,16  春耕のころ

Photo 今日は3月31日(月)、曇りのち快晴の天気となつた。
今日は3月弥生の晦日、この月も何事もなく駆け足で去って行く、家や親戚にも学校の卒業とか入学等の慶事もなく、そうした事が一層日々を早めているのだろう。

一昨昨日などは暖かい日が続き、春耕を早めた。
畑の草取り、耕起と「春い出し」で夕方には足腰が痛かったり、肩が凝るなどする。
昨日の一日中降つた雨は疲れ休みのよい日となつた。
Photo_2 病気をしてから水田耕作を全部止めたが、少しの畑があり、これを妻と二人で耕していれば丁度よい体力づくりになつてる。

丁度よいと言えばこの時季には童謡に「春の小川」(高野辰之作詞・岡野貞一作曲)がある。
 ♪ 春の小川は さらさらいくよ
   岸のすみれや れんげの花に
   すがたやさしく 色うつくしく
   咲いているねと ささやきながら
Photo_3 子供の頃は沼田には小さな用水路が多くあり、この時季には「エトイゴ」(イトヨ)を追つ駆け回つていたものである。
その沼田も土地の区画整理事業で宅地化し用水路がまったく無くなってしまつた。
この用水路にはタニシやタンガイ(イシガイ・イシガイ目イシガイ科)、ビンドジ(カワニナ)などの貝類やカジカやドジョウ、ナマズなどがいて、この春休みは田圃の畦道を駆け回つていた。
そうした姿は今は少子化のためか姿が消えてしまい寂しい位である。

この時季には「前川」にはエトイゴが遡上したものであるが、その姿も消えて50年も60年も経っているのだろう。
この姿を復活させる運動を展開させようと言う話はあるがなかなか一朝には行かない。
前川の河川改修はほぼ終了しているが、海から前川に遡上出来るような「魚道」が必要である。
海から上がると前川の河口には「よどみ」があり、こうした所にはエトイゴばかりではなく「ボラ」の稚魚の「おぼこ」~「いなっこ」も多くいて「汽水域」と言われる所であるが、これも見事になくなつていてこういう所も復活させねばならない一つでもある。

Photo_4 エトイゴ(イトヨ)と言えば福井・大野市は有名であり、「本願清水イトヨの里」(tel0779-65-5104)のように早くから保護と水環境の保全啓発を目的とし学習活動を展開している。
「本願清水」のイトヨは海から遡上し、海に戻る「降海型」ではなく、「陸封型」ではあるが、生息地は南限として国の天然記念物に指定されており、早くから視察の話もあつたが、未だかつて実現していない。

写真の説明
1枚目は 前川の改修の終わった部分 去る3月15日の撮影
2枚目は 家の周りの紅梅も満開を迎えている、3月25日の撮影
3枚目は 「イトヨ・降海型」の写真、残念ながら写真でしか見るしかない
4枚目は 前川河口の現状、飛び跳ねないと遡上出来ない。

2014/03/20

N0,15 暑さ寒さも

Photo_2 今日は3月20日(木)、朝から小雨が降る天気となつている。
明日は春の彼岸の中日である。
「暑さ寒さも彼岸まで」、「三寒四温」のこの頃で確実に春はそこまでやつて来ている。
Photo_3 去る3月9日は所謂「山の神」の日であり、海辺のある地域は「海開け」があるように、「山の神」は「山開け」なのである。
昨日と一昨昨日は晴天となり、里山の畑に植えてある梅の木の縄はずしや、アジサイなどの冬囲いをはずしたが、ユズの木だけはもう一回は寒波が月末頃までに来るので、それが過ぎた後になる。
今冬の降雪量はいつもにもなく少なく、すつかりと消えて、田や畑の仕事が出来るようになつている。
Photo_4 梅の花はまだ蕾であるが、家の周りの椿は咲き出し、水仙は日本水仙の方がラッパ水仙より早いので咲いている。
最近ブームとなつている「雪割草」も幾つかの鉢物は咲き出している。
「早春」はこうした花木からの恵みから感じられるが、子供や孫達のおられる家ではその他に学校の卒業や高校、大学の入試等を迎えられるが、小子化で近所の子供達が少ない為にそんな話題が聞こえてこない春である。

Photo_5 先日の晴れの日に国道8号線東バイパスの二級河川海川陸橋の工事の写真撮影にいつて来た。
この東バイパスの全線開通は北陸新幹線の供用開始日に併せて開通する事になつているので果たして出来るのだろうかといささか心配になつている。
こうした陸橋は海川だけでなく、既存の国道8号線と北陸本線の上を、更に北陸新幹線の上をまたぐ工事があり大工事である。

北陸新幹線の供用開始日は来春のダイヤ改正日に併せて「3月15日」の日曜日に決定しているようであり、東京~金沢間の運賃も想定額が新聞にのる時期となつた。
又、それに伴う第3セクターになる在来線の「えちごトキめき鉄道(株)」が、マスコットキヤラクターの「トキテツくん」の発表や、直江津~市振間を走る「日本海ひすいライン」には「姫新線キハ122系」、直江津~妙高高原間を走る「妙高はねうまライン」は「E127系」の改修で車両のデザインが新聞にのつた。
その優雅な姿は日本海沿線や頚城平野(高田平野)を走るのであるが、果たして一Photo_6 日に何本姿を見せてくれるのであろうか。

写真の説明
1枚目は 「日本海ひすいライン」を走る「姫新線キハ122系」のデザイン

2枚目は 「ふきのとう」 3月17日撮影

3枚目 椿の赤色
4枚目 椿の白色 いずれも3月19日の撮影

5枚目は 海川陸橋の工事中の写真、3月15日の撮影である。

2014/03/12

NO,14 万徳寺散策

Photo 今日は3月12日(水)朝から二日続きの晴天となり、10日に降った小雪もすつかり消え、早春を感じる日となつた。

こうした晴天の日には波たたき側溝を東は早川、西は海川まで歩く人が多く目に付くようになつた。
私も先般の暖かい日に歩き、梶屋敷の万徳寺(浄土真宗大谷派)にお参りして来た。
立派な山門の前には東本願寺第12世・教如(きょうにょ)上人(永禄元・1558年~慶長19・1614年)の足跡の石碑が建立されている。
Photo_2 豊臣秀吉の天下の時代、その命により隠退させられるが、その間にも加賀や越中等へも再三布教に回られており、越後のこの地にも足を入れられたのだと解る。

境内には多くの石碑があるが「長野知蔵」のものもあるが知ることが出来ない。
「下鳥先生」とあるは梶屋敷校(明治23・1890年10月に梶屋敷村立梶屋敷尋常科小学校になる)の先生で明治18・1885年~明治28・1895年の長きに亘り勤められ近世教育の発展に尽くされた人である。
先生は中頚城郡五十公野川浦の出身であつた。
この石碑は明治42・1909年12月に生徒達(門弟子とある)により建立されたと刻されている。

Photo_3 万徳寺の向には「浜の地蔵尊」があり、4~5尺の石仏であり毎月24日は参詣者が多いと聞く。
今までも何回もお参りをしたが、壁に「鶏」の絵を書いた「絵馬」が貼られている事に気がつかないで来た。
これも「鶏絵馬」と言えるのではないかと思う。
願掛けとすれば、子供の「夜泣き」(鳴き)の治るように、とか夜泣きのしないように、更に子供の成長を願うものなのだろうか。
名古屋市中区・天寧寺(てんねいじ・曹洞宗)には「守鶏の絵馬」があり、願い事に「雄Photo_4 鶏」を、祈願成就の際には「雌鶏」の絵馬を奉納するので、セトモノの鶏と木製の絵馬が用意されている。

こうした願掛けの絵馬は田伏の奴奈川神社の「船絵馬」は多くの人は参拝して知っているが、同じ田伏の薬師堂にも何枚かがある事を知る人は少ない。
そして目に付くのは朱色のお椀の底に穴を開けて奉納してある事に気が付くだろう。
これも目の病気、耳の病気、鼻の病気の治癒の願かけであるが、強いて言うならば一生涯元気で三度の食事がとれるようにとの願いもあるだろう。

万徳寺の浜には「福寿海無量」の石文がある事は今までも何回か書いて来たが、ここから2~30m程東に「三ツ井」の石文が少し頭を出している事を始めて知った。
これも「福寿海無量」と関連して梶屋敷の船問屋や船主と言われる人達の何らかの印なのだろう。
元治元・1864年の記録によると梶屋敷村には650石、35石、20石の各1艘と600石の2艘の計5艘となるが、もう1艘があり合計6艘となつている。
この年より103年前の宝暦11・1761年には梶屋敷村に2艘とありこの間に4艘が増えているが、西浜では次第にジリ貧の道をたどり、追い詰められていつた。
特に鬼舞村や鬼伏村は激減していつた。
その長い間には小型化の沿岸回船をする事から大型のものに変わり遠方に行くようになつた。
梶屋敷村の船主は「三井」又は「三ツ井」と「沖」と言う二人の名が出ている。
「三井」は2艘、「沖」は3艘と文政6・1823年の記録がある。

Photo_5 こうした千石船(一般的にはこう言うが、当地区では「弁才船」とか「はがせ船」と呼んでいる)は何時まで続いたのだろうか。
一つの例として、明治13・1880年11月に旧青海村・西蓮寺の鐘堂が建立されているが、これは大工の「名工」と言われた名立区名立小泊の板谷弥代吉(別名・江崎長三郎の名前のものもある)によつて行われ、この巨額の建立費は全て当時の青海の回船主が出し、海の航海中に沖からも見え目印になるように大きな高いものにしなさいと言つたと言う逸話が残っている。
今から丁度130年も前の出来事である。

なお板谷弥代吉(別名・江崎長三郎)についてもう少し述べたい。
彼の携わった建物については、五智国分寺の三重塔(新潟県指定重要文化財)や京Photo_6 都・東本願寺大門、奈良・唐招提寺などの国宝級の神社仏閣の建築修理があるとされているがこの事実を知る人は余りにも少ない。

郷土の偉人として伝承活動をする必要があるし、梶屋敷の千石船の歴史のヒントになれば幸いである。

写真の説明
1枚目 「北前船」(弁才船)の復元で「みちのく丸」北方漁船博物館財団が復元した。
2枚目 万徳寺山門前に立つ「教如上人」の石碑
3枚目 地蔵堂に貼られた「鶏絵馬」
4枚目 下鳥先生の碑
5枚目 「三ツ井」の碑
6枚目 「長野知蔵」の碑

2014/03/05

NO,13 啓蟄のころ

Photo今日は3月5日(水)である、朝から一日中小雨がふつている。
この時季の雨の事を養花雨(ようかう)とか甘雨(かんう)慈雨(じう)、催花雨(さいかう)とかさまざまな呼び方があり、いかに昔の人達が植物を愛し、花が咲誇る春を心待ちにしていたかが分かるといわれている。

明日の6日は二十四節気の「啓蟄」(けいちつ)である。
冬ごもりをしていた虫達が目覚める頃とされ、春雷が鳴る時期でもあり、虫達がそのPhoto_2 雷の音に恐いて地上に出て来るとも考えられ、この初雷を別名「虫出しの雷(いかづち)」とも言われている。
又この頃には強い南風が吹く「春一番」が太平洋側で観測されるが今年はまだ吹いていない。
それよりも「立春」が過ぎた2月14日から降り出した雪が関東甲信に記録にない大雪となり、梅や桃、ぶどうに大打撃を与えてしまつた。

それでも暖かい春風が吹き出し、河津町(静岡)の河津桜が咲き誇つて多くの人がめでている。
この暖かい春風を東風(「こち」とか「あえの風」とか「あいの風」)とも呼び、この風は、冬は荒れ狂つた日本海も時には凪ぐ時もある。
   東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣する
                 小舟漕ぎ隠(か)くる見ゆ
                     大伴家持・万葉集
このように詠んだのは越中伏木(高岡市)である。
この詩を越中の人や能登の人は際立つて大切にし誇らしくしている。
この風は昔から豊漁や豊作、幸福をもたらす風としている。
この「あいの風」はよく当地域でも漁師達が使っていた。
何となく潮の香りが匂う言葉だが、古くから豊かな風土を作り、その地ならではの文化を育んで来た。
この風が吹いた後は「必ず大漁になる」と子供の頃から古老達が話していた事を聞いている。(「能登・加賀 東風(あいのかぜ)に吹かれて」・回天蒼生塾発行)の一部を引用する)

この度北陸本線の並行在来線の各路線の名称が新聞で見たが、当市の市振~直江津間が「日本海ひすいライン」であり、妙高高原~直江津間は「妙高はねうまライン」となつた。
36 富山の越中宮崎~石動間は「あいの風とやま鉄道(株)」となつている。
本県のような一般の人は「あいの風」とは何なのか疑問に思われたのではなかろうか。
富山や能登の人は大事な文化なのである。

昨日は晴天なので棚田の見回りをした、今年は小雪で早くから雪が消えフキノトウが出ていた。
早くも他人が来て採っているところに出くわした、道路から見える所でなく棚田の奥まで上がってのもので、以前にも採った覚えがあるから来ているのだろうと思うが、地区の人であれば誰の土地か419 は解るはずである。
これからはギンブキ(ウルイ)やウド、ゼンマイ、ワラビと出て来るが、所有者よりも先に採られるのは憤慨する。
啓蟄ともなればこうしたヤカラも出没する。
猪が先般大和川小学校前に出没したと警戒していたが早いお出ましである。

写真の説明
1枚目は 東バイパス海川の陸橋工事 3月4日の撮影
2枚目は 早春の海・田伏の海岸を映す 3月4日

2014/03/01

NO,12  遠方より

Anaja8197 今日は3月1日(土)、今日から弥生3月である。
一日中曇りの天気で寒い一日であつたが「三寒四温」の兆しも感じられるようになつた。
10日前に子供が孫を連れて5年振りに帰省した。
「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」論語の「学而編」の一節であるがそんな心境である。

水族館を見学したいと言うので先の日曜日に出かけた。
この水族館が始めて出来た頃に2人の子供を連れて行つた事があつたが、今度はその孫達がその時の歳と同じ頃になつている。
Photo 約40年程になろうとして施設も一段と大きくなり魚や生き物も当然多くなつていた。
名前の知らないものばかりであり、海辺に育つた者も、山辺の子供も一緒である。

この水族館に「ドブネ」が開館した時から展示されている事を知っていたし、当市中宿の伴助船大工が造った事も知っていたが、どうして知つたか、又「ドブネ」と言う名前も変な名前だ位いにしか思っていなかつた。
「糸魚川市史・昭和編 1」によると明治16年(1883)3月に東京上野で第1回水産Photo_2 博覧会が開催され、それに浦本から「ドブネ」と呼ばれる船(中頚城の「犀浜(さいはま)ドブネ」と区別して「西浜ドブネ」と呼ぶこともある)が出品申請されたようで関係文書が残っているとの事である。
それによると出品された「ドブネ」は文政5年(1822)頃に、浦本の田代七平が名立や能生で用いられていた「ドブネ」を改良を加えて発明したものである。
当地方においては8割が「ドブネ」であり、2割は「サンパ」と呼ばれる船だとされている。
Photo_3 この「ドブネ」の規模は長さ5間半(約10m)、幅は1間(約1,8m)程度であり、「サンパ」の方は長さ4間(約7m)、幅は1間位でありやや小型である。
この「ドブネ」は帆を掛けられるようになつていた。

「サイハマ ドブネ」(犀浜ドブネ)は製作に船釘を使用せず接合部はいつさい「タタラ」及び「チキリ」と称する接合片を差込み漆を流して接合する。
当「西浜ドブネ」も同様であろう。
この船の重量は軽量であり船の出し入れは少人数で出来るし寿命も比較的長いし、船足が速いのが特徴とされている。
操法はもっぱら櫂(かい)によるものが主で地引網に用いられた土地の生活に結びついた漁船である。
昭和30年(1955)頃に中宿の船大工永越猪之松さんと、大正7年(1918)頃に大潟町九戸浜の船大工佐藤亀作さんによつて造られた。
この水族館に展示されている「ドブネ」は明治34年(1901)に造られたもので昭和30年(1955)4月に櫓(ろ)と櫂(かい)も含み国指定重要有形民俗文化財に指定されている。
Photo_4 永越さんは最後の船大工とされ昭和34年(1980)7月に死去されている。
そうした長い伝統の技術はこれで途切れているのである。
当糸魚川市にはこの「ドブネ」が保存されていないのも誠に残念でたまらない。

写真の説明
1枚目は この航空機に乗り子供と孫がやつて来た
2枚目は マゼランペンギン
3枚目からは名前は残念ながら知らない

ドブネ」の写真の紹介は「文化遺産オンライン」にあり、ここをクリツクして下さい。

2014/02/20

NO,11 淡 雪

Topimage_2 今日は2月20日(木)朝から曇り時々晴れの天気となつた。
寒い一日であり、昨日は朝に少しの降雪もあつたがすつかりと消えた。
その19日は地区の神社では「祈年祭」が執行され、「大祭」である。
「大祭」は「春祭」、「秋祭」そして「新嘗祭」(11月23日)と4回ある重要な祭りの一つ24 である。
この祭りについて調べると「としごいのまつり」とも言い、全国の神社でも行われ、普通は2月17日のようである。
この年の五穀豊穣を祈願する祭りと秋の「新嘗祭」と相対する祭りである。
五穀豊穣をもたらす「山の神」は春になると山から降りて来て「田の神」となり、農作物を見守り、秋の収穫が終ると又山にお帰りになられる神様である。
稲穂を蒔く季節の初めに当たって、その豊穣を祈願するわけですから、言い換えれば人間の生命の糧を恵んで下さるようにもお祈りする祭りで一粒の米にも神様の御霊(みたま)が宿ると考えられている。
又、この祭りは稲だけでなく五穀の豊穣と国の繁栄、そして皇室の安泰や国民皆んなの幸福なども祈願される。

この祭りについては奥能登に伝わる「あえのこと」の行事にも通じる。
2月9日に一冬の間に家族と一緒に過ごして来た「田の神様」を田圃にお送りすると言うものである。
行事は奥能登を代表する民俗行事で昭和51年(1976)に国重要無形民俗文化財に指定されたり、更に平成21年9月には世界無形遺産にも登録されている事を知った。

こうした「田の神様」を迎える時季は又二十四節気の「雨水」の時季でもある。
今年は2月19日であつた。
「雨水」の時季は雪が春の雨に変わり、本格的な雪解けが始る時季で、固く締まっていた土壌がゆっくりと潤い始め忍び寄る春の気配に草木が蘇り、北国や山間部の川や池に張っていた氷も次第に解けて行き水に戻るとされている。
ところが今年はまつたく当たらなかつた。
普段はあまり多く降らない関東甲信に多くの雪が降り明治以来とか史上最高の記録にないもので国中が冷え切って、「立春」や「雨水」の暦の通りではなかつた。
反って北陸の方は今年は雪が少なく暦みの通りに進んでいるようである。
Photo 昨日の雪は淡雪となり、昼には消えて田や畑も見え出した。

この地域には特にこの時季の行事は無いが、雪国の山間部では克雪、利雪更に遊雪として「雪まつり」が実施されて楽しむようになつた。
その代表的なものは「札幌雪まつり」や「本県の「十日町雪まつり」、秋田・横手の「かまくら」など多くある。
上越市では昔の防寒着の「角巻き」をはおつた婦人と「二重まわし」の旦那が雁木をPhoto_2 歩く「あわゆき道中」の行事がある。
この時季淡雪となり、梅の蕾もふくらみ、東風(こち)が吹く日も近いのだろう。
菅原道真は次のような詩を詠っている。
  東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花
     あるじなしとて 春な忘れそ
がある。
早く暖かい春が来ることをまつている。

2014/02/17

NO,10  大 雪

Photo今日は2月17日(月)朝から曇りの天気となつている。
先にも書いたが立春の去る4日を過ぎてからの降雪の日が続いていた。
「越後の雪は余寒に降る」のたとえ通りとなつた。
そろそろ「三寒四温」の暖かさが待ち遠しい。
昨日の16日、日曜日の午後は地区の禅寺・禅林寺では「団子まき」と言う「涅槃会」であり、伝統の宗教行事である。
子供達はインフレエンザの流行で外出禁止で寂しい行事となつたそうです。

Photo_2 御大典の年、昭和2年(1927)の大雪はこの地域の語りぐさとなつている。
この雪も立春を過ぎた2月6日から降り出した雪は一晩に2mにも及び大雪で二階から出入りし、電線をまたいで道を往来したり、国鉄の北陸本線も何日も不通になり、陸の孤島となつたそうである。
この話はよく年寄りから聞かされ、雪の恐ろしさと、余寒になつても気をゆるめるなと言う戒めとしている。

新聞のコラムに、加賀の前田公にある藩主が、北陸は雪が多く積もり生活にも軍事にも大変だろうと見舞つた話しがある。
前田公は、この雪の多い時期には誰も攻めてこないから枕を高くして安心して眠れるし、兵隊もゆっくりと休み、鋭気を養う事が出来ると言つたと言うものである。

Photo_3 14日と15日には全国的に大雪となり、特に関東甲信は大変であつた。
16日の日曜日には亡くなった娘の七回忌とお父さんの一回忌法要が甲府市で行われる事になつており、その前日の日の15日には石和温泉で宿泊して出席する事として越後湯沢駅まで心配しながらでかけたが案の定上越新幹線は終日不通となりここから引き返した。
中央本線も14日から間引き運転のニュースもあり、果たして甲府まで行けるものかと案じていた。
それでも何とか新宿駅まで行つて見ようと出掛けたのである。

甲斐の名将武田信玄公の像は甲府駅前に鎮座しているが、1,14mの雪ですつかり埋まつている。
戦国時代にはこの雪の量や、降雪期を戦略として争った実史は少なくはない。
さすがの武田信玄公もこの雪では身動きも出来ないだろう。
「山梨県庁では、富士山の噴火の前兆が気象庁が発表された時に災害本部の設置が考えられるが、元々雪の少ない山梨県は考えられなかつた」。
「元々少ない県で、120年に一度の出来事で、大雪に関するノウハウは少ない。対策本部を設置すべきかどうか判断するに必要な被害状況すら把握する事が難しい」S378 と今日の新聞(読売)に載っていた。
又、「想定外」の行政が疑われている。
武田信玄公だつたらどのように差配しただろうか。

農業関係者であれば、今頃にいつも石和温泉に行くと、ビニールハウスには早咲きの桃が咲いていたり、ブドウのビニール張りもそろそろ始まつていたり、剪定の時期になつているが、こうした果樹王国には大被害が発生しているのだろう。
そうした被害が想定出来る。
小田原城の水攻めの話は有名であるが、今回の大雪は武器を使わずにして冬将軍に敗北した堤である。

写真の説明
1枚目は 武田神社の正門、今は大雪で埋まっているのだろう。
2枚目は 甲府駅前の武田信玄公の銅像
3枚目は 同信玄公の銅像も大雪で埋まっている、14日の写真である。
4枚目は 昭和37年(1962)8月の大和川を横断する国道、手前は木戸間紋三郎宅で、大和川には茅葺屋根の家が多く「屋根屋」を成合としていた家も多くあつた。

2014/02/11

NO,9 春を待つ

Photo

今日は2月11日(火)朝は小雪がちらちらと降っていたがその後天気となつた。
今日は「建国記念の日」で初代神武天皇が即位した日であり、今年は紀元2674年である。
小学校の頃は寒い運動場で ♪ 雲に聳える高千穂の
高根おろしに草も木も  と歌った。

立春を境にすっかり真冬に逆戻りし、日本中が厳寒の毎日でふるえている。
当市のチャイムは童謡「春よ来い」を鳴らしている。
この歌の作詞は当市の文豪相馬御風であるが、本当に早く春が来て欲しいものである。
この詞が発表されたのは大正12年(1923)1月の「木かげ」であり、待望の女の子が大正10年2月20日に生まれ、その文子さんを歌ったものとされている。
2歳になり本当に「おんもへ出たいと待っている」その状況描写が目にうかぶ。

Photo_2 3月3日の雛祭りに向かって早くも雛壇飾りがなされたり、最近は「吊るし雛」も多く見受けられるようになつた。
手芸を楽しみ、飾って楽しむ事もあるかなと思う。
私の家では3人の子供は皆な女の子であつたり、私の兄妹も3人女の子であつたが雛飾りはなかつた。
この地域ではその時代には殆どの家はそうであつた。
そして節句と言う「雛祭り」や「端午の節句」は1ケ月遅れであり、4月に入れば本当に梅が咲き、桜が咲き、次いで桃が咲き北陸にも春本番を迎える。
子供の頃は春の彼岸の頃になると味噌煮をし、麹を作るので甘酒も作ってもらつたものである。

この頃になるとオオカイド(旧国道)に「土びな」とか、「土人形」を売りに来ていたと言う話を聞いているが、大東亜戦争の始る前の昭和15年(1940)の紀元2600年の祝賀行事が行われた頃までのようである。
私の兄妹は私と弟が上であつたが、そうした「土人形」などが2~3個ころがつていて、手足に傷があつた。
Photo_3 この「土人形」とか「土びな」は北信濃の上田の方から売りに来ていたのだと聞いた。
この人形は金を出して買うのではなく、たいていの家は女の子や母や祖母が髪の毛をすいた「クズ毛」を貯めておいてこれと交換してもらつていた。
祖母は特に日当たりのよい部屋で「お六櫛」をよく使っていた事を覚えている。

「土人形」売りや「ダルマ」を篭に入れて担いで来ていた。
Photo_4 この土人形は上田市や近郊とは中野市である事を知った。
しかも明治の時代の古い伝統があり、この土地に暮らす人々の信仰や風習などと深く結びついて庶民に愛されて来た。
本県の十日町市の「チンコロ市」や松本の「あめ市」のように中野では早春に「土びな市」が開かれ多くの人が集まって賑わうそうである。
その「土びな」も伏見の流れをくむ「奈良家」のものと、三河の流れをくむ「西原家」の二系があり、これが切磋琢磨して今日の旺盛を築き上げて来ている。

写真の説明
1枚目は 相馬御風の胸像
3枚目は 西原家の「土びな」で「歌舞伎物」が主体だそうです。
4枚目は 奈良家の「ダルマ恵比寿とふぐ乗り大黒」で縁起ものが主体なのだそうです。

2014/02/07

NO,8  余 寒

27 今日は2月7日(金)曇りとなつていて一休みなのか。
「立春」になり「余寒」に入り案の定真冬となり、寒さも一段と厳しくなり、5日よりも昨日の6日の方が小雪であつたが一日中降り続き夕方には25cmになつた。
今年の最高積雪である。

3日の節分は有名な寺院ではタレントや力士を招いて豆まきの様子が報道され益々盛んになつているようである。
又「恵方巻き」の方も7種目の具材を入れた太巻きがスーパーなどで売られていたがどれだけ売れたものなのか気になる、米の消費拡大に繋がるからである。
こうした節分とか立春を前後して色々な行事が各地で行われている。
Photo 佐渡では特に伝統的行事が多くあり、「佐渡の車田植」(国指定無形民俗文化財)や今日の新聞(読売)にのつていた「田遊び神事」などがあるが、立春には「百万遍念仏講」や新酒「立春大吉」を売り出すニュースとして時季の風物詩となつている。

佐渡の真更川(まさらかわ)集落では古くから伝わる宗教行事の「百万遍念仏講」があり、立春の日に集落の年寄りだけでなく皆んなが集まり、大数珠と共に駆け回るのはこの時期の運動不足解消に役立つもので古くから理にも適っていて継続の一因にもなつているのではないだろうか。
この大数珠は30kgもあるもので、カンカンカン、トコトコトコと鐘と太鼓の音が会場に響いている。
「なむあびだぶつ」、「なまんだぶつ」(南無阿弥陀仏)と唱えるところもあるが、この集落は何と唱えているのだろうか。
数珠の珠の数は幾つあり、一回回れば何回分となり、百万回、五百万回、一千万回となる。
こうした百万回達成を祈念して「南無阿弥陀仏」の石碑を建立したものが佐渡の各地に多く実在しているのだそうである。

Photo_2 当地域には真宗門徒は多くおられる、それは親鸞聖人さんが国府の居多ケ浜に配流され、その後の布教のせいもあるのである。
ところが「南無阿弥陀仏」の六字名号の石碑は極めて少ない。
当大和川の教念寺の入口に大きな「南無阿弥陀仏」の石碑がある。
これは大和川尋常高等小学校が始めて今の地に新設する際に砂原の中から出土したものである。
小学校の工事は明治41年(1908)であるから106年は経っている。
「口碑伝説稿」(新潟県西頚城郡教育会・昭和12年発行・新潟県西頚城郡郷土誌稿)では田伏の大雲寺の前に納めたとあるが大きな間違いであり、禅宗の寺の前に置くことはない。
Photo_3 どうしてこの砂浜にこんなに大きなものが埋まっていたのだろうか。
それとただこの石碑だけが出土した事も不思議であり、たいていは幾つかの石仏類もあつたと推察するが、それらは何処にも安置されたのかも口碑伝説稿にはのつていない。

もう一つの佐渡の北雪酒造の「立春大吉」は立春の日に朝搾りし、新春の新酒として売り出している。
販売は「会員」加盟店のみの限定であるから確実に売れている。
こうした立春に新酒を「立春大吉朝搾り」とか「立春朝搾り」とかの名をうつて全国各地の酒造店や酒蔵がある事を知った。
ただその酒の売り方は「会員」制とか「日本名門酒会」取扱店のみとかの限定で売り出しているところが多い。

Photo_4 近年「日本酒」が「売れないとか」、「売れるとか」いつているが、婦人や若い女性の愛好家が増えているようだがまだ不足なのだろうか。
一時は「日本酒で乾杯」と言つた事を覚えているが、今度は「日本酒で乾杯」を呼びかける「乾杯条例」を市町村の自治体が制定するところがあるそうで、当市でもある市議が一般質問で発議をしているようである。
この条例には罰則は無いと思うが、嗜好品にまで条例をつくらねばならない時代となつたのかと考えさせられる。
上記のように日本の四季に併せて酒造店や酒蔵ももつと売り出す工夫も必要なのではないだろうか。

「余寒」は「あかん」なのだろうか。

写真の説明
1枚目は 今朝の我が家の降雪風景である。
2枚目は 佐渡の「車田植」の風景
3枚目は 大和川の教念寺入口にたつ「六字名号」の「南無阿弥陀仏」石碑
4枚目は 大和川小学校の前庭に立つ「大熊浜」の石碑で、これも砂原から出土した物だと聞かされている。
5枚目は 「立春朝搾り」のレッテルが貼られている見本である。

2014/01/31

NO,7   風 化

Photo


今日は1月31日(金)朝から曇りの天気であるが雨や小雪が降ると言う予報である。
夜中北西の強い風が吹きまくり窓や下見に当たる冬特有の騒音がしていて昼ころまで続いた。
ここ数日は天気の日も出たり、気温の高い日が出たので少し積もっていた雪はすっかり消えた。
一昨日に近間の畑に残っていた少しの白菜を採って来た。
1月の月もあっと言う間に過ぎ去り、2月如月となり3日は「節分」、4日は二十四節気130 の「立春」となる。
近年こんなに雪の少ない年はまれである。
市の積雪表示によると(1月30日現在)能生谷・権現荘で112cm、小滝は115cmで山間部も少なく喜んでいる。
ところで昔から「越後の雪は余寒に降る」と言い生活を戒めている。
立春になれば「余寒」であり、降雪は予断無く、寒さも一段と厳しくなる。
Photo_2 この頃になると昔は「寒餅」をついて、「かき餅」や「あられ」を作り、農繁期の作業に来てくれる人達の一服のお茶うけとなる。
この餅つきの頃になると正月用についた餅も無くなり、ついでに今度は「草餅」や「ビリ餅」をつき、ご飯の食いだしをしたものである。
今年の雪は山間部も少ないが昭和61年(1986)1月26日(土)の深夜11時頃に権現岳(1108)から新雪雪崩が襲い、11戸倒壊、死者13人、負傷者9人を出す大雪となり、その中には土曜日で下宿から帰った高校生もいた。
又、大正11年(1922)2月3日午後8時頃に起きた「山下の雪崩」がある。
北陸本線前線開通100周年を迎えたと昨年には行事があつたが、この悲しい事故ももう92年になり、すっかり忘れ去られようとしている。
Photo_3 大和川では死者25人、負傷者4人と記録されている。
糸魚川町では蓮台寺の22人、磯部村筒石25人の人達がいて、大和川では一戸に2人も亡くなった家もある。
家にいてワラ仕事の俵編み、縄ない、みの作り、草履、ワラジを作つても自家用が主であり、お金にはならなかつた。
国鉄の仕事は日銭が入ると、誘われめったにない事だとこぞつて参加した。
一家で2人の犠牲者は親と子である。
まじかに春たちとなり今年の稲作をどうしょう、今年の生活をどうしょうと苦しい暗いものが永年に村中にただよつた。

時まさに全国にただよつた昭和恐慌、農業恐慌で大不況が続いていた。
真に富国強兵、殖産興業が救済となり、大和川村では国道8号の竹ケ花~押上間と砂山・大雲寺前の改良工事や大和川アワラの区画整理事業や水頭溜池新設工事(竣功・昭和9年)、小畑溜池新設工事(竣工・昭和19年)等が主な救済事業として行われた。

よく大和川の大村(大字大和川)で神輿がどうしてなかつたのかと言われ誰も答えてこなかつた。
多分こうしたヒエイしきつた時代の中で神輿の事など、どうして言える状況ではなかつたのだろうと思われるのが妥当だろう。

Photo_4 もう90年も達ちその代も3~4代となつていて、もうその家はどこなのかは表面上は解らなくなつているが、そうした歴史の中で今日がある事を忘れてはならない。
年前にお寺から配られた東本願寺高田別院の寺報によると、春には「尾神岳(757)の殉難」の法要を現地で行うとあつた。
旧吉川村(現上越市)の尾神岳の雪崩が明治16年(1883)3月12日の午後2時頃に起き、浄土真宗東本願寺復興新築のケヤキ大木の引き出し中に起きたものである。
熱心な真宗門徒が多数集まり、中には母親に負ぶさった乳児もいて27人もの死者がいた、その内15歳以下の子供、4歳以下の幼児もいて一家挙げての奉仕で信者とは言え悲惨な出来事であつた。
131年前の事であるが、今では地元小学校では伝承学習を実施し発表会などを行っているようである。
一時期は「宗教」行事だといつて議論があつたと聞かされている。
Photo_5 いずれにしても「風化」とはなんなのだろうか。

写真の説明

2枚目は 浦の浜を走る市道海浜線の新設工事の写真
3枚目は 大和川国造神社境内に立つ親不知殉難碑
4枚目は 秋の親不知
5枚目は 尾神岳の報尽碑
6枚目は 水頭の溜池

2014/01/25

NO,6   占う

26124_2



今日は1月25日(土)朝から晴れとなつており気温も少し上がるといわれている。
昨日も快晴であつたが気温が上がらず少しの雪もなかなか消えない。
今日の25日は初天神であり、この日が最後の正月となる。
124 田伏の奴奈川神社の境内に天満宮が祀られているが、この地域では数が少ない。
各家では昔から床の間に天神さんの掛け軸をかける習慣があり、鏡餅と共に払われる。
こうした家も段々と少なくなつているようだ。
昨日のNO5「鳥追い」で小正月の「鳥追い」や「さいの神」のことを書いたが、何れも農耕民族の五穀豊穣や無病息災を祈念するものであるが、その他にも14日と15日にはまだまだ多くの風習や行事がその集落の大事な行事として残っている。
124_2 子供の頃に何の教科の時であつたのかは忘れた話の中に、成りものの木に「木いじめ」の風習がある事を思い出した。
成りものの木は「柿木」であり、木に傷をつけ、「なるか、ならぬか」とせまる行事である。
これが14日や15日と言う日であり、民話「サルカニ合戦」に通じている事を知った。
又、傷口にお粥を塗り、「なるか、ならぬか」と唱える「生樹木」(なりずもく)と言う所もあり、いずれも全国に柿の産地が多くあり、それぞれ豊作を祈っての行事である。
信州の戸隠神社の「講」があり、当地区でも昔は各集落に世話役がおられ会費やモチ米を集めておられたが、今は地区全体でも10戸未満にまで減ったそうである。
この戸隠神社の「種兆」(たねうら)は農作物の出来や大水、台風までも占い、大変にご利益があるとされている。
こうした農作物占いの神事は各地にもあつて当市では、能生・白山神社も14日15日にかけて「お筒粥」神事を行っている。
又、下早川・日光寺の白山神社でも15日に行われ、その結果を掲示している。
今年の作柄は 早生もの 7分  中生 8分  晩生 9分  となつている。
こうした14日15日は大切な意味のある日なのである。
余談であるが、上越市旧桑取の「鳥追い」、「さいの神」の他にも「嫁祝い」があり、
前年に嫁に来た人に早く子供が出来るようにと嫁さんの家に行き、唄を唄いながら頭の上を太刀をぶつつけ合う行事だそうであるが、この太刀の木もヤナギ、マツ、スギ、ヌルデ、クルミ等の木となつており、「この木」、「この棒」を「粥杖」(かゆつえ)、「祝木」、「祝棒」、「幸の木」、「大(だい)の子祝」と各地各所によつて異なっている、それほど各地や各所で行われていたと言う事になる。
そしてこの「棒」や「太刀」だけでもなかなか面白い。
こうして継承されて来た小集落も段々とこうして文化と共に消滅して行く。
集落から地域え、子供会や小学校えと輪を広げないとだめだと考える正月でもあつた。
写真の説明
2枚目は 雪の日光寺・白山神社である
3枚目も 雪の日光寺観音堂である、何れも昨日の撮影である。 



2014/01/24

NO,5 鳥追い

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今日は1月24日(金)朝から快晴の天気となつた。
山間部では屋根雪降ろしや除雪に勢を出していただろう。
家の裏の市道海浜線工事もこんな日が毎日出れば大変助かるといつていた。
小正月もあっと言う間にすぎてしまい、今年は田伏の「お松つつあん焼き」(15日9:30から)にも青海の「竹のからかい」(15日昼頃~)にもでかけなかつた。
115 天候はそれ程の荒れでなく近郷の人が多く集まりカメラマンは飛び回つていたであろう。何年も前から撮り貯めていた写真の整理にはまり込んだらニッチモサツチも行かなくなつてしまつた。

テレビを見ていると「寒九の水」をポリタンクを背負って運ぶものや、「鳥追い」の映像が映っていた。
小正月の行事として14日の夜に行うもの、又15日に行うものと小さな集落でも伝統的行事として行い、「サイの神」などは集落の年男の行事2 でもあつたが、人が居なくなつた事や、祝祭日を変えるため人が集まりにくくもなつたりして、小集落から地区の行事としたり、子供会行事としたりして苦労をしている。

私の地区にはこうした正月行事は昔からなく、今頃は俵編みや草履作りなと゛の藁仕事に専念していたのだろう。
私はもう50余年も毎に寺町に事務所があり、宿直の15日の早朝、4時か5時頃かに子供たちの「鳥追い」で家の下見を叩いたり、石油カンを叩いて回って来て何事かあつたのかと目を覚ました事があつた。

Photo_2 よくテレビに放映されるのは十日町・松代や上越市桑取・西横山のものがある。
この「鳥追い」の唄を集めれば面白いが「糸魚川町」のもの、「能生谷・西飛山」のもの、「能生・槙」のもの、「魚沼方面」の「魚沼地域」、「小出町」、「湯沢町」、「旧薮神地区」や「信州・上田」、「群馬・安中」などと記録してみた。
追つ払う鳥は害鳥であるが、「どう」とは「とき」(朱鷺)であり、「つんばくろ」は「燕」である。
追いやる先はほとんどは「佐渡ケ島」である。
遠い所え追いやるにしても、どうして「佐渡島」となつたのだろうか。
皮肉にも今、「佐渡島」には100羽はいるのだと思う。

能生・槙地区の神社の壁に張られているのは
♪ 鳥追いだ 目をさませ おら前の早生稲に
  鳥がついたら ホーイホイ
  追ってもたたず たたいてもたたず
  たたずの鳥は かしら切つて しら切つて
  小俵につめて 牛つこにひかして
  猿つこに追わせて 佐渡が島まで ホーイホーイ
’ネツトワークひすい25年2月17日 NO,67より

上越市旧桑取・西横山
♪ コーリヤどこの鳥追いだ
  ダイロドン(大地主)の鳥追いだ
  シロウ(尻)切つて カシラ切つて
  コンダワラ(小俵)へほうらいこんで
  佐渡島へホーホ
  こうもり鳥のニンジヨ(仲間)で ホーホ

この2つの唄の中には「どう」は出ていないが、小出地区や旧薮神地区の唄の中には入つている。

2014/01/13

NO,4 遺 産

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今日はもう1月13日(月・祭日)曇り時々小雪、夜中中季節風が吹きまくり、下見や雨戸がゆれるおとがしていた。
一時大雪の警報が出ていたが昼前に解除された。
7日の七草を過ぎれば直ぐに10日の「初えびす」、「初金毘羅」(神社によつては金比羅・金刀比羅・琴平がある)である。
そして11日は「蔵開き」・「鏡開き」で今日は「成人の日」、15日は小正月と足早に1月が逃げて行く。

Photo_2 糸魚川の寺町には「琴平神社」があり、宵琴平がある、おこもりが執行され、今年の五穀豊穣や家内安全のお托せんがあると聞く。
それは参拝者が「大黒引き」と言う宝くじを引く占いで、大黒さんの唄を唄う。
   ♪ おおべつさんが ござつた
     1にや俵をふんまえて  2にやにっこり笑らつて
     3にやさかずき(盃)いな(た)だいて 
     4にや世の中ええ(いい)ように
            
     5にや泉のわくように 
     6にや無病息災に
     7にや何事ないように
     8にや屋敷をたいらげて
     9つ小倉をぶつたって
                     10にやとうとうおさまつた 
                                                       

                   この唄は子供の頃に祖母から聞かされたものである。

当大和川にも「金毘羅神社があり、小高いカントビラに祠が鎮座している。
Photo_3 この祭礼は真夏の7月10日であるが、10年位前から風祭りの8月7日に統合してしまつた。
この金毘羅さんは明治以前の建立であり大和川の「四十物」(あいもの)商の人達で、水島、金子、木戸間等の人達で蒲鉾、さつま揚げ、甘えびの加工などを行い一時は羽振りがよかつた。
何年かに鳥居を取替えたり、土俵を作り寄り相撲をおこなつたことがある。
又、「金毘羅講」も行っており、当時の抵当権の名残が時々出て来ている。
この商売も昭和の農村恐慌のあおりをうけて、地区内の銀行までも倒産するようなあおりを受けて、廃業していつた。
その名残は子供の頃には境内に土俵もあつたり、家の前の「おおかいど」(大きな開いた道)には幟の幡竿があつた事を知っている。
「おおべつさく」の唄のような目出度いものにならなかつた。
こうした負の遺産についてはあまり話されて来ていなかつた事が事実である。

Photo_4 糸魚川寺町の「琴平神社」も「四十物商」が中心となつて執行して来たものだろう。
往時の繁栄は信州・松本の深志神社に見られる。
昨11日と12日は「松本あめ市」が行われ、長い歴史が感じられる。
敵蒋武田信玄に上杉謙信が塩を送り「塩の道」から塩や魚の乾物等が運ばれ、1月11日に待望の念願が叶つた日なのである。
松本地方の人びとの喜びがわかるし、糸魚川の四十物商も相当潤つたのであるう。
Photo_7 その記は松本・深志神社の玉垣に4本の大型のものを奉納している。
その玉垣には糸魚川の「四十物商中」と深く刻している。
又、一方松本の魚問屋も喜び、その印は糸魚川一の宮・天津神社の入口にある。
明治33(1900)年庚子4月と刻した石灯篭一対があり、「信濃松本魚問屋」とある。
7名の奉納者の名前がある。

「松本あめ市」はそうした戦国時代の塩の供給を断られ困っていたが永禄11(1568)年に1月11日に塩が届いた故事にちなみ「塩市」がいつしか「あめ市」になり、商都松本の新春の伝統行事となつている。
今年は七福神が加わる時代行列や全国あめ博覧会・即売会、塩取り合戦、子供の福ダルマ売りなど多彩な行事となつておりテレビやラジオにも流れていた。
Photo_9 こうした行事や歴史を知る糸魚川の人は多くはいない。
写真の説明
1 枚目は 松本市・深志神社前にある「牛つなぎの石」
2 枚目は 当大和川の金毘羅神社
3 枚目は 糸魚川の四十物商が奉納した深志神社の玉垣 大きな文字が刻まれている
4 枚目は 「松本あめ市」の幟
5 枚目は 松本の魚問屋が奉納した石燈篭に刻まれている文字の拡大したもの
6 枚目は 「松本あめ市」で売られている「あめ」 

2014/01/03

NO,1 お正月

1

今日は正月の3日(金)朝から快晴となり、「一陽来復」の今年し始めての太陽が輝いている。
今年は何事もない良い年となるように思うが、それに向かって心がけねばならない。
今年は子供達は帰省しないので二人切りの年取りと、3ケ日であり特別に手を掛けた幾く品もの料理を作らなくともよいと言つた。
チラシなどで宣伝していた豪華なおせち料理でなくとも歳はとれるし、新年を迎えることが出来た。
たしかに老人だけの家族や、又、若い夫婦と子供の家が増え、この地域の伝統的な決まっている料理も段々と省略されたり、親から習つたりしないからあたりまえの事でもある。
家でも稲作を止めたので今年は何十年も続いた餅つきはせずに切り餅を農家の直売所「食彩館」で買って来て「お雑煮」とした。

2 今年は「午歳」、家にとつては馬とは切っても切りはなせない歴史があり、馬が生活を支えて来た時期もあつた。
「人と馬」、言うまでもなく中国の「兵馬俑」(へいばいよう)が歴史を物語るように秦の始皇帝陵の一部から出土し1987年に世界遺産に登録されているように、死者を埋葬する際の副葬された「兵士と馬」を模つた物であり、地下に2,000年も眠っていたものを堀り出したものである。

日本でも馬の埴輪が全国各地に出土し、いかに馬と人が古くから関わつたかがわかる。
そんな例として、有名なのは埼玉・熊谷市中条日向鳥出土の「埴輪馬」(国重文)があり、古墳時代後期に築造された中条古墳群からのものである。
更にもう一つは、奈良・橿原市四条1号古墳からのもので「飾り馬埴輪」がある。
Photo こうした馬や牛は家畜として朝鮮半島から持ち込まれたと考えられ古墳から沢山の馬の埴輪が見つかつている。
この頃は既に家畜として飼われ、西暦390~490年にかけて造営された古墳からの発掘とされている。

家の馬も私が生まれた時には既に飼育され、1.3haの水田経営と農閑期の「馬車引き」とし木材出し、「水頭溜池」(s9年築造)と「小畑溜池」(s19年築造)の工事に築材運搬等を「大和川組」を作り活躍した。
又、国鉄北陸線新設工事に際し、陸橋やトンネルのレンガを当大和川のレンガ工場から運搬に係わつて来た。
この北陸線本線の全線開通までは直江津駅まで、この浜で獲れた鱈(たら)を運搬したが冬季の積雪と寒さは大変な作業であり、真に「人馬一体」となつて働いたと祖母がよく語っていた。

そうしたご先祖の働きを知り、伝えて行かねばならない歴史なのである。
私も今年は傘寿、もう先は見えて来ているが、ひとムチ当ててゴールしたいものである。

今年もこのブログを何回投稿できるか頑張って書いて行きたいと思っている。

写真の説明
1枚目は 家の庭の「なんてん」
2枚目は 武豊G1通算100勝達成の勇士 11月17日京都競馬場で、第30回スマイルチャンピオンシップて゛トーセンラーに騎乗して
3枚目は 奈良・橿原市出土の「飾り馬埴輪」複製

2013/12/23

No,53    まめに暮らす

E73 今日は12月23日(月)天皇誕生日の祝日である。
冬型の気圧配置で天気が定まらない。
雲であるが小雪も時々降っていた。
地面が真白になるようではない。
市内の観測地点の小滝と権現荘は15cm(20日)の最高である。
越冬用の少しの野菜類も既に収穫も終わり、いつ何時ネ雪になつてもよい準備が出来ている。
Photo 家内達数人は一日がかりで一昨日に集落の集会所に集まり白菜漬けを行った。
韓国流で言えば「キムジヤン」であり、もう10年も続いているが、寄る歳には勝てず参加者は減っているようである。

昨日は「冬至」、この日にはこの地方は一般的な風習で南瓜を食べ柚子湯に入ると言うパターンである。
冬至の「7品目」と言う「なんきん」(南瓜)、「にんじん」(人参)、「金柑」、「れんこん」(連根)、「ぎんなん」(銀杏)、「かんてん」(寒天)、「うどん」の「ん」が付く物を口にして運が付くように願う。
又、「あずき粥」(小豆)を食べて無病息災を祈ると言うような風習もない。
Photo_2 この時期農家では南瓜は有るが、昔のように多くの人が栽培しなくなつた。
大型の南瓜は爺さん、婆さんの2人の世帯であれば食べ切れず、農家でありながらスーパーで求めている現状である。
一年中どこかの物が出回つている。
この冬至に南瓜を食べ厳寒の冬を乗り切る栄養のビタミンC,やE、クエン酸が多く含まれ、風邪の予防や美肌効果に役立つとも言われてい2 る。
南瓜も寒くなると早く腐り易くなり、早く食べなさいと言うサインでもある。

又、冬至の柚子湯に入る風習も、最年の温暖化の勢と品種改良も進み、この海岸地帯では多くの人が1本、2本と植えて楽しんでおられる。
今年も豊作で小枝が垂れ下がつており小粒である。
撤果をして大きいものにすれば良いと思うが「もったいない」と行ってしていない。
どうせ自家用なのだからとも言う。
Photo_3 昔は上刈ミカン(当市・上刈地区)は北の「北限」だと言われて栽培されていたが、実は小粒でスッパイが特徴であつたが、栽培が難しく減退していつた。
私の母の実家には裏の畑に何本もあつて正月には毎年貰っていたし、父が冬囲いに出掛けていたものである。
こんな時に 「蜜柑 金柑 酒の燗 親は折檻 子は聞かん 相撲とりや裸で 風邪ひかん」 を思い出すのである。

柚子湯の効能も風邪をひかない、香りは5月の節句の菖蒲湯と同じように強い香りをPhoto_4 持ち、邪気を祓うとも言われている。
毎年この冬至の風物詩として銭湯の柚子湯の写真が写るし、伊豆シャボテン公園(伊東市)の人気者のカビバラや渋温泉の地獄谷野猿公苑の日本猿の入浴写真が定番となつている。
こうして元気で風邪や脳血管疾患を防ぎこの冬を元気で乗り切りたいものである。

風呂と言えば面白いのは、富山の売薬の常備薬「ケロリン」(頭痛・歯痛)の風呂桶Photo_5 である。
富山の売薬の歴史は400年とか300年とか言うが、市販薬局等が多くなつたり「薬事法」等でその伝統ある常備薬も売れなくなり、大部薬の種類も変わって来ているようだが、「ケロリン」の宣伝は今も健全であり、観光地の温泉でも時々見る事がある。
木製の桶は不衛生になるとの事であり、東京オリンピツクの1年前からヒントを得て以来継続していると言う兵(つわもの)である。
3 見られなくなつた常備薬の中に「神薬」がある。
家の薬箱の中に入つていて、「暑気当たり」、「気付け」の効能があるとの事であるが、子供の頃はよく取り出してなめていた。
適度な爽快感と清涼感を与えたものである。
薬の中には黒砂糖、水飴、カルメロースナトリウム、香料が含まれていたものだそうである。
そうして家には売薬の箱は2箱と紙袋の物もあり、○(まる)に「久」の店紋が付いた箱が最後まであり、平成16年の春を以つて終つている。
今までは農協の「売薬さん」が年に2回程回って来ている。

そうした歴史と隔世の感がある中で、いよいよ東京から金沢までを2時間30分で結Photo_6 ぶと言う北陸新幹線が平成17年3月には開通することになつており、12月1日には試験車両E7系が走行し、次いでE2系「やまびこ」(東北新幹線を走る車両)が走行した。
試験走行は黒部宇奈月温泉駅間であるが、金沢まではもう直ぐである。
今でも大きい買い物は富山や金沢え行く人が多くいると聞くが今後は益々関西圏にも目を向けなければならない。
富山の交流は以上のように書いて来たが、古くから上市町の真言密宗大本山・大岩山日石寺を「お岩さん」と言つて参詣していたり、富山の蒲鉾も名物として土産に買い食卓に上がっていた。
又、婚姻関係も多いようだ。
そんな一例として当市の文人相馬御風が昭和11・1936年に「富山売薬歌」を提供している。
作曲は山田耕作のコンビである。
そうした中で恐ろしいのは、売薬の中の有名な「反魂丹」や「萬金丹」がある中で、高岡の菓子屋が「反魂旦」(たんの一字が違う)や「萬金旦・羊羹」と言う名の銘菓を出している。
売薬に「紙風船」や「世相」や「偉人・文人など」の版画をも「おまけ」として配っていた。
これにヒントを得たのか銘菓にも「紙風船」が付いていたものもある。

   富山売薬歌
1、富藩の英主正甫公 名医万代常閑が
  伝え来たりし調薬の 道を開かせまししより
  星霜茲に三百年

2、慈恵を旨と奮い立ち 山又山の奥までも
  磯又磯の果てまでも いやつき゛つぎに行商し
  富山薬の名声を 高め広めし祖父の徳

(3番から5番まである)
こう言う事から往時の勢いを偲ぶ事が出来る。
果たして平成の時代はこれを乗り越える事が出来るのだろうか。

写真の説明
1枚目 新幹線E系車両
2枚目 鈴なりの柚子、11月14日撮影
3枚目 信州・渋温泉の地獄谷の野猿公苑の日本猿
4枚目 「ケロリン」の宣伝風呂桶
5枚目  「神薬」の薬ビン、往時は50軒もの製薬店も有ったが、そのビンが無くなり発掘してまで集めている。そうした歴史物となつている。
6枚目 越中「反魂丹」の看板の架かる店舗
7枚目 富山の銘菓「反魂旦」と紙風船。今は紙風船と言えば本県出雲崎が全国の約90%を作っている。
8枚目 店頭に並ぶ「家庭薬」
9枚目 木箱、紙箱の他に「紙袋」もあり、台所など手近な処に掛かつていたものだ。       

2013/12/21

NO,52  食文化

3 今日は12月21日(土)、朝から小雨が降ったり、日が出たりの定まらない天気で「キチガイ」天気とこの辺では言う。
明日はとうとう二十四節気の「冬至」となる。
冬至に「かぼちや」(南瓜)を食べ、ゆず湯に入ると言う風習が古くからある。
ものの本によるとこの風習の外に「あずき(小豆)粥」を食べて無病息災を祈ると言う習慣もあると言う地方もあると言う。
その他にも「なんきん」(南瓜)、「にんじん」(人参)、「金柑」、「れんこん」、「ぎんなん」、「かんてん」、「うどん」の7種類の「ん」が付く食べ物を口にすると「運」が付くと言われている。
又、「土用の丑の日」には「うなぎ」を食べるのは江戸時代からで平賀源内が発案者であるが一般的である、この他に「う」の付く「牛肉」や「梅干」を食べて暑い夏を乗り切るのだと子供の頃から言わPhoto れて来たが、「うな重」などは到底口には入らずせいぜい奮発して「牛肉」であり、梶屋敷駅前の店であつたが「売ってやる」の時代であつた。

そう言えばもう直ぐお正月であるが、そのお正月の「おせち」料理の中には「くわい」がある。
「くわい」は「芽が出る」。
「れんこん」は「先を見通す」である。
「黒豆」(黒大豆)は「まめ」(まじめに)に働いて「まめ」に(健康で)過ごせるように。
「きんとん」(金団)、金団は金の団子もしくは金の布団と言う意味で、転じて金塊や金の小判等に例えられて商売繁盛、金運、財運をもたらすと言われ、正月の料理の野菜類だけの定番を拾つてみPhoto_2 た。
今年は早くから百貨店や料理店等は豪華な「おせち」料理を宣伝している。

年が明ければ7日は7日正月の「七草」で「七草粥」の「せり」、「なずな」、「ごぎょう」、「はこべら」、「ほとれのざ」、「すずな」、「すすしろ」の春の七草としてスーパー等の店頭に並ぶが、この地域にはこうした風習は無かった。
先の私のブログで「ボンカレー」や「インスタントラーメン」(即席麺)が急速に発展し世界の食生活をも変えたとまで言われていると書いた。
Photo_3 そうした例として「恵方巻」もコンビニが仕掛けて極く短期間で全国に広がつたと言われているものである。

正月には「ぶり」(鰤)がなければお正月を超す事が出来ないと言い高価な金をはたいてまで買う地方と、いや内の地方は「鮭」で年を超すのだと言う地方があり、食文化としてあまりにも有名になつたのは糸魚川・静岡構造線(ホッサマグナ)である。
全国には「塩の道」の他に「ぶり(鰤)街道」とか「さば(鯖)街道」と言う食文化もある。

家の近くに料理の好きな人がおられ、自分で料理を造つたり、又旅行にも出掛けかなりの食通であつた。
そこで旅行の時季には、今はこれだね、とよく教えてもらつたものである。
小説家「池波正太郎」(大正12・1923~平成2・1990年)を思い出し「剣客商売」等にも必ず時季、時季の料理が出ていた。
そんな中で富山に行くと今は「ます(鱒)の寿司」が全国区になつているが、「ウルカ」とPhoto_4 言う日本三大珍味があり、店頭に行つて「売るか」(ウルカ)、「売らないか」とからかつた事があつた。
「ウルカ」とは「あゆ」(鮎)のニガワタ(内臓)を加工した塩辛だそうである。
「からすみ」は「ぼら」(鰡)の卵巣の塩漬け。
「コノワタ」、これは「ナマコ」(海鼠)の腸の塩辛であつたり、「ウニ」の塩漬けしたものなど、能登半島を控えて珍味の名物の宝庫であり、古くは江戸時代の徳川将軍家などの献上品となつていたと言う歴史のあるものであるが、一般的には知る人しか知らない。
そんな事で金沢に「治部煮」があるが、これも知る人しか知らない。
高価な高級料理で料亭や高級料理店でないと食べられず敷居が高く二の足を踏んでしまうようであつた。
Photo_7 その点庶民的なのは「松任駅」であつたか「津幡駅」であつたかの「あんころ餅」(餡衣餅)がある。
子供の頃に父や祖父が旅行の際には土産として買って来てくれた。
こんなに美味いものがあるかと思い、夜遅くまで帰りを待つていたものである。
子供の頃の修学旅行と言えば新潟は「梨」であつたが、富山の土産は何であつたのPhoto_6 だろうか。
黒部の西瓜は知っていたが、富山は薬の街であり、常備薬の「ケロリン」や「反魂丹」で売つていた。
「越中富山の反魂丹、鼻糞丸めて、萬金丹、馬の小便水薬、お前のかあちゃんアンポンタン」と言う悪口かざれ唄があり、これが逆に「反魂丹」、「萬金丹」の宣伝になり、全国に散らばる「売薬さん」によつて有名になつていつた。

去る12月5日には「和食・日本人の伝統的食文化」がユネスコの世界無形文化遺Photo_8 産に認定された。
「和食の本場」だと言う京都では京都市長や料理店、百貨店等の代表者が高島屋京都店で酒樽のこもかぶりを何本も持ち寄り記念イベントで祝杯を挙げていた。
しかしながら食糧のの生産基地である農村ではその生産とその為の行事などの風土に根ざした大切なものまでも合理化や採算が合わないと言う理由で行われなくなつて来ているものも多い。
ある農業新聞のコラムの中に「子供の頃を振り返って見ると、中秋の名月にススキと団子を飾ってめでたが今はやらなくなつていまい、こうした年中行事が徐々に生活から消えて行く流れと、和食の衰えが連動しているように思える。」と言つている。
これは一つの例に過ぎないが「和食」は何の為に認定され、今後はどうした運動を展開して行くのか
気がかりになる。

125 写真の説明
1枚目は お正月のおせち料理
2枚目は クワイ
3枚目は 黒豆
4枚目は 「鮭」の切手・画家高橋由一(文政11・1828~明治27・1894年)近代洋画の開拓者として貴重な絵が切手に用いられた。
5枚目は 小説家池波正太郎の「剣客商売」
6枚目は 「鮎のウルカ」
7枚目は 「カラスミ」西京漬け
8枚目は 世界の食生活を変えて50年と宣伝する即席ラーメン
9枚目は 「和食・世界無形文化遺産」に認定され京都で祝杯を挙げる面々。  

2013/12/11

NO,51  越冬

129今日は12月11日(水)、昨日は季節風が吹きまくり、波浪警報が出たり、JRは高級電車は休止となつていた。
今日は朝は晴れであつたが昼過ぎ頃から曇りとなつた。
黒姫山は3度目の降雪があれば今度は里にも降ると言われて、地区の山間部は二十四節気の「大雪」が過ぎれば「ね雪」となると言われそれに併せて越冬の諸準備もしている。
昔に比べれば降雪の量も少なくなつていたり、「ね雪」の時季も遅れている。
1293 しかしここ2~3年は山間部は大雪となり、高齢化や車社会のため、車を出す為にも除雪機が必需品
となつて来た。
農家で使う機械類は、この除雪機もそうであるが、トラクターもコンバインも単一作業の道具であり、その作業毎の装備品であり、その投資も大変である。
去る9日に真光寺の大銀杏の落葉の状況を見にいつて来た。
6日か7日のみぞれと季節風で全部の葉が落ちていた。
今度はこの里は降ると雪になるが、家の周りのたたずまいは昔のように家の中が日中でも真暗になるような囲いではなくなつている、
これで無事越冬が出来るのかなーと思う位である。

食べ物も山間部では越冬用の食品を町から多く上げ112 て雪の中での買い物をしなくともよいような知恵があり、生野菜の大根や白菜や人参等は家の近くに保存し何時でも掘り出せるようになつている。
沢庵漬けや野沢菜漬け、白菜漬けは長い冬の間の保存食品の
代表格であるが、近年は若い者達はこれらを好まず年毎に大根や白菜、野沢菜等の栽培も急激に減って来ている。
かつては裏の川辺にお母さん方が多く集まり「かぶ菜」(野沢菜の事)を洗う風景があつたが、いつの間にかその姿は見られなくなつている。
大根を家の軒下に干す風景もあつたがこれも見られなくなって来ている。
同じような事がテレビによると韓国のキムチ漬けを大勢の女性が集まって共同作業で「キムジャン」を楽しんだものだが、若い女性に嫌われ少なくなつて来たり、隣国中国からの多量の輸入もありその伝統的料理の嗜好も変わって来ているとの事である。

Photo こうしたこの時季の風物詩となつているものの中に宗派を問わず多くの寺社の「大根たき」がある。
「報恩講」等に併せて門徒の人や門前町の人達が大きな釜で沢山な大根を煮て寒い中に参詣にこられる善男善女の体や心を暖める慈愛の奉仕が行われている。
又、曹洞宗の「永平寺」では若い修行僧が村中を托鉢にまわり大根を集め、一年間の沢庵漬けをする作業の報道があつた。
そうした有名な話は、沢庵禅師(天正元・1573~正保2・1645)が托鉢で貰った大127 根や寺に届けてくれる多くの大根を「たくわえ漬け」と称していた。
ある時徳川家光が寺を訊ねた際にこれを供した。
家光は大いに気に入り「たくわえ漬け」にあらず「沢庵漬け」なりと命名した逸話がある。

時代と共に食の嗜好も変わつて来ている。
先日昼に一人になったので久し振りにラーメンを食べたいと思い、10数年振りの食堂(ラーメン店)に入つたが、早い内は少ない客も段々とPhoto_2 多くなり列をなすようになつた。
客も職場からの外食の若い男や乗用車での社員風の連れなどが目立つた。
注文も単品のラーメンだけでなく数品のものを食べていた。
色々なメニュー開発と若い者の嗜好が一致し、段々と食文化も変化している。
そうした中でこの度ユネスコの世界無形文化遺産に「和食・日本人の伝統的な食文化」が認定された。(12月5日付け)
そもそもこれからはどのようにその「和食」は変わって行くのだろうか。

写真の説明


1枚目は 真光寺大銀杏の落葉、黄色いジュウタンを敷いたようになつていた、9日の撮影
2枚目は 同じく真光寺の大銀杏の落葉直前の撮影 12月2日の撮影
3枚目は 同じく真光寺の大銀杏、9日には全部落葉していた。
4枚目は 我が家の大根干し
5枚目は 京都市上京区の千本釈迦堂の「大根だき」風景・12月7日の共同通信
       から転記
6枚目は 福井・曹洞宗本山「永平寺」山門

2013/12/05

NO,50  走る

Photo_6 今日は12月5日、朝から快晴の珍しい天気となつた。
来る7日は二十四節気の「大雪」である。
「師走」、おおいに僧呂や先生方が走りを早めている。
それに加えて今年は去る2日から北陸新幹線の試験車両「イースト・アイ」が走った。
にわかに表日本と裏日本が結ばれ平成17年3月に開通が熱く期待されている。
その開通に併せて国道8号東バイバス線も完成し竣功開通する事になつている。

124 車社会になり、農村の中山間地にも蜘蛛の巣のように道路が新設、改良が進み、農家には農業用の軽トラツクや自家用車が導入され、若い者を家に留め置く必須の道具だと言われてもう久しくなつた。
トラクターやコンバインを買う金があるのなら高級の乗用車を買ってくれろと言う話が実しやかに言われている。

行政も山の奥まで如何にして道路を作る補助事業があるかは課題であつた。
1249 「農免農道」と言う「農林漁業用揮発税財源身替道路事業」や、「電源立地道路」と言う「電源立地地域対策交付金」、「広域農道」と言う「広域営農団地農道整備事業」等はその代表的なものなのだろう。
今、当地区では海岸の波たたき側溝に添って市道「海浜線」の工事の真最中である。
大波が来れば護岸を乗り越えて波たたき側溝まで来る事は冬期間には何回もあるが、普段は便利な道路であり、災害等で国道8号線等が通れない時の緊急用道路としての役割があると利便性1300 だけが要求され、土地代は無償で提供された。
こうして益々車社会は便利になり車が猛スピードで走り去って行く。

私は昭和38(1963)年7月に長野の穂高町(現安曇野市)の自動車学校に免許を執りに通つた、「10日で執れる」と言う触れ込みであつたが1ケ月以上も大糸線を通って取得した。
当時は「穂高免許」と言つて「安くて、早い」がキャツチフレーズであつた。
15人未満の農業団体の職場であつたが、先ず最初に自家用車で通勤したのは女性であり、「日野コンテッサ1300」(昭和36・1961年)であり、エンジンは後方に付いており、自家用車も珍しく羨望の的であつたが、エンジンの後に付いていたのも又珍しかつた。

141 こんな車は欲しいなーと、何時になれば買えるようになるのだろうかと思った。
車が買えないし、自動車の雑誌でまぎらした。
当時の車の雑誌は唯一「月刊自家用車」(内外出版社・1956年創刊)であり何年愛読したのだろうか。
昭和41(1966)年にトヨタ・コロナ(3代目・中期型)が出て、その勇壮はかっこよくその雑誌の人気投票NO,1が長く続いた。
昭和50(1950)年9月にフルモデルチェンジし「アローライン」と呼ばれた傾斜のフロントノーブのデザインが特徴であり、これで人気が急上昇し、昭和40(1965)年1月に初めて日産ダツトサン・ブルーバードが出て、壮烈な販売競争があり、所謂「BC戦争」と言われて国内販売台数も第1位を保持し、その後暫く抜きつ抜かれつの状況が続いたが、ついに昭和45(1965)年末頃から第1位の座を磐石なものにしたと言う伝説31966619676 があるそうです。
その雑誌の中に「譲ります」、「買います」の欄があり、長野市役所に勤める人が「スバル360」(昭和33年・1958~1970年)を譲るとあった。
この車は1958年~1970年の延べ12年間に39万2000台も売れたと言う人気車となっていた。
当時は「国民車」と言う国策で、誰れでも車が持てると言うことで、これに乗つたのも360 一つの要因だつたのだろう。
その車を見に長野市まで汽車で行きましたが金の無い事等もあり乗つて帰る事も出来なかった。

都会では若者の車離れがあるのだと聞くが、にわかに信じがたい。
そうした中で「第43回東京モーターシヨー」(日本自動車工業会主催)が従来の千葉から東京ビツグサイト(江東区)に会場を移し、11月23日~12月1日の間に開催された。
12か国から178社が参加し最先端の環境技術を採用した次世代車や奇抜なデザ Photo_7 インの試作車等426台が披露されたと新聞やメリアが熱く報道していた。
入場者数は90万2800人で目標としていた前回の2011年の84万2600人を上回つたが、モーターシヨーの最高は平成3(1991)年の約202万人をピークに減少していたが、2011年に続き2回の連続で「前回超え」の目標を達成したとされている。
私も関心をもつて見守つていたが、どう転んでも買えないし、乗れないのにどうしてこんなにも年寄りの心を揺さぶつたのだろうか。
車はこうした年齢を超越したロマンと未来と夢をも乗せて走る魔物なのかも知れない。

写真の説明
11301枚目は トヨタ・2000GT 1967年型、クラシックカー専門に取扱うRMauctions社が行うオークションで日本車として最高価の116万ドル(約1億1800万円)で落札された事がある。
2枚目は 「広域農道」の表示
3枚目は 市道海浜線の新設工事中・昨日の撮影
4枚目は 日野コンテツサ1300
5枚目は 「月刊自家用車」14年1月号
6枚目は トヨタ・コロナ3代目・中期
7枚目は スバル360
8枚目は モーターシヨに出品したメルセデス ベンツSLS・AMG・GT
9枚目は 戦前からの名車パレード(11月30日)「クラシックカーフェスタin神宮外苑」で戦前から高度経済成長期にかけての名車約く100台が勢ぞろいし神宮外苑から銀座までの片道約く6Kmを往復した。
  

2013/12/03

No,49   年の瀬

Photo_2 今日は12月3日(火)師走に入り3日目となり、一年間の総括と言つていいのか、この年の結果等も色々と発表されている。
その「師走」、僧呂や先生方だけでなく今年は北陸新幹線の試験車両も走った。

今年生まれた子供の名前のランキング発表(明治安田生命)や昨日は又「新語、流行語大賞」(自由国民社)が発表された。
近日中には「今年の漢字」の発表がある。
これは12月12日は「漢字の日」であり、京都・清水寺の貫主
が揮毫する。
主催は日本漢字能力検定協会で平成7(1995)年から開始され「震」から「食」、「倒」、「毒」、Photo_4 「末」、「金」、「戦」、「帰」、「虎」、「災」、「愛」、「命」、「偽」、「変」、「新」、「暑」、「絆」、昨年は「金」であつた。
さて、今年は何と言う漢字になるだろうか。
「お・も・て・な・し」の漢字があれば文句無で決まると思うが無いので、私は「擬」(ぎ・もどき)又は「疑」がよいと思う。
「オレオレ詐欺」、「還付金詐欺」等の「特殊詐欺」やホテル、百貨店等のメニューの虚偽表示、そして「特定秘密保護法案」によりだまされるのではないかと疑つてい
E2 る。

昨日は一日かかつて年賀状を作る準備に入つた。
来年は「午歳」、馬は我が家の生活と共(友)にあつた。
私が生まれた時には既に飼われており、25歳位までの間に生活を共(友)にした。
小中学生の頃は「飼馬切り」(かいば切り)が仕事の一つになつていたし、父の留守の際には餌くれも仕事になつていた。
この餌くれは自分の食事の前に必ずするように強く言われていて、馬を大事にしていた証である。
作業も木出しの運送や一人での馬耕、代掻きも出来るように教わっていた。
そんな中で国民学校3年生の折に祖父が落馬し急死した悲しい事故もあつたが馬により農業の経営や生活がなりたつていた。
そんな事を思い出し、7回目の「午歳」の年賀状のイラストを考えている。

122_2  昨日から北陸新幹線の走行の試験が行われると聞いていたが、何時頃に通るのかは知らされていなかつた。
小雨の降る寒い午前に「金比羅宮」の丘陵地に何人かのカメラマン等が集まっていたと聞いた。
この場所は新幹線を撮影する格好なスポツトであると早くから言われており、読売新聞の39ページ全国版(3日付け)にその場所からの撮影の写真が掲載されていた。
この走行は長野駅から黒部宇奈月温泉駅までの136Kmを時速30Kで走行し、当初1222 は東北新幹線を走るE2系「やまびこ」と聞いていたが、実際は試験用車両「イースト・アイ」であり、来年3月28日まで続ける予定だとの事であり少し暖かくなれば写真を撮りに山え登ろうかと思つている。

この時季、黒姫山は2回目の降雪があり、3回目ももう直ぐである。
3回目が降れば今度は里にもやってくる。
真光寺集落
の大銀杏の写真を撮りに何回も通っているが、全ての葉がもう落ちているかと思って昨日行くとまだまだ全部の落葉には日数がかかるようであり、昨年は6日だと日記に書いてあるので、今年もそんな頃になるようである。

写真の説明
1223 1枚目は 南部地方の色々な絵馬
2枚目は 過っての馬による代掻き風景
3枚目は 東北新幹線を走るE2系「やまびこ」であり、当初はこれが試験車両として走ると発表があつた。
4枚目は 糸魚川駅に着いた試験車「イースト・アイ」と言う列車だそうだ。
5枚目6枚目は昨日の昼過ぎに撮影した大銀杏で、
もう少し葉が残っていた。

2013/11/28

NO,48  西風吹けば

11283 今日は11月28日(木) 夜中朝方までも南西の強風が吹きまくり、物置や納屋の下見等を叩く音で何回も目が覚めた。
そして今日は一日中時々小雨が降った。
この時季の句で与謝蕪村(よさぶそん)は「西吹ケば 東にたまる 落葉かな」と詠ったものがある。
家の前には他所の家の柿の葉や栗の葉が舞い込んで来て、掃いても掃いても舞い込んで来る。

去る22日は二十四節気の「小雪」、そして23日は新嘗祭
(にいなめさい)、今は国民の祝日の「勤労感謝の日」となつている。
当氏子でも新嘗祭は小祭、中祭、大祭とある中の大祭として執行されている。
この日は宮中の収穫祭に当たるもので天皇は五穀の新穀を天神地祇(てんしんちぎ)1123 に進め、天皇がこれを初めて食し、この年の収穫に感謝する日とされ、子供の頃の大東亜戦争中に教わり、稲作農家であつても天皇陛下が食べられる日までは新米を食してはならないとまで言われていたものである。
これに関連して、10月17日は神嘗祭(かんなめさい)であり、皇室のご繁栄と国家の安泰、五穀豊穣、国民の平安をお祈りする大祭である。
ところで今では本県では8月末には早生種の「越路早生」の新米が店頭に出るし、「コシヒカリ」は9月の25日頃になると一斉に売り出される。

Photo 先のブログは「えびす講」の事で、11月20日の夕食には家では「ライスカレー」を大変なご馳走として戴いたものだと書いた。
「ライスカレー」であり「カレーライス」ではなかつた。
この「えびす講」大売出しのチラシが入つたり、幟が立つて糸魚川の街の本町通りが大変賑わつたものだと書いた。
そうした「えびす講」大売出しもいつしか言わなくなり、もう4~50年もたったのだろうか。
山間部の過疎化が始まったのは道路が急ピッチで新設、改良されると「引越し道路」と揶揄された時からであろう。

今度はこの「えびす講」に変わって「酉の市」のチラシをホームセンター等が入れるようになり、11月の10日頃に入つた。
この地方には「酉の市」の風習はなく、季節の風物詩としてテレビ等でそれを知る程度である。
今年は3日と15日と、そして昨日の27日の「3の酉」まであり、「3の酉」がある年は火災が多いと言う俗説がある。
この年は平年にまして歳末にかけて社会一般で火の用心が心がけられ、熊手商の多くは縁起熊手に「火の用心」のシールを貼って売り出すと言う。
「おかめ」や招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並ぶ。
Photo_2 又、寺社によつては小さな竹熊手に稲穂や札を付けた「熊手守り」が授与され、福を「掃き込む、かきこむ」とのお洒落にことよせ「かつこめ」と呼ばれていたり、熊手の外に「頭の芋」(とうのいも・唐の里芋)や栗で作った「黄金餅」(こがねモチ)があり頭の芋は頭(かしら)になつて出世すると、芋は子芋を多く付ける事から子宝に恵まれる、黄金餅は金持ちになれる等、縁起物として威勢良く商なわれている風景を見る。
この初冬の風物詩は神社や寺院の関東圏に多く行われているのも面白い。

「西吹ケば 東にたまる 落葉かな」、家の前には他所の家の柿や栗の葉が舞い込Photo_3 んで来ている。
掃いても、掃いても舞い込んで来る。
何気ない初冬の景色からどこか寂しさのようなものを感じるが、これが縁起物の福や札束が舞い込んだとすれば又楽しい。

  写真の説明
1枚目は 真光寺の大銀杏で落葉が始まっているが、昨年よりも遅れている、今日の昼に撮影した。
2枚目は 11月23日に撮影した「こまゆみ」の葉
4枚目は 縁起物の「稲穂熊手」である。

2013/11/16

NO,47 「えびす」と郷土料理

Photo 今日は11月16日(土)、朝から快晴となつた。
貴重な日和である。
暖かい日が続いていたので急に初雪が降る寒さとなり、長袖のシャツやズボン下を出してもらつた。
どこの地方でも初霜や初氷、初雪がいつもの年よりも数日も早く来て、今年の冬は急いでいる。
除雪車の出陣式や安全祈願が初雪の降った後となり、関係官庁や業者をあわてさせた。
時々見にいつている真光寺の大銀杏(新潟県の指定天然記念物)の葉はまだ黄化もせずに青々としている。

Photo_2 こうした寒い日には収穫の終わった物やまだ畑に残っている物を少しずつ採つて来て食べるものに「こくしよ」(又はのつぺ汁とも言う)がある。
大根や人参、牛蒡、れんこん、里芋の短冊形に切つて鶏肉と焼き豆腐、コンニャク等の季節の物を入れ醤油で煮る郷土料理である。
それとこの時季には野菜を色々入れる料理に「やたら」がある。
この主役は採れたての「ゆず」と「しおの実」であり、人参や大根等を細かくみじんに切つて「しおの実」で和えるシンプルな物である。
「やたら」とは「なんでも入れる」と言う方言が適当だろう。

昔はこの時季、「えびす講」大売出しのチラシが入り、町まで越冬の食品や衣料品等を買いに男衆や女衆が出掛けたものであるが、その大Photo_3 町の本町通りもシャツター通りとなり、往時の賑わいはみじんも感じられない。
「えびす講」の日は11月20日であるが神事や祭典は行われていない。
この地区では昔の職種では大工、左官、掘り工や木出し、運送引き等の職人がいて、一日中朝から休むか、午前だけ働いて午後に休むかして酒宴を開いた。
その仲間達ははそれぼど多くなく数人であるから親方の家で賄われていた。
4 飲む酒も、この地区では清酒であるが、山間部に入ると焼酎で飯茶碗で豪快にやつていた。

この地方では祭りではないので一般の農家は「えびす」(恵比寿)や「大黒」等を神棚に祀るような事はなかつたし、「神札」等を「えびす願人」と言う在地の宗教者達によつて配られていた事はなかつたようである。
書物によると近畿地方では兵庫・西宮神社や島根・美保神社が海に関係する神社であり神事が執行され、漁師の家には「えびす」の神棚があり、えびす像が鯛を抱えている。
このえびす講は漁村だけでなく、農村の信州でも「えびす」に田の神の信仰を重ね合わせ、春から田で働き稼いでくれた神として沢山のご馳走を供え、尾鰭(おびれ)も神棚に飾られている。
このへんは能登・珠洲市の「アエノコト」に酷似している。
面白いのは信州は山国であるから鮮魚がおいそれと手に入らないので、丼鉢に水を入れ生きた鮒(ふな)を供えるところさえあるそうである。

Photo_4 役所にいた頃に一度だけ漁師の「えびす講」だからこいと呼ばれ集会所に行きお呼ばれをしたことがあつた。
コンパニオンをはべらせての賑やかな祝宴となり、コンパニオンに千円札を振りまいていた事を見た事があつた。
私の家では今日は「えびす講」だと言つて夕食に「ライスカレー」のカレー粉のきいた味で何よりのご馳走であつた。
戦中戦後直後の頃であり、当時は「カレーライス」ではなく「ライスカレー」なのである。
カレー粉の味と、肉は鶏肉か牛であったかは定かではないが肉は貴重であつたし、それと「ライスカレー」と言う名前と料理はハイカラであつた。
母の手作りの料理で、母はどこから習って来たのだろうか。

写真の説明
Photo_5 1枚目 昨日初雪の黒姫山を撮つた              2枚目 「ゆずの実」 今年は多く成った
3枚目 郷土料理「やたら」
4枚目
 「鯛釣り舞い」 西海・水保の春祭りの神楽
5枚目 「ボンカレー」女優松島容子を使っての宣伝、昭和43・1968年に大塚食品工業が発売し、国民の食生活を変えたとも言われた大ヒツト食品である
6枚目 兵庫・西宮神社の「えごす」の神札

2013/11/13

NO,46  秋祭りのころ

Photo 今日は11月13日(水)、今日もまた曇り時々雨の降る天気で4日続きの冬型気圧配置で寒い日である。
昨日の朝と昼に初雪が降り一時は地面が白色と変わったが直ぐに消えた。
駒ケ岳(1487)や黒姫山(1222)は一回目の降雪で裾野まで白くなつたが、普段であれば初冠雪があつて、それから裾野まで降るのが普通で、今年の冬は急いでいる。
ただ初雪は昨年よりも2~3日早いだけである。
東京の木枯らし1号は11日に吹いて7日も早いと言う。
10142 夏の暑い日が長く続いた分それだけ秋が短く野に咲く花も、家の周りの花も、また庭に咲く花も一緒に競い合うように咲いていた。
「美しい花は短命である」と言うが誰が言つた言葉であろうか特に今年はそのようである。
そんな事で思い出すのは小説「野菊の墓」(歌人 斉藤左千夫・明治39 1906年発表)や映画「野菊の如き君なりき」(木下恵介監督・昭和30 1955年)である。

1012 初秋から晩秋の秋の唄もまた多くあるが、「里の秋」(作詞 斉藤信夫 作曲 海沼実・昭和16 1941年12月に作られた)の旅情は昔も今も変わりがないが、ただ『「お背戸」に木の実の落ちる夜は』の「お背戸」や栗の実煮てます「いろりばた」の「いろり」は今の家には無くなつており、若い人達には実感がないだろうが我々の世代にはその実感が鮮明にあるよりも生活体験であつたからである。
今年はとりわけ果物も豊作であり、栗は早生と晩生はいつまでもイガからポツ、ポツ10152 と落下し、何回も栗ご飯を食べたり、柿も「平核無」(ひらたねなし)「通称おけさ柿」も多くなり、「吊るし柿」にもしたが、親戚にも多く配った程で処分に困った。

今日は氏子の秋祭りで11時より祭典があつた。
祭典のみで特別の祭事や行事もなくひっそりとしている。
祭神は大国主命であり、大国主命の総社は出雲大社で今年は60年の遷座祭と伊勢神宮の20年の遷座祭と重なり、幸いにも近年はパワースポットブームが女子旅で大変の賑わいであつたと聞く。
子供の頃はこの祭りにも数店の出店も来ており、幾らかであつたか小遣いを貰いオモチャの買い物をした。
今でも覚えているのはブリキの「ぽんぽん蒸気船」であつた。
111 庭の泉水に浮かべて遊ぶのであるが、直ぐに釜のハンダが取れてしまい走らなくなるメードイン ジャパンの粗雑品でよく言われた「安かろう 悪かろう」であつた。
こんな秋祭りの思い出がある。

写真の説明
1枚目 今日の雨の晴れ間に撮影した初雪の黒姫山
2枚目 のぎく 10月14日撮影
3枚目 はまぎく 10月12日の撮影
4枚目 紫色のホトトギス 10月15日撮影
5枚目 こまゆみ 11月1日の撮影

2013/11/06

No,45  文化の日

Photo 今日は11月6日(水)朝は冷え、2日続きの晴天となつた。早いものであっと言う間に11月に入つた。
明日の7日は二十四節気の「立冬」である。
10月の下旬には暖かい日が何日も出て果樹の梅や梨の木の枝を囲ったり、椿やアジサイの花木の冬囲いを何日もかけて行った。
そのあげく、つい油断をして風邪をひいてしまいのどが痛く扁桃腺がはれ直ぐに治るだろうと思っていたがなかなか治らず3連休は病院は休みであり、市販薬を買つて養生をした。

近畿地方は昨年よりも6日遅く,4日には木枯らし1号が吹いたと報道されていた。
113 頚城3山の妙高山(2454)、火打山(2462)、焼山(2400)はいつの間にか初雪が降り頂上は白くなつているのが雲間に見えている。
10月は暖かつたので初雪の降るのも遅れ、紅葉も遅れているが、この辺では紅葉の名所もなくモミジ狩りは出来ない。
妻達は10月の末に「白山スーパー林道」に出掛け、白川の土産の「トチ餅」と夕食用に富山の「鱒寿司」を買って来てくれた。

3日は「文化の日」でこの名称になり久しい。
Photo_2 「明治節」の頃から「晴れ」の得意日であり、大菊の鉢が多く観られていたが、近年はめっきりとこの「大菊」が観られなくなつた。
こうした菊作りは大方は年寄りの趣味で行われて来たが、その年寄りが多くなったが、菊を育てるには1年がかりの仕事であり、土作りからの始まりだと聞いたことがあり、稲作りと同じだなと感心して聞いた事もあつた。
そんな手間隙かけるようなものから遠ざかつたり、避猿されがちである。

先般のブログで「市展」に出品するに至るには長い間の努力や忍耐が必要だと書いたが、3日の日には当地区の公民館を会場に絵画の個展が開かれていた。
近所の友人に誘われたので見に行く気になつた。
市内に住む青年で、1967(昭和42)年からのものが40点程飾られていた。
1972(昭和47)年に「新潟県展」に出品され奨励賞をもらつた「春の詩」と言う題材である。
1132 糸魚川市内の山や川や海の風景画であれば門外漢の私達であつてもその風景画を見て良く描かれているなと直ぐに解るが、この人の絵はそうではない。
ずーと以前に「戦没画学生慰霊美術館『無言館』」(上田市)の絵を見たことがあるが、入場料を払っているにもかかわらず、こんなワカラン絵を見せるのはけしからんと言い出した客がいた。

こうした絵を描く若者が間近におられ、何かを訴え、叫んでいるのが私達にはそれが通3 じていない。
それと同じように、直ぐ近くに女性「漫画家」がおられ「糸魚川市の有名人」よりも「新潟県の有名人」としても通用しているようである。
直ぐそこの手の届く所に住んでおられるが、その手の延しようがない。
もつと私達が近ずき、延ばした手が届く所まで進まなければならない。
「文化の日」にこうした地域の文化の一端やありようを見たような気がした。
これが私の「文化の日」であつた。

1027
写真の説明
2枚目はその「県展」奨励賞の「春の詩」である。
3枚目は 「戦没画学生慰霊美術館『無言館』」のある事業のポスター
4枚目は ざくろの実
5枚目は 山野草「ホトトギス」の花
6枚目は 山野草「だいもんじそう」の花

2013/10/17

No,44  生涯学習

1014 今日は10月17日(木)、朝6時頃まで小雨が降っていたがその後上がり晴れとなつた。
昨日は大型台風26号の来襲で当市も大雨、洪水、波浪警報が出ていた。

去る12日~14日の連休に糸魚川市の9回を数える市展が開催されており、妻が長い年月習っている書道の出品を見に出掛けた。
書道39点、絵画31点、写真52点、和紙絵21点、彫塑・工芸23点の出品があつた。
この出品者の中に知る人が数人しかいないが皆な熟年者でまだ働いておられる人達である。
しかもその人達は「40の手習い」からの出発であり、よくぞここまで上達出来るものかと感心し、その長い間の学習意欲と努力に敬意を表する。

1014_2 例えば絵画の小田島さんは公民館の副主事として私と働き、私が人事異動で出た後に主になり絵画教室を取り入れてお世話をする側ら一緒に学習されたのだそうである。
毎年のようにこの市展や市文化協会フエスティバルにも出品され奨励賞や佳作に入っているが、今回は惜しくも逃がしたようである。
本当に時間をかけて学習しようとする努力があれば無からでもここまで出来るのだと感心し、何か趣味をもつ事が羨やましくなるのである。

1013 私の父は「鳶」と言う職人でした。
若い頃は東京に出て働き、結婚してからやむなく家に帰つて来たが、農家の長男でなければよかつたと言う事を何回も聞かされていた。
短気でいっこく者であり、妥協は許さなかった。
よく軍隊や職人気質の中に「早飯早糞芸のうち」と言うのがある。
作業で昼食を食べた後の休む時でも、その暇があるなら午後の段取りをしろ、とか鎌などは磨いでおけである。
こんな事は大工さん達もよく言う言葉でもある。

終戦直後に土蔵の壁の塗り替えに「左官」が何日か来ており、昼食に右膝であつたか左膝であつたかを立てて食事をとつていた事があつた。
普通であれば正座であるから何と行儀の悪い人かと思ったものだ。

Photo  こうした職人気質と言うか、謹厳実直と言うか、又質素倹約、働かざる者食うべからずの精神が家訓と言えよう。
賭け事は時間が長くなるからしてはいけない。
習い事は時間の無駄になる。

職に就き昼休みには将棋や碁を皆んなで楽しくやつているような時代であつた。
とうとうそうした趣味の一つも持たずに終わった。
もう一つに「道楽」と言うものもある。
書道を習う、絵画を習う、写真を習うは趣味であり「道楽」とは言わないのだろうか。
何だか「道楽」と言えば現代では品が悪いようにうつるが、「端唄」、「小唄」に出て来る小噺や落語は師匠は女性であるからかもしれない。
それらの「習い事」は生涯学習の範疇に入らないのだろうか。
金沢は古くから「謡」や「能」や「茶道」などは盛んであり、「タシナミ」となつている。
そうしたものが伝統文化の一つであり、生涯の学習として位置ずけがなさられているようである。

2013/10/11

NO, 43  寒露のころ

Photo 今日は10月11日、朝方小雨が降ったが直ぐに止んだ、今日も蒸し暑い日となつた。
去る8日は二十四節気の「寒露」であつた。
この頃になると朝夕は冷気が増し、草木の葉先に結んだ露にも少しばかり冷たさが感じられるようになる。
この候になると農作物の収穫作業がたけなわとなり、農家は大忙しとされているが、稲の刈取りはこの地方は殆どが終わっている。
甘藷の掘り採りは終り、今度は里芋と移って行く。
96 標高の高い所では紅葉の便りが報道されているが、ここ2~3日は高温が続いている。
去る9日は台風24号から変わった温帯低気圧に向かって暖かい南風が流れ込み日本海側を中心に気温が上がり、当市では午後1時53分に何んと35.1℃を記録した。
10月に35℃以上の猛暑日となつたのは観測史上初めてだそうである。
当市はもう一つの日本一は最低気温の最高気温が去る去る7月6日の朝5時に既に35℃に達した事である。
52 1990年8月22日にも30.8℃と最低気温の最高気温を記録している。
何か変わった事や日本一の何か変わった事をしないと当世忘れられてしまつたり、糸魚川とはどこにあるのかも覚えてもらえない。

来る14日(月・体育の日)は「鉄道の日」でもある。
子供の頃は従兄弟の家に鉄道員がいてこの記念日を祝福して毎年家族慰安会が行629 われ、金沢とか高岡だとかに行くのだと学校でよく話されていた。
この時季はその当時はまだ稲刈りが終わっておらず、そうした旅行にも出掛けるのが大変羨ましかつた。
それと当時はまだ列車の走る本数は少なかつたので上りや下りの列車が通ると、今の時刻は何時だと言い当てていた事を覚えている。
お昼などを知らせるサイレンも時計も勿論ない時代での事である。

今年は北陸本線全線が開通して100周年で各地で記念行事があるようだ。
当市は14日の日に駅前を歩行者天国とし、白嶺高校の吹奏楽部の吹奏や翡翠太鼓の披露、タレントの糸魚川ジオパーク大使の永井大さんの一日駅長で写真撮影や、握手会があつたり、近隣市町の特産物販売で、富山・朝日町や長野・大町市、小谷10089 村、北陸の駅弁などがあるが、極めつけはやはり上越三色同麺(同盟)の「謙信公義の塩ホワイト焼きそば」、「妙高赤倉温泉レット焼きそば」そして当市の「糸魚川ブラック焼きそば」が揃って出店する。
何をおいても当市の場合は人を集めるには先ず「食」でなければ集まらないと言うような雰囲気が抜け切れていない。

「上越妙高」駅と駅名が決まり、関係者は今度は早速当駅で売る駅弁の試作品を準107 備し始めているようである。
昨日は列車名が決定し発表があつた。
金沢から東京までのの停車駅の少ない「速達型」は「かがやき」、停車駅が多い「停車型」は「はくたか」と決まった。
停車駅の少ない「かがやき」はどことどこの駅に止まるのかが関心事となつている。
この列車名に「こしじ」(越路)とか「えつさ」(越佐)、「らいちょう」(雷鳥)など北陸に起因する名称が入るものと思っていたので期待外れであつ108 た。

写真の説明
1枚目は 北陸新幹線を走る列車イメージ
2枚目は 北陸本線全線開通百周年記念のプレート
3枚目は 大糸線を走る「キハ52型」
4枚目は 函館市電百周年記念「花電車」 5月30日
5枚目は 富山地鉄百周年記念「花電車」 8月9日
6枚目は 今盛りに咲く山野草「ホトトギス」 10月7日撮影
7枚目は マリーゴールド 10月8日撮影


2013/10/07

NO,42   仏の心

Photo今日は10月7日(月)朝から快晴の一日となつた。
この時季を「七十二候」では「蟄虫坏戸」(ちつちゅうを閉ざす)の候と言う。
この暑かつた夏も終わり涼しくなり、虫達が巣ごもりの支度を始める時季である。
人間にとつてはまだまだ冬の気配は遠いものであるが、虫達にはもう直ぐだと感じ蝶の幼虫は蛹になつて寒さに備え、クワガタやテントウムシは成虫のまま木の根元などで春を待つし、蜘蛛は木の葉の裏側に巣と同じ糸で卵床を作り卵塊を産み付ける。

昨日畑の草刈をしているとカマキリの巣を2個を見つけた。
早い越冬の準備である。
女郎蜘蛛の巣も各所に張りめぐらせて最後の餌を狙っていた。
Photo_2 その蜘蛛は丸々と太つていた。

この蜘蛛の巣の糸を取り払って作業を続けたが、「蜘蛛の糸」(芥川龍之介の短編小説・大正7(1918)に児童向文芸誌「赤い鳥」創刊号に発表・芥川・明治25(1892)年~昭和2(1927)年没)を思い出した。
高校の現代国語に出ていて学習した、又中学3年であつたか国語で「鼻」(大正5・1916年に「新思潮」創刊号で発表)もあつた。

Photo_3 「蜘蛛の糸」のあらすじは、
釈迦は或る時に極楽の蓮池を通して、はるか下の地獄を覗き見ると、幾人もの罪人共が苦しみもがえていたが、その中にカンダタ(犍陀多)と言う男もいた。
カンダタは生前に様々な悪事を働いた泥棒であつたが、一度だけ善行を成した事があつた。
小さな蜘蛛を踏み殺そうとしたが思い留まり、命を助けたのだ。
それを思い出した釈迦は地獄の底から極楽に導びこうとし、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。
極楽から下がる蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を伝たつて昇れば地獄から脱出出来るだろう、あわよくば極楽に行けるかも知れない」と考えた。
それで蜘蛛の糸につかまって地獄から何万里も離れた極楽を目指して上へ上へと昇り始めた。
ところが糸を伝って昇る途中でふと下を見下ろすと数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いて来ている。
このままでは糸は重さに耐え切れず、切れてしまうだろう、それを恐れたカンダタは「
この蜘蛛の糸は俺の物だ、お前達は一体誰れに聞いて上がって来た、下りろ下りろ」と喚いた。
すると次の瞬間に蜘蛛の糸がカンダタのぶら下がつている所から切れてしまい、再び地獄に堕ちていつてしまつた。
その一部始終を見ていた釈迦はカンダタの自分だけ地獄から抜け出そうとする無慈悲な心と、相応の罰として地獄に逆落としになつてしまつた姿が浅ましく思われたのか、悲しそうな顔をして蓮池から立ち去っていつた。
これがあらすじであるが、これに似た話が山形や福島・愛媛県に「地獄の人参」と言Photo_4 う昔話が伝承されていて、ストーリーは「蜘蛛の糸」に似ているとの事である。
(以上この文書は「ウイキペデイア・フリー百科辞典」を参照した)

私はこの蜘蛛やカマキリを助けようとしなかつた。
ところで我が浄土真宗の宗祖親鸞聖人は「善人なほもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人でさえ、救われる。悪人ならば、なおさらだ)と「歎異抄」(たんにしよう)で示されている。
阿弥陀仏の力に全てをお任せする心、ただただ「南無阿弥陀仏」、「南無阿弥陀仏」と唱え、「他力の本願」におすがりするのである。

写真の説明
1枚目は 10月5日に撮影の女郎蜘蛛です。
4枚目は 信州・善光寺境内に立つ親鸞聖人像である。越後に流罪された親鸞は赦免後この善光寺に暫く逗留された。

2013/10/04

NO,41  生かされて

Photo 今日は10月4日(金)、朝から快晴の兆しが見えている。朝夕はすっかり肌寒さを感じるようになり薄物から厚物に着替える準備をしている昨今です。     昨日は久し振りに半日雨が降った。
このところ毎日天気が続いていたので本当に久し振りである。
この天気続きで稲刈りが進み稲の姿がどこにも見えなくなつた。
刈取りの前半は圃場が軟らかく刈り取りに大変苦労したが、この天気がもつと早く出てく918 れていれば大助かりであつたのに、刈取つた跡の圃場は波打つたようにコンバインのキャタビラの跡が残っている。
そうした圃場があちこちに見受けられる。

こうした9月の刈取りの最中に20回の放射線治療に上越の病院に往復83kmを車で通つた。
幸いにも前記のように天気にも恵まれ海岸線は楽しいドライブでもあつた。

918 この病院の施設は数年前に放射線治療棟を竣工し、治療装置の専用機を導入されたものだそうである。
近年の地域医療、最先端技術が要求される時代であつて当然である。
一般の外来病棟のように多くの通院患者が待合室や長椅子等で待つのではなく、治療の時間を予め決めて治療するのであまり多くの患者と対面しないが、大概は高齢者の男性と中年の女性が見受けられていたがプライバシーがある程度保たれているのだと思う。
「同病相哀れむ」と言う言葉があるが、病や悩みを持つ者同士が励まし勇気ずけるなどはここでは出来ない。

こうした最先端技術が放射線と言う第3次元治療計画用コンピュウターシステムによつて一般的には頭頚部がん、肺がん、乳がん、前立腺がん、食道がん、婦人がんが効果的なのだそうである。
  「今 生かされて  生きている」
102_2 それは神や仏によつてのみ生かされているのではなく、こうした技術革新や周りの多くの人や物、環境によつても生かされているのだとも気ずかされるが、本当にそうなのだろうか。
それでも「今 生かされて 生きている」とは何んなのかと問いただしたくなる。

写真の説明
1枚目は 黒姫山と白馬連峰
2枚目は 能生海岸のトットコ岩・9月18日撮影
3枚目は 能生マリンドームに係留する旧能生水産高校の実習船「越山丸」と風車・9月18日撮影
4枚目は 彼岸花・10月2日撮影

2013/09/21

NO,40  名月を

Photo 今日は9月21日(土)朝から快晴である。
16日の台風18号の洗礼を受けてから毎日が快晴の天気が続いており、残暑の厳しいと言つてよい天気であるが朝夕はめつきりと寒くなり、秋の彼岸の中日を向かえようとして「暑さ寒さも彼岸まで」、真にその通りの気候である。
庭の彼岸花も咲き、そして白い萩も咲いており秋を演出している。

この好天のもとで3連休のコシヒカリの刈取りが最盛期を向かえている。
この天気を待っていたが、田圃は大雨の為に軟らかく、倒伏もありやり憎い刈取りで922 ある。
コンバインも年々大型化し、能率が上がるが四角は埋まり泥だらけになつており、オペレーターは鼻歌を歌つてのんびりとコンバインを走らせると言う訳には行かない。
あちこちと稲を詰まらせて立ち往生しているようである。

こうしたあわただしい農繁期の最中に名月をめでて一晩を過ごすなど悠長な気分にはなれないだろう。
 「名月をとつてくれろと泣く子かな」
これは一茶の名句である。
915 19日の「仲秋の名月」は午後6時過ぎに鉾ケ岳(1316)から大きな顔を出してくれた。
こんな月は初めてで、こんなに月は大きかつたかと思う程である。
この月を観る為に団子や芋(主に里芋)や大豆、大根などの野菜、栗や梨などの果物とススキ、萩をしつらえて祝う風習が各地にあるようである。
この風習は農家では農耕行事の一つとして結び付き収穫の感謝、収穫の儀礼で「いも名月」とも呼ばれるゆえんである。

Photo_2 この「十五夜」の夜だけ他人の畑の作物を盗んでも良いと言う風習が各地にあり、この作物は大豆に限られている地方や、「片足御免」と言つて他人の土地や敷地に片足だけ踏み込んで取る位が公認されている地方もある。
そんな事で「片足御免」(秋田県仙北郡)とか「まんだかな」(長崎五島)とか一般的には「十五夜泥棒」、「月見泥棒」とも言つている。
一方この縁側に供えた団子等を子供達が盗んで回る風習も全国にあり、これを「団子刺し」とか「団子突き」等とも呼んでおり、多く盗まれた方が縁起が良いとされる地域(愛知・三重等)もあり、近年は和製「ハロウィーン」とまで言われるようになつた。

自家用車で上越の病院に通院しているが、時間がある時には直ぐ隣の「えちご上越Photo_3 農協」の産直市場「あるるん畑」に顔を出しているが朝は10時の開店でお客様が毎日並んでいる。
大型店舗であり、さすがに多くの野菜や果物、加工食品等が並んでいた。
驚いたのは「糸魚川真白」の鉢物が3~4千円で売られている事である。
そして病院の敷地内に保育園がある事である。

2013/09/08

NO,39  手前味噌

95 今日は9月8日(日)である。
今日の天気は朝から小雨が降る薄ら寒い日であり、8月末から天候が定まらず時々雨が降って来る。
雨が欲しい時には降らず、コシヒカリの刈取り時季になり、雨で倒伏した稲が相当見受けられるし、田が柔らかくなりコンバインの刈取りに苦労し、時間がかかるであろう。
踏んだり蹴つたりで泣きたい心境であろう。
畑の方も大根や白菜等の秋野菜の播種や管理作業が出来なく相当遅れている。

Photo 昨日の7日(土)は二十四節気の「白露」であつた。
大気が冷え始め朝夕の風が肌寒さを感じるようになり、ランニングから半袖のシャツに替えた。

「白露」とは草木の葉先に白い露を発見する事が出来、まるで透明の宝石のようであり秋の深まつて行く事が感じられると言われている。
そして明日の9日は「重陽の節句」である。
古くは中国では奇数が良い数字であり、3月3日の「雛な祭り」、5月5日は「端午の節句」、7月7日は「七夕」とこの中で一番大きな9が重なるこのPhoto_2 日は特に重要視され盛大にお祝いをした。
これが日本に伝わり、平安時代の宮中では邪気を祓うとされ菊の酒を飲んだり、菊の品評会である「菊合わせ」が行われたと言われている。
この重陽の節句を「菊の節句」や「栗の節句」とも言われる。
菊の花びらを酒に浮かべて飲むなど宮中や雅の人などが優雅な祝いをしていた。

本県では菊と言えば「もつてのほか」、「おもいのほか」、「かきのもと」と、その地域での呼び名が変わる食用菊であり、旧白根市(新潟市東区)方面が主産地であり、酢の物等にして食しているが、又この花びらを酒に浮かべて飲めば雅の気分になるだろう。

「栗の節句」の方も、早生種の栗が採れ始め、近所の友人が20粒程持つて来てくれた。
早速今日の朝食に「栗ご飯」を炊いてもらつた。
その友人は「重陽の節句」、「栗の節句」を知ってくれたかは定かではないが「栗ご飯」を食して不老長寿をまっとう出来るように祝う膳となつた。

94 先週の4日間は上越の病院に入院し治療を開始した。
今週からは通院に切り替えて治療する予定であるが、副作用が出れば再入院になる。
どこの病院に入院してもよく言われるのが「病院食」と言われるものがある。
「味気ない」、「美味しくない」である。
「歯ごたえのあるものを避け、味付けが薄い、香辛料などの刺激物を控える、更に調理や配膳に時間がかかり、口に入る頃には冷たかつたり、冷めたりで味が損なわれている事が多い」などと言わ96 れている。
10日間程の献立メニュー表が貼られており一日1700Kcal摂取が取られてる。
料理の特徴は野菜中心であり、中には人参や大根が必ずのように使われており全てのものが地元産であり「地産地消」である。
とりわけご飯の美味しさは3度に3度共であり、有り難たかつた。
それに反し、味噌汁は私の口には馴染めず閉口した。
「和食の主役は味噌にあり」だと言われており、私達は子供の頃より豆味噌を食して来たが、名古屋方面の「赤味噌」、「八丁味噌」、「赤だし」、九州地方の「麦味噌」、「信州味噌」に代表される「米味噌」とあり、その地方の気候風土により醸成された文化であり、「俺れんちのものが一番」だと自慢する。これが「手前味噌」であり「病院食」の味噌もそうしたものに改善して欲しいものである。
「食はどこどこにあり」はあらゆる地方や国の食文化を自慢して言っているもので、
その代表的なものが「食はパリにあり」とか、「食は広州にあり」である。
「食はなになに病院にあり」と言える日が待ちどうしい。
こう言う事も「手前味噌」と言うのだろうか。

写真の説明
1枚目は 病院の写真
2枚目は 食用菊の畑
3枚目は 栗ご飯
4枚目は 病院食・9月4日の昼食
5枚目は 同・9月6日の朝食

2013/09/01

NO,38  稲は黄金の花が咲く

827 今日は9月1日(日)、月が替わり「長月」、早くも9月に入つた。
ここ2~3日は天候が定まらず大雨が時々降っている。
この1日は「雑節」の「二百十日」である。
「立春の日より数えて二百十日であり、台風襲来の季節になり稲の開花や倒伏を安じ百姓衆の厄日」である。
当大和川の盆踊り唄に
 ♪ 今年豊年穂に穂が下がる 枡は取りぬけ箕ではかる
   二百十日の風さえ吹かにや 稲にや黄金の花が咲く
と唄つている。
82030 その当「村」では8月7日に「風祭り」を執行している。
鎮守の森の松の木の一番高い木の頂上に御幣を結わえつける。
神様はそれを目安にこの里に降臨され、風を鎮め、五穀豊穣をもたらせてくれる。
この祭りは、日こそ違うが、この地域では多くの神社で執行されている。

Photo 風を鎮める祭りと言えば年毎に有名になつている、元禄15(1702)年以来と言われる「越中八尾のおわら風の盆」であろう。
夕方ともなれば胡弓の音や三味線の調べが哀愁をおび幻想のなおわらの世界に酔いしれて行く。
とうとうこの祭りを見学することが出来なかつたが、前夜祭はなんと8月20日から30日まで続き、本番は今日から3日までも続く、この間の人出は20万人以上を予想しているそうである。

Photo_2 そして今日は当市根知谷の山寺・日吉神社の秋季礼祭であり、国の重要無形民俗文化財に指定(昭和55・1980年1月28日)されている「根知山寺の延年おててこ舞い」が午後から行われる。
神事の後には稚児行列、舞楽の奉納と続き11曲の「おててこ舞い」が奉納される。
この日の日吉神社の境内は桟敷を作り、多くの人で埋まる。
普段は山間部の過疎地で年毎に人口が減り、稚児の舞は近年は女の子も入るなど、小さな集落で大きな伝統文化を継続するにはなみなみならぬ努力が必要である。
そうした努力こそが黄金の花となり結実する。

写真の説明
1枚目は コシヒカリの稔り 8月27日の撮影
2枚目は おわら風の盆 前夜祭のポスター
3枚目は 山寺のおててこ舞い
4枚目は 同「鉾の舞い」

2013/08/24

NO,37   処暑のころ

今日は8月24日(土)朝から曇りで時々小雨が降ったり
時々日も出たりする天気であつた。
Photo
昨日は一日中雨が降り、大雨警報と洪水警報が出ていて17日間も続いた真夏も一休みとなつた。
そんな事で昨日は涼しさよりも寒い位であつた。
「暦」では今日は二十四節気の「処暑」であり、「七十二候」の「初候」の「綿のはなしべく開く」(綿柎開)である。
綿の実を包んでいたガクがはじけて中から綿毛をまとつた種子が飛び出す頃なのだそうです。
この地域では「綿」などは栽培した事が無く知らない人の方が多いであろう。

「処暑」とは暑さが和らくと言う意味だそうで、日中はまだまだ暑い日が続くが、夜になると虫の声が響き、秋の気配が色濃くなり始める。
夏の終わりを迎え、少しばかり「寂しさ」さえ感じる時季でもある。

Photo_2 確かにこの時季になると、昔の青年団の頃の若い時でも真夏に県青年大会や夏期研究集会等の活動で飛び回り多くの青年男女との交流があつたが、これらの行事が終り、秋の収穫が終る間の一時期ではあるがその間には皆なと会えないと言うような寂しさを覚える事があつた。
それと賑わつていた浦の浜辺もこの時期になると人一人もいなくなり、今は「夏草や兵達が夢の跡」の静けさが寂しさになる。
9月も10日を過ぎれば稲の収穫が始まり重労働の作業が続くが、その間までは仕事らしい仕事もなく、毎日1回や2回も圃場に行き、稲の登熟ぐわいを見て、何時になれば刈取りが出来るかと思案し、無駄の事だと思ってもついに足が向いてしまう。
何かしないと気が休まらず寂しさからの逃避でもある。
稲作を放棄してから2年目、そうした作業も無くなり季節の寂しさがまたよみ返つて来る。

今日は又、「地蔵盆」である。
地蔵尊は各地の里山や道辻にたた住んでいるものから広い屋敷内に祀られているものもあり、身近な存在でもある。
Photo_3 大和川と早川との境に立つ六地蔵は27日の諏訪神社祭の夜の仮装盆踊りに若い娘となつて踊りに来たり、貧しい老夫婦の家に大晦日に笠を貰ったお礼にと金銀を施したと言う「笠地蔵」の民話もある。
新町(しんまち・寺町区)の地蔵も梶屋敷の地蔵も海辺に近く、砂原から掘り出されたものだと言われている。
寺町区では信者が集まり供養祭が行われ、昔は子供相撲が行われ、夜は盆踊りもあつた。

昨年の晩秋に金沢に旅行にいつたが、金沢一の繁華街の香林坊に「香林坊地蔵Photo_4 尊」を見かけた、この地蔵尊は、比叡山の僧であつた香林坊が、薬種商の養子となり夢枕の地蔵尊のお告げで前田利家の眼病を治し、以後繁栄した事に由来しており、香林坊の地名にもなつたり、地蔵尊は寛永の大火の時に火止めとなつたと言われ、「火伏せ」の地蔵尊としても知られているそうである。
地蔵盆の日であり、そんな事を思い出した。

里山はもう初秋である、萩やススキも見られるようになつた。

写真は、1枚目は金沢・香林坊に鎮座する「香林坊地蔵尊」である。
2枚目は梶屋敷の地蔵尊である。

2013/08/20

NO,36  去り行く夏

714_2 今日は8月20日(火)、早朝3時から降り出した大雨は一日中時々降り、畑の農作物は恵みの雨となつた。
この雨は17日振りの降雨でありもつと早い時期に欲しかった。
この所朝夕の内早朝だけはすつかり涼しくなり、畑仕事は早朝に限られていた。
「暦」では「立秋」(8月7日)の末候「濃霧昇降す」(七十二候の第39候)で「残暑が厳しい時候だが、朝夕の空気はCx5 ひんやりとしたものになつて来る。
早朝は森や水辺などには白い霧が立ちこめる様子が見られる。」とされている。
この時季に鳴く「カナカナ」のヒグラシの声もまだ聞こえて来ていない。
夜中に鳴く「コオロギ」や「まつむし」などの虫の声も今年は特に少ないようである。
それと「ミミズ」が夜の内に路上に這い出し昼の暑さで多く焼けて死ぬ現象は子供の頃から見て来たが、今年はこれも特にその数が少ないよPhoto うである。

来る23日(金)は二十四節気の「処暑」であり、ようやく暑さも収まつて来たと言う意味だそうである。
浦の海水浴場も18日の日曜日を最後に夕方には店じまいをしていた。
日曜日にも関わらず人出も少なく、駐車場の松本や長野、諏訪等のナンバーの車が10台位しか止まっていなかつた。
暑い日が何日も続いたがその割りに人出が少なく短い夏であつた。

お盆の3ケ日も特別の行事があつた訳ではないが、あわただしい内に終わった。
地区内をお墓参りや歩いて回ると、各家には自家用車の長岡ナンバーの外に関東方面の県外ナンバーの足立、品川、練馬、八王子等のナンバーが多く見られ、中には早速に「ご当地ナンバー」の「富士山」の車も見受けられた。

4 まだ自家用車を持つなどは夢の夢、高嶺の花の時代、昭和30年後半、40年前半の頃は雑誌「月刊自家用車」(内外出版社)を買って楽しむ程度であつた。
この頃のお盆の帰省に関東方面に就職した青年達は「品川」ナンバーとか、何々ナンバーの新車で草深い山村にまで乗り付けていた。
そうした自家用車を買ってお盆の帰省には何時は乗り回す事を目標にてモツコになつて働いたのかも知れない。
4_2 努力さえすれば誰でも買える時代にもなつていたのかも知れなかつた。
地元に残り百姓をしていた青年は毎日をもんもんとしていてそれが羨しかつた。
村の青年団に入り動き出した「歌声運動」や「フオークダンス」に興じたりし、それが「読書会」や「話し合い」の学習活動に変わつていつた。
そうした活動は魚沼の薮神青年の「出稼ぎの歌」の「静かなる人間革命」と題し、東京の「日本青年館」(財団法人・神宮外苑)に結集する活動も始まつたが、そうした内で経済成長と共に農村から青年の姿が消えていつた。

都会に出ていつた青年も虚勢を張つて帰省にはレンタカーや友人から借りた車で乗りつけなければならなくなつたと言う事も話題になつていた。
それからもう40年も50余年、もう誰でも買える時代となつた。
無理をしないで帰省し、日々変わり行く郷里をどのように見て帰られたのであろうか。
これも「去り行く夏」でもある。

里山には早くも尾花や萩の花が咲き初秋を向かえた。

写真の説明
1枚目は 田伏の海岸 7月14日撮影
2枚目は マツダ CX-5 日本カー・オブ・ザ・イヤ2012大賞の受賞車
3枚目は トヨタクラウンの新型発表車
4・5枚目は 昭和33.1958年の8月23日~25日の2泊3日で開いた「糸魚川市連合青年団の第4回夏期青年研集会兼大和川連合青年団結成5周年記念の行事風景、「学習する大和川」を魅せしめた・大和川中学校で。

2013/08/13

NO,35   お盆の入り

Photo 今日は8月13日(火)お盆の入りである。
毎日30度を超す真夏の気温であり、クーラーが欠かせない生活となつた。

5年ほど前の13日には日蓮聖人の聖地、身延山久遠寺の門前町の旅館に宿泊した事がある。
夕方に着いたが何軒かの家の前で「迎い火」がたかれていた。
Photo_2 当地方ではそんな風習がなく始めて見る光景である。
ご先祖様が迷わずに家に入れるようにとの迎え火なのである。
燃やす材料は麻ガラ(麻の茎の皮を剥いたもの)である。
そして多くの家から「団扇太鼓」の音がドンツク、ドンツクと響いていた。
当地区ではこの団扇太鼓の音を「だんだん良くなる法華の太鼓」と良くいつていたものである。
そして日蓮宗や禅宗(曹洞宗)では「精霊馬」を仏壇にお供えするならわしである。
810 胡瓜の馬とナスの牛を作る、馬は早くご先祖様が来てくださるように、牛はゆっくりとあの世に帰つてもらうためのものだと聞かされている。
当家は「門徒」(浄土真宗)であり、そうした風習はない。

そしてお盆の郷土料理といえば「笹ずし」は欠かせないが、海辺であるから「ニシンの昆布巻」や「えご」、「もぞくの酢の味噌あえ」が定番である。
身延山の旅館の夕食の料理には特別の郷土料理やお盆の料理と言うものがあつた810_2 かは覚えがないが、「豆腐」や「湯葉」、「くるみの和え物」等の精進料理もあつたのだと思われる。
宿坊も何軒もあるようでそこに投宿すればお盆の精進料理に出会えたかも知れない。

ここ2~3日前から朝はすつかり涼しくなり、早朝の1時間位は畑の水くれ(灌水)や野菜の収穫を行っている人が多く見られる。
昔は野菜の産地と言えば今井(西中、岩木集落等)や大野地区、大和川の竹ケ花や810_3 厚田集落で、このお盆に向けて「なす」、「トマト」、「トウモロコシ」等を作りお盆の換金作物として精を出していたものであるが、そうした人達も今は歳を取り自家用のみとなり、お盆の作業から開放されている。

昨日の夕方近くに農家が野菜等を持ち寄つて直売する農協の施設「食彩館」に立寄つたが大盛況であつた。
中でもお盆の花として「ゆり」や「トルコ桔梗」の花も多く出ていたが、一束400円の「アスター」(きく科)が一番よく売れていたし、多く並んでい810_4 た。
昔は「盆花」と言えば「みそはぎ」(みそはぎ科)であつたが近年は人気がなく「アスター」にその座を奪われている。

お盆で帰省の人も多く見受けられるが、お盆の特別の行事もなく、15日の夜の盆踊り位である。
海水浴場を覗いて見ると車の台数は20台位であり、泳いでいる人も少なかつた。
去る11日の日曜日が今年の最高の人出となり、早くから真夏や猛暑日が出たが泳ぎにくる人数は少なく浜茶屋は儲けがないとぼやいている。

今晩暗くなつてから共同墓地にお参りするが、本来ならば急死された甲府のお父さんの新盆と娘の墓参りをしなければならないところであるが健康を害しているので非礼ながら我がままを通させてもらつた。

写真の説明
1枚目は 身延山久遠寺の山門
2枚目は 精進料理の一例
3枚目から6枚目は「アスター」で6種類の色違いのものを厚田の女性部の皆さんが栽培された、休耕田の活用である。約10aの栽培でこの真夏の気温で水くれが大変である。

2013/08/05

NO,34  秋立ちぬ

842 今日は8月5日(月)くもり後段々と晴れとなり暑くなる。
7月上中旬は晴れの日が多く早くから猛暑日が続いたが下旬に入り夕立があつたりで不安定な天候が続き8月に入つた。
3日には待ち続けていた梅雨も昨年より8日、平年より10日も遅く明けた。
この時季が夏本番で全国で伝統的な祭りや民俗行事、まちおこしや記念行事が行われたり計画がなされている。

2 当市も市制誕生を記念して市民憲章の制定と「おまんた祭り」を実施して来た。
何か新しい事を始めようとすると、そこには波風が立つものであるが、行政が取り組むメンツもあり市長が全職員に活を入れ、特に地域の第一線に立つ公民館主事には名指しの指示まであつた。
そもそも地区や地域には伝統行事や祭りがあり、それと重なつたり、準備期間がありそうした中での「おまんた祭り」の取り組みには多くの無理があつた。

そんな「おまんた祭り」(第38回)は一昨日の3日の土曜日の1日のみの行事となり、唯一のメーンの「市民流し」が夜に行われた。
昼のみの限られた時間に糸魚川駅前広場で「神輿展示」が今年もあり、日中の暑い中を体が不安なので家内を同伴して見にいつて来た。
84 残念ながら展示の数は昨年よりも少なくその意義が半減した。
人を集めるには「餌」が必要のように、当市では特に「食べ物」の行事は本当に多く集まるが高等向けとなると激減する。

丁度この時期に姫川港開港40周年で、港には航海訓練所の訓練帆船「日本丸」(2570t)が寄港し、3日は「セイルドリル」(帆を張る訓練)が行われ、4日には船内一般公開、6日は「登檣礼」(とうしょう83 れい)で全員がマストに登り整列し三度の「ごきげんよう」と歓呼し離岸する。
そんな事で4日の夕方に船だけを見に車を走らせた。

こうして夏の行事も一つ一つ終り、初秋に向かって行く。
7日は「立秋」である。
今年の夏はセミの鳴く声も、虫の声もとりわけ少ないように感じられるが、虫の声はこれからなのだろうか。
花の方は夏の象徴である「さるすべり」や「ムクゲ」、「芙蓉」、「ほうせんか」、「朝顔」83_2 など多くの花木が家の周りに咲き乱れ花木園を定しているが、これらも一日一日と初秋のたたずまいに移つて行くのだろう。
その内に秋の涼やかな風も吹いて来るだろう。
それまでもう少し頑張つて健康に留意しなければならない。

写真の説明
1枚目は 姫川港に接岸中の「日本丸」 4日に撮影
2枚目は 糸魚川大町の八坂神社の神輿 3日撮影
3枚目は ねむの木の変種で名前をしらない 3日撮影
4枚目は さるすべり(百日紅)の花で 3日撮影
5枚目は ムクゲの花 3日撮影

2013/08/02

NO,33   「有難う」

Photo 今日は8月2日(金)「七十二候」では「大暑」の「末候」で「大雨が時々降る」とされている。
その通りでここ一週間程糸魚川に時々大雨警報が出ていたようである。
今日も時々雨が思い出したようにして降って来たり日も出たりで、この地区ではよく「気違い天気」だねーと年寄りが言つていたものである。

この時季、早生のモチ稲は穂が揃つたり、コシヒカリも出穂が始る大切な時季であ82 り、早く梅雨が上がってくれないと今年の作柄に大打撃を与えてしまう。
稲作農家は祈るような気持ちでいるだろう。
そう言えば来る7日(水)は氏子の神社は「風祭り」で夕方に執行される。
大概この日までには梅雨が上がつており、昔は大和川のこの浜で揚浜式製塩が盛んに行われる大切な時季でもあつた。

昨日退院したが10日間入院し「闘病」生活を送った。
716 声門を痛め声が出なくなつた。
こんな事は、同級会等で酒を呑み大声でシャベリ続けると明朝の挨拶も出来なくなる事が度々ではあるが昼前には治つていた。

2年前にも同じ病院に入院していたので勝手はほぼ解るのであつたが、今回も眼科手術の人もいる病棟で4人の大部屋である。
相変わらず眼科手術の人は手術が終れば元気であり朝早くから大声で談笑したり、テレビのイヤホン無で大きな声で見ていたりで「同病相哀れむ」でも戴けない。
この10日間の間に2人の患者が退院して入れ替わつたり、又同じ退院の日には私と3人が退院した。
同年輩の人や30代や40年代の人が同部屋であつた。

以前と同じように看護師さんは若い20代か30代の人で毎日担当が替わり、夜勤の人も入れ替わる。名前を覚えてもらう為にベツトの処に名前の表示する。
医師不足、看護師不足と言われているが若い看護師はこまめに看護に飛び廻っている。
今回特に感じた事は何をするにも「何々をやらせてもらいます」、「有難うございました」、と「患者の本人確認」である。
若い患者の中には「本人確認」は当然本人なんだから再三する必要がないと思つているのか、わずらわしいのか返事をしない事もあるようだし、看護師が仕事ではあるが、処置が終るとやらせてもらつて「有難う」と必ずお礼を言つている。
このセリフは患者の方がいわねばならないセリフであるが患者は感謝をしていない。
そうした事の大切差の教育が看護師に仕込まれているのだろうと思った。
「医者の仁術」と「医者の算術」とがあるが、地域医療とか、拠点病院とか言われて久しいが、病院の運営は益々むつかしくなつて来る。
本当に「有難う」である。
快適な住環境であり、もう2~3日おりたかつたのであるが追い出されてしまつた。
皆がが本当に「有難う」で有りたいものである。

2013/07/15

NO,32  海の日

Photo 今日は7月15日(月)、国民の祝日「海の日」である。
午前中は曇りであつたが昼過ぎから晴天となつた。
今日の「海の日」は色々な経過をたどつて平成15年から7月の第3月曜日となつたが、そもそもその由来は明治天皇が近代日本の改革を断行し、全国を巡幸され、明治9(1876)年に50日をかけて東北地方を巡幸し、始めて船に乗船し、7月20日に青森から函館を経由し横浜に到着された日である。
この日を長く記念して「海の記念日」とされて来たが平成7年の法改正で翌年の8年から「海の日」となつた。
日本は四方を海に囲まれた海洋国家であり、海なくして日本の繁栄はありえない、「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日」となつた。
しかしながらそうした理由、由来は遠のき、ただ一日休日が増えたとか、連休が増えた位にしか思われていないのではないだろうか。

714 子供の頃は浜辺の小中学校であるが、学校行事としての「海の記念日」は特別になかつたようだ。
高校の農業高校にはまだプールはなく学校前の矢代川と高田公園の堀で何回か泳いだが、「海の記念日」には全校生徒が直江津の郷津の海に行き泳ぐ事が恒例になつていた。
収穫したばかりのトマトや胡瓜を海に投げて競いあうなどは農学校らしい。

昨日の14日は「おてんのさん」の上がる日と、地区の「七夕まつり」の順延となつた日Photo_2 であり、午前は時折小雨も降ったが昼前から晴れとなり、「七夕まつり」の屋形船等の準備をし、4時過ぎから ♪「お七夕さまいの また来年ございの」と唄つて廻つている最中に5時頃に急に暗くなり大雨となつた。
幼児にはお母さん方がついていたが大騒ぎとなつた事だろう。
田伏の祇園も5時過ぎには「お走り」と「おねり」が行われる予定であつたが、この急な大雨で本来の「お走り」でなく大走りで神輿を上げたであろう。
笛や太鼓の人も神輿担ぎの人も又多くの参拝者も雨具の用意もなくビシヨ濡れで家に駆け込んだであろう。
その雨も30分位で上がつたが後の祭りとなつた。

浦の海の方も来る21日(日)が海開きで駐車場や監視櫓の準備も出来ており、3連休で松本や長野ナンバーの車が数台見えていたが今日も又不安定の天気で遠くから来た人達には気の毒な位である。

梶屋敷の浜には「福寿海」の碑がある。
「福寿海」の次に「無量」の文字があるのではないかと思われるが埋つており誰も知らないし、誰もいつ頃に設置されたかも知られていない。
「観音経」の中に「福寿海無量」の一句がある。
これを一口で言えば「福徳が海のように広大に集まる」との事であり、掛け軸にもなつてる。
こうした海による功徳からして、梶屋敷には回船業の家が数軒あり、「はがせ船」(千石船)も6艘もあり、西は備後尾道(広島)方面まで行き、財をなしたのであろう。
そう言う人達が建立したのではないだろうか。
しかし、海による恩恵ばかりではなかつた。
川の氾濫での「川流れ」の「梶屋敷川出りや味噌桶け浮いて出る、爺さ婆さ泣いて出る」の災害や、大波も文化の時代(1800代)には数回も人家まで壊れる大被害をうけPhoto_3 ているし、近年では昭和の台湾坊主の大波で殆どの砂浜をもつていつた。
その被害額は測り知れない。
それには姫川港の沖防による侵食が起因すると言う人も多くいた。

この姫川港が開港し満40年にもなり、この港の功績も又大である。
「第19回ひめかわポートフェスティバル」のイベントは8月に入り3日(土)から6日の間に練習帆船「日本丸」が寄港したり、能生・海洋高校の実習船「くびき」で船上釣り体験が行われる事になつている。

写真の説明
1枚目 梶屋敷の浜に立つ「福寿海」の碑
2枚目 田伏の海岸、大和川と竹ケ花にはこうした浜は無い。
     もうじきこの海岸も海水浴客で賑わうであろう、昨日の撮影
3枚目 「日本丸」名古屋港での写真、
4枚目 海洋高校の実習船「くびき」、普段は能生港に係留されている。

2013/07/07

NO,31   祇園祭

Photo_2今日は7月7日(日)、二十四節気の「小暑」であり、この頃には梅雨も明け、本格的な夏となり、太陽が強力に照りつけるとある。
今年は既に早くから猛暑の日が続き、毎日のように熱中症の人が病院に運ばれていると報道がある。
当市も昨日の早朝から気温が上がり、35度以上となり日本一の最高気温を記録した。
この「小暑」に逢わせるように関東甲信地区が昨日梅雨が上がり、平年より15日、昨年よりも19日も早いそうである。
当地区も大雨が時々思い出したように降り、梅雨明けも時間の問題かと思われる。

こうした天候の中で田伏の祇園祭で10時頃に丁度雨も止んでいる時間に「おてんのさん」(お天王様)が通つていつた。
子供の頃からそう呼ばれているが、神輿の巡行の事である。
太鼓とほら貝の音が聞こえて来ると「奥家」の人も「おおかいど」(大開道・旧8号線)に急いで出てお参りする。
神輿が止まり祝詞奏上の儀が執行される家は昔から決まっていて、10ケ所位であ251 る。
昔の金比羅宮の関係者の家や「主達」の家等である。
大和川を通り抜けて竹ケ花まで巡行するが、今までも「村」の区長や惣代がお迎えに出て見送りをするならわしとなつている。

神輿の鳳凰は稲の苗を咥えており、これは五穀豊穣を祈念する象徴である。
この祀りの祭神である素盞鳴命神社のお札が氏子に配られる。
このお札は疫病退散、家内安全、五穀豊穣のお札であるが、このお札と一緒に「蘇民将来」のお札も配られるのが一般化している。
25 なおこの祇園祭と言えば京都・八坂神社が有名であるが、この地区では隣村の浦本や糸魚川、そして下早川の新町でも日にちが異なるが行われる。
この2枚のお札が配られる事や、今日の夕方には「お旅所」がもうけられここに1週間留まり14日(日)には「お上がり」になられる。

この頃になると梅雨も上がり、稲も今年は猛暑で数日は進んでいると言われており、早生種はじきに穂を出すであろう。
255 そしてホタルは祇園が上がればそれについて上がるとよく子供の頃に聞かされていた。

そして今日は「七夕」、有名な「湘南のたなばた」、浅草は「ほおずき市」、入谷鬼子母神では「朝顔市」と毎年十数万人の人達が押しかけ功徳を受けるのだそうです。
この地区では端午の節句と同じ五節句の一つの七夕で1ケ月遅れの七夕が多いようだ。
当大和川は今日であるが天候が定まらず早々と中止の放送があつたが、夕方には子供神輿と屋形舟が地区内を廻る事になつていた。
この行事を心待ちにしていた子供やお母さん方は残念であつた。

この写真は今日撮影したものです。

2013/07/05

NO,30  思い出のギオン

Photo 今日は7月5日(金)午前中は雨降りで蒸し暑い典型的な梅雨景色で、昼過ぎには上がり曇りとなつた。
午前中には歯科医にかかつたり、外科外来にかかつたりで昼食は1時過ぎになつた。
こうした蒸し暑い日には昼食は冷そうめんがご馳走である。
ツブの2~3つぶとトマトがあればそれで良いが、直ぐに腹がすいて来る。

今度の日曜日は二十四節気の「小暑」であり、そろそろ梅雨が明け本格的な夏となる。
七夕でもあるがこの地区は田伏の祇園祭である。
今年は丁度日曜日と重なり、本来の祇園の7日と14日であり、天気予報も晴れマークが出ている。
子供の頃はこの日を一過も前から楽しみにしており、ペタやハナの面を厚紙で作り、22711 祇園ごつこをしたものである。
ペタの面は通称の「お多福」であるから簡単であるが、ハナは天狗面であり、突き出た鼻を付けなければならないから面倒であつた。
鶏爺も厚紙で作ったがどれ程の出来栄えであつたかはあまり覚えがない。

自治会の隣組の回覧板には神輿巡行の時刻を知らせるものであつたが、もう一通711 の文書の中には「鶏爺会」が中心となり神輿の担方や祇園祭の意義等を学習し、親睦を深め、事故のない楽しい祭りにする意気込みを感じとつた。
昔から田伏は漁師村であり、漁師の若者が多くいて、太平洋戦争中も徴兵に多く執られたがそれでも継続し活き上がる祇園が出来ていた。
今はそうした漁師村も漁師の若者は数える程となり、奴奈川神社付近の県営や市営の団地、そして山間部から移住した若者の「まち」となり、梶屋敷や大和川の人達の助けを受けて盛り上がつている現状である。

せっかく回覧板が回るのであるからその中に「素盞鳴命」のお札と「蘇民将来孫門也」のお札の謂われ等を表記し代金はいくらであるから多くの方の協力を求めるべきである。
隣組の組長がいきなりお札を納めて下さいと言つても無理があり、その件数が毎年減っていると嘆いている。

長く続いた伝統的民俗行事をどう継続し、子供達の思い出として残る行事の一つとなつて欲しいものでる。
天候に恵まれ晴ればれとした祇園祭となる事を願っている。

2013/07/01

nO,29  半夏生

71 今日は7月1日(月)朝から快晴となつている。
去る6月19日の大雨以来雨らしい雨が降っておらず空梅雨である。
今日から新しい月「文月」で今年の折り返しが始まった。
この半年は事故もなく災難もなく無事に越す事が出来た。
昨日の30日は夕方の5時から氏子の神社の「六月の大祓祭」が執行された。
2 各地の神社では「夏越の祓」(なつごしのはらい)と言い半年に一度の大祓であり、半年の穢れを祓い、残りの半年間を無事に過ごせるようにと祈るものである。
近年は多くの神社で「茅の輪」(ちのわ)を設置するようになり、半年で新しいものに取変えられているようである。

「七十二気候」では今日までは「菖蒲花咲く」で明日から6日までは「半夏生」(はんげしょう)である。
この日や時期には京都では「水無月」(みなづき)と言う和菓子を食べる習慣が古くかPhoto らあつたり、福井では「鯖」(さば)、奈良では小麦の餅、関西地方は広く「蛸」(たこ)と言うように各地域でさまざまなものを食べる風習があり「蛸」は「蛸の足のように稲がしっかりと根を張るように」と夫々に謂れがある。
ところで、穀倉地帯の言われる北陸や東北地方であるが、そうした稲作地帯の豊作や防災に関する食べ物があるのだろうか。
先般のブログNO,24号「節句」で田植上がりの「サナブリ」には新潟・蒲原地域では「笹だんご」を作り食したり、世話になつた人に配る習慣があると書いた通りである。
土用の丑の日にはウナギの蒲焼きは全国的であるが、当地域では暑い夏を越すために昔は「塩くじら」の脂身の味噌汁を何回も食べた記憶がある。

こうした季節季節の料理や食べ物の中にはお祭りと関係するものもあり、当地区の田伏の祇園祭には「あやめ団子」があり、市内寺町の金毘71_2 羅祭の宵祭りから「うぐいす餅」が売り出され、それが待ち遠しかつた。
それがどう言う理由からなのかは知りませんが「あやめ団子」は祇園の日だけの限定で、アヤメやショウブの咲く時期であり当を得ている。
「うぐいす餅」は子供の頃は金毘羅祭りの頃でないと売り出されなかつたが今は年中あり「和菓子」から季節感がなくなつているように思われる。
和菓子の文化や伝統・歴史等も大切にしたいものである。

今日の誕生日の花は「半夏生」(はんげしょう)(ドクダミ科)である。
家の鉢の半夏生はまだ咲き出していない。

写真の説明
1枚目は 国造神社で外回りの改修を「大祓い祭」までに間にあわせた。
2枚目は 和菓子「水無月」であるが、私は食したことがない。
3枚目は 半夏生の花
4枚目は くちなしの花、蕾が沢山あり咲くのが楽しみである。

2013/06/22

NO,28  梅雨のころ

620 今日は6月22日(土)朝から時々小雨が降つていたが昼頃から止む梅雨の典型的な天気である。
昨日は二十四節気の夏至であつた。
朝から梅雨期特有な天気で雨が降るのかと思っていたがどうやら夕方までもち夜中降った。
19日の日は梅雨に入つたと発表が有った途端に大雨に見舞われた。
水害や崖崩れ等が発生しなかつたようだが、国道8号線は連続雨量が120mmを超えたと言つて通行止め、2 国道148号も北陸高速道も一時は止まつたり、又大糸線も糸魚川~頚城大野の間も止まった。
風が吹くと直ぐに止まる北陸線は今回は止まらず陸の孤島だけは免れた覚えがする。

家でも冬の間に雪で瓦が数枚緩みそこからトイレに雨漏りがする被害にあったり、水田に造成した田を畑に転作した畑に水が一杯に溜まPhoto り畑の中央に置いた管理機(小型耕運機)を丘に揚げるなどのとんだ大騒ぎの一日となつた。
畑作の恵みの雨どころでなく翌日の雨上がりに見に行くと何もなかつたような顔をしていた。

夏至は夏季の真ん中で一年で昼が一番長く、夜が一番短くなる時で冬至の逆になるが、冬至の日暮れの早いのは色々な面で障害が出620_2 たり堪えるが、夏至は昼が長いのが農作業には助かる。
職人を使うにはこの時期だとよく年寄りが言つていた事を思い出す。
天気の良い日には手一杯働いているので夕食は7時過ぎを廻つている。
そんな事で昔は夜の会議はこの時期は7時半と決まっており、それでもどこどこ時間があつて定刻が守られていなかつたが、今はいつの間にか夜の会議と言えば7時と変わり、時刻も厳守されるようになつている。

この時期、雨の晴れ間を見て梅もぎをした。植栽から5年目位でこの年始めて収穫した。5本であるからそんなに多く採れたわけではないが、その半分を弟の家に届け、1瓶の梅酒を作った。
この時期の歳時記は梅酒作りやラッキョ漬けが定番であろう。
昔のように大家族でなくなりもう20年も前位から手間の係る栽培や加工で止めてしまつている。
砂丘地帯の福井や鳥取の主産地では今が一番忙しいと聞いている。
そうして雨降りの蒸し暑い鬱陶しいのが好きなのか栗の木の花が咲く。
花は長く毛虫のようなグロテスクのものであるが、花粉は又異様な臭いを発散し好きとは言われない。
ナラの樹木の花粉は風媒花であるが、栗の花の形態は風媒花でなく虫媒花なのである。
Photo_2 特有の臭いで昆虫を呼び寄せるためこの時期の開花は他の樹木よりも遅いのも昆虫類の活動が活発な時期を待つていたのである。
栗林や栗の植えた畑の近くに最近は住宅やアパートが建つたりでそこに住む住民は四六時中そこにいるのだから多分この時期はどこかえ引越しするか逃げたい位だろうと思う。
どこえ行つても全国広く臭つており我慢するしかない。

ただこの雨の中で咲くアジサイとハナショウブ、暗がりに舞う光のホタルには癒される。
早いものでもう半年が過ぎ「夏越の祓」の30日をもう直ぐ迎える。

写真の説明
1枚目は 栗の花
2枚目は アジサイ
3枚目は ハナショウブ
4枚目は 八重のドクダミ
5枚目は ラッキョ

2013/06/19

NO,27  花に囲まれて

6 今日は6月19日(水)朝から雨降りで当市に大雨洪水警報が出る天候となり欲しい時には降らず、大雨まで望んでいなく思うように行かない。
昨日は北陸地方と東北地方が梅雨に入ったと報道があつた直後である。
梅雨は昨年よりも9日、平年よりも6日遅い梅雨入りである。

この時期花いっぱい運動が巧を通し各家々には色々な花が植えられ、飾られ色々な6142 色の花が咲き競つている。
中でもバラの時期の今、気温が高いのが好きなのか、雨が降らなかったのがよかったのか特別に今年の色のよさが際立つた。
カキツバタから今度はアヤメやハナショウブに変わり、もう2~3日で咲く、ツツジも今が最盛期である。
これからはユリに変わって行く、品種も色々で白いもの、黄色いものなど色々である。
名前の知っているのはカサブランカ位である。
22 山野草も里山から持って来たホタルブクロ(キキョウ科)も繁殖旺盛で庭に何本も増えて咲いている。

そうして花ばかりでなく草木一艘生え茂り畦畔や畑の刈り払いや草むしりに際限がない。
16日の日曜日は村の環境デーの取り組みで、もう30余年を超えている。
6182 一組は道路や農道のゴミ拾い、二組は森林公園高の峰プラトーの草刈り、もう一組は2級河川前川の草刈りや流れて来たゴミ拾い、花の植え付けや管理である。
こうした河川愛護の活動が認められ国の表彰を受ける事になつていると聞いている。

ホタルのいる里山の「ホタルまつり」は今度の日曜日の夕方から行われる。
他の地区で行われているようなミニコンサートもあり楽しい幻想的な一時を過ごす事になつている。
このホタルの里の整備も水辺の確保やアジサイ、カキツバタ等の植栽や草刈り等の作業でピオトープの環境を確保しようやく定着した。
今度は前川の愛護運動の一環として過って遡上した淡水魚のイトヨが再び蘇る川にしなければならないと言うようになつた。

こうした川には魚が棲み、家の周りが花でいつぱいの環境の中で緑を増やし、花いっぱいになればよいと勘違いし特定外来植物の「オオキンケイキク」(指定・平成18年2月1日)を庭や家の周りに植栽されていて今が黄色の花を咲かせている。
この花が繁殖力旺盛で河川や道路、広場等広く全国的に繁茂し困っている。
この繁殖力の旺盛の勢で他の植物や花に害を与え、中でもカワラナデシコが極端にPhoto 減り植物の生態系を崩しているそうです。
多くの花の仲間の中でこうしたヤカラもいて共生出来ない人間社会と一緒である。
先般の自治会活動の環境デーの取り組みの中で考えさせられた一コマである。

写真の説明
1枚目は 前川の親水ケ所
2枚目は カキツバタ
3枚目は アジサイ
4枚目は ホタルブクロ
5枚目は オオキンケイキクである。

2013/06/15

NO,26   黒姫山の雪形

612_2 今日は6月15日(水)、朝から時々小雨が降る天気であるが久し振りの降雨であり貴重な雨であるが夏野菜には恵みの雨となつていない、もう少し欲しいものである。

こうした天気であり黒姫山(1222)は今日は望めないが白馬連峰と共に毎日見る山である。
海辺に住みながら少し位置を変えれば東に鉾岳、焼山(2260)、烏帽子、阿弥陀山(1511)、そして中央には頚城駒ケ岳(1487)と眺める事が出来るが、雨飾山(1963)は駒ヶ岳の影になり残念2452 ながら見えない。

こうした環境にありながら子供の頃の小学校や中学校の時代は戦中、戦後の時代でもあつて、山についての学習や機会がなかつたように思う。
又、山の好きな先生にも恵まれなかつた勢もあるのではないだろうか。
そんな事で焼山や白馬山等の登山はなかった。
ただ焼山が昭和24年2月5日に大噴火した際に梶屋敷の早川河川近くのよく見える場所に全校生徒で出かけた事があつた位である。

1_2 高校時代も火打山や妙高山(2454)の登山の機会もなかつたが、高田付近の同級生は中学校時代に登っていたようである。
そうした時代の中で就職し職場で始めて立山に、青年団の時代に県の主催の登山指導者講習会で白馬山に登山した。
雨飾山は根知公民館時代に地元の山として数回に亘り登っている。
焼山や黒姫山の登山はとうとう出来ずじまいである。

登山家は「そこに山があるから登る」のだと言うが、こうした山を毎日眺めながら生活しており「山おんち」と言う言葉があればそのようにも言える。
春にもなると山に積もった雪が消え出し、「雪形」による農耕期の「農事暦」になつてた時代が永かつたのだろう。
この近辺では上越地方は妙高山の「山」、「はね馬」、「春駒」、「馬形」等と言つている。
信州安曇野地方は白馬山の「代掻き馬」、「種まき爺さん」が代表する雪形だろう。

614 それに比べると当地方では焼山や雨飾山や黒姫山等には「雪形」がない。
「雪形」による「農事暦」の必要がなく、他に頼った「農事暦」があつたのだろうか。
私は黒姫山の「雪形」を毎年見ながら田植の時期の5月中旬頃に「ほまい舟」(帆前船)と、その左側に「鳩」が出現する事を見て来た。
数日前にその「鳩」は消えてなくなつているし、「ほまい舟」の形も消え出し、もう数日で全く消えるだろう。
昨年は6月末には全部消えているので今年は10日程早いように思われる。

写真の説明
1枚目は 6月12日の黒姫山の雪形 既に「鳩」の「雪形」は消えて無くなっている。
2枚目は 昨年の5月7日の「雪形」で「ほまい舟」と「鳩」が浮かんでいる。
3枚目は 妙高山の「山」の「雪形」と言われるもので一番上に浮き出ている。
4枚目は 6月14日現在のコシヒカリの稲姿で暑い日が続き成育が進んでいるようである。

2013/06/12

NO,25 海浜 

510 今日は6月12日(水),朝から南風で暑く30度を超す真夏日になる予報が出ている。
5月31日からの晴天で毎日が25度を超えている。
関東甲信地方が5月28日に梅雨に入り、北陸地方も時間の問題だと思っていたがとんでもない気候になつている。
水稲は生育は進んでいるが、夏野菜は水が欲しくてしおれている。
朝早く起きて水運びや水くれをしている姿もあちこちに見受けられる。

653 雨が降れば「晴耕雨読」で雨降りを待っていたがいつこうに降らずパソコンのプログが出来ずにもう6月も中旬になつてしまつた。
この時期の庭の花は種々あつて色々な花が咲いて楽しませてくれている。
これ又朝夕の水くれも大変である。
「しゃくやく」は既に終り、「バラ」は色々な色の花が次々と咲き、今年は特別にその花の数が多く色も良いように感じ気温の勢なのだろうか。
66 その他「シラン」のピンクの花、「ホタルブクロ」も昨日から咲き出した。

浜辺の花も「むしとりなでしこ」や「はまひるがお」、そして昔はなかつた「はまなす」も最盛期である。
昔は浜辺は広かつたので「はまひるがお」は方々に群生して咲いていたが今はそうした風景は見られない。
先般は旧青海・田海の海辺まで足を延ばしてその風景を見に行つて来ました。
当市内で海浜のある所と言えば田海と旧能生・百川位になつてしまつた。
毎年海浜は侵食が進み、沖防波堤のテトラポツトを投入したり、その補修をしているが一冬で崩れてしまつている。

そんな事で思い出すのは子供の頃の唱歌や童謡で海や浜辺を唄った歌が多くある66_2 が、今はその情景がすつかりと変わつてしまつている。
 「海」 (作詞・作曲者不詳  大正2年5月尋常小学唱歌五)
         ♪ 松原遠く消ゆるところ
      白帆の影は浮かぶ
      干網浜に高くして
      鴎は低く波に飛ぶ
      見よ昼の海  見よ昼の海
こうした風景や情景が無くなり懐かしく思われる昨今である。

66_3 写真の説明
1枚目 沖防波堤の補修 5月10日撮影
2枚目 ばら 6月5日撮影
3枚目 白色のハマナス 6月6日撮影
4枚目 はまひるがお 6月6日撮影
5枚目 「チガヤ」の穂 6月6日撮影で、この穂になる前
     に子供の頃によく食べたものであり、懐かしく撮
     影した。何れも田海海浜にて。

2013/05/29

NO,24   節句

524 今日は5月29日(水)朝から小雨が時々降る南風の強い日で午後には日も出る定まらない天候であつた。
雨は10日間位も降らなかつたのでもつと降つて欲しいのにままならないものである。
昨日は東海地方、今日は関東甲信地方が昨年よりも11日、平年より10日も早く梅雨に入つたと発表があり、北陸や東北地方も時間の問題であろう。

去る25日の土曜日は地元小学校の運動会が快晴の暑い日ざしの中で行われ大変521 賑わっていた。
小学校の行事と言えば何かと雨に祟られると言うジンクスがあつたがここ数年は運動会は雨が降らなかった。
こうした雨降りと言えば大和川の祭りの日には3粒でも良いから雨が当たらないと村に災いが起きると言う吉兆を子供の頃から聞いていたものである。
どうしてこんな事が言われるようになつたのだろうか。

この小学校の運動会の頃には田植も終つており、以前はこれに併せて「野休み節528 句」を実施し、1日目と3日目は「野休み」中2日は「節句」である。
節句と言えば「笹餅」をつき、田植作業が無事終了した事に感謝し、田の神を送る田植えの稲作儀礼と作業慰労の行事であり、一般的には「サナブリ」(サノボリ)と言う地方が多いようだ。
「笹餅」は上越地方でも糸魚川地方の旧西頚城地方のみのようで、新潟と言えば何と言つても「笹ダンゴ」で知れている。
5282 この笹ダンゴは一般的には端午の節句の頃より作られている。

その田植や苗取りに近所の多くの女衆から来てもらつており、その人の家によっては「ゆい」(結い)、この地区では「いい」であり、「いい」の家もあつたが節句の日までに労賃を支払つて、今度は直ぐに始る「田草取り」の作業の依頼もしておかなければならなかつた。
そうして手伝つてもらつた女衆も殆どが亡くなったり、70歳と言う歳を迎えている。

耕作放棄となつている棚田は35aもあり、30年以上も手を着けていなかつたが、今年は初めて一部の田の手入れ作業を実施した。
一部の部分的に笹が生えたり、野ブキが繁茂し、これも一部は栽培したように成績が良く採って来ては病院前の女性部の市場に出した位である。
30束も40束も持つ行くがその半分位しか買ってもらえないようだ。
ただの物を金にすると言うのだからよいとして残り物は近所の家に配つたが、食べるには皮を剥くなど手間が係るので、直ぐには口に入る物でなく、食べてもらえるか伺つてのお裾分けである。
523 何か変なお前粗であり、あんまり歓迎されなかつたのか先般の残りも処分に困っていたようである。
そんな訳で勤め人の主婦や、幼児の居る主婦は手間の入る物はケエンされ買ってもらえないのだろう。
「節句のただ働き」と言う格言もある。

写真の説明
1枚目は 5月24日の黒姫山の雪形
2枚目は 家の前に咲くフタリシズカ 撮影は5月21日
3~4枚目は 家のバラ 撮影は5月28日
5枚目は 里山に咲くタニウツギ 撮影は5月23日

2013/05/20

NO,23 フジまつり

Photo 今日は5月20日(月)昨日の午後から一晩中降った雨は朝方には上がり、田植の終わった幼苗と夏野菜の定植されたトマトやナス、スイトコーン等には恵みの露となり、今日は晴天となつた。
この地方の田植は今年も豪雪で少しは遅れたようであるがほぼ終了している。
テレビやラジオ等の報道によると無形文化財の佐渡の「車田植」とか、広島の任生の「花田植」や伊勢神宮「環城楽」?の田植等も終わっているようである。

この田植の時期と言うと「フジ」(マメ科)の花の薄紫色や白色の開花の時期でもある。
昔はフジと言えば盆栽か何々公園や有名寺院等のフジ棚で見かける程度であつたが、近年は山林の杉などの手入れが行われなくなり、雪で倒れた杉の杉起こしや、枝打ち、間伐等いずれも重労働であるが、その杉材として売るにも、現場まで5172 林道や作業道が出来て運搬も容易であつても高くは買ってくれない。
自家用等で2~3本程切つて貰うにしても枝の処理費だの運搬費だのと高額の料金が請求されてしまう。
そんな事もあつて「国産材」の利用促進や、当市では当市産木材で住宅等を建てる場合には補助金まで出すと言う制度まで創設する時勢であるが、里山は荒れ放題である。

この時期里山を廻ると杉や雑木にフジ蔓が絡んで天高く花を咲かせている。
それもフジを咲かせようと手入れをしているかのような見事なものも所々に見受けられる。

この地方ではフジの名所と言えば戦前から早川の「月不見の池」が有名であり、近郷517 近在よりも遠く越中の方の人が多く見学に来ていたものである。
この池は安山岩や凝灰角礫岩からなつており、そこに杉やナラが育ち、それにフジ蔓が絡みつき池の周りはうっそうとしていて、夜は月も見えない位にフジの花が下がっていたとされている。
一時期は池の水が溜まらず何回も改修工事を試みた事もあつたが効果がなかつたが、ここに来て最近はどうやら水も溜まるようになり人も集まるようになつた。
517_2 魚も水温が低く色々な魚を入れて見たが生息にまで及ばないようである。

私は去る17日(金)の昼前に少し足を延ばして見に行つて来ましたが長岡ナンバーの観光バスが2台止まつており、中高年の男女が見受けられた程であるが、昔のように何軒もの茶屋がなく1軒で閑散としていた。
そんな事で新町の区ではこの時期にフジの一鉢運動で「街おこし」を実施しもう39回にもなるそうである。
517_3 昨日は新町の県道沿いで地元特産品の「焼山わさび」やオコワ、赤飯、おぼろ汁等の販売もあつたようである。

写真の説明
1枚目 道路標識にまでフジ蔓が絡み花を咲かせていた、正に産地の下早川・上覚である。
2枚目 「新潟県観光地100選の石碑」
3枚目 「月不見の池」
4~5枚目は 県道沿いに並べて競い合うフジ、見事なものである。

2013/05/11

NO,22  山笑う

59 今日は5月11日(土)、朝から小雨がしとしとと降っている、久し振りの雨で露休みとなつた。
稲の耕作を止めて2年目の春となり、子供の頃から稲と関わり長い間それで生活をして来た訳であるから、この時期はどう言う作業の時であり、稲の成育もどんな状態なのかも解るが、自分が関わらないと、どうでもよいような他人事になつてしまつている。

大和川原と言う開田耕地にも足があまり向かなくなり、近間の畑の手伝いや長年ほっぽらかしにしていた耕作放棄地の笹原になつた田や野ブキの畑となつている田の始末をしている。
笹の方は背丈2mにも及んでいるのを刈払機で幾日もかかって刈り払つた。
野ブキの方も何回も採って来て食したり、家内が病院前の朝市に3回程持つて出た位である。

510 開田耕地の方は今が田植の最盛期であり、田植の終わった田、代掻きが終り水が一杯の田、まだ畦畔の草刈も終わっていない田とそれぞれであるが、他の地区を廻つて見ると殆ど田植が終わっており、連休は今や「田植休み」化している。
先日は耕地が隣接する真光寺の天然記念物の大銀杏の芽吹きを見にいつて来たが野や山は新緑で埋まつている。
その内で咲いていた山桜は終り、今度は白い花のウワミズザクラ(別名アンニンゴ・59_2 バラ科)が方々で咲いていた。

こうした野山の今を「山が笑う」と言うと聞く。
今年は是非真光寺の大銀杏の一生を追つて見たいと思っている。

写真の説明
1枚目は 5月9日に撮影した真光寺の大銀杏
2枚目は 開田耕地(中平)の代掻きの終わった田、黒姫山も見える、撮影は5月10日
3枚目は 山椿も散り始めた。5月9日撮影

2013/05/02

NO,21 水保の観音堂

Photo 今日は5月2日(木)午前中は時々小雨が降っていたが午後からは晴れとなつたが北風が吹き寒かった。
今日は雑節の「八十八夜」である。
「八十八夜の別れ霜」とも言い、この日以後は霜害も少なくなり茶摘が本格化する頃とされている。

昨日の1日は「西海谷の谷祭り」と言われ水保の日吉神社の春祭りであつた。
あいにく一日中時々小雨が降り祭典はどうかなーと気にして昼前に足を運んだ。
Photo_2 今年は4月10日の一の宮の祭りも、4月21日の日光寺の祭りも小雨に祟られての神輿巡行等であつた。
昨日の水保の祭りも雨になり2基の神輿の巡行は中止され残念であつた。
昨年は積雪で中止されており2年続きである。
神楽舞いだけは奉納され、「獅子の舞」、「弓の舞い」、「鯛釣り舞」(海幸・山幸)の3曲を観て帰った。

そんな天候であり参観者も少なく地元の保育園児と小学何年生なのかで賑わつていた。
この神楽は観音堂に舞台が作られて行われるのである。

この観音堂には国指定重要文化財(指定大正12・1924年)3月)の木像十一面観音立像があり、33年に一度の開帳と言う秘仏であるが今はコンクリートの収蔵庫に収まっており、祭りの際には扉が開かれている。
Photo_3 観音様は身の丈155mcで桜材の一木のナタ彫りであり、ナタ彫りとは丸ノミを横に使う技法であり大変珍しいと言われている。

この観音様は両手首が失われている。
子供の頃に祖母から、この観音堂の事や観音様の事について聞かされていて、観音様は戦争にいつて両手首を失う功労があり、あらたかな観音様なのだと言つていた。
その戦争とは何時なのか、日露戦争位にしか思っていなかつた。

今から約30年前の公民館主事の折に下大野から観音堂の直ぐ南側の俗に言う「最明寺越え」を踏破した事がある。
その折りはまったく通る者もなく「獣道」位であつたが、「北陸道」であり、「延喜古道」の官道であり史料に残る道なのである。
Photo_6 それらは現在の観音堂に由来するもので、先に私のブログNO,19「日光寺」で投稿したように日光寺集落には多くの宿坊があつたようにこの水保集落にも8坊位があり、その中には「水穂寺」があり、これが現在の「水保」となるもので、明治の神仏分離令(廃仏棄釈)にも由来し、多くの堂宇や仏像、仏具等がことごとく取り壊されていつたとされている。

「最明寺越え」については、坂上田村麻呂が征夷征伐のため(延暦20・801年)に通つたり、又鎌倉幕府五代目執権・北条相模守時頼が入道し、最明寺と称し諸国を行脚しこの道も通つた伝承もある。
これが謡曲「鉢の木」として語られているそうである。
そうした幾くつもの伝承の極めつけは「太平記」にも出て来る「阿新丸」(くまわかまる)の仇討ちで、佐渡島で父の仇討ちの本懐を果たすも敵方に追われこの観音堂附近で多くの猿達に助けられたり、度々旅僧に助けられ「光明院」に戻り十一面観世音にお礼を言う為に近寄ると観音様の腕がなく、傷口からポタポタと血 Photo_9 が流 れ落ちていた。
今私を助けて下さった僧は観音様であつたのだと悟つた。

この「阿新丸」の仇討ちの話は上越市清里地区の福淨寺にもあるとされている。

写真の説明
1枚目は 観音堂
2枚目は 国宝十一面観音立像
3枚目は 子供たちの見学風景
4枚目は 神楽舞い「鯛釣り舞い」
5枚目は 神楽舞い「弓の舞い」である。

2013/04/27

NO,20 ホタルも飛ぶ里

Photo 今日は4月27日(土)朝から小雨が降ったり、日が出たりのキチガイ天気である。
昨日と2日続きの寒い日でもあつた。

今日は当氏子の小祭りで諏訪神社祭である。
隣の竹ケ花地区も明正神社の春祭りである。
この春祭りが終れば本格的な春となり田も畑も賑やかになる。
田には水も入るようになり、田植に向かって「耕起」、「荒くれ」、そして「代かき」そのPhoto_2 間には畦畔の草刈と大忙しである。
市議会議員の選挙で賑やかであつた宣伝車の音に変わりトラクターや刈り払い機のエンジン音が中原の耕地に響いている。
最近は祭りだと言つても特別の行事もなく、役員のみが祭典にのぞむかつこうであり、「野休み」の決め事も無くなつて以来日常の農作業を行っている。
昔はこの時期はヨモギが出るので、ヨモギの入つた餅をついたものであるがそうした習慣もなくなり、スーパーの「ボタモチ」で間にあわせている。

Photo_3 この時期里山は雨が降るたびに新緑が濃くなり、山菜はウド、ゼンマイ、フキ、ギンブキ(ウルイ)、ワラビの順に出始め毎回の食卓に上がつて春を食している。
家内達は4月に入つてから総合病院の前での市場が再開され、出始めたこうしたフキやウド等を持って出て完売している。

家の周りの花は幾種類もの水仙や赤、黄色のチュウリップも咲き出し、こんどはボタンが咲き出す。
Photo_4 果樹は梨やオゥトウの白い花が満開である。
こんな気候と環境の中で昨晩は当地区の「ホタルの里」の整備計画や「ホタルまつり」の実施の話し合いがもたれた。
この事業を始めて5年位になり、年毎に整備され皆んなに関心も持たれるようになつたと言われていた。

もう一つの里づくりの「イトヨの棲む」里づくりの方も「前川」の河川改修が今後も継続され、上流部分にも「親水」や「遊水」の箇所(施設)も何箇所も造られたり河川敷に桜の植栽も実施したいものだと提案もあつた。
先の市議会選の中である候補者ただ一人、具体的に施策を上げ、「市指定の幻の魚イトヨの再生復活」を掲げて当選しておられるが、今後の行動を注視し期待したいものである。
NO,18「イトヨと前川」で私は投稿しているが、このイトヨについての学習会や施設等についての活動があつたのだろうか。
河川はどの川でも遡上するものではない。
4 今ホタルが飛び、イトヨが棲む里の復活を期待している。

写真の説明
1枚目と2枚目はホタルの生息する棚田であり、「ホタルの里」と位地ずけしている。
3枚目は ウド
4枚目は ギンブキと呼ぶ「ウルイ」である。
5枚目は 改修された「前川」の一部、今後「親水」や「遊水」のイベントが期待され、環境の浄化の活動が待たれる。


2013/04/21

NO,19  日光寺

248_3 今日は4月21日(日)朝から冷たい雨が降っており一日中降るとの予報である。
幾日も耕作放棄の棚田の笹薮となつた土地の刈り払いやこれから植える夏野菜の畑の草取りを行い腰痛の状態である。
今日は「晴耕雨読」ならぬ「晴耕パソコン」であるがその投稿には重い腰を上げねばならない。
昨日の20日は二十四節気の「穀雨」であり、この頃の雨は良く百穀をうるおしてその生長を助けるとされている。
Photo 真にその雨である。

家の周りには色々な花が咲き百花繚乱である。
代表的なものの中に水仙があるが、日本水仙からラッパ水仙に変わり、そのラッバ水仙の花も八重のもの、又ラッパ状の色も幾種類もある。
桜のソメイヨシノは散り出したが里山のヤマザクラが方々に咲いていて春の象徴を出現している。
八重の桜はこれからである。

Photo_2 今日の日曜日は下早川・日光寺のケンカ祭りであるが本来は18日であり、平日だと神輿担ぎの若い衆が集まらず今日となつている。
あいにくの雨降りで実施出来ないのだろう。
晴天であれば見に行こうかと思っていた。
この日光寺は、集落名も日光寺であり「門前まち」である。
今はここには本堂と少し離れた場所には観音堂があるが、大同元(806)年代には二百石を与えられた七堂伽藍を有し付属する寺院は十二坊もあつたと伝えられて、幾度の火災で堂塔や宝物の数々を焼失している。
今は奉安殿に平安時代初期の木像十一面観音立像(県指定文化財)がある。

この日光寺の直ぐ前には白山神社があり、この春の大祭は神仏集合の祭りが今に16 残り白山神社で式典があり、これが終るとここから急な石段を下りて観音堂に向かう。
この時の行列の先頭を勤めるのは仏僧であり、その後に神職が続く珍しい儀式である。
観音堂を二基の神輿が廻り、神輿と神輿をブツケ合うケンカ祭りである。
神輿のブツカル、ドンと言う音やキシム音がする。
この音が大きい程豊作になるのだと言う。
これが終ると観音堂のステージで「鯛釣り舞い」と通称言われている「海彦山彦」の神楽(かぐら)舞いが奉納される。

この神楽は当糸魚川市内ではもう一箇所5月1日の水保の春祭りに行われるが、旧の能生町では磯部や能生谷で何箇所も行われていると聞いている。
今度機会があれば是非参観したいものである。

Photo_3 この祭りが終れば早川谷にも、にわかに春が来て田を耕すエンジンの音が方々から聞こえてくる。
まだまだ所により残雪もあると聞く。
今年も豊作になるよう祈念するものである。

写真の説明
1枚目は 昨年の祭りの写真
2枚目は ラッパ水仙の白色 4月9日撮影
3枚目は 4月19日撮影のラッバ水仙 色は黄色
Photo_4 4枚目は 梨の花 4月16日撮影 おうとうの花も咲き出した。
5枚目は 三色すみれ 4月19日撮影
6枚目は むすかり 4月19日撮影

2013/04/07

NO,18 イトヨと前川

44 今日は4月7日(日)、朝は小雨が時々降る天気となつていたが、夜中の暴風雨の予報も出ていたがたいした事もなく水稲の育苗ハウスや夏野菜のトンネル栽培の農家もホットしている一時であろう。

昨日は二十四節気の「清明」で、桜花爛漫、草花は咲き始め万物清新の気に満ちて月光明窓の頃とされている。
今年の2月3月は極めて寒く桜の開花はそうとう遅れると思われていたがここに来て急に気温が上昇し開花し始めた。

Photo この頃はエトイゴ(イトヨ:トゲウオ目 トゲウオ科)の遡上の時期である。
当大和川の丁度真ん中を2級河川「前川」が流れており、この水源は標高241mkの小富士山と森林公園高ノ峰プラトーの丘との谷間が湧水で河川の延長は3.5km位である。
水源の水量は少ないが棚田からの水が集まり、この間に2ケ所もの水田に取水する取水口があり、1ケ所は開田に、もう1ケ所は「宮田用水」25 の補水路として「ヌマ田」に取水しており、現在は区画整理がされた住宅地の「桜ケ丘」に流水している。
過っての山田と言われた棚田も耕運機が普及し、機械化が進んだ昭和35(1960)年頃より急速に耕作放棄が始り、私の家も35a(3反5畝歩)を耕作していたが昭和40年代に放棄した。
そのような事で普段は水の少ない川も大雨が降ればダムの役割を果たしていた山田も無くなり、それが一挙に流れだし洪水となす。
3 そんな事で昭和40年代と50年代には数回も水害が発生し大海となした。

この前川と沼田の暗渠排水路にはナマズやエトイゴが棲んでいたものだ。
このエトイゴはこの時期に前川の河口から遡上し,それを追って水路や畦を走り廻つたものである。
このエトイゴの遡上は前川と糸魚川の「城ノ川」のみのようであり、東から能生川や早川、海川、姫川とあるが遡上していなかつたよう2 だ。
「踊り食い」の「イサザ」(スズキ目 ススギ科)もこれに酷似していて、旧桑取村(上越市)の有間川のみ遡上している。
その他にも近い所では柏崎市の鯨波にも遡上しているが何れも絶滅危惧種である。

小学校の子供は明日の月曜日が入学式であり、長かった春休みが終るが、私達の子供の頃はこの時期に前川の河口のよどんだ入り江に入りエトイゴとボラ(ボラ目 ボラ科)の稚魚を捕まえて防火用水池に放した事もあり、それが大きくなり池の中で飛び跳ねていた事もあつた。

4 エトイゴは遡上し、営巣をオスがし、稚魚が海に下るサケと同じような海遊魚である事を中学か高校の遅くなつてから知ることが出来た。
それもその頃から段々と少なくなつたり、いなくなつたりしてからである。
このオスの行動は褐色から成熟すると体が青つぽくなり、のどから腹部にかけて赤色の婚姻色を発現する。
婚姻色を発現するとオスは縄張りを作り、同種のオスを激しく追い払うようになり、水草の根などを集めてトンネル状の巣を作り求愛ダンスで メスを誘い産卵を促すという面白い習性があるとされている。
寿命は1年でオス、メス共に産卵後は死んでしまうが、まれに生き残つて2年目の繁殖に参加する個体群もいる、これを「陸封型」と言つている。
一般的にはサケと同じように川で生まれた稚魚は海に下り成長するのだと言われている。
これを「降海型」と言つている。

44_2 又このエトイゴに混じってエトイゴと同じ個体で紅色の付いたものを「トウギヨ」と言つて田伏のビル田まで追っかけていつたが、エトイゴの別種ではなくオスの婚姻色を呈したものを言つていたようだ。
糸魚川の一の宮近くの水田にも多く見受けることがあつた。
それと「イトヨ」は「糸魚」とも書き、糸魚川市が合併で出来た昭和29(1954)年7月23日の第3回臨時市議会に市長中村又七郎さんが市章として提案して決定した。
元は糸魚川町章(3匹のいとよ)を継承したもので、大正10(1921)年に一般に募集したが得心のものが得られず町長自から
考案したもので「3尾は多数の町民を表し、お互い密接に交錯しているが、毫末も他を犯さないのは、互いの分を守つて他を尊重する事を意味する」とされている。

この前川の改修も何年も年月がかかりこの春にようやく竣功をみたが、水害や災害に備える施設のみでなく親水を楽しんだり魚の棲み易い環境にすると言うふれ込みであり、この河川を管理したり利用したりする地元大和川の住民がもつと関心を持つて維持しなければ宝の持ち腐れである。
立派な施設になつたのだからその施設を運用する第1回のイベントを行わなければならないのではないだろかと思う。
竣工式などは行わずともよく、川の流れの如くよどみなく流れる自治活動を行ってもらいたいものである。

写真の説明
1枚目は 前川に1枚だけ見つけた「イトヨの棲む環境の」看板
2枚目は イトヨ
3枚目は 前川の河口で、海の水面との高さがあり「魚道」の必要性を早くから感じてるが。撮影は4月4日
4枚目以降も4月4日に撮影

2013/04/04

NO,17  静と動

244 今日は4月4日(木)、朝はもやのかかった曇りであつたが段々と晴れて一日中快晴となつた。
昨日は一日中小雨が降り良い休養の日となつたがまだまだ疲れが抜けきれなかつた。

春始動は人ばかりではない、2日の日には里山に飛来したツバメが数羽飛び交つていたがこの地域ではそうとう早い飛来ではなかろうか。
花の方も方々で梅の花が盛りと咲いているが桜の開花は各地で10日も早いと報道されているが当地域は平年並みで1週間後の開花が予想される。
水仙は日本水仙が一番早く咲き、次いで色々の種類のラッパ水仙と移つて行く。
椿の類も山茶花はすっかり花は落ち、今度は「ゆき椿」が 412 盛りとなつている。
「やぶ椿」はまだまだ先のようである。
畑に行くと里山には今咲き出したショウジョウバカマの花が見られるし、畦にはフキノトウの花が伸びて群生している。
家の庭には白色のショウジョウバカマは今年は10本も花を咲かせているし、雪割草も日中には開花し幾種類もの花が咲いて楽しませている。

44 こうした春の静寂の中にも「動」として市議選と市長選がこの21日に執行されるが、市長選は現職3選で落ち着くようであるが、市議選の方は定数減もあつて数名の定員オーバーになると動いている。
そうした施策論争の中に「市民会館」の立替問題もあるようだが、先の市文化協会フェスティバルの会場の「青海生涯学習センター」には始めて入つたが「きらら青海」と棟続きの立派な建物であつた。
2 331 そうして出品されていた書道や絵画、写真、絵手紙、陶芸2_2 等多く展示されておりその出品者の氏名があるが住所がないのでどこの人なのかは解らず残念であつた。
その点、昨年の秋の「市展」の際は住所があり良かった。
いずれにしても以前より青海町(旧)は早くから公民館活動や社会教育事業は進んでいたのでそうした活動が今実を結んでいるのではないだろうか。
今回のフェスティバルの副題は「出会いにありがとう」であるが、会員の全員が切磋琢磨し競い会う事が生涯学習の中でも大切な一面なのではないだろうか。
そんな事を感じたが、この地域の公民館活動は生涯学習に向かって「動」いているのだろうか。

2013/04/03

NO,16  春始動

25 今日は4月3日(水)、朝から雨降りとなつた。
2日続いた晴天で春始動の畑作業で疲れていたので良い骨休みとなつた。
「春い出し」と言う言葉があるが、冬中遊んでいて体を使つていなかつたから体がなまつている中での最初の作業となり、それを言うのだろう。
その「春い出し」で疲れていたので良い休日となり「晴耕雨読」の日となつた。

今日は一ケ月遅れの「雛祭り」であるが特別の行事もこの地域にはなかつたが、本県では村上市の「お人形様めぐり」の行事や柏崎市の「吊るしひな」の展示会があるような報道がなされていた。
「吊るしひな」のルーツは伊豆稲取地方のようであるが年々に国内各地に広がりその展示や展示会が行われている。
当市も去る3月30日~31日に第7回文化協会フェスティバルが開かれ書道や絵画、写Photo 真、絵手紙等の展示会場に「吊るしひな」の展示もあつた。

4月に入り春祭りも各地で行われるようになるが、9日には梶屋敷・立壁神社、そして10日には一の宮のケンカ祭り、13日は当大和川・国造神社、16日は寺町・横町・上刈の祭り、そして下早川・日光寺のケンカ祭りは今年は21日の日曜日に、田伏の奴奈川神社は24日と春は祭りと共に深まって行く。
一の宮のケンカ祭りの舞楽の稚児の舞いの練習は去る3月28日から開始されて恒例の行事となつていて、昔はこの太鼓の音が南風に乗って大和川まで聞こえて来たものであり、この春休みには「前川」に遡上(そじよう)して来たエトイゴ(イトウオ)を追つかけて田の畦(あぜ)を踏みこしていたものであるが今はPhoto_2 その太鼓の音も、エトイゴも遡上しなくなり寂しい。
ただ開田の猫のシタイ程に割り当てられている畑に今年も子供達が手伝つてジャガイモ植えが始まり春の始動で躍動する春本番となつて来る。

写真の説明
1枚目 一の宮ケンカ祭りのポスター
2枚目 フェスティバルのポスター
3枚目 子供も手伝つてのジャガイモ植え作業、撮影は4月1日

2013/03/26

NO,15 春耕期

Photo 今日は3月26日(火)、朝日のテッカリで一日中薄曇りで気温が上がらず肌寒い日となつた。
雪も消え畑にはちらほらと農作業の人影も見受けられるようになり、日曜日になるとミニ耕運機のエンジン音も聞こえて来るだろう。
いよいよ春本番に向かう序曲の始まりである。
この時期の挨拶に決まって「春耕期に入りお忙しいと頃」とか、「春耕期に入りお疲れの折」とかを聞いたり、言つたりしたものであり、この時期に相応しい挨拶の一つであるが私もよくこれを好んで使ったものである。
ところが田や畑に出て耕す人がめっきり減り少数派となつた今、考えて見れば仕えな324 いようになつた。
それが農家の集う会合でさえの話しである。
その内に「春耕」も死語となるのではないだろうか。

今年の春は桜の咲く日は10日も早いと言われ歓桜会が盛り上がりを見せているようだ。
ようやく家の周りの日本水仙も咲き出しほのかな香りを漂よわせており私はこの香りが好きである。
白梅も紅梅も満開を迎えているがまだウグイスの初鳴きは聞こえてこない。
322 梅と言えば昨日の25日は田伏の天満宮の春の例祭であり、奴奈川神社境内に社がある。
学問の神様菅原道真公を祀るもので、この田伏の天満宮の歴史も古いと言われており、宝永年間(1704~)に田伏の関原氏が奉安されたと伝わる。
この天神様は木像で身の丈は4寸4分のもので33年毎に開扉されるそうである。
この地域ではこうした天満宮の数は少なくあまり知られていないようである。
私の家の親戚には高校や大学に入学する子供もおらず疎遠になつているし、お祝いを上げる気使いが今年はなかつた。

今朝の朝刊には小中高校の先生方の定期移動が発表されていたが関係者にとつては一喜一憂されるのだろう。
又、もうじき一の宮のケンカ祭りの稚児の舞いの練習の太鼓の音が聞こえて来る時期となり春本番を迎える今日この頃である。

写真の説明
1枚目は 天満宮の社
2枚目は 24日に撮影の白梅
3枚目は 22日に撮影の紅梅

2013/03/18

NO,14  彼岸のころ

318 今日は3月18日(月)朝から時々小雨が降り南風の吹く暖かい早春を思わせる一日であつた。
昨日の17日は春の彼岸の入りで暖かく車の冬タイヤを取替えたり、庭の冬囲いも取り外し盆栽も並べ替えた。
日本3名園の兼六園の雪吊りも取りはずしの作業が始まったと報じられている。

里山に行つて見ると雪もすっかり消えこの暖かさで一部の田や畑の耕起も始まっていた。
318_2 今年の冬は極めて寒く平年気温よりも低下して推移して来た。
そんな事もあり日本水仙の咲くのも相当遅れたし、山茶花も相当遅れて方々で今が満開となつている。
それに反し東京の桜は咲き出し、観測以来一番早い開花だそうである。

彼岸を迎え山間部の豪雪地ではお墓の雪堀りをして迎えているようである。
当檀家では20日の中日にはお昼前から法要が行われるご案内が来ている。
「住職は寺に入り40余年になるが、この間に一度も寺に参詣されずお顔を見てないご門徒の方もおいでになる。
都合がつかないのかも知れませんが悲しいことです。
その方のご先祖の方々は悲しく思われるでしょう。
316 仏事は報恩ですから。
『安楽浄土に至る人阿弥陀一仏に帰入せよ』」と参詣者の年々少なくなる事を憂いている。日頃は中々仏壇に向き会う事は少なく、ましてや寺には足が向き難いのが事実である。

「肉付きの面」は越前・吉崎(板井郡金津町)に蓮如上人(れんにょしょうにん)が吉崎御坊を建てて以来一向宗(浄土真宗)の盛んな土地である。
「吉崎の近くの村に清(よし)と言う百姓の妻がいて、夫の與三次や子供に先立たれ、316_2 與三次の母と二人暮らしであつた。
いつの頃からか、蓮如上人の教えを受けて吉崎御坊に通い出すようになつた。
老母はそれが面白くなく、良い男でも出来たのかと嫉妬したりし、母は嫁を脅どそうと思い立ち祖先伝来の鬼の面を付けて途中の竹薮で待ち構えていた。
嫁は突然現れた鬼女を見て恐れおののいたが、じつと心を静めて言葉を口ずさんだ。
『食(は)めば食め 喰らわば喰らえ
  金剛の他力の信は よもや食むまじ』
と念仏を唱え吉崎に向かった。
家に帰った老母は鬼の面を外そうとしても顔にぴったり付いて離れなかつた。
母に念仏を勧め「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると面が剥がれ手足も動くようになり、それ以来悔い改め仏道に勤めた」と言う話と、「石童丸」が母と共に父を探しに高野山を訪ねたが父に会えなかつた話を子供の頃に祖母に「昔話し」のように聞いた事を思い出した。

写真の説明
1枚目は 今日撮影した日本水仙
2枚目は 今日撮影した庭の山茶花
3枚目は ネコのしたい程の畑であるがもう少しでジャガイモが植えられる、少し残雪があつた、16日の撮影
4枚目は 16日に撮影した黒姫山

2013/03/10

NO,13  春一番

38 今日は3月10日(日)早朝は南風強く吹きまくり気温も暖かく生暖かつたが直ぐに雨となった。
この10日は東京大空襲の日で今年は68年目であり、当時小学4年生で東京から疎開して来た人は3人程いて、この情報を担任の先生がされ、その疎開の1人は涙を流していた事を覚えている。
祖母の兄妹の家も一家全員が防空壕に避難し窒息死された悲しい出来事があつた。

昨日の9日は当市来海沢集落(旧西海村)の春祭りであつた。
神社は日吉社で祭神は大巳貴命、健御名方命、木花咲那姫命の三神を祀っている。
この地域では一番早い春祭りであり、今年も豪雪で参道の石段は出ておらず鳥居も半分は埋まっていた。
この神社の「棟札」は市の指定文化財に指定され38_2 ており、又、狛犬は「サル」(猿)であり珍しい。

そして3月9日は「山の神」の日でもあり、駒ケ岳山麓の大岩の上に祠が祀られておるがそこまでは行けないので集落の中程の岩の上に「出張さん」を作りお参りをしているとか。
この地域ではこの「山の神」の日には山に入つたり、山仕事をすればケガや人さらいに遭うと言う言い伝えが古くからある。
238 この「山の神」は「山あけ」の一つで「海あけ」と同じなのだろう。
子供の頃は山仕事の山仕や堀工は仕事を休みお祝いをしたものである。
私の家でも「山の神」の日だと言つて「ボタ餅」を作つたものであるが、こうした風習は話として残るのみであるが、これも時代と共に忘れられて行く運命にある。

それでもこの「山の神」の行事は祭礼としても全国的に各地に残り、色々な形たちで残っている。
この「山の神」さんは女性の神さんであり、祭礼には女性が参拝出来ないと言う結界がある地方や、女性がトンネルの貫通式に入れなかつたり、相撲の土俵に上れない、又は入山禁止の山、高野山の結界があると同じである。
神殿のお供物には「オコゼ」(カサゴ目・オニオコゼ科)を供えなければならない等もある。
女神は嫉妬深く器量があまり良くないからでありそれを避けるためなのだそうである。
こうした風習や神話も滑稽ではありそれなりに伝統の文化として伝承してもらつてもよいのではないだろうか。

392 3日間程晴天が続き7日の日には22℃にも気温が上昇し5月を思わせる程であつた。
この間家の周りの草むしりや畑の見周りをしたが里山は残雪も少なくなりフキノトウが芽を出しチラホラと採る人の姿も見えた。
こうして春耕も待つたなしで待つのは農協の農機展であり、大型のトラクターや小型のミニ管理機が何台も並び農家の購買意欲をくすぐつていた。
本当の「春一番」を感じる日でもあつた。

写真の説明
1枚目は 雪に埋まっている来海沢の日吉社・3月8日の撮影
2枚目は 来海沢集落の積雪の状態・3月8日撮影
3枚目は 海川の上流でこの雪が融け豊かな水となし、「万石用水」や「宮田用水」の水田を潤して豊作となす。撮影3月8日
4枚目は JA農協の農機具展示で大小揃っていた。3月9日撮影

2013/03/08

NO,12  春よこい

今日は3月8日(金)朝夕は小雨が降るが晴天になる2_3
予報が出ている。
虫などの生き物が土などから這い出ると言う二十四節気の「啓蟄」が去る5日であり、その暦に会わせたように前日の4日から晴天が続き気温も上がり暖かくなつた。

昨日は当市の最高気温は22度ともなり5月を思わせる一日であつた。
家の周りの草むしりをしたり、昨秋に採り残した少しの白菜や人参を収穫した。

こうした天気は表日本の関東は毎日のように続いているようであるが、4日と5日2_4 には甲府で葬儀があり旅行をしたが、梅は満開であり、丘陵地にはビニールが張られた桃やブドウのハウスが多く見られたし、ブドウの剪定が終つた棚が電車の沿線近くまで栽培されていた。
「♪ 春よこい」は当市の文豪相馬御風の作詞であるが(大正12・1923年1月「木かげ」で発表)、この地方の丁度今の時期を歌つたもので、海岸地帯はもうすでにすっかり雪が消えたが、里山も雪の消えた畦畔からはフキノトウが芽を出し、これを摘み採る事から今年の春が始動するのである。
明日の9日は「山の神」の日であり、山間部ではまだ身の丈程の積雪があり、融雪までにはもう少し時間がかかるが、まだまだ荒れる日も幾日もある。

Photo 先日の甲府の葬儀はまだまだ若い70余歳のお父さんの死で、日頃は元気で通院もなく生活をされていたのに早朝に心臓疾患で亡くなられた。
綺麗に咲いていた花が一晩の嵐で吹き飛ばされたような無情な嵐であり、今までも幾多の苦難を乗り越えてこられてもこの春の嵐には耐えられなかつた。
心地よい春風も時にはこうした無情な嵐となつてしまう。
この「♪ 春よこい」は無情であつた。

写真の説明
1枚目 昨日の撮影のフキノトウ
2枚目 中原にある小畑の溜池で残雪がある。
3枚目 斎場が供えている霊柩車、何と言う車なのだろうか。

2013/02/22

NO,11  冬仕事

Photo 今日は2月22日(金)、昨日は一日中降った小雪も上がり
朝から晴れとなつている。
二十四節気の「立春」や「雨水」も過ぎたが、「越後の雪は『余寒』に降る」と言うたとえがあり、一晩に何尺も積もったり、昭和2年の御大典の2月に立春から降り出した雪が5日の日には2mにも達し、1週間も降り止まず北陸線の汽車は8日間も止まったり電柱も埋まり、二階から出入りしたそうである。
そんな例もあるが、この時期になるとさすがに降る量も少なくなる。

こうした冬場の時期は農村では冬仕事として俵編みやカマス、ゴザ編み、縄ない、草履作りなどのワラ仕事が寒い納屋のワラくずの中で一人の孤独の作業であつたり、又2~3人の近所の人と世間話をしながら手仕事を進めて来た事もあつたがもう50年Photo_2 も60年も前の昔の事となつている。
又、晴天ともなれば外仕事は個人では「堆肥」運びとか「肥」(こえ)運びと言う「厩肥」運搬が行われていた。
共同の作業では「客土」の作業も戦時中の一時期行われた事もあつた。

こうした作業や風景は農村からはすつかり姿が消えて久しい。
勤務していた仕事で集落廻りや集落懇談会等の会場に行く途中でこうした風景を見Photo_3 ながら足を進めた事もあつた。
今は自分の集落の懇談会が年一回行われる会に出席する立場に変わつたが、その出席者も年毎に少なくなり主催者は張り合いが無い。
又、今年も小さな私の集落でも2戸が稲作を止めると言う事になつた。
一人は高齢で腰が悪いとか、もう一戸は年寄りが亡くなつたからと言つている。
こんな例がどこでも多く出ている。
「懇談会」も「指導会」から変わり、かつては稲作指導や畑作指導が主流であつたが、この懇談会の内容も農協の葬祭センターや介護施設S314 等の運営の要望や厚生連病院についての話題にもなつている。
こうした懇談会や指導会は過っては冬場の間に何回もあつたり、又、研究会も農村では4Hクラブや当地区の農事研究クラブのように精力的に学んでいたが、その多くの人は既に亡くなつたり、その当時の年少の人も今は70歳を出ている。

3月に入ると今年の稲作や畑作の準備に入るので、この間にもう一つの行事として浄土真宗の報恩講がある。
この時期に年寄りのワラ仕事の疲れの慰労、息抜きと体力不足の解消からも寺に集まり、今年も無事に冬が越せたと皆んなで
顔を合わせて喜び合うのである。
普通は浄土真宗の開祖親鸞聖人の遺徳を偲び11月28日の命日の前後に行っているのが一般的であるがこの明通寺さんは2月28日と決めて昔から行っている。
先般は禅宗の「団子まき」を投稿したが、その外にも地方により「百万遍念仏」や「大師講」等があり、これをおやして心おきなく春作業に突入して行ける。
その頃の天候も北西の季節風型から春の移動性高気圧へと変わり三寒四温の暖かい日も出て来るだろう。

写真の説明
1枚目は 明通寺の報恩講の案内
2枚目は 「つぶ」と言うカゴで堆肥や肥を運んだ。
3枚目は 「俵」編みの競技会で過っては技術を競いあい、隣の嫁は一日に何枚も編んだと言つたものだ。
4枚目は 農協の雑誌「家の光」の「子供号」で昭和31年4月号である。

2013/02/17

NO,10  家 訓

Photo 今日は2月17日(日)、午後から「団子まき」である。
天候は朝から快晴となり、久し振りに水桶は氷つていた。
「団子まき」とは「涅槃会」法要で釈尊・お釈迦様の入滅された命日で、2月15日を中心に前後して行われ、この地区には曹洞宗(禅宗)が2ケ寺あり、田伏の大雲寺、大和川の禅林寺であり、禅林寺は今日の午後に行われ、大雲寺は1ケ月遅れの3月である。
この行事は「門徒」と言う浄土真宗は行われていないが、法華と言う日蓮宗や真言宗は行われているのだろうか。

子供の頃は就学前や小学校も2~3年生位までは冬の楽しみの一つであり、禅林寺の団子まきが終ると今度は大雲寺に走つて行つた事もあつた。
この団子はお釈迦様の舎利、骨であり、これを頂くのであ2 る。
拾ったお団子は仏壇に供えてからワタシで焼いたり、ホーロー鍋で炒つてもらつて食した。
このお団子を食べるとこの一年間は病気をしないとか、お団子を身に付けていれば野良に出てもマムシに噛まれないとか、毛虫に刺されないとか、怪我をしないとかで1粒入る布袋をお婆さんやお袋さんから作ってもらい腰に下げていた事もあつた。

「涅槃絵図」はお釈迦様が目を落とされ、民衆がそれを悲しみ、嘆き何をおいてもと駆け参じた。
それは人間だけではなく、獣物の像やライオンや小鳥までもが駆け寄つて来て悲しみに暮れた。
小鳥の中でも一番早かつたのは雀であり、目が醒めて間もなく顔も洗わず、身支度もせずに質素な身成りで駆け参じた。
一方、キツツキ(アカゲラ)は顔を綺麗に化粧し、身支度も派手な物に着替えて時間Photo_2 がかかり遅くなつてやつて来た。
その結果、雀は食物は何不自由なく何でも食べれるが、キツツキは木の固い樹をつついては虫を探して食べなくてはならなくなつたと言うのだそうです。
こうした話は祖母が団子まきの機会に諭すのである。

「近所に不幸が起きたら直ちに行けよ、火事であつたら荷縄を持つて走れよ」である。
2_2 私の家は昭和の初期に類焼にあい、昼の火事であり、高等科の生徒が納屋の農区の多くの肥料を持ち出してくれたり、土蔵の土戸は
○○左衛門が閉めてくれ、雨屋の味噌桶からその土戸に味噌を塗つてくれ火が中に入らないようにして下さったり、多くの人が来て、家の物は、唐紙、畳や床の間の欅の床板までも稲場の屋敷に運んで下さったと言う話が伝わっている。
こうした恩はいつかの機会に返さなければならない「家訓」となつている。
それは必ずしも力仕事ばかりではないと思う。

4 丁度今、NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映中であり、この中の会津藩の「什の掟」
(じゅうのおきて)と言う7ケ条の人材育成の指針があり、9歳以下の武士の子の為に創られたものだそうで「ならぬことはならぬものです」が今年の流行語にネミネートされそうである。
ついでに「年長者の言ふことに 背いてはなりませぬ」と、「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」も付け加えたい。

写真の説明
Photo_3 1枚目は 「キツツキ」と一般にいうが「アカゲラ」でありこれは雄である。
2枚目は 「涅槃絵図」で本堂の中央に掛けられている。
3~5枚目は 「団子」を住職がまいたり、拾っている風景。
最後は地獄絵で生前悪い事をした者は釜茹でにされると言うオツカナイ絵図である。

2013/02/13

NO,9  団子まき

210 今日は2月13日(水)、午前は曇り時々小雪が降ったが午後は日も出たりの天気である。
雪国の去る9日からの3連休は利雪、克雪の雪上スポーツ行事や伝統行事が各地で行われたが、当地区ではそうしたものはなかつた。
屋根雪下ろしや家の周りの除雪もあるわけではなく冬の体力不足や、地域おこしの新しいイベントが必要であるがそうした胎動は見受けられない。
ただ昔からの祭礼として田伏の奴奈川神社では「建国祭」が執行され、地区内の氏25 子惣代達が参拝されている。

当地区の雪の時期の行事と言えば2月15日のお釈迦様の入滅された日の「涅槃会」(お団子まき)である。
曹洞宗(禅宗)の禅林寺では今年は2月17日の日曜日の午後からであり、既に1月末にはお団子を造る白米の托鉢に宗派のお婆さん達が各家に廻っておられた。
『「乞食」に来ました』とえんりよがちに頭を下げてのお願いである。
Photo 昔から白米をお椀か飯茶碗に一杯の量であるから1合位であろうか、集まるとその量は60kgから70kgになるから4斗強である。
しかし顔見知りの近所を廻つても家の「代」が変わり、若いお母さん達には直ぐには理解が出来ず反応が悪いそうである。
双方が気まずい雰囲気になるのである。
それで『「乞食」ごえ』にならざるを得ないのである。

涅槃会にはお御堂の中央にお釈迦様の入滅の絵図が掛けられているが、奥の方の薄暗い所には何本かの地獄絵図が掛けられている。
就学前には何年も祖母に連れられて行き、お団子を拾うのを楽しみにしており、これが唯一の冬の行事としての思い出である。
Photo_2 地獄絵図を見ながら悪い事をすれば閻魔様に舌を抜かれる、針の山に追いやられる、釜湯でにされる等とう何副もの絵図の説明をして悪い子にならないようにと諭されたものである。
こうして祖母と孫との絆のもとで家庭教育、しつけが行われて育つて来た。

「乞食に来ました」と言わせるような世の中となり、又一歩引いて気まずい思いでそう言わなければ集まらない時勢となり、段々と集めて廻る、托鉢の人達もいなくなつて来る。
こうした徳で集まる米も集まらず全量を米屋から購入するか、こう言う伝統の宗教行事も中止にするか、規模を小さくして継続せざるを得ないようになるのではないでしょうか。

写真の説明
1枚目 玄関の早春 2月10日
2枚目 「涅槃会」の案内
3枚目 禅林寺の山門
4枚目 地獄絵図・舌抜き地獄

2013/02/03

NO,8 春寄合い 

Photo 今日は2月3日(日)、朝から雨が今にも降りそうな曇りである。
今日は「雑節」の「節分」で明日は「二十四節気」の「立春」となる。
夜に豆をまく風習と古くからイワシをヒイラギに刺して鬼を避ける風習から何時の間にか「恵方巻」を食べる風習と変わりそれが主流となつた。
この地区では「豆まき」でなくお釈迦様の命日の涅槃会の「団子まき」が昔から行われている。
今年は17日の日曜日である。

今日はこの地区の集落の5自治区ではこぞつて「春寄合い」である。
25 この5自治区とは「自治会」で町であれば「町内会」と同じであり、町内会長に当たる「区長」がいて自治活動の指揮者、先導役である。
その活動の24年の総括と本年の計画や予算案等を区民全員で協議し、終了後に年1回になつた懇親会に入る。
出席する者は家長であるが高齢化と独居家庭も多くなつたりしてご多分にもれない。
それでも家長の代も変わり年々若いお父さん方も出席するようになつて来て、そのPhoto_2 人はどこの屋号の人か解らなくなつている。
仕事優先で早朝から働きに出て、帰りも遅く家に泊まりに来ると言う都会並みである。
唯一こうした席で世代間の交流で自治活動のあり方も論じ、「ならぬ事はならぬものです」、「年長者の言う事に背いてはなりませぬ」、「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」と酔いにまかせてこの時こそ言わねばならない。
しかし昔からの決まり事を声高に言つてももう通用しない世の中になつている。

一パツク2,000円の仕出し料理を取って殆どがビール党になつた若い衆と、酒の年寄りが、戦後の昭和30年代にはその酒を集めるのに苦労した区長、魚も冷凍のイカを解凍し、刺身と酢の物等に朝から役員が出て調理したもので、今の料理に比べるとお粗末ではあつたが心がこもっていて美味しかつたし又、親密感もあつた。

今年も又、5区ある自治区の一番小さな10戸未満の区は高齢化で区を維持も活動も出来なく、ましてや神社の維持管理や祭典が出来なくなり、他の区に吸収して欲しいと言う要望が出ている。
この区は糸魚川の中心の駅や市役所から4km範囲の区域で上下水道や市営ガスが入っている集落でありながら住民自身が自治活動も出来ない限界集落となつている。
市内の山間部ではこうした集落は年毎に多くなつていると言われ久しい。
その顕著なのは集落毎にある「農家組合」の合併があり、廃農や耕作放棄地の増Photo_4 加により山間部ではそうとう加速している。

過疎地に残された廃屋、廃居の屋根には今年も又、雪が積もり、屋根雪おろしも、除雪も出来ていない時期で方々では社会問題となり、市町村では「条例」を創り解決しようとしているが果たして条例だけで解決するものなのだろうか。
こうした家や建物の中には祖先伝来のお厨司(仏壇)が処理に困りそのまま残っていたりしている。
このお厨司の処分に困る話は、市道や県道の整備されて「引越し道路」となつた、過疎化が始まった30年も40年も前から話題となつている問題である。

Photo_3 それと同じように集落に人家がなくなる時に神社の社(やしろ)を解体し祠だけにし整備した所も数箇所あるようだ。
祭礼用の幟を始め社内の祭礼用の諸神器類の更新や補修も思うように出来なく、「さわらぬ神に祟りなし」と手を出しにくくなつておりますが、神社の象徴、祭りの象徴の神輿の維持管理でさえ大変で、神輿の巡行を隔年にするとか、豪雪にこじ付けて休むとか氏子惣代達は苦労しているようだ。
もうじきこの雪が消えれば再び祭りと共に農耕が始まる。
豊かな農村となる事を祈念して止まない。

2013/01/31

NO,7  俚 諺 (りげん)

Photo 今日は1月31日(木)、朝から予報道り快晴になつた。
今日は正月の月の終わりの晦日である。
新しい年の初めの月も何事も無く過ごす事が出来て、そのお礼をしなければならない。
神棚に上げる「しらかけ」(榊)は降雪前に里山から切り取つて来て水甕に入れて保存している。
このしらかけの自生している里山は海抜150m~200m以下位に限られており、市の花「ささゆり」の自生地と同じような地帯であり限られている。
大和川の里山や、そして西海地区の平牛と羽生、糸魚川は蓮台寺の山である。

Photo_2 このしらかけも今はスーパーやホームセンターで売られているが、地元の物とは違うものである。
戦前戦後の直後まではこのしらかけを平牛や羽生の小学高学年の生徒や高等科の生徒が早朝に糸魚川の街に売りに出て、「しらかけいらんかねー」と声を掛けて歩いたものだと言われている。
又、西海の若い嫁さんや娘さんが「割る木」を背負って商家に売りに出た戦前の話もある。
そうした働き者の西海の男衆と同じく働き者の早川の女衆を指したのか、「早川女にPhoto_3 西海男」と言う俚諺がある。
「早川女」の起源はなんなのかは承知しないが、新町(あらまち)芸者を指したのかもしれないが。
「西海男」は西海地区から糸魚川の街に出て財をなした、田原酒造や松木一族、猪又建設、松沢組、斉藤医院等を指して子供の頃から代表格だと聞いていた。

こうした俚諺の中に「豆腐、玄伯、稚児の舞い」と糸魚川の名物を歌ったものがある。
Photo_4 確かにその中の「玄伯」は「相澤玄伯」であり、古く越後高田藩主(25万石)の藩医であり初代玄伯(天正12・1584~慶安1・1649年)から続く開業医で現在の玄伯先生は14代目だそうである。
「稚児の舞い」は一の宮の喧嘩祭に奉納する十二曲の舞楽で貴重な民俗芸能(国重要無形民俗文化財)で誰れでも知っているものである。
さて「豆腐」であるが、何故一番に上がったのだろうか。
確かに大豆はこの地で良いものが生産され、豊かな水もあり、子供の頃は押上の地区には何軒もの豆腐屋があつたにはあつたが、どこが名物なのだろうか。

Photo_5 もう一つはあまりにも有名なのは「名立大工に能生左官」である。
「名立大工」は現在の上越市名立区で旧西頚城名立町で、「江崎の長三郎」で知られ、名立字小泊の板谷長三郎の宮大工で江戸時代末期から明治の初期にこの地区の多くの大工さんが活躍されており、その代表格が「江崎の長三郎」なのである。
地元の神社仏閣(旧青海町田海・西蓮寺鐘堂:明治13・1880年11月 ~ 東本願寺Photo_6 新井別院本堂:明治28・1895年 等)だけでなく京都・東本願寺、奈良・唐招提寺や薬師寺東塔と言つた京都、奈良の社寺建築にも携わつたり、親子兄弟で「新撰規矩階梯」(明治15・1882年6月出版)と言う書物を作り模範書として当時で10万部以上も発行されている。
(この項は上越市教育委員会「みんなのひろば」を参照した。)
それに反し「能生左官」についてはその起源とか、成り立ちはどうなのかを私は知らない。
「現代の名工」の為にも、又、誇れる郷土の職人の為にも明らかにして欲しいものである。

写真の説明
1枚目は 田原酒造の「杉玉」である。
2枚目は 糸魚川駅前の松木商店
3枚目は 相澤医院
4枚目は 「稚児の舞い」の「鶏冠」の舞楽
5枚目は 東本願寺新井別院の本堂
6枚目は 奈良・薬師寺東塔 

2013/01/25

NO,6   学問成就

Photo_2 今日は1月25日(金)、朝から暴風雪の警報が出ており、地面がたちまち白くなった。
昨日は今日と違って一日中晴れの天気となり気温も10度に達した。
その天気で海辺の浪たたき側溝を散歩する人が数人見受けられた一日でこのような北陸の冬は変貌が激しい。
いつもの年であるとこの時期には日本水仙の早いものが咲き出すのであるが、丈が短く開花どころではない。
これは北陸一帯のようである。

こうした中で九州大宰府では梅が咲き始めたと報道があつたが、今日は「初天神」であり、25日正月である。
家の床の間には正月に「天神さん」の掛け軸を掛け今日を迎える風習が子供の時から行われている。
124 そんな事から天神さんの掛け軸は2巾もあり、もう古くなつた方を住宅新築の際に表装しなおした。

こうした「天神さん」信仰は越中や加賀地方に古くから多いと聞いているが、本県のこの地方はどうなのかはあまり語られていない。
ただ田伏の奴奈川神社の境内には「天満宮」が祀られている社があり、今日は祭典が行われた。
124_2 越中の直ぐ近くの井波は彫刻の町であり、欄間や置物が彫られているが、これは浄土真宗井波別院瑞泉寺の門前町が起源である。
この町を数回訪れているが、その彫刻の「天神さん」は多くの家に飾られているが、嫁に出した家が嫁ぎ先の家に男の子が誕生すればこの天神さんの彫刻か掛け軸を贈り、子供の成長と学問学業の成就、家内安全を祈る風習が古くからあり、正月にブリ(鰤)を贈る風習と全く同じである。
こうした風習はどうした事から派生したのだろうか。
そんな事で、この地方では「越中から嫁はもらつても、嫁にはやらぬ」と言う勝手な事を言つている。
越中の人は何事にも金をかけるし、派手であるが、又稼ぎも強いと言われて「勤勉」な風土である。
真に「天神さん」の菅原道真公の遺徳を継承する県民なのかもしれない。
 「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
               主なしとて 春を忘るな」

写真の説明
1枚目は 「天神さん」の掛け軸
2枚目は 昨日の日本海、田伏と梶屋敷には少し「じやり」が付くようになつた。
3枚目は 漁師も高齢化しこのような廃船も見られるようになつた、田伏の浜にて、

2013/01/22

NO,5   小さな集落、大きな占い

25 今日は1月22日(火)、朝から冷たい小雨が降つている。
昨日は一日中快晴となり残雪の道路は朝方はアイスバーンとなつていた。
昨日の21日の暦は「初大師」、来る25日は「初天神」で、どちらが天気であれば、どちらかは雨か雪になるように弘法大師と天神様とが仲が悪いのだと京都の人が言う話しである。

こうした天気の中で今年の天候はどうなるのか心配になるのが百姓である。
25_2 とりわけ今年の夏は暑いのか、台風は何回来るのか、そして農作物の出来、とりわけ稲の作柄はどうなのか、この作柄を「種兆」(たねうら:信州・戸隠神社ではそう言う)により稲の品種を早生種を多くしようとか、晩生種を少なくするとか選定し、スジ(種籾)おろしの計画を立てる。
こうした農作物の農作占いによつて栽培計画を立てる農耕文化が古代より伝承されて来た。

信州・戸隠神社は信州だけでなく広く越後や関東地方まで「戸隠講」があり、多くの25_4 講員の仲間がいた。
毎年「種兆」と言う豊作占いは水稲、陸稲ばかりでなく、養蚕、桑、麦、大豆、小豆、そして台風が多いか少ないか、雨が多いか少ないかを占って講員に配布していて、当地区にもつい最近まで講員が多くいた。

又、信州・諏訪大社は「御筒粥神事」と言うこれ又豊作を占う神事である。
同じ「御筒粥神事」はこの地方にも多くあり小正月の行事として14日の真夜中から15日の明け方にかけて行われている。

当市能生・白山神社は「御筒粥祭」と言つており、葦と石臼で挽いた米を一緒に煮て粥を作り、葦に詰まった粥の具合でその年の豊作を占う。
米は白米3升を石臼で挽き、篩(ふるい)で大粒(早生稲)、中粒(中生稲)、細粒(晩生稲)に分け判断を宮司がし、筒粥は一般参拝者に公開するが、占い結果は公開せず見た人が自分で判断することになつている。

24 その点、信州・戸隠神社の「種兆」のように公開しているのが、下早川・日光寺集落の白山神社である。
この「御筒粥神事」も小正月に行われ、既に神社の社務所に掲示されている。
この地方ではかつては養蚕や麦作、葉タバコ栽培も行われていたが、今は水稲単作となり、稲だけの作柄占いとなつているが、今年は「早生種」の6分は品種から言えば「越路早生」位であり、この地区では栽培していない。
「中生種」は「コシヒカリ」であり9割を占めており、8分の出来とは不満が残る。
昨年は9分の出来と出て、国の作況指数は上越地方は103となつていたが、JAひすい管内は推定98の「不良」で実際は採れなく上位等級比率も2年続きで良くなく、当地区の開田は最も悪かつた。
今年こそこの汚名を挽回し、豊作に持つて行く指標にこれをしなければならない。

写真の説明
1枚目は 日光寺・白山神社の社務所に掲示されている今年の豊作占い。
2枚目は この白山神社も雪の中で参道もわからなくなつている。
3枚目は 春の大祭に「ケンカ神輿」の行われる日光寺観音堂も雪で埋まっている。
4枚目は 信州・戸隠神社の24年の「種兆」と言われる「お札」である。
中ほどの能生・白山神社の「御筒粥祭」をクリックすれば白山神社の祭事のページに繋がります。

2013/01/20

NO,4  あんこう(鮟鱇)まつり

25_2 今日は1月20日(日)、二十日正月でもある。
そして二十四節気の「大寒」であり、越後では本格的な降雪期に入る。
よく「越後の雪は余寒に降る」と言われているが、寒明けにはまだまだ日数がある。
冬の低気圧が少し緩み今日は時々小雨が降ったりみぞれが降ったりの天気で気温が少し上がつている。
それを感ずるのは南よりの風であり、海川の鉄橋を電車が通過する音がゴトン ゴト25_3 ンと聞こえて来るからである。
この音が天候を変える前兆の音である。

こうした天候の日に糸魚川の本町通りを交通止めにして「日本海・糸魚川荒波あんこうまつり」を行った。
この時期日本海で獲れる「あんこう」は「旬」であり、「すの」である。
しかしながらまだ今年になつて口に入つていない。
本町通りに特設会場を作り10時からまつりのテントや雁木通りには屋台が出来て大253 鍋あんこう汁や魚の干し物網焼き、焼き鳥等が焼かれていい臭いがして大勢の人が集まっていた。
この「あんこう吊し切り」の実演は10時半と11時半の2回行われ多くの人が集まり見とれていた。
本町通りにこんなに多くの人が集まったのは何十年振りなのではないだろうか。
昔の暮れや正月の人出をホウフツさせるような風景であつた。

最近の人集めの行事やイベントは「食べ物」が主役となつてお、先日も新発田市の「全国おぞうに合戦」もそうであり、多くの人が集まったと報道があつた。
次回は27日(日)の能生道の駅、2月3日(日)は道の駅親不知でも行われる。
こうした新しい地域おこし、まちおこしの行事として定着し伝統的行事となつて行くの2 かとも思われるが、昔からこの時期だからこそ行われている十日町の「節季市」のように今年の農耕に使われる必要な道具等を売つたり買つたり、そして「チンコロ」のような縁起物の手作り菓子を買い求めて人が集まる。
又、松之山の「ムコの胴投げ」の行事等は寒い最中であつてもほのぼのとするような行事であり風景でもある。

写真の説明
1枚目は 駅前からこのような幟が何本もあつた。
2枚目は 本町通りの賑わい。
3枚目は こうしたライブも行われていた。
4枚目は 「あんこう」の大物を吊るし、これから解体され
       て行く。今年は多く獲れているのだろうか、年
       毎に値段が高くなり冬の庶民の食べ物となり
       にくくなつている。

2013/01/16

NO,3  竹のからかい

9_1_3 今日は1月16日(水)朝から晴天となり久し振りである。
午前中は予約の外科外来の日で診察と薬をもらいに行つて来た。
今日の暦は「薮入り」の日である。
「奉公に出た一人息子が3年振りに帰るので男親は早朝よりソワソワして、天婦羅を食べさせようか、寿司にでも連れて行くかの落語(三遊亭金馬:「薮入り」)が思い出される。」

昨日の15日は「小正月」で小正月の行事は地域によつては色々と残っている。
当地区田伏の奴奈川神社では午前9時半より神社内で火起こしの神事を行い、その種火で「お松さん焼き」(賽の神)を行っている。
この行事に参拝する予定であつたが、近所の友達がおPhoto 茶に来られとうとう行く事が出来なかった。

この「お松さん焼き」は地域内の門松や松飾り、しめ縄、お札等を子供が集め、これを集落毎に15日まで保管する作法に基き行って来たが、この集める子供の行事は出来なくなつてもう30年以上にもなつている。

この「賽の神」の一連の行事としてこの地域で特に有名なのは「青海の竹のからかい」がある。
江戸時代から続くと言う国の指定重要無形民俗文化財(昭和62年12月)に指定されている。
同じような行事は全国に3ケ所程あつたと言われていたが現存するのが青海だけになつたそうである。
昼に1回目が行われ、まずまずの天気であり、平日であつたが時間には多くの人が集まり、主に中高年の人達と見受けたが、今回も一眼レ12 フカメラの重もたいものを2台も首に下げて飛び回つている姿が相変わらず目についた。
その数も20人以上には達するだろうし、そのパワーに圧倒される。

この行事も五穀豊穣や除災招福、家内安全を願う民間信仰が起源と聞いている。
「竹のからかい」は町内を東西に別け、長い竹の根元を交差させ、竹の引き合いが始る。
この主役は若い衆で「隈取」をし、腰にはしめ縄を巻き、ワラジ姿である。
「隈取」は神に仕える人としての強さを表すものなのだそうである。
主役の若い衆はどこでもそうなように少なく年輩の人も多く見られた。
Photo_2 関心なのは国指定だけあつて、揃いのハッピに鉢巻姿、ワラジに靴下は軍足と全員が揃っていた事である。

糸魚川警察署の巡査も地域密着型と事故防止の一役を担って今年も隈取で出派りは勇壮な姿で好感を得ていた。

2013/01/10

NO,2  羽織・袴(はかま)

Photo 今日は1月10日(木)、朝から小雪が時々舞つている。
この正月もあっと言う間に「七草」も過ぎて10日となつた。
今日は5日振りに地面が白くなつている。

この10日は「十日えびす」で全国的には「商売繁盛で笹持って来い」で有名であるが、「初こんぴら」でもある。
当大和川にも小高い丘のカントビラに「金比羅宮」の祠が鎮座しており、本祭は7月10日であるが数年前から8月7日の「風祭り」と合祀して執行している。残念である。
Photo_2 いつの時代から奉られるようになつたのかは資料がないが、地区の「四十物」(あいもの)業者が建立したと言われ、明治の後期頃から昭和の初期にかけてカマボコ作りや甘エビ加工をする家が10戸程あり、一時は「金比羅講」まであつたが昭和の恐慌で廃業に至った。

糸魚川・寺町にも「琴平神社」があり、今日は初琴平で、前日の9日の夜に「おこもり」が行われ、参拝者が「大黒引き」と言う宝くじを引き、今年の幸運を占う、その折に「大黒さん」の歌を唄うそうである。
 「おおべつさんが ござつた」
1にや俵をふんまえて  2にやにつこり笑らつて
3にやさかずき(盃)いな(た)だいた
4にや世の中ええ(いい)ように  5にや泉のわくように
6にや無病息災に  7にや何事ないように  8にや屋敷をたいらげて
9つ小倉をぶつたつて  10にやとうとうおさまつた
この歌は子供の頃に祖母から炬燵に入つて習ったものである。

明日の11日(金)は正月行事の「蔵開き」であるが、土蔵や倉のある家は段々と少なくなつているので,この行事も造り酒屋など伝統的職種のみとなつているし、そうなるだろう。
家にも二階建ての土蔵があり、1町3反の米を入れていたが今は低温庫に10袋程の米が入る程度であり、土蔵は空になつている。
二階のタンスは何代も前からの羽織や袴が入つているものと、朱塗りの膳とお椀があるがもう出番がなくなり何十年にもなる。

Photo_3 羽織・袴も私が着せてもらつたのは婚礼は洋装であり、国造神社の火災による新築の遷座祭(昭和28年秋)と同じく神社移築の遷座祭(平成11年夏)、そして初めて区長になつた年の歳旦祭の時である。
年一回位は惣代や区長は羽織・袴の正装で参拝しようと言う空気となり、新しい家の区長は新しい羽織・袴をこの機会にと新調し、年代ものに比べて色も鮮やかで眩しい程であつた。
こんな事も長くは続かなくもう20年以上も経つている。
そんな事で又、羽織・袴の出番はなくなりタンスの中で長い眠りにつている。

こうした和装姿も近年は府県議会や市議会等でも見られるようになつたが地場産業振興のみでなく伝統的文化としても残したいひとつである。

写真の説明
1枚目は 松本市地方の七夕人形
2枚目は 大和川の金比羅宮
3枚目は 寺町の琴平神社

2013/01/01

NO,1   巳年の始まり

Photo    賀   正

巳年の新しい年の元旦は夜中に降った少しの雪が、大地を白く染め新鮮なものに置き換えてくれた。
昼前から日も出てまずまずの天気となつた。
「朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ 世を」は歳旦祭(元旦祭)等で舞う神楽舞の「浦安の舞」の一節である。
今日の海は決して波立たぬ穏やかな海ではないが季節風も強くなく順調に第一歩をあゆみ出した。

氏子の国造神社の歳旦祭は早朝5時からであり、今日の内に田伏・奴奈川神社の榊神職さんは大忙しである。
奴奈川神社は年が変わる零時から典が始り、「浦安の舞」が奉納される。
25
この「浦安の舞」は昭和15(1940)11月に開かれた「皇紀2600年奉祝会」に合わせ、神楽舞を新たに作る事になり、昭和天皇が昭和8(1933)年に詠まれた「天地(あめつち)の神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ 世を」は神楽の歌詞となつている。
この神楽舞はこの地域では田伏・奴奈川神社のみと聞いており、もう20年以上にもなり舞っておられた巫女さんも高校生になつておられたり、就職されている年齢に達している。
全国的には津つ浦うらの神社ではこの元旦祭や例大祭にも舞つておられるようである。

当国造神社が終れば直ぐに梶屋敷・立壁神社、そして竹ケ花・明正神社、厚田の三神社と廻られており大変である。
どこの神社も今日の歳旦祭のみで特別の行事も、祀りもなく3が日は静かに暮れて行く。
正月の行事は奴奈川神社の賽の神(お松さん焼き)は今年は6日の日曜日になるのか、13日の日曜日になるのか周知されていない。

今年の地区の公共事業は新たに2級河川「前川」の改修の第2次が開始されたり、海辺では防波堤の波叩き側溝に添って新規に市道「海浜道路」の工事が始る。
Photo_2 原山の水田も圃場整備もようやく新規補助事業で取り組む動きが出始め、まず地権者全員の同意書貰いから出発点となる。
こんな動きは過去に何回もあつたがなかなか前に進まなかつた。
竜頭蛇尾(りゅうとうだび)に終らないようにしなければならないし、巳年のコンキョ(困窮)にならないように農作物の技術革新や気象条件の克服等で蛇足(だそく)だけは避けなければならない。
「それ見ろ」と笑われないようにしたい巳年である。

写真の説明
1枚目は 西海・水保の春祭りの神楽「山彦の舞」である。「幸多い年となるように」と
      載せました。
2枚目は 今朝の日本海である。決して凪の良い船出ではない。
3枚目は 本県岩船・関川村の「大したもん蛇まつり」の村起こしまつり。大蛇の長さ
       は82.8m、太さ1.2m、重さ2tで 2001年にギネス社から認定された大物。

「奴奈川神社は年が変わる零時から祭典が始り、「浦安の舞」が奉納される。」をクリツクすると奴奈川神社の写真が出ます。

2012/12/29

NO,53   歳迎え

3_2  今日は12月29日(土)朝から一日中晴れになるようだが、昨日も一昨日もまあまあの天気に恵まれ越年と正月を迎える諸準備には大助かりである。

昨日の28日に餅つきを済ませたが、昔から29日の「九日(くんち)餅」は「苦」に通じると言われ避けてきた。
子供の頃は当然臼でのキネ餅を父と弟と3人で行い、打ち合う順番や調子がなかなか合わず父から度々叱られて10臼余を朝早くから昼頃までかかつて行った。
1229 今は機械餅で今年は少なくしょうと豆餅1臼の3臼とした。
神棚や床の間、仏壇、土蔵、倉庫の鏡餅は作らず買うことにした。

こうして歳迎えの準備が始るが、年毎にその緒さも簡略化させてもらつている。
それも今年から長く先祖から続いて来た稲作を放棄した事にも由来する。
そんな事を色々と考えると、この時期に奥能登(珠洲市・輪島市・能登町・穴水町)のPhoto 奇習「アエノコト」が思いうかぶ。
12月の5日頃に田や畑に豊作をもたらせてくれた神様を家に迎え入れ、山の物、海の物とお酒で饗応し、豊作や家内安全に感謝を申し述べる儀式である。
この神様は1人の単身神ばかりでなく、夫婦神、又は子連れの三柱を奉る家も、又目の不自由な神様もおられる。
家の主人は司祭者となり、肩衣姿で奥座敷に案内するのであるが、そこに敷居があるとか、段があるとか手をとつたりのジエスチャーと言上で招き上げる。
そして風呂場にも案内し、風呂にも入つてもらうと言う神事である。
この奇習は昭和52(1977)年に国重要無形民俗文化財指定、平成21年にユネスコ世界無形遺産に登録されている。

当大和川の地区では特に門徒(浄土真宗)は玄関の門松は立てなく、神棚もしめ縄も飾つていなかつたが、近年は店頭に早くから鏡餅と共に多く並び買い求められているようになつたようだ。

2 この点隣の漁師村の田伏は古い家では門松は家の外に船小屋や網倉庫にも飾られ、そして部屋も座敷や茶の間、炊事場、小間等の入口に若松を飾る風習を継続しているそうである。
これが「賽の神」の「お松さん焼き」にとり払われて燃やされるのである。

当氏子では31日の歳迎えは午前10時から大祓祭、そして午後3時より神社境内で餅つきが始り二年参りが始る。
歳旦祭は5時からで巳年が始る。

写真の説明
1枚目、2枚目、4枚目は今日の午前に「金毘羅山」からの撮影、快晴で降った雪も消え車で行けた。この下に大和川あり。
3枚目は昨年の12月31日に撮影した鳥居。

2012/12/27

NO,52   年の瀬

Photo 今日は12月27日(木)、朝から予報に反し快晴になり夜中に降った少しの雪が眼に眩しい。
この天気は年末年始を迎える準備には大変助かる何人かの手伝いをもらつたようなものである。
昔であればこの時期に町に出かけて色々な買い物をし、町も大売り出しで大変賑わつていたが今はそんな雰囲気はなくシヤッター通りとなつたり、店を閉めて更地になつている所も何箇所もある。

山間部の家では越冬用の醤油や干物等を多く求めて運搬に苦労していた。
この折の風物詩は何と言つても本町通りの雁木の下で「上刈ミカン」を売る御婆さんの黒いマント姿と、客のカクマキ姿であろう。
こんな風景が寒風の中での出来事として長く続いていたがどこの御婆さんであつた12272 のだろうか。

31日の年取りの晩と正月の料理には「ブリ」と「サケ」は欠かせない料理の主役である。
一般的には糸魚川・静岡構造線(フォツサマグナ)を境界として東はサケ、西はブリ圏と言われている。
どう言うことからそうした食文化論が生まれたのだろうか。
当糸魚川は古くから両方を食べる贅沢な土地柄ではあるが、普段は贅沢を戒め、つ12273 ましい生活を美徳とし、自給自足を生業として来た。
特に糸魚川は火事の多い町であり、出来るだけ火を使わないようにし、朝はお粥、味噌汁は野沢菜の「お菜入り」が定番となつていた。

しかし、この時期は「タラ」や「アンコウ」、そして「ゲンギヨ」、「甘エビ」等が多く獲れるし、野菜も、山菜も採れ、何不自由がなかつたはずであつたが。
終戦後の一時期、「寒ブリ」を求めて氷見(富山)まで遠く出掛けてまで正月に食べた程である。
汽車賃が高いので鉄道員に頼んで多く買つて来てもらつて分けた事もあり、こんなことが何年も続いた。
それに比べれば今は好きな時に好きな程食べられる飽食の時代であるが、年取りの晩の料理、正月の料理、節句の料理、そしてお盆や刈り上げの料理等と区別してその食の文化を残していつてもらいたいものである。

1227 こうした顕著なものは村上市の鮭文化があり、その伝承活動や料理は時期になれば必ずのように何回もテレビで放映している。
当市の「アンコウの吊るし切り」のイベントも4~5回目になるが大いに結構であり、これからは「ゲンギヨ」の消費拡大の為にもゲンギヨ汁は「味噌汁」か「醤油汁」か、何を入れるかのイベントも面白い。

写真の説明
1枚目は 今朝撮影した雪の月桂樹
2枚目は これも今朝の黒姫山
3枚目も4枚目も今朝の日本海、3枚目は東方面、4枚目は西方面である。

2012/12/21

NO,51  「やたら」郷土料理

Photo 今日は12月21日(金)、朝から曇りでいつ雨か雪になるかと思っていたがどうやら一日中もつた。
気温は毎日平年より低く経過している。

今日は二十四節気の「冬至」であり、一般的には冬の真中にあり、短日長夜の極点で、これからは一陽来復して日脚は少しずつ延びて行くと知られている。
朝からテレビやラジオでは温泉や銭湯に「ゆず」を入れた「ゆず湯」が報道されている季節の風物詩である。

そして「冬至南瓜」と言い、この日に南瓜を食べると長生きが出来ると言われたり、金運が良くなるとも言われている。
これは冬場に入り野菜不足と成りがちでビタミンAを多く含む南瓜を多く食べて体力 Photo_3 を付けて越年、越冬をすると言う事であり、中風予防とか、風邪を引かないとか、視力、骨や歯にも効果があると言い伝えがある。
南瓜の方もどちらかと言えば越冬野菜で長持ちするような品種改良もされて来ているが、それでもそろそろ腐り始める時期で早く処分が必要な事もある。
そうした生活の知恵が古くから伝承されて来た。

それからこの時期の郷土料理に「やたら」がある。
この料理の主役は「ゆず」(柚子)と「醤油の実」である。
ゆずはこの地方でも多く栽培されるようになり、家の周りや畑には1本や2本は植えられており、大変大きな物が採れるようになつた。
Photo_4 「醤油の実」は今はスーパーにも並んでいるが、昔は農家では自家用で醤油を造っていたので、絞つた後のもろ味を「醤油の実」と言つその材料を使って造つていた郷土料理である。

「醤油の実」にゆずや大根、人参、葉ネギ、白ゴマを入れて細かく刻んだ物のをあえたものである。
ゆずが主役であり、ゆずが多く入らないと美味しくない。
手軽な郷土料理であるが、年寄りのいない家庭ではもう「やたら」に多くなり、「やたら」も忘れられて行く料理の一つなのだろうか。

北信濃でも郷土料理として「やたら」はあるが、夏場の料理でキュウリやナス、ミョウガ、青唐辛子、大根の味噌漬け、醤油で刻んだ物で食欲の無い時期の食欲増進でご飯の上に乗せて食べるようであるが、見Photo_5 た事も食べた事もないが、「やたら」とは残っている野菜を何でも「やたら」に入れて造るからが語源のようであり、「やたら」の通用する地域は少ないのではないだろうか。

今晩は南瓜の煮物を食べて「ゆず湯」に入ろうかと思っている。
妻達の女性部は昨日集会所に集まり、まる一日がかりでキムジャン(白菜漬け)であつた。

写真の説明
3枚目は 「醤油の実」・妙高市のもの。全国各地で販売されているようだ。
4枚目は 自家製の「やたら」

2012/12/11

NO,50  冬景色

1210 8日の午後から降りだした雪もようやく止み、今朝から時々日も出るような天気となつたが、気まぐれである。
昨日の朝の積雪は家の前で12cm程であつたが、車のわだちから消え出しているが、山間部は根雪となつても普通の時期である。
今年のこの辺の降雪時期は昨年と同じ日に降り地面一面真白となつた。

唱歌の「冬景色」:大正2(1913)年5月に「尋常小学唱歌(五)」に採用されている1211 が、作詞作曲者は不詳とされている。
初冬の関東方面かの雪の遅い田園地方であろうか、その朝、昼、夜の風景を簡潔にうたつたもので、一番は湖畔、二番は山畑、三番は村落と詩趣の深い歌だとされている。
二番の「人は畑に 麦を踏む
     げに小春日の のどけしや」
とあり、ここの地方とは大いに馴染まないが。

こうして今年も年の瀬も押し迫まつたと言え、雪も上がればいつもの「のどけしや」にPhoto 戻る。
今日はそうした中で農協の支店では耕作放棄地で栽培したそば「信濃一号」(長野県の奨励品種・昭和19年指定)の「そば打ち体験」が行われた。
収穫は10aで60kgもあり、播種には地元小学4年生も係り、先に小学生もそば打ち体験を実施している。
近年はどこにも「そば道場」があり、「道場長」や「道場主」はガンコである。
こうあらねばならないとやかましい。
それ程流儀も多く、道具も立派なものを揃えていたり、その服装も又職人並みでこつている。

今日は近所の女性部のお母さん方10人程集つて日頃の腕前を披露していた。
そば打ちはよく「三たて」と言い、「挽きたて、打ちたて、茹でたて」は常識となつた。
「親と子の体験」や先般の2年生の体験は、「打ちたて、茹でたて」にはマダルッコイ無理な体験となつたが、その作業と食べたと言う事は大人になっても思い出として残るであろう。

私も戦中、敗戦直後の学校のグランドで南瓜を栽培し、それを国民学校4~5年生の頃に味噌汁にして食べた覚えがある。
教室にバケツ2~3個で運ばれたが直ぐにお代わりし、無くなってしまい先生に叱られた覚えがある。

Photo_2 「ご当地そば」はどこにもあるが、「信濃では 月と仏と おらがソバ」(一茶)が有名である。
作り方では本県では小千谷や十日町地方の「ふのり」と「山牛蒡」の葉を入れてつなぎとし、「キョウギ」に入れて出すのが定番であり、この地方独特である。
食べ方は福島・大内宿の「ネギそば」も又ユニークである。
こうした発想が食文化となり継続されていて面白い。

写真の説明
1枚目は 昨日の家の積雪
2枚目は 上手にのしあがったソバ

2012/12/07

NO,49  散る

Photo_2 今日は12月7日(金)、朝方は晴れていたが直ぐに冷たい雨が降って来た。
今日は二十四節気の「大雪」で、北風が吹きすさび、しばしば降雪を見る頃とされている。
昨日の早朝は爆弾低気圧の強風と暴雨が寝ている部屋の窓ガラスを小枝でも叩くような音がして眼が覚め、最近はこうした音や雷鳴で眼が覚める事が多い。

この強風で前の日の5日にはまだ葉が多くあつた真光寺の大銀杏は全て一晩でなくなり、その散り様は見事と言うか、不思議な位で一枚もなくなつていた。
森林公園高の峰プラトーも夏は賑わっていたバンガローもクヌギ等の雑木も葉を落とし、淋しい様な風景となつている。

1211304 明日の12月8日は71年前の昭和16(1941)年に大東亜戦争の勃発した日である。
真珠湾攻撃で始まった。
私は国民学校1年生で講堂に集められ朝礼でそれを知らされる。
特殊潜航艇の九勇士を軍神と讃え、そのいさぎよい散り様を賛美した。

つい先日、近くの1つ上の先輩が急死された。
青年団も、区長も、農区長もその足跡の後を歩ませてもらつた。
当日は老人Cの忘年会が近くの温泉であり、好きなご酒を程よく戴き、自宅まで肩を借りて入つた程であつたが、又毎晩の晩酌をしたくなり、それを呑み休んでいて急病に襲われ急死された。
Photo_4  通夜に香典を持つて伺ったが、喪主の長男は挨拶で、父とは一緒に酒を呑む事はあまりなかつたが、酒を呑むと「好きな酒を呑み、誰の厄介にもならずに死ねれば本望だ」と絶えず言つており、散り際の大切さが酔った時の口癖であつたと悔やんでおられた。
それにしても明日の事は解らない。
盆栽が趣味で本職みたいなもので、長い冬が過ぎ来春の出来栄えを夢見て冬囲いをせっせとしていた姿を見ていたのでそれだけ悲しい通夜であつた。

写真の説明
2枚目は 11月30日の撮影で
3枚目は 12月6日の撮影、葉は一枚も見えない。

2012/12/01

NO,48  黄色のジュウタン

1130 今朝は3時に大きな雷鳴で眼が覚めた。
今日は一日中小雨が降り寒い日となり、新潟市や長岡市は初雪となり、平年より7日、昨年より10日も遅いと気象台が発表している。
当糸魚川は既に11月27日に初雪が降つており、昨年は12月8日であり10日程早い事になる。

昨日は午前中は晴れとなり越冬野菜の大根や野沢菜の収穫をし、後は白菜の結球しないものが少し残っている。
これで何時降雪があつても越年が出来る準備が整つた。

季節風が強く毎日のように海が荒れている。
秋田ではハタハタの本格的な漁が始まつたり、富山の氷見漁港ではこの時期、「鰤(ぶり)おこし」とか、「おとりこしあれ」と言つて雷が鳴り、海が荒れると富山湾に鰤が押し寄せ大漁をもた3 らすのだと言う。
先日金沢駅内の「金沢百番街」の食堂で昼食を執ったが、入口には大きな鰤が一匹置かれてデモステレーションをしており、客は並んで順番待ちをしていた。
カウンターには、「嫁に出した実家は、婿の家に鰤を一匹贈り、威勢の良い所を見せ、又貰った婿の家は半身を返す」と言う「半身返し」の習慣が古くからあり、鰤の宣伝を墨痕鮮やかに書いて飾つてあつた。

こうした季節風で里山の木々も枯葉を落とし、銀杏の葉が全部落ちれば里に雪が来ると言われている。
昨日は旧西海村・真光寺の大銀杏を再度見に行くと、葉は残すところ少なく落葉していた。
もう2~3日で全部の落葉となりそうだ。
その黄色い葉はジュウタンを敷いたように地面一面に広がっていた。
Photo こうした山村の集落の人々は、春は芽吹きから今年は特別な夏の猛暑の中も休み無く働き、落ち葉と共に雪深い今年の冬を向かえる。
雪囲いはしっかりとなされ雪に耐えて暮らす。

写真の説明
1枚目と2枚目は昨日撮影した真光寺の大銀杏の葉
3枚目は鰤

2012/11/26

NO,47  伝統文化

Photo 今日は11月26日(月)、朝から小雨となつているが2~3日続くようである。
昨日は晴れであり、こんな日は貴重で儲けたような気がした一日だつた。

23日の「勤労感謝の日」は金沢市に一泊二日で出掛ける用があり、何年か振りの初冬の金沢であつた。
金沢は祖父の弟さんが居を構えた関係で何回も行つている。
Photo_2 一番最初は小学校入学前の昭和14年か15年で5歳か6歳の時である。
当然の乗り物は汽車であり各駅停車の今で言う鈍行である、今は特急が普通になつており1時間半で着いている。
当時は4時間もかかつており、車内は退屈で祖父にまだかまだかと困らせていたようである。
その後は中学2年生の春に修学旅行で初めて「修学旅行」らしい一泊二日の旅行であつた。
2 翌年の3年生になつて新潟市であつた。

祖父に連れられて兼六園を見学し、日本武尊(やまとたける)銅立像(明治記念碑)が左前であり、鋳造師が切腹した話を聞いているがこの話はどうして覚えていたのか不思議な位であり、兼六園に来ると「ことじ燈篭」と共に決まって思い出す。
それと公園の坂下の陶器店で九谷焼の唐獅子の置物を買っており、今も大切にしているが小さな型であり、当時は高価で大きな物は買えなかったのかと、この坂を昇る度にこの事が思い出し祖父に可愛がられていたと言われていた。

ライトアップされた公園は期間限定で小雨の夜にもかかわらず大勢いの人が時間待Photo_3 ちで「ことじ灯篭」の前に並んでいた。
翌日の24日(土)は晴天でもう一度公園に足を運こんだ。
見事な松の「雪吊り」や曲水の「辰巳用水」も紅葉で一番良い時期のようであつた。

こうした加賀百万石の伝統文化に触れる旅となり、金箔を貼る体験を「金沢能楽美術館」で体験したり、能面や能装束の収蔵展示の「加賀宝生」の真髄を堪能した。
「県立伝統産業工芸館」では加賀友禅、九谷焼、金沢漆器等の伝統的工芸品を見学Photo_4 した。

城下町の遺産、武家屋敷跡は「長町屋敷跡」を歩いたが、残念ながら「土塀のこも掛け」は12月に入らないと行わないと見る事が出来なかったし、「ひがし茶屋街」や「にし茶屋街」、「主計町茶屋街」の何れも見学する時間がなかつた。

食文化は「近江町市場」を通り、加賀野菜の「源助大根」や「金沢レンコン」等が並んでいた。
魚は何と言つてもこの時期は「甘エビ」と「加能ガニ」の「かないか香箱」(ズワイガニの雌」が旬で所狭しと並び搬入が大変のようであつた。
そして郷土料理と言えば「治部煮」が代表的な料理であり、これを九谷焼や金沢漆器の豪華な器に盛りつけ誇りとしている。
2_2 土産は「落雁」の菓子を買つたが、駅内の「金沢百番街」は賑わっていた。

こうした目で見、耳で聞き、加賀料理を腹に入れたほんの短い旅であつたが伝統文化に触れる良い旅となつた。
再度訪れる機会はあるかないかは解らないが、幼少の頃の長時間は短時間となり、2年後の新幹線が開通すれば更に近くなり、そうした伝統的文化と共に新しい文化も糸魚川に導入しなければそのPhoto_5 意味がない。

写真の説明
1枚目は 金沢駅東口
2枚目は 「兼六園」の額で、石川県立伝統産業工芸館内にあり、12代藩主斉広(なりなが)が奥州白河藩主松平定信に依頼し揮毫したもので、この銘額そのものを始めて知ったし場所も始めて知った。
3枚目は 雪吊りの「唐崎松」
4枚目は 「ことじ灯篭」
5枚目は 「ライトアッブのポスター」
6枚目は 金沢城の一部
7枚目は 「長町武家屋敷跡」 

2012/11/22

NO,46 「小雪」のころ

11162 今日は11月22日(木)、朝から一日中晴れとなり、昨日の午後と続き「小春日和」の暖かい気温となつたが、それでも昨日の高田(上越市)の最高気温は平年よりも3度近く低く、そんな日が最近は続いている。
今日は二十四節気の「小雪」である。
冬もやや進んで、ときには降雪をみたり「陰晴不定
の日」が続くとされている。

そうした冬将軍は予想され、畑に植えた梅や栗などの冬囲いは既に終わっているし、庭の植木や鉢物もようやく終わった。
11212 今年の冬の積雪量はどうなのだろうか、昨冬の積雪量にコリタ山間部の人達は早くから除雪機の導入手配をしたのか、除雪機を積んだトラックが行き来しているのが見かけられていた。
こんな情景も久し振りの出来事で、あまく見ていた雪の怖さを再認識させられたようだ。

北アルプスの白馬連峰は真白に輝いているし、頚城連峰の火打山(2462)や焼山(2260)も真白であるが、1487mの駒ケ岳は2回の降雪、黒姫山(1222)も12日に1回目が頂上だけで無く下の裾野まで一気に積もった。
1122 この地区では駒ケ岳と黒姫山に3回雪が降れば里にも降雪があると昔から古老から聞いている。
今のところミゾレやアラレが降っていないが、野沢菜の葉がアラレで穴があいたり、折れたりするので、網を掛けて美味しくなるのを待つているのである。
雪にあうと美味しくなるとわざわざ寒くなるのを待つて収穫し、「野沢菜洗い」だといつて一斉に「おっかあー」達が川べりに並んで洗ったものである。

新潟県の指定文化財の真光寺の大銀杏の葉はまだ落葉せずにいた。
全部落ちるのは今月末になるのか、12月に入るのか。
昨年は12月6日に一気に落ち、地面が真黄色に染まっていた。
そんな日も近いこの頃である。

写真の説明
1枚目は 11月16日に撮影した黒姫山
2枚目は 11月19日に撮影の駒ケ岳
3枚目は 今日撮影した真光寺の大銀杏

2012/11/10

NO,45  巳年に向かって

Photo 今日は11月10日(土)、今日も朝から冷たい雨が降っているが、この雨は真に時雨であり、根気良く一日中降ったものだ。

晴天の日であれば 「遠い山から 吹いて来る    こ寒い風に ゆれながら
けだかく きよくにおう花」 (野菊・作詞石森延男)の唄は真にこの時期の、この地にも似合う唄でもある。
作詞、作曲者はどこの生まれの人で、どういう地域なのだろうかを知りたくなる。

2_2 11月も半ばになり、年の暮れの行事「おとりこし」(報恩講)で住職が檀家を廻つて来て下さる通知が届いた。
年賀ハガキも既に買つてあり、喪中のハガキも何通か来ている。

来年は巳年、巳年と言えば直感は「巳年の困きょ」(困窮)である。
天保の大飢饉は天保4(1833)年の葵巳年に始まつたり、今から140余年前の明治2(1869)年己巳年に富山県新川郡の一揆が勃発し、全国各地(岐阜県土岐郡、群上郡、島根県神門郡等)にも起きている。
くしくも同じ年に当糸魚川も「糸魚川藩」から「清崎藩」に改められて、「林騒動」や「二歩金騒動」が起きて「巳年の困窮」とまで言われている。
Photo_2 近くでは大正6(1917)年丁巳の翌年3月に魚津の「米騒動」、「米よこせ運動」が勃発した事は有名である。
何れもそんな事件や歴史が重なり「巳年の困窮」と言われた起源なのだろうか。

そうした反面、「白蛇は蓄財をなす」と言われ白蛇弁財天が祀られ、蛇の狛犬が全国各地(栃木・二宮町、埼玉・富士見市、同三郷市、東京・墨田区、三鷹市等)にあるようである。
又、蛇の脱皮した皮も、「脱皮毎に再生する事により、生命の源、出世、金運、財運をもたらし、蛇は蓄財の神」と言われている。
私も5~6年前から青大将のカラを財布に入れて大事にしているが、一向に金が貯まPhoto_3 らない。
どうか来年の巳年は蓄財が適うようにと年賀状の図案を考える事に余念がない。

写真の説明
1枚目は 新潟・岩船・関川村の「大したもん蛇まつり」の大蛇、村おこしの発想で昭和63(1988)年より始まり、長さ82,8m、重さ2tで世界一の長い蛇としてギネス認定されている。
2枚目は 白蛇弁財天の狛犬・栃木・二宮
3枚目は 郷土玩具の竹の蛇、この玩具はこの地域でも子供の頃には見られたが近年は見かけていない。
4枚目は 青大将の脱皮した「から」で下の方を何時も財布に入れています。

2012/11/08

NO,44 立冬のころ

1027 気を緩めていたり、天気の良い日に越冬準備の外作業をしいてると、あっと言う間に日が逃げてしまう。
今日は11月8日(木)、6日からの3日続きの雨模様で、日が出たと思うと急に雨が降り出すと言う北陸特有のこの時期の天候である。
「弁当忘れても雨具を忘れるな」と言う真にこの時期の形容詞だろう。

11月3日は「文化の日」の国民の祝日であるが、元を正せば明治天皇の誕生日で菊薫る「明治節」であつた。
24 その日も、そして昨日の「立冬」も、あっと過ぎ去ったが、季節は真に初冬を迎え、北アルプス連峰は真白に化粧し、2日には頚城連峰の火打山(2462)、焼山(2260)、そして烏帽子山(1451)、阿弥陀山(1511)、駒ケ岳(1487)が一回目の降雪を見た。

里山の楓やツタは一番早く紅葉し、イチョウの葉も黄色を増し、日が変わる度に銀杏が落下している。
家の周りの柿の葉は風が吹く度に飛んで来て始末に困っているが、小菊やツワブキ24_2 の黄色い花が咲き出しているのでこれが秋の景色と思えば風情がある。

こないだ(この間)から天気を見ながら畑に植えた梅の木や栗の木、オウトウの木の冬囲いを行い、背の高いものは脚立を使い、荒剪定をしながら荒縄で結すんでい。
こんな作業も気ままな作業であるが、あっと言う間に半日が終つてしまう晩秋である。
今度は天気になれば庭の冬囲いで大した物でもない盆栽や植木鉢も移動する作業が待つている。

昔だと強い季節風を防ぐ風除けの板を家や納屋の入口や窓等に取り付けて、家の中が暗くなる程であつたが、今はアルミサッシ等が保護するのでその作業が無くなっている。
奥能登の「間垣」や、金沢の武家屋敷の「土塀こも掛け」は冬の風物詩ともなつているので観光の為にも一役務める大切な作業となつている。
来る23日の「勤労感謝の日」には、そうした冬の風物詩を見に金沢に出かける事になつており、「長町武家屋敷跡」や「茶屋街」(ひがし・主計町・にし)、そして夜のライトPhoto アップされる雪吊りの「兼六園」を見ることにもなつている。

「食」は「近江町市場」と季節は「マツバ蟹」(ずわいかに)と「治部煮」は欠かせないだろう。

写真の説明
1枚目は 当地区の山道(市道大原線)のススキ
2枚目は 「こまゆみ」の実
3枚目は 家の玄関の前の「ツワブキ」の花
4枚目は 金沢の「武家屋敷」の「土塀こも掛け」

2012/10/29

NO,43  報恩講

Photo_2 今日は10月29日(月)曇り時々小雨の降る寒い一日であつた。
菩提寺の地区役員より「同朋(どうぼう)新聞」と一緒に「報恩講」のご案内を戴いたので2年振りに参詣した。
昨年は退院後間もなく行けなかつたが、今回もお御堂は寒いので風邪でも引いたら大変だし思案の末に重い腰を上げた。

その理由の一つに寺の本堂内陣の金箔を張替えると言う大事業があり、その懇志をPhoto_3 持参しなければならない事もあつた。
その懇志も一口にさせてもらつたが、月末であり給湯器取替え、障子、襖張替え、水道修理代と幾つも重なり大変な出費となつた。

この金箔張替えは下地から取替えるので天保以来(天保4・1833年)179年も経っているので、来年の親鸞聖人の750回御遠忌法要を迎えるに当たり実施するものとなつている。
今日の報恩講は親鸞聖人の入滅された命日の11月28日に行われるのが一般的であるが、当山では11月も暮れとなると雪も降ったり一段と寒くなるので足元の良い内にと1ケ月早目て以前より行われている。
それでも今日の参詣者は少なく男の方は5~6人と後は女性で全員で50人位であり年々参詣者は減っている。

Photo_4 この報恩講は一年で一番大切な仏事であり、「私達は、生きていく中で思いや徳を受け、感謝をしてもなかなか報いていく事に気づかないでいる。
気づかない事を気づかせて戴く事が大切な心がまえになつている」との事である。
法要も住職と若さんの他にも8人もの僧侶が揃われて厳かに行われた。
お斎にもおよばれし、「精進料理」も全部戴くことが出来た。
一日、一日、そして一ケ年を生かしてもらつた事に感謝し帰路についた。

写真の説明
1枚目 菩提寺の西性寺の入口に並ぶ菊
2枚目 親鸞聖人の越後流罪、上陸の地に立つ像
3枚目 西性寺に立つ「平和」の塔

2012/10/28

NO,42 「柿の日」

Photo 今日は10月28日(日)朝から風の強い荒れた日となつている。
久し振りの雨であるが、24日から昨日まで暖かい晴天が続き柿もぎを少しずつ数日かけて行い、混み合つている枝を切つたり、荒剪定をしながらの作業であつた。
枝の伸びていて手の届かない所は高枝バサミも使ったりであつた。

この柿は渋柿であり、本県では通称「八珍柿」と呼んでいるが、佐渡市では「おけさ柿」と呼んでいて、渋を抜いて広く北海道や関東圏Photo_2 などに広く贈答品として重宝されている。
又、山形県でも「庄内柿」と呼び原木もあると言われている。

本当の学名は「平核無柿」(ひらたねなしかき)と言い、明治42(1909)年の品評会で命名され全国的に注目されるようになつた。
この木の原木は本県であり、新潟市秋葉区(旧新津市古田地区)の屋敷地内に推定樹齢320年、樹高9,4m、根本周囲長2,9mで県の指定天然記念物となつている。
Photo_3 昭和初期に入り、新潟県庁の小山重枝が「八珍柿」と命名し県内に増殖奨励した。
「八珍」と命名した由来は「種子の無い柿は越後の七不思議につぐ珍しいもの」で八つめの珍しき「八珍」となつたものとされている。

こうして県内では今や広く植栽されているが、中でも佐渡の羽茂農協を中心として「おけさ柿」の商標名で普及しているが、当時の農業会の杉田清(1904~93)旧安塚町出身・技師が「庄内柿」の穂木を持ち帰り広めようと努力したが筆舌に言い表せない障害があつたと言われている。
その中には当時新潟県は梨の「二十世紀」を奨励していた。
食糧増産で柿でなく米を督励していた。
「二十世紀」と違い袋かけをする必要がない。田植や田の草取りと競合しない。
植栽技術が容易であり、佐渡の風土に合っていたとされている。
そんな事を考えると技術員の端くれであつた者としてその心境は解るような気がする。

去る26日(金)は「柿の日」であつた。全国果樹研究連合会が平成17(2005)年に制定したもので、明治28(1895)年10月26日に正岡子規が奈良に滞在していたとき、「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句を残した。
これに着想した事にちなんで制定した。
この時期は多くの品種の柿が出回り、日本の秋の味覚を代表する果物として愛されている。

家でも2本の「八珍柿」があり30個程は焼酎での渋抜きを試みているが、後は吊るし柿とた。

2012/10/17

NO,41 小さな秋をひろう

Photo 今日は10月17日(水)、4日続きの晴天、南風が朝から吹いて夏に逆戻りした午前中であつたが昼過ぎから小雨となつた。

しかし遠い山は初冠雪となり秋本番となつている。
家では何年か振りに全部の障子をシルバーセンターに依頼して張替えてもらつたり、炬燵も半年振りに出して朝晩は暖をとつている。

この晴天続きは田や畑の今年最後の草刈り日和となつていた。
Photo_2 特に棚田の休耕田は植えたナシやオウトウ、クリ等の果樹類とウド、ミョウガ等の山菜類が10a弱程あり、この草刈りを少しずつ実施した。
猛暑であつた夏は外にも出れなかった位であつたが、涼しくなりようやく動く事が出来るようになって来た。

今は柿の八珍(平核無柿)は赤く色付いていて間もなく収穫になる。
栗の収穫は既に終り、栗ご飯は何度も今年は食卓に上がった。
Photo_3 草を刈るとカマキリの営巣はヨモギやアヤメの茎の地上20~30cmの位置にあるのが数箇所目に止まった。
又、ムクゲの木に絡まるアケビは熟くし口を開けていた。

山に入れば今はキノコのサマツが時期であるが、熊や猪まで出没し、今日も梶屋敷の街中近くにまで猪が出たと「糸魚川市の安心メール」が届いた程である。
猛暑の勢いか奥山の紅葉も遅れているようであるが、柿の葉は風の吹く度に一枚一枚落ちており、落葉の季節の始まりである。

エルニーニョ現象で今冬は暖かいとか言う予報が有るように、積雪も少ないとカマキリが教えているようだが、蛙は既に冬眠に入つたのか、その姿は見えなかった。
今年の春の遅れをもたらした大雪はもう御免である。

1

写真の説明
1枚目は 梶屋敷の秋季大祭の13日に撮影した斉藤・
内川屋さんの自宅で、ツタが少し紅葉し始めていた。
2~3は今日の午前中に撮影したもの。

2012/10/14

NO,40 奴道中

Photo 今日は10月14日(日)、朝から2日続きの晴天となり、遅くまで続いた猛暑も嘘のように冷え込んだ朝が出た。
白馬連峰は初冠雪となり、富山地方気象台は昨日の13日に北アルプス・立山の初冠雪を観測したと発表し、猛暑の影響もあり、平年よりも5日、昨年よりも10日も遅いとのことである。
この地方では旧10月10日の「体育の日」には決まって初冠雪が見られ、秋が一段と深まつて行くと言われている。

こうした晴天の下で今日は梶屋敷の秋季大祭であり、そして4年に一度の「奴道中」Photo_2 (ヨイトマカとかヨイトマカシヨーとか言つている)が執行われる年である。
昨日は宵祭りであり、立壁神社の小高い所から夕方に神輿が下られてお旅所(梶屋敷児童会館)にお付きになる。
今日はお昼過ぎから町内をくまなく巡行され夕方になつて再び神社にお上がりになられる。

神輿巡行は、お多福面と天狗面(何と言う面なのだろうか)の露払は一般的のようであるが、この祭りには2組の獅子舞が行われ先頭を切る。
Photo_3 次いで「奴道中」である。
この事を「ヨイトマカ」とか「ヨイトマカショー」とか言つており、終戦後始めての復活は小学校6年生か中学生になつてからで、昭和22~23年の頃で、夜に見にいつた覚えがある。

その後青年団の長い活動の時期もあつたが、この「ヨイトマカ」の祭りの事は話題にはなつていなかつた。
当時の青年団は「演劇青年団」からようやく脱皮したが、「祭り青年団」とか「道ぶしん青年団」、「踊り青年団」とかその活動を揶揄し、「伝統芸能」や「伝統工芸」の伝承活動等は軽んぜられた時代でもあつた。
そんな時代からもう50年、その青年団組織もなくなり、又児童生徒も少なくなり、そのPhoto_4 伝統行事の継承が難しくなつている。
そう言う中で良く人を動かし、人を集め立派な祭りを継承している事に敬意を表したい。
そして伝統衣装、装束も年毎に揃えたり、新調したりしている事が見受けられるがその資金繰りも又大変だろうなーと思った。

歴史の浅い新興の祭りにはあまり多くの人に知れておらず、参拝者は氏子だけのものであり、少し寂しいものを感じる。
採れ秋の五穀も台風を避け、まず豊作、24日は田伏・奴奈川神社の祭礼、そして11月の13日は当大和川・国造神社の祭礼である。

2012/10/04

NO,39  秋日より

Photo 残暑が何時までも続いていたが、あーつと言う間に9月の月が終わってしまつた。
今日は10月の4日(木)、朝から晴天となつた。
水稲の栽培を止めて稲刈りが無くなり他人事の作業となつてしまつた。
残暑の中での稲刈りの苦労がなくなつた勢もある。
秋の彼岸の中日には先祖の墓参りを済ませたが、お寺の彼岸法要には足が向かなかった。
妻は亡娘の墓参りに東京の娘と日帰りで甲府市まで出掛けたが、自分はまだ一日中の遠出の旅は自信がなく勘弁してもらつた。

Photo_2 平場での稲刈りは平年より2~3日早く始まり、すっかり終了している。
作柄は新潟県は「やや良」の「104」の指数となり、東北地方(但し秋田は悪く100)や北海道(107)は作柄は良いとされているが、当地区では稲は黄金色で倒伏もなく見栄えが良かつたが、取れ高は昨年よりも若干少なかつたと聞くと人々は答えている。
心配していたコシヒカリの一等比率も70%代であり、まあまあの出来である。

この時期は真赤な彼岸花(ヒガンバナ科)の盛りであつたり、転作田のソバ(品種・信濃1号)も真白な花を咲かせている。
栗も収穫の最盛期で、風が吹くたびに一つ、二つと落ちてくる。
植えた2本の木も粒揃いの良いものが出来た。
もう2回程栗ご飯にしてもらつたり、郷土料理の「ズイキの酢の物」も食卓に上がり、Photo_3 徐々に秋が深まって行くが、こうした「食」からもそれが感じられて行く。
去る23日の彼岸の中日には「おはぎ」を戴き、又10月2日には「豆腐の日」であり「おぼろ汁」にまだ青い「ゆず」の皮を浮かべて
食した。

「二十四節氣」の「寒露」は8日であり、朝露を踏めば冷ややかなるを覚え、秋の深まり行くのが知られる頃となるのである。

写真の説明
1枚目は 家の庭に咲く「彼岸花」(別名・曼珠紗華)
2枚目は ソバの花
3枚目は 甲府の土産「信玄餅」

2012/09/10

NO,38    実りの秋

24 今日は9月10日(月)二百二十日の厄日である。
朝から猛暑がよみがえって来た、しかし早朝はすつかり涼しくなり散歩には最適である。
何人かの人達が海岸の波たたきを散歩している。

今日の厄日の二百二十日も二百十日も台風が吹かず、又大雨も降らずただ毎日続く高温が稲の登熟にどう影響したかである。
中生種のコシヒカリの刈取りは1週間後の15日(土)から3連休が最盛期になるようである。
今年の作柄は全国的に「やや良」の予想が発表されている。
Photo この分だと新米は店頭には多分27日か28日頃に並ぶのではないだろうか。
値段も昨年よりも若干高めに定められるだろうと予想される。

昨年の内臓の手術から丁度1ケ年を経過し生かされて来ました。
稲の栽培の作業が出来なくなり、何十年、何代も続いた稲作はすっかり止めたが、それには心残りがある。
Photo_2 それでも福島の人々の放射線汚染で稲を作ってもその米を放棄したり、耕作が出来ないと言う事は二百十日や二百二十日の厄病神よりも厳しい。
次の詩は真宗大谷派が発行している「同朋」(どうぼう)新聞」の昨年の10月号に載っていたものですが百姓の心情を物語つている。

  実りの秋

黄金色の稲穂が風に揺れる
「美味しいお米を」
人びとは、その一心で、土を耕してきた
私たちのいのちを生かす美しき原風景
原子力発電所の事故は、その一粒の米を奪っただけで
    はない
稲穂を育んできた大地を
人びとが一粒に込めた愛情を
その土地に生きてきた人のつながりを
暮らしの歴史を奪った
多くの人びとが住みなれた土地を突然追われ、帰るあてもない
汚染地域にとどまる人びとの放射線被害に脅える日々は続く
これは一体誰の罪なのか
今、福島が、人間の事実を私たちに投げかけている。

写真の説明
1枚目は 今日の午前中に大和川原のコシヒカリの稔りを撮影した。
2枚目は 雨飾山の北峰に鎮座する石仏で、文政5(1822)年6月23日に小谷村の人々が13体の石仏を担ぎ上げた。この中に竹ケ花の住民・茂七外3人が混じっているが、多分小谷温泉に湯治に来ていて参加したものだろうといわれている。13体の石仏は今は少なくなり、雪崩等で無くなったものと故意に宗教対立で落としたものもあるのではないかといわれている。
この石仏は「風の神」を祀つているとされている。
3枚目は 「風の盆」「越中おわら」の「男女混合踊り」である、今年も更に盛り上がつたと聞いています。

2012/09/05

NO,37 笹倉と同級会

Photo お盆も過ぎ、稲刈り寸前の同級会である。
市内の奥座敷笹倉温泉が会場である、この温泉での同級会は4~5回目となつた。
享保年間(1716~1735)に発見され、昭和14年に黒部川電力が買い取つて従業員の保養所として出発した。

近年卒業生会とかクラス会とか同級会はブームとなつている。
このところ10年間は毎年のように行って来たが、昨年は休み、今年は喜寿を祝って2 の同級会の会場となつた。
この間、最近では足腰が痛いとか、夫婦のどちらかの看護等で家を開ける事が出来ないとかよる歳なみには勝てなく、近間の会場となりこれで最後の同級会となるような雰囲気であつた。

会場までの間、県道湯之河内・梶屋敷停車場線を登ると左には不動山(450)を、正面には火打山(2462)、焼山(2260)、烏帽子(1451)、阿弥陀山(1511)等頚城連峰を望み会場に到着する。
宴会の席では中学1年生の頃の秋に不動山の史跡を全校でハイキングをした事をPhoto_2 思い出されたり、焼山が昭和24年2月に100年振りに大噴火し、梶屋敷の早川に近い所まで全校で見にいつた事も語られていた。
この噴火は2月5日と2月8日の2回であり、多分2月の10日頃であつたのだろう。

それと忘れはしない厳寒の中の木炭運搬である。
多分小学6年生か、中学1年生であつたか定かでないが4~5人で1台のソリを引いて旧上早川の音坂(大字土塩)の木炭倉庫から木炭を運搬したのである。
学校で教室の暖房に使用していた木炭が無くなつたからその木炭を緊急に運んだのである。
時期は2月頃で大和川もソリが使える積雪があり、上早川は大雪でトラツクも動かなかつたからである。
Photo 午前は晴れていたが、木炭を運ぶ頃になると吹雪となり、「岩山」の「谷根川」を越すのに今のように立派な橋が無く、窪んだ川の上を渡るに大変な苦労をして泣き出しそうになつたものだ。
1台のソリに何俵積んでいたかは記憶にないが、学校に到着した頃はもう薄暗くなつており、父兄の人が心配して出向いていた。
こんな時期にこんな作業は生徒にとつて過酷な作業であつた。
父兄や役場から苦情や抗議があつたかは承知していない。

2 私が笹倉温泉に始めて入つたのは小学校就学前の昭和14年か13年の4歳か5歳の頃であり、祖父と親戚の方の4~5人で黄色の乗合自動車に乗った記憶がおぼろげながらある。
1泊であつたのか、風呂場で足を滑らせて転倒した事、温泉の湯でご飯を炊くと黄色のご飯が出来る事、温泉の効能はアセモやデキモノに良いと聞かされていた。
自動車は多分音坂までだと思うが、その後の道は1里はあるがどうしたのだろうか。

先に「雨飾山と海谷山塊」(恒文社)を読むと深田久弥(日本百名山の著者)は昭和16年10月に新町でバスを降りて3里の道を歩いて笹倉温泉に入つたと書いている。
そして「笹倉温泉での夕食は酒とビールもおあいにく様でした。
たいした料理だつてあつたわけではない。純米がおいしかつたのだ。
戦争前にこんなにうまいものを平気で食つていたのかと疑われるほど、この混じりけのないご飯が世にも珍味におもわた」と書いてある。
焼山をえて火打山(2462)、妙高山(2454)に縦走のためである。
しかしその「日本百名山」の中には火打や妙高、雨飾山の頚城連峰が入つているが、焼山が入つていない。
なぜなのだろうか。

今日9月5日(水)は朝から快晴になつたが早朝は寒ささえ感じ、稲は黄金色で早い稲は明日から刈り始めるそうです。
いよいよ刈取りの季節となる。今年の稲は丈が若干短いそうで倒伏は心配ないが果たして期待している以上の取れ高になるだろうか。

写真の説明
1枚目は 会場の笹倉温泉
2枚目は 不動山
3枚目は 焼山・烏帽子・阿弥陀山
4枚目は
 昭和49年7月28日に噴火した焼山、登山中の千葉大学生3人が死亡している
5枚目は 会場にて記念撮影
 

2012/09/01

NO,36  御前山と馬

Photo 今日から9月「長月」である。
今日の1日(土)は厄日の二百十日である。
当大和川の盆踊唄に「二百十日」の風さえ吹かにや稲にや黄金の花が咲く」と二百十日の暴風を案じ、豊作を念じている。
関東大震災を風化しないようにと「防災の日」を昭和35(1960)年に制定しているが、農耕民族ですら二百十日や二百二十日を忘れられようとしている。
そうして今日は西海の谷祭りで水保日吉社の秋祭りでもある。
Photo_2 押上も大和川の坂井水神社も秋祭りである。
天和4(1684)年の検地帳によると押上も大和川も西海谷押上村であつたり、大和川村であつた。

まだまだ残暑が残る日々があり、今年は又特別である。
お祭りには笹餅や笹寿司を作る季節の郷土料理であるが、暑さの為に餅のアンコや笹の寿司でも直ぐに悪くなつてしまい、足が速いと母達が嘆いていたものであり、煮物のナスや豆腐、ニシンの昆布巻き等も注意していた。

Photo_3 先般のブログ「地蔵も踊る」でも書いたように今日は西海谷・御前山の観音堂の祭りでもある。
正式には御前山(おんまえさん)雲台寺(天台宗寺門派)で本尊は十一面観音菩薩であり、創建は7世紀中程に及ぶ古刹、糸魚川清崎城主堀備中守清重が慶長11(1606)年に黒駒を描いた絵馬を奉納している。
この雲台寺は駒ヶ岳の麓で、雨飾山にも近く、山寺の金蔵院(高野山真言宗)等と同じ山岳信仰の修験霊場であり、幾つかの院坊があつたと言われている。
この観音さんはとりわけ馬にご利益があり、縁日には朝早くから馬を飾って多く通つPhoto_4 たものだと祖母がよく話していた。
山門には仁王様でなく馬像が収まっている。
この馬は霊験あらたかであり、先の日露戦争の国難を知り従軍し、勝利に一役かつたと言う。その間は山門に馬が居らず、その後は危険な場所には行かないようにと金網をしたのだと言う話を祖母から小さい頃に聞かされていた。
その他にも養蚕にもご利益があり、小谷や安曇野は勿論遠くは信州上田の信者も多く居られ寄進者芳名札が多く見うけられた。

Photo_5 馬の病気や怪我防止の厄除けのお札を配られており、終戦後まで私の家の馬屋にも貼ってあつた。
お蚕さんもこの地区の殆どの家では一産だけだったが飼つており、これも蚕室に小さな厄除け札が貼られていた事を思い出したが、どこのお札であつたのか承知していなかつた。
今までも馬の札は絵馬として神社や寺で発行している事を知った。
飛騨高山市の奥飛騨温泉郷等で「石動神社」や「福地温泉」で手書き絵馬として売り出している。

家では昭和18(1943)年に馬の保険(西頚城郡家畜保険組合)に入り、保険金額100円で掛金は3円50銭を納めている保険証書が保存されPhoto_6 ている。
その年の米1俵(60kg ・4斗)の値段が18円80銭であり、当時の保険金100円は米5俵分の価格になるが、高かつたのか安かったのか解りませんが、馬も家族の一員であり我が家の農業経営に貢献してくれた。

写真の説明
1枚目は 御前山の観音堂
2枚目は 御前山観音堂の山門にいる馬像
3枚目は 小谷村土谷観音のお札
4枚目は 雨飾山と駒ケ岳
5升目は 遠野市駒形神社のお札
6枚目は 加入していた馬の保険証書

2012/08/27

NO,35 地蔵も踊る

Photo今日は8月27日(月)、諏訪神社祭で「盂蘭盆会」でもある。
夜は盆踊りがあつたものだ。
盆踊りの日取りと場所は長い伝統の中で決まって地域で重ならないようになつていた。
梶屋敷は四つ角の日と浜辺の日の2会場、田伏も梶屋敷駅前と奴奈川神社境内の2日会場 であつた。
何日はどの場所となつていた。
大和川は国造神社でお盆の15日と16日、そして諏訪神社祭の27日の仮装盆踊りと決まっていた。
よその地区では押上は百霊廟の境内でお盆の15日と9月1日の谷祭りの夜に踊っていた。

踊りの好きな人は数人のクループで方々え出かけており、踊りが目的なのか、酒がねらいなのか、酒の出ようが少ないと踊り壊しをやらかす者達もいた。
当時はまだ酒の量も少なく、高かったので主催の青年団も調達に大変苦労した。
Photo_2 酒が無ければ踊れないとか、酔わなければ踊れないとかよく議論があつた。

戦後間もなく旧今井村に姫七発電所(現東京発電)の工事が始まり、前田とか熊谷組とかの土方が多く来ており、これらの人達を警戒して夜は10時前には止めるように警察からお達しがあつたが、その頃にようやく盛大になり、終わりにする訳には行かなかった。
そんな折にもかかわらず9月1日の押上の盆踊りを途中で抜け出して御前山(天台Photo_3 宗雲台寺)の踊りにまで出掛けた者も多かったと聞いている。
朝方までの徹夜踊りで、疲れた者はヤブの中で休むのだが何をしているものなのやら。
私達の青年団の昭和30年代に入つてからはもう御前山まで行こうと言うような話はなかつた。

27日の諏訪神社祭の仮装盆踊りは昔から近郷では有名であり、ボンボリに萩と尾花を飾つていた。
その仮装の中でも定番なのは、地蔵尊を背負った者、大黒様が大きな袋を肩に掛けた者、豊作を意味したもので俵やカマスを背負った者、トウ箕(箕)等を背負った者など多かった。
踊り手に糸魚川の芸者衆や新町の芸者も多く来ていたものだと聞いているが大正の時代か昭和の初めの頃なのではないだろうか。
そんな事で、この踊りに見かけない一人の綺麗な娘さんが来ており、踊りがはねてからどこの家に帰るのかと後をつけた若者がいた。
今の新潟ポリマーKKの前を通り、市道草山線を通り、今の広域農道に出て、昔は「
耕文寺越」であり、東に向かい大和川と早川境の六地蔵の辺りで姿を見失ってしまつた。
Photo_4 それ以来六地蔵が踊りに来たと言う伝説が伝わっているのである。
この耕文寺越は早川村に通じる昔の幹道であり、早川から大和川や西海・羽生に通じている近道である。
多分新町の芸者が踊りに来ており、六地蔵の附近で藪の中に入りオシッコでも使用と思ったのではないでしょうか。
多くの芸者衆が来ていたと言うが一人の単独行動であつたのだろうか。

Photo こうした伝統や伝説のある盆踊りも若い衆がいなくなり、集落も維持出来ない位だから当然の成り行きかもしれない。
地区の15日の盆踊りは丁度踊りが始る時間に小雨が一時降り出し、これで出足が遠のき、少ない人数の寂しいものになつたと言う話しである。
「六地蔵も踊りに来る盆踊り」と、何かこの辺で新しい伝説を作り継続が必要だが、既にその諏訪神社祭の夜の踊りはなくなりもう30年もたつているのではないだろうか。
そのように各谷や村毎に小さな集落であつても神社や寺の広くない境内や、地蔵尊の前がヤッホイー、ヤッホイーの声で賑わつた時代が懐かしくなつた。

写真の説明
2枚目は 御前山(おんまえさん)雲台寺の山門
3枚目は 大和川と早川の境に立つ「六地蔵」
4枚目は 押上の百霊廟
5枚目は 萩の花、これに尾花をボンボリに付ける、諏訪神社祭の踊りのみでありどういう意味があつたのだろうか。

2012/08/23

NO,34 兄弟地蔵尊

Photo_2 今日は8月23日(木)、昨夕は雷鳴と共に久し振りに雨が降り、午後8時には止んだ。
もつと欲しい雨量であつたが、これで少しは涼しくなるだろうか。
今日は「二十四節氣」の「処暑」である。この頃から少しは暑さが収まる頃とされている。
裏の浜の海水浴場は19日の日曜日を以って終了しており、丁度1ケ月の短い期間であつた。
駐車場が満杯の日は幾日もなかつたようだ。
又、「誰もいない海」(今はもう秋 誰もいない海・・・・山口洋子作詞)の静かな海よりも寂しさを覚える海の季節となる。

明日の24日は地蔵尊(菩薩)の「地蔵盆」である。
この辺りでは梶屋敷浜町の地蔵尊と兄弟仏と言われている新町(しんまち)の地蔵尊くらいでその数はきわめて少ない。
Photo_3 信州長野や越中富山は集落の辻に立ち、信州では道祖神や馬頭観音と並んでいるものも非常に多いし、一方富山の方は辻堂が農道や集落内でよく見かけている。
さすがに富山は宗教王国だと古くから言われるようにその信仰心の表れではなかろうか。

新町の地蔵尊は、境内で昼間は子供相撲があり、夜は盆踊りがあつたが、いずれも今はもうなくなつているようだ。
地蔵尊は子供を守る菩薩であり、その子供を多く集めるような行事が行われている。
その地蔵はヨダレ掛けをしているのもそうした事からである。
こうした風習は京都や近畿地方に多く行われ残っているようである。

写真の1枚目は梶屋敷の浜町(はまちょ)におわす地蔵尊
2枚目は新町の地蔵堂で09年の祀りに撮影したもの。

2012/08/19

NO,33 馬と牛

Photo今日は8月19日(日)今日も朝からの猛暑が予想される。
こんな日が続くと体がまいつてしまう、長い間目まいに悩まされていたがようやく治つたと思つたら今度は腹痛が続き病院通いが数回続いた。

昨日は8月18日、「米の日」であつた。
八十八で「米」となり、「米寿」の祝いの八十八と同じであるが、そうでなく全国農業協Photo_2
同組合が決めたもので、米は88の手間がかかるからである。
そうした勤労の精神、農家の苦労や最近では米の消費拡大の意義も大きい。

お盆も終わり16日には仏壇の前の飾り付けは取り除き、禅宗(曹洞宗)の家の方は「精霊馬」や野菜、果物などはこの辺では海に流す風習があつたが、それは子供の頃の事であり、泳いでいるとトマトやリンゴが流れていた。
精霊馬はお盆の13日に飾り、「キュウリの馬」は速く走り、ご先祖様をお連れし、お盆が終われば「ナスの牛」がゆっくりとご先祖様を乗せてお帰りになられる。
まだその辺りにおられるのではないでしょうか。
これは禅宗の話であり、私の家のような浄土真宗はご先祖様は西方浄土に居られ、お帰りにはなられないのだそうです。

Photo_3
足の速い馬と、足の遅い牛についてはどうした事か国境争いや村境いに引っ張り出されている。
当糸魚川市の根知谷「しら池」の東側は今は「塩の道」として整備されているが、新潟県と長野県との境界線が入つていない所が約1kmにも及んでいるのである。
その境を決める日に根知谷山口の衆は馬で、信州小谷の衆は牛で乗り込んで決めたと言う逸話がある。

こうした話は全国的に多くあるようで調べれば面白い。
信州伊那地方では村と村との境を決めるのに馬で乗り込んだ衆は、牛のゆっくり来るものよりも相当入り込んで決定してしまつたと言う話です。
そうした話は南部地方にもあるそうです。
この時代になっても県境が今だ決まっていないのが不思議な位である。
5~6年前に十和田湖の県境を秋田と青森で決めて、地方交付税が大幅に増えたと言う話もある。
2
又最近では静岡県の浜名湖も、浜松市と湖西市、新居町が平成22年に境界を廃藩置県以来の137年振りに初めて確定し、地方交付税も相当増えたそうです。

近々中に市道新設で境界立会の通知が来ており、この浜地は台湾坊主ですっかりもつていかれた場所を埋め立て、境界を出してあるが全員がこれで納得していた訳ではない。
あれから約40年、「寝た子を起こす」にならなければよいがと願つている。

写真の説明
1枚目は 精霊馬の馬と牛
2枚目は しら池と雨飾山
3枚目は しら池
4枚目は 「式年薙鎌打ち神事」(長野県無形民俗文化財)で杉に打ち込まれている鎌で、この場所は「信越国境の争い」の付近で、諏訪大社から神官がこれら、丑年と未年の8月の最終日曜日に行われる。
今度は平成27年未年になる。ここは信州だと言う維持行為であると思うが、祭りそのものは「風祭り」なのだそうです。
おなじ祭りは中能登町にも8月の27日に諏訪神社でおこなわれている。神木はタブノ木であり、稔の秋を前にして風害がないようにとの風神を祭る奇祭である。

2012/08/12

NO,32  お盆の入り

今日は8月12日(日)、朝から晴れとなり裏の浜はPhoto 久し
振りに海水浴客で賑わっていた。
主に長野、松本ナンバーであるが、日帰りの家族連れが多く午後3時過ぎには帰り支度を始めていたが、車で来るので飲物や食べ物は大型のクーラを持ち込んでいる。
水泳監視員の人によると今日は約400人近い人が大和川、田伏、梶屋敷の海岸で泳いでいたようだと言つていたがチトオーバーである。
今日で最後の人出になるものと思われる。
昨日も土曜日で少し波があつたが多くの人が出ていたが午後1時過ぎのにわか雨でPhoto_2 皆な退散した。
皆な家に帰ったのだろうか。
近年は糸魚川や能生、名立に温水プールもあり、こんな所も利用されているし、当森林公園高の峰プラトーのバンガーロやオートキャンプ場も手軽な施設として利用されている。

明日の13日は「盆の入り」であり、農作業や決まり事はこのお盆を目安にして生活も成り立つていたが、今はすつかりそうした風習や習慣と言うものがなくなりサッパリしているが、味わいも無くなつている。
Photo_3 墓地の清掃も家内(やうち)の墓から地区の共同墓地となり墓参りのミソハギ(ミソハギ科)も少なくて済むし浄土真宗は禅宗(曹同宗)のように御招霊様を飾つたり、迎え火とか精霊馬とかもなくサッパリしている。

15日の夜は神社の境内で盆踊りであるが、昔から16日とそして盂蘭盆の諏訪神社祭の27日の3晩と決まっており、豊作の年は惣代に願い出て28日の夜も踊つた。
その踊りの主催は青年団であり、ボンボリの紙の張替えと絵を描くための準備は幾晩も出て行った。
そんな時代はもうずーと昔の事であり、何をやるにも公民館と自治会が加わらないと何も出来ない世の中となつてしまつた。

稲の方も、耕作を止めてからすつかり大和川原に登る事をしなくなつた。
Photo_4 本当に「よそ事」のようになつてしまつた。
高温が幾日も続いたが、7日の立秋から「秋風」も立ち、昼と夜との日格差も出て来て、豊作型の稲姿となつている。
カメムシや青虫、ウンカなど一時も気を緩める分けには行かない。
「二百十日の風さえ吹かにや
 稲にや黄金の花が咲く
  今年は豊作穂に穂が下がる」
と唄い踊る。
そのお盆入りである。

写真の説明
1と2枚目は今日の午後3時過ぎに撮影の田伏の海水浴場
3枚目は 精霊馬
4枚目は コシヒカリの穂 今日の午後の撮影

2012/08/07

NO,31 「風祭り」

Photo 今日は8月7日(火)、今日も朝から暑く雨の降らない日が連続17日間も続いていたが、今ほどにわかに雨となつた。
暫く降って畑の夏野菜の多足になるようになつてもらいたいものだ。
そんな今日は立秋、少しは秋らしい風が吹くだろうか。
夕方には集落の神社では「風祭り」の神事が執り行われる。
この地域ではどこの集落も稲の穂が出始めるこの頃に行われいてる伝統的な神事である。
一般的には鎮守の森の一番高い松の木などに幣束を結び付けて防風、除風の風を鎮める祀りであり五穀豊穣を祈願するものである。
Photo_2 隣の村などは田圃の真ん中に青竹に幣束を結び付ける所もある。
神様はそれを目安に降臨されるからである。

全国的には二百十日の厄日の前後にこの祭りと、又「虫送り」と言う祭りもあり、太鼓や石油缶などを叩いて鳴り物入りの所、松明をかざして畦畔を歩いたり、集落道を村の境いまで行列し、他の村に追つ払つて帰ると言うような行事もまだまだ多く残っていると聞く。
一昔も二昔も前には田植が済めば直ぐにイネミズゾウムシやイネゾウムシ、そして次には泥負虫が付いて稲の葉に加害し、葉を白くしたり、葉が折られたりする。
次は二化メイ虫の発生、今のこの時期はカメムシである。
Photo_3 今年は高温が続きカメムシの多発で徹底防除の指導がなされている。
こんな写真の時代もあつたが、3枚目は信州のある集落の泥負虫の駆除で、虫をほうきで払い落としているものである。
そして刈取りまではウンカの襲来もあり、台風やジェツト気流に乗って中国方面から一気にやつて来る場合いもあり、最後の最後まで一時も気を緩める分けには行かないのである。
4枚目はヘリコプターで二化メイ虫と葉イモチ病防除を実施していた時の写真であり、私もその頃は若く、まだ減反など考えられない、新潟県Photo_4 「米100t達成運動」が叫ばれ米の増産が督励で、北海道とその一、二を競い会っていた時代だ。

近年ますます盛んになる「越中おわら風の盆」(富山市八尾町)もその起源とか由来は立山連峰から吹き降ろす風は強く、「屋敷林」や「散居村」が示す通りであり、農作物の植生にも多大の弊害を与え、これを守もり鎮めるために各所に祠を造って祀っている。
Photo_5 踊りのなりたちは、地域の近代産業の生糸業の多くの女工達と結びつき、踊りが盛んになつたり、踊りそのものは「浄土真宗王国」の風土の中に、それ以前の「融通念仏」が元となつて発展していつたと言うから古い歴史があると言わざるを得ない。
こうした単なる祭りから唄や踊りが結びつき、今や全国的な祭りと変わり富山の観光にも一役かつていて欠かせない存在となつている。

富山の人は肋骨が一本余計にあるとさえ言われているようにその「風」をよんで、それを生かしている。
当糸魚川も白馬連峰や頚城連山から吹き降ろす風を、新しい「風」として生かす「風祭り」としなければ現代の「風祭り」ではない。
ただ明治の時代から便々と続く作法にしか過ぎないではないか。
2_2
写真の説明
2枚目は 旧下早川村・高谷根集落の「風祭り」の幣束
5枚目は 「越中おわら・男女混合踊り」
6枚目は 「越中おわら」
 今年も盛大に行われるのだろう。

2012/08/04

NO,30 「おまんた祭り」と神輿

Photo 今日は8月4日(土)、毎日が猛暑である。
糸魚川市の新しいまち興しのまつりを創り出して第37回の「糸魚川おまんた祭り」が今日と明日行われる。
糸魚川の街の人の「まつり」に地域の人が何故大勢参加せにやいかんのか、街の人にお金を落とすだけだとも言つた。
地域には地域の「まつり」や集落にも「祭り」があり、それで精一杯だとも言つていた。
そんな頃にある公民館の主事に赴任したが地区公民館の運営審議会も素直に参Photo_2 加賛成しなかつた。
市長が直接電話をよこし主事が反対しているそうだね。と、
そんな事もあつたが翌年には他所の地区も多く参加するようになり、地区惣代会挙げて参加し地区広場も出来て交流会も行うように変わっていつた。

それからもう30数年もたち、その「おまんた祭り」もマンネリ化している。
当大和川地区は最初から振興協議会では組織参加でなく個々で自由に参加して下さいと今も一貫している、そんな事で地区広場もなかつた。
その長かった公民館主事も、市職員も定年退職で「おまつり」も自由の身となつている。

Photo_3 今年は「古事記」編纂1300年で出雲は大変盛り上がっているとか。
当市もその「日本神話」のかかわりは大いにある。
大国主命が奴奈川姫を求めて越の国にお出でになつた。
姫ばかりでなく「翡翠」もである。
そしてお生まれになつたのは諏訪神社の祭神健御名方命である。
そんな事で当市内には大国主命と奴奈川姫、そして健御名方命を祭神とする神社が飛び抜けて多い。

そんな事もあり、祭り好きな青年達が神輿を担ぐのみでなく、その祭りを知り、その成り立ちから「祭りを人が守つているのではない、祭りよつて人が守られている」のだと知った。
Photo_4 3月から今年の「おまんた祭り」にこの歳に相応しい内容を取り入れようと企画が始まったが、それが「神輿」であつた。
神輿は大勢で担ぐもの、その神輿を地域の由緒ある神社と由緒ある祭りのものを担ぎ出そうと言うから大変であつた。
旧市内にはどれだけの神社にどれだけの神輿があるかは彼等は知り尽くしていた。
二基ある山寺・日吉神社(根知)は出ていたが、日光寺・白山神社(下早川)、水保・日吉神社(西海)、そして地元糸魚川の一の宮・天津神社の神輿は見受けられなかつた。

新町・諏訪神社(下早川)、梶屋敷・立壁神社、田伏・奴奈川神社(同女性神輿も)、大町・八坂神社、小滝岡・諏訪神社、宮平・剣神社(上早川)と9基も寄つて来てPhoto_5 くださつた。
神輿の前には名盤もあり祭神や祭りの日等も写真入りで記載されていて立派な内容のものであつた。
私は神輿の重量や作成や新調の年も欲しかった。
こうして一部の神輿であつても市誕生以来の出来事であり大変驚いていたし、一日ではもったいないともいつてた人も居た。

「おまんた祭り」もこうした若い人達の着想と実行力でなくてはならない。
直ぐ横で糸魚川駅舎の工事が始まっているようだが、市政の運営と言う「神輿」もこう言う人達によって担がれなければならない。
この神輿の展示は市の「おしらせばん」には場所と時間がのつていただけで、その周知や宣伝は一切ないようである。
Photo_6 市も観光協会も実行委員会もマンネリ化している。
こうした努力をいてしる若者達の名前をあえて出さなかったが、今後も第二弾、第三弾として地域にある「文化財指定」でない泥臭いものでもいいし庶民的なもので
「神楽」や「カブキ」等も「街」に出してやつて目を覚ましてやつて下さい。
大変な酷暑のなかご苦労様でした。

写真の説明
1枚目は 勢ぞろいした神輿
2枚目は 根知山寺・日吉神社の一の神輿
3枚目は 新町・諏訪神社の神輿
4枚目は 梶屋敷・立壁神社の神輿
5枚目は 田伏・奴奈川神社の神輿
6枚目は 宮平・剣神社の神輿
Photo_7

大町・八坂神社の神輿

Photo_8 

小滝岡・諏訪神社の神輿である。

2012/07/16

NO,29 祇園と食べ物

Photo 今日は7月16日(月)、「海の日」の国民の祝日である。
朝から快晴で猛暑になると予報が出ている。
昨日の日曜日は田伏の祇園祭「おてんのさん」の「おあがり」の日であつた。
朝から気がかりな天気であり、10時頃に小雨が降つたが昼過ぎから段々と良い天気となつた。
午後から梶屋敷駅前の仮宮(お旅所)から1週間振りに神輿がお出になり梶屋敷と田伏を巡行され、夕方に奴奈川神社にお帰りになることを「おてんさんがあがる」と言つている。
Photo_2 夕方の5時前に東風に乗ってドンデンドンの太鼓の音が聞こえて来た。

子供の頃はこの日は朝から暑くなり、小学低学年の頃は、おふくろは白いパンツにランニング、腰にはめったに巻かない三尺を巻いてくれ、履物はズック靴ではなく、たぶん藁草履であつたと思うが一日中飛び回っていた。
この日は梶屋敷、田伏の神輿巡行だからペタやハナはそちらにおり、下町を逃げ回つたり、立壁神社の石段を逃げて駆け上がるのである。
Photo_3 神社の山には雪穴(雪室)が2ケ所もあつたり、田伏のセリ場の浜にもあつた事を知ったのもそうして逃げ回って村中を知るのである。
昼はとつたのかどうかは記憶にないが、友達から祭りの笹餅を貰って食べたこともないし、祇園の日だけ売り出す「あやめ団子」など知らなかったし、腹をすかして飛び回っていたのだろう。

夕方の6時頃にはお走りやお練も終り、神輿が上がって帰路につくが、学校の隣の古山でトコロテンを買つて食べた。
トコロテンを買えるだけの小遣いをもらって三尺の中に落とさないように大事にどうやつてしまつていたのだろうか、多分巾着に長い紐を付けていたのだろう。
この店はこの時期だけトコロテンを売つていたが、普通は町区の「デムセ」(出店)であつた。
店の前には井戸があり冷たい水にトコロテンが何本も入つていた。
醤油ビンにはたしか、杉の若葉か、松の若葉が挿してあり、これが特殊の匂いであつたが「くね」(苦に)にはならなかつた。
ハシは1本であつたか2本であつたかは記憶にない。

それとこの時期の食べ物と言えばボタンキョ(スモモ・プラム)とアンズである。
桃は高くて口には入らなかった。
そのアンズの木はゼンシロ(善四郎)とヨソバイ(与三兵衛)とそしてスヤの家にあり、早朝に拾いに行くか、木に石を投げて落ちるのをすばやく拾うのである。
家の人に見つからないようにするには大変な仕事であつた。
そうしたアンズは当時の唯一の果物であつたが終戦後は寿命であつたのか全ての木が切られてしまい今は無くなっている。

昨日の祇園祭の参拝は体調が優れずいけず終いであつた。
写真の1枚目はアンズである。
2枚目、3枚目の祇園の写真は2010年のものである。

2012/07/09

NO,28  思い出

Photo 今日は7月9日(月)、朝から晴れとなり又暑くなつた。
昨日の田伏の祇園祭はどうやら一日中雨も落ちず夕方には良い天気になつた。

そうした中で当大和川でも伝統の七夕まつりが夕方から行われた。
我が家では子供が大きくなり孫もいないので七夕の行事と遠ざかつていたが、10数年振りに観覧した。
Photo_2 大和川には神輿が無く、男の子は「まつり」や「祭礼」には寂しさや空しささえあると長い間言われて来た。
そんな事で18年前の平成6(1994)年に子供神輿を76万円(自治会48、公民館28万円)で購入した。
その神輿を先頭にして2艘の屋形舟に幼児を各10名程乗せて引き合つて(実際は軽トラに乗せて・昔はリャカー、そして耕運機と変わった来た)地域内を1時間半をかけて巡回した。

Photo_3 保育園児や小学生の子供が少なくなり、お母さん方や役員の方の方が多い位いであつた。
屋形舟には笹竹に折り紙が付けられ飾られていたが各家の軒先に飾られているものは殆ど見られなかった。
過っては各4区の集会所に子供達が何日も集まつて折り紙を多く折り、短冊に字を書いたり、踊りの練習もしたが今はなくなつている。
折り紙の人形や、布の猿ぼぼは病や災いの身代わり、折り紙の鶴は長寿を、布の巾着は富貴、蓄財、商売繁盛を願うもの。
短冊に字を書くのも、里芋の葉の露を集めて書く、それは学問や書の上達を意味している。

公民館では習字やソロバンの講座を戦後早くから長い間続けてきたがこれも止めてもう10年以上、今は近くの学習塾は大繁盛となつている。
こうした七夕の意義や伝統は希薄となり議論はなく、当日の運営と継続だけが重要視されている。

Photo_4 汽車通で高田の農学校まで通つていたが、当時は又糸魚川駅や西頚城の駅から女子高の家政高校や関根高校に通う女の子も多くいて、この七夕の時期になるとほろにがい思い出がある。
中間テストも終り、ついそこに長い夏休みが待っている時期、その女の子達は裁縫箱を出していて、それが玉手箱にも見えた。
シャツのボタンを無理に取り、女の子から縫い針を借りるのである。
七夕の牽牛と織姫との年1回のデート、この女の子達と会うのも長い夏休み後になる哀愁みたいなものの感情を覚えた。
そんな昔の淡い思い出は年寄りの七夕であつた。
写真の説明 1枚目は信州・松本地方に伝わる伝統的七夕人形であり、布で作られたもの、折

Photo_5 り紙のものと色々あるそうです。
そうした歴史や習慣・風習を学習すれば面白いと思う。
2枚目からは巡回の風景である。
この写真も貴重な資料となるのではないだろうか。

2012/07/08

NO,27 祇園祭

Photo 今日の7月8日日曜日は田伏の祇園祭である。
この祭りは本来7月7日と14日と決まっているが、漁村挙げての行事であり、小中学校の生徒の大幡や小剣持ちの一行、大人の神輿担ぎ等大勢の参加協力が必要である。
あえて「漁村」挙げての行事と言つたが、今は漁業に携わる家は数戸となり、その漁師も稲作農家と同じく老齢化し後継者もいない。

この祭りの奴奈川神社の隣は市営住宅や県営住宅が出来たり、主に早川谷から出て来た若者たちの新興住宅用地となつている。
そう言う人達が大勢いて漁師に代わり今や神輿担ぎや祭りの主役を担っている。
田伏の子供はそうした小さい頃から祭りに馴染み、ドンデンドンの太鼓の音が響くと血が騒ぎ、肉が踊るとさえ言われている。
一の宮の喧嘩祭りもそうであるようだ。
Photo_2 押上や寺町の女衆でさえ太鼓の音が響くと浮き足が立つとさえ言われて来た。
それ位にこの祭りに誇りをもち、伝承して来たものなのである。

この住宅団地には「田伏玉作り遺跡」や「浜砂鉄製錬遺跡」(いずれも糸魚川市指定)があるが、子供の頃には南側に「ビリダ」と言う水田の未整地があり、沼田で水が多く溜まり、そこまでエトイゴ(イトウオ)やトゥギョ、ナマズを獲りに行つた覚えがある。
Photo_3 そんな情景は今はどこにも残っていない。

そうした長い歴史の中でこの祇園祭も「オテンノサン」が来たとオクヤ(奥家)の人もオォカイド(大街道)に出ていつて神輿に拝礼する。
そんなところは昔も今も少しも変わっていないし、神輿の鳳凰は稲を咥えており、今年の五穀豊穣を祈念している。
夕方には大和川の氏子にも「蘇民将来子孫門也」のお札が配られ家内安全、疫病退散、病気平癒を門戸に貼り付けて祈願する。
どうやら天候も曇り時々霧雨も当たったようであるが、午前中は大和川、竹ケ花、厚田と無事巡行が出来、午後からは地元の田伏と梶屋敷を廻り、駅前の仮宮で1週間の逗留となる。
その頃になると梅雨も上がるだろう。
写真1枚目は「ペタ」であり、「ハナ」と「ジョバ」もいて露払いの役である。

2012/07/07

NO,26  七夕

No2 今日は7月7日(土)、昨日の昼頃から降った雨は夜中続き朝方には上がり日も少しは出る天気となつたが又降る予報であり、大雨注意報や洪水注意報が一時出ていた。
6月の月は本県は降雨量の少ない歴史的な月であつたと報じられていたが、梅雨の上がる頃になるとこんどは一度にまとめて降つて大被害を引き起している。
今年もそんな予感がする。
629 今日の暦は「七夕」と二十四節気の「小暑」であるが、「小暑」どころでなく「大暑」にすでになつている。

当地区の七夕の行事は明日で、田伏の祇園祭に併せて行っており、もう長くなつたが子供の数が年毎に少なくなり盛り上がりに欠けている。
この行事は戦前からの伝統的な行事であり、戦中も戦後も休み無く行っており、子供の成長を願う親心からの発露なのだろうか。
Photo 以前は小学校6年生の女の子が中心となり、4区毎に集会所に集まり、折り紙作りと踊りの練習をし、区内の数箇所で踊りの披露が行われた。
折り紙は国道に吊るしたものであるが、段々とやかましくなり実施できなくなつた。
この行事も1ケ月遅れであり、麦の刈り取りも終り、その麦ワラで舟を年寄りが作り、その舟には子供が数人入れる大きさであり、耕運機のトレラーに乗せて移動した。
暗くなり始めた7時半頃に海に流し「また来年ごーざいのー」と唄ったものだ。

こうした七夕の行事は集落毎に昔は行われていたが、今は殆ど見られなくなり、女の子の自主的な行事も子供会でなく、公民館や自治会の行事と変わり、内容もすっかり様変わりしている。
根知谷では今でも青年団の人達が中心となり七夕飾りを作り、谷の入り口の県道に吊るしている。
家には孫も居らず、公民館や自治会の役員から下りて10数年も経過しており、年毎に変わる内容にとまどいもあるが、集落に生ずいた素朴な伝統行事であり、仙台や平塚の七夕祭りと違っても良いし、人集めの行事ではない。
明日は祇園祭である。どうか天気になるように。
東京では今、「朝顔市」(入谷)や「ほおずき市」(浅草寺)が開かれているが、我が家ではアジサイやダリヤが何種類もの色を咲かせている。
こんなこの頃である。
写真の1枚目は 根知谷の入り口に毎年吊るす七夕飾りです。私はその根知公民館の主事を止めてからもう30年近くにもなりますがそれ以前からの伝統行事であり今でも大事に継続している。

2012/06/30

NO,25 「なごしの祭り」(夏越しの祭り)

630今日は6月30日(土)朝から快晴となり、去る9日に北陸が梅雨に入つたが雨が降ったのは2日位でありここ数日は晴天や快晴が続いている。
急に暑くなり、熱中症のような症状になり先般は緊急外来に行き点滴を受けて帰つた。
血液検査によると貧血症状であり、1週間の飲み薬をもらつた。
手術以来丁度10ケ月であり、持久体力がなく、早朝の5時や夕方の散歩を実施しているが、昨日と一昨日は畑の草刈りを30分程実施した。
日中の外出を避けているので何も出来ない。

今年の冬は遅くまで寒かつたが、今度は暑い日が続くようだ。
あっと言う内に1年の半分が過ぎ、「大祓祭」である。
Photo
夕方5時から祭典が執行される。
当地域では梶屋敷・立壁神社も田伏・奴奈川神社も今日の午後に執行される。
「なごしの祭り」と言つて大きな神社では茅で作った輪を新しいものに取り換えてここをくぐり抜け厄払いを受けるものである。
この地域ではこうした習慣はないが、たまたま数年前に石川・珠洲市気多神社と上州・一の宮の神社で見受けられここをくぐった。
両方ともに農家組合長の農協の旅行であり、農作物の五穀豊穣と健康増進・病気平癒を祈願した。
京都ではこの日に和菓子の「水無月」を食べる習慣があるそうだ。
祭りに食べるものと言えば田伏の祇園には下町の菓子屋さんが「あやめ団子」をこPhoto_2
の日に限って売り出す。
糸魚川・寺町の宵金毘羅には「うぐいす餅」が売り出されたものであるが、今は年中有るようで季節感と言うものがなくなつて来ている。

この祭りが終われば8日(日)は夕方に七夕、又この日と15日(日)は田伏の祇園祭である。
梶屋敷の通称「川流れ祭り」と言われる「風祭り」は19日(木)の午後に行われる。
子供の頃はこの祇園が楽しみであり、厚紙で作ったペタやハナの面をかぶつて走り回る「祇園ごつこ」をしたものである。
この「ごつこ」はこの他に「戦争ごつこ」、「兵隊ごつこ」があり、男の子の唯一の遊びであつた。
そんな頃に戻れるものであれば貧しくとも良いから戻りたいものである。

写真の説明
1枚目 家の畑にある「あやめの花」である。昭和9年に水頭溜池竣工に際し祖父が当時工事の監督であり、それを祝し明治神宮外苑から白色とこの「あやめ」を取り寄せて溜池に植えたものであるが78年の経過の中で絶えていたつ。
増やそうと努力をしているがなかなか増えない。
2枚目 車の茅の輪くぐりで交通安全祈願・茨城・笠間稲荷神社
3枚め 石川・羽咋市気多神社の茅の輪

2012/06/23

NO,24  ホタルの昇る日

Photo 今日は6月23日(土)朝から小雨、その後はくもり、後晴れとなつたが今朝も寒かつた。
21日の夏至は台風4号の通過と共に今まで暑かった幾日が急に寒い位になり昨日は20度に達せず重ね着をした。

水田の耕作を止めたので早朝の水管理も必要がなくなつたり、雨が降っても大風が吹いても見回りをする必要がなく大和川原に足を運ぶ回数が減った。
久し振りに行くと稲は今まで高温が続いていたので成長が進み、草丈は並、茎数は24 やや多い、葉令もやや多い、葉色やや濃いと言われ中干しの田も多く見られる。
2回目の畦畔の草刈も始まつており、あーそうか、そんな時期かと他所事のように思うが、他所事になつてしまい、この時期にはこんな作業をして来たのだなーと他所事に思うが、父も母も先代の皆んながこうした作業を汗と涙の労働で生活を支えて来たのであり、耕作を止めて気楽になり、その作業が他所事になつてしまつた事に申し訳ないと思っている。

Photo_2 明日の24日の日曜日は檀家のお寺の「永代経法要」がある通知が来ている。
この法要は各家の先祖を偲びつつ「亡き人の残された願い」をお互いに御本尊の前でお聞きし、亡き人を永代に供養していただく為の法要だそうである。
普段は仏壇にも手を合わせる事もせず、母は床に入ると「南無阿弥陀仏」、「南無阿弥陀仏」、「なまんだぶつ」と唱えていたがそうした年齢にとーに達している。
明日はどうしょうかと迷っている。
10時からは津波襲来の避難訓練、午後は農協のTPP反対の講演会、夕方からは「ホタルまつり」(自治会)と行事が重なっている。

この「ホタルまつり」も市内では数箇所でやるようになり、人集めの為のコンサートやビール、ジュースの飲食と金をかけている。
当のホタルは「あっちの水は苦いぞー、こっちの水は甘いぞー」と飛んでいるそうだが、そうした環境作りの「ビオトープ」も又大変である。
Photo_3 全国的にも今年は早くからホタルが飛んだとテレビやラジオで放送されていて遠い昔がよみがえる。
家の庭のホタルブクロの咲花は昨年よりも2日早く去る10日には咲き出している。

そのホタルの寿命は短く、捕まえればかわいそうだと言われたり、田伏の祇園のオテンノウさんについて飛び、オテンノウさんについ昇ると聞かされていた。
人間の一生も短かいのか、永いのか、今輝いていても明日の命は解らない。

黒姫山の雪形の「鳥」は19日に既に消えているが、「船」形はもう少し残っている。
その雪形と言えば、妙高山の雪形「はね馬」は第3セクター・並行在来線の信越線・直江津~妙高高原駅間を「妙高はねうまライン」と決定しPhoto_4 たと昨日発表があつた。
当北陸線・直江津~市振駅間は「日本海ひすいライン」となつた。
私の「ひすい海岸線」は残念であつた。

写真の説明
1枚目は 6月18日の稲姿
2枚目は 庭に咲くホタルブクロ 昨日の撮影
3枚目は 「ホタルまつり」のチラシ
4枚目は 下早川のホタルコンサートのポスター
5枚目は 妙高山の「はね馬」で上越市中郷区の歩道にある「はね馬」のパネル

2012/06/09

NO,23  花

Photo今日は6月9日(土)朝から久し振りに雨となつた。5月30日からの晴天で、昨日は上越市高田の最高気温は28.5℃と今年の最高となり、畑の夏野菜は水を欲しがり中でもジャガイモに水を運んでいた農家も見受けられた。

この6月は田植上がりで色々な行事が日曜日の度に行われる。
去る3日は忠魂祭、明日の10日は地区敬老会、17日は環境デーで道路や海岸のゴミ拾い、2Photo_2 4日は災害の非難訓練、夜はホタルまつりとぎつしり日程が決まっている。

この時期は1年で一番花の咲く種類が多い時期であり、里山にはササユリ(ユリ科)と山つつじ(ツツジ科)が咲いているが稀少な植物となつている。
家の周りにはバラ(バラ科)は赤、黄、ピンクと咲き、シャクヤク(ボタン科)、セキチク(ナデシコ科)そしてドイツアヤメ(ジャーマンアイリス)、アヤメ(アヤメ科)、カキツバタ(アヤメ科)、シラン(ラン科)、テッセン(クレマチス・キンポウゲ科)など。
Photo_3 海浜にはハマヒルガオ(ヒルガオ科)、ムシトリナデシコ(ナデシコ科)、そして名前の知らないナデシコのような花、花ではないがハマボウフウ(セリ科)も咲き出した。
規制外来種の特定外来生物のオオキンゲイギク(キク科)は黄色の花を一斉に咲かせており、昨年から撲滅運動を展開しているが追いついていない。
真に百花繚乱の景色である。

妻は一昨日に長岡市の友達を訪ねて長岡の国営越後丘陵公園にバラを見にいつてPhoto_4 いるし、富山のとなみリューリップまつり等があるが、私はそうした観光地でなく海辺の名の知られていない花も見てやつて今年も咲いたねといたわってやつている。

明日の敬老会にはここ数年出席していないが、今年は梶屋敷の若い衆が戦前からの演芸「白波五人男」を伝承するためそれを披露するとの話しをメールで戴いている。
この演芸を知る老人も少なくなつているが、皆んな一花咲かせて実も有る人生の人達が集まるのだろう。

Photo_5 写真の説明
1枚目は 「となみチューリップまつり・大花壇」
2枚目は 越後丘陵公園のバラ
3枚目は 名前の知らない花
4枚目は 家のバラ・黄色
5枚目は 家のセキチク

2012/05/28

NO,22 遺産

今日は5月28日(月Photo )、天気予報通り朝8時すぎ頃より雷鳴
と共に雨となつた。そして昼過ぎにはあがった。
何日も暖かい日が続き、26日(土)は地元小学校の運動会で一日中賑わっていた。
早朝から場所取りと、お父さんやお母さん方の写真撮りやビデオ撮りの姿が目につき、私達子供の頃には考えられない光景であつた。
運動会の閉めは児童全員による盆踊りであつたが、梶屋敷伝統芸能保存会の皆さんの指導で習って来たとの紹介があり、唄も踊りも地区によつては多少の違いがあると前置きがあつたが、踊りPhoto_2 の進行方向は反時計回りであり、当大和川とは違っていたが昔からそうだつたのだろうか。

27日(日)も天気で夏を思わせる暑さとなり、以前であればこの小学校の運動会の日は「野休み」、次の日は「節句」、そして3日目も「野休み」としており、田植上がりの一段落で慰労と地区の行事があつたり、笹餅を搗いて今年の豊穣を祝ったものである。
そんな事を考えながら長い間気にしていた二階建ての納屋の整理に入つた。
Photo_3 一部のワラやワラジも20足もあつたり、カマスも10枚、タタミの表も5~6枚も取ってあり、これらは畑に運び焼却した。
農具は稲作を中心として使用し、その後大型機械化に伴い使用しなくなつた3本グワやチョツキリ、荒くれや代掻きに使用したエブリ、コマザラゲ、除草のための除草機も1輪のもの2輪のもの、株ぎわを除くもの、刈取用のバインダーが導入される1年前位に購入した簡易刈取機など、馬耕や代掻きのスキやマグワ、馬のクラや首に当てる道具等が多く残っており処分に困っている。

Photo_4 処分した物として精米機や3相モーター、耕運機3台分のオモリ、そして最後に歩行用4条田植機も臨時廃品回収場に運んだ。
納屋は広くなったが今後はこれと言つて何が導入され、何に使用されるのかは考えられない。
最近の大型の機械は私の代になつての農業の近代化により導入され、私が買ったものであるが廃農によりいらなくなつたものは二束三文かただで廃品場に出すしかない。情けないものである。
Photo_5 高い金で買つたり、まだまだ何年も使用出来るものまでも廃品とせざるを得ない、「遺産」に対し誠に申し訳けがないと言わざるを得ない。
クワ、カマ、カツサビ、ジョレンの大小、そして先に記した農具類は長い間に父や祖父が年月をかけて買い揃えた品であり、これらは私の一存で処分をする事は出来なかった。
汗と涙と努力によつて築いて来た生活と生産の場の「遺産」であるからだ。

写真の説明
Photo_6 1枚目は 小学校の運動会風景
2枚目は 農具「3本グワ」2本・「チョツキリ」3本
3枚目は 農具「エブリ」5本もあつた
4枚目は 除草機・1輪の小型と1輪の大型のもの・2輪のもの、それと珍しいものは株の脇を取る除草機
5枚目は カッサビ・ジョレン・真ん中は三角のクワ・ツル2本
6枚目は かきつばたの黄色、今は盛りである。

2012/05/23

NO,21 「・・・夢の跡」

Photo 今日は5月23日(水)、朝から5日続きの晴天で気温も初夏らしい暑さとなつた。
田に移植した早苗も一時の寒さで植え痛みや活着が遅れていたようだ。

当市・新町の「第38回藤まつり」(5月10日~25日)も藤の開花がいつもの年よりも相当遅れたが中には鉢植えなので日当たり等により早く開花したものもあり、今年の順位を決める審査には相当苦労されたのではないだろうか。
「藤の花」で「街おこし」が年毎に定着し始め、出品の鉢や、若い藤が玄関先に多く見Photo_2 られるようになつた。
それと、藤と言えば紫色の花が主流であるが、白色の藤も年毎に増え出し、3分の1にも達している。
この色も審査で悩む一つだろう。
去る20日の日曜日に観に行きましたが既に入賞札が付けられていた。

昨日の22日(火)の午後に藤の名所「月不見の池」(月みずの池)を覗いて来た。
Photo_3 普段は人も居らずに静まりかえつていますが、今日は10人程の見物客がおられ、駐車場には富山ナンバーの車もあつた。
昭和30年代にはこの時期に池のふちに臨時の料理屋が数軒出来て池にはボートも浮かび、「新町の芸者」もハベラセるなど大変な賑わいであつた。
近郷は田植の最盛期であつたが、職場の慰労会や、田植の早く終る富山の青年団の人達が団体で来ていたのが当時の特徴であつた。
そんな事を思うと、「夏草や兵どもが夢の跡」、芭蕉が東北・平泉で詠んだ詩であり、(陽暦6月28日)藤原3代の栄華が重なる。

芭蕉と言えば5月16日に旅立つたが今日はどこまで足を延ばしたのだろうか。
「卯の花をかざして関の晴着かな」
同行の弟子・曽良が「白河の関」で詠んでいる。(6月8日)
この地域の里山では今が盛りであるが、詩に詠まれるような綺麗な花ではない。
Photo_4 「月不見の池」の由来は「池の周囲は藤の木(蔓)が茂り、夜のように薄暗く、月も見えない」からである。
一時はその藤の木も絶えたり、水も溜まらなかつたりであつたが、今日は藤もあり咲いていたり、水も多くを蓄えていた。
近年は木材の不振・低迷で山林の手入れがなされず藤の蔓の延び放題で杉の木等に絡みつき、それが紫色の花を咲かせ山を賑やかにさせている。
風流人にはメデル風景であるが、林業振興を叫ばれる昨今の中で戴ける景色ではない。

写真の説明
1枚目は 「月不見の池」に咲く藤の花 5月22日撮影
2枚目と3枚目は 上位入賞の「藤の花」 5月20日撮影
4枚目は 「ウツギ」(又はタニウツギ)の花 5月22日撮影

2012/05/16

NO,20  「旅の日」

Photo 今日は5月16日(水)、私の78歳の誕生日である。
「誕生日の花」はバラである。
バラの花言葉は「愛」や「恋」であるが、赤色は「情熱的とか美しさの象徴」、ピンクは「恋の誓い、温かい心」、黄色は「友情、献身」、白色は「純潔、心からの尊敬」、近年サントリーが開発した青いバラは「神の祝福、奇跡」である。
昨日は一日中小雨が降つて寒かったが今日は晴天で温かくなつた。

そうして今日は「旅の日」である。
松尾芭蕉が330余年前の元禄2(1689)年3月27日(陽暦5月16日)に江戸深川から「奥の細道」に旅立つた日を記念して「日本旅のペンクラブ」が昭和63(1987)年に制定したものである。
Photo_2 一年で一番いい時期に旅立つている。
平成元(1988)年はその「奥の細道」紀行300年の記念の年であり、県内でも俳人やその他の人もその色々な行事に参加したりしたそうであるが私はつい知らなかった。
北陸高速自動車道も前の年に前線開通し、日本道路公団は芭蕉が旅した北陸各地のサービスエリアやパーキングエリアに句碑を建てているそうです。
「米山SA下り」には「荒海や佐渡に横たふ天の川」や「名立谷浜SA下り」には「文月や六日も常の夜尓盤似寿」(夜にはにず)があるそうだ。
Photo_3 そんな粋な事をしたとは知らなかったから名立谷浜SAの句碑も見た事もないし、そこまでやるのかと思った。
そうであるならば「親不知IC」には「一つ家に遊女もねたり萩と月」はどうしても欲しかった。
誠に残念である。
そうして新潟、富山、石川、福井の間に14基も建ったそうである。

私は素養がないので良く解らないが、最近は短歌や俳句、川柳等の静かなるブームなのだそうであるし、私も捻れたら良いなーと最近つくづく思っている。
そう言う人達の世の常、昔から多くの人達がいて色々とやらかしている。
そうした芭蕉の句碑は当糸魚川市内でも旧能生町には一番多くあり、白山神社で詠んだ「曙や霧にうづ満くかねの声」の句碑を始め個人宅Photo_4 の敷地でも室川邸(平成元年)、中川邸(安政3年)、滝川邸(嘉永6年)、矢沢邸と句は違うが4基もある。
旧糸魚川市では、田屋・熊野神社境内と羽生ヘッリ地内の2基、旧青海町は田海・西蓮寺境内と市振・長円寺に大正14(1925)年に相馬御風の揮毫で建てた「一つ家に遊女もねたり萩の月」は「桔梗屋」で詠んだ句で余りにも有名である。

Photo_5 人の人生はとは、「月日は百代の過客にして行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅をすみかとする。」と翁が言つている。

写真の説明
1枚目は 中尊寺に立つ芭蕉の立像
2枚目は 「母の日」に贈って戴いたバラ
3枚目は 能生・白山神社境内に建つ芭蕉句碑
4枚目は 浦本から見た黒姫山
5枚目は 市振・長円寺境内に建つ芭蕉句碑

2012/05/08

NO,19  薬師の日

Photo 今日は5月8日(火)、朝から2日続きの晴天となり、風も無く暖かい過ごし易い一日となつた。
家の周りの藤は8分咲きとなり、水田の方も2~3の農家が田植をしていたが6条植えの田植機が委託作業で稼動していた。

今日の午後は田伏の「山の薬師の日」で春の祭りの日で4人の僧侶の法要が行われていた。
秋は11月8日と2回の祭りを行っている。
昨日の午後は村の役員の方数名と大雲寺の住職が今日の準備をされていた。
普段は訪れる人も無く知る人も少なくなつたが、昔は昨日は宵薬師で善男善女が泊り込む「おこもり」で賑わっていたと聞いている。
3 今日は50人程の参拝者で80%は女性の方であつた。

私の母の母親が眼が良くなかつたので何回か家に寄つては「おこもり」にもいつたものであり、薬師様とは眼病の仏様だと思った。
本堂には綱に下げられて奉納された「穴あきのお椀」が幾つもある事に機が付いた。

これは耳の病気や鼻の病気の平癒の祈願だそうであるが、方々の地蔵堂等には奉納されている草鞋があるがここには見受けない。
2 草鞋は足に履くもので労働や健脚で豊作に結びつく信仰からだそうだ。
又、神社仏閣等により絵馬の奉納もあるが、この薬師堂には「ハセ船とかハガセ船」(千石船)とか言う「船絵馬」の立派なものが5~6枚あつた。(今後船の名前や何時の奉納なのかを調べたいものだ)。
こうした絵馬の中にはオッパイの形をしたものもあり、昔は乳が出るようにとの願いで奉納されたが、今は現代病の婦人病や「乳癌」の意味合いが大きいのではないだろうか。

この薬師如来とは東方浄瑠璃界の教主でその名の通り医薬を司どる仏で医王と言う別名もあり、衆生の病気を治し安楽を与える仏様とされている。
このため仏像はしばしば薬壷を持っている。
薬師如来信仰は飛鳥時代に始まり、法隆寺金堂の薬師如来光銘には「第31代用命天皇が病気になつた時に治癒祈願のために寺を建て薬師如来の像を祀るようにと仰せがあり第33代推古天皇と聖徳太子がその遺志を果たした。」と書いてあり、第40代天武天皇の時代に皇后の讃
良皇女(後の第41代持統天皇)が病気になり、その平癒を祈願して寺を建てた(奈良・薬師寺)ところ霊験あつて直ちに直ったと言う記録が日本書紀にあるのが一般的である。

Photo_2 田伏・山岸にある薬師堂の薬師如来は「行基」(670~744)の作で米山薬師と同体で秘仏とされている。
元々糸魚川清崎城主荻田主馬の守り本尊であつたが落城後に家臣の斉藤忠左エ門に縁あつて渡り、忠左エ門が大病になつた時に仏像が夢枕に立つて「我東方医王薬師如来」なりと告げ瑠璃玉の薬壷から薬酒を頭に注ぎ病気が全快したり、日本海沖を通るハセ船を止めたり、加賀の殿様の乗馬をお堂の前で止めるなどしたとか。
そんな事で今の場所に移設し、斉藤家3代の弥治兵衛が本尊を現在の大雲寺に寄贈したものだとされている。

写真の説明
1枚目 祭りの幟
2枚目 薬師堂に立つ朱色の幟
3枚目 「南無薬師瑠璃光如来」と読める
4枚目 「山の薬師」と言われる薬師堂

2012/05/05

NO,18  節句

Photo 今日は5月5日(土)端午の節句であり、24節気の「立夏」でもある。
「夏もちかずく八十八夜」も5月1日に過ぎ大型連休の前半は夏日であつたが後半に入り天候は安定せず気温は戻り今日もかろうじて晴れとなつた。
3日の休日には家族で能生谷の温泉に車を走らせた。
途中の里山には所々に残雪があり、能生川は濁った水が量を増していた。
庭の所々に桃が真赤な花を咲かせ「桃源郷」とはこう言う風景を言うのかも知れない。
いつもの年だとこの時期には軒先にはゼンマイ干しのムシロの2~3枚は見えたものであるが、今年はまつたく見られなかつた。
平場の当地区では晴天の日にはその風景が見受けられる。

2 今年から何代も続いた水田耕作を止めたので早朝から出て水管理をする事もなく集落内を散歩し「釜戸に煙が立ち昇つているか」(民の釜戸は賑いにけり・16代仁徳天皇の向こう3年間税を免ずる詔されたと言う古事記)を見て回っている。
連休の後半は「荒くれ」そして「代かき」、そして「田植」と作業が進み、14日の月曜日頃には全ての水田は田植が終っているだろう。
山間部には雪が多く残り、用水路も埋まっている所も多く、「江サラゲ」の出来ない箇所も相当あるが雪解けの冷たい水が多く流れて来てい2_2 るようだ。

今日の節句もこうした田植作業の盛りで1ケ月遅くれに田仕事の慰労を兼ねて「野休み節句」の日を設定し集落中休んだものであるが、そうした行事もなくなり、季節、「期節」の節目がなく四季の移ろいも感じられなくなつた。
先般のブログでは「祭り」位いには軒下に提灯位は下げてはどうかと書いたが、この節句は「男の節句」であり、大きな「鯉のぼり」や「幟」及び「吹流し」を立てているのが各地の旅行の際に見受けられたものであるが、近年この地区では殆ど見られなくなっていまつた。
少子化や新興住宅地でカーポートは作つても「鯉のぼり」を立てる用地もないのか、親戚から贈ってもらうと言う習慣が無くなったのか。
「鯉のぼり」は男子誕生の証でもあつた。
温泉に行く途中の能生谷郷にも「鯉のぼり」は見えなかったが、春季祭礼の「大幟」が3集落程見え、この集落は春祭りなのかなと思われた。
神様はこの「大幟」を目安に「おいでゴザツて」(降臨)この里の今年の五穀豊穣をもたらせて下さる。

家の浜の民宿に「鯉のぼり」が五月の海風を一杯にはらんで泳いでいた。

写真の説明
2枚目は広島の「壬生(みぶ)の花田植」・国指定重要無形民俗文化財・昭和51年5月4日・田植は6月の第1日曜日のようである。
3枚目は佐渡の「車田植」・国指定重要無形民俗文化財・昭和54年2月3日・田植は5月中旬のようである。
なお、こうした「車田植」は高山地方にも多く国の指定を受けており、「田植」の文化財は全国的に多いようだ。

2012/05/01

NO,17   西海の谷祭り

24 今日から5月、「雑節」の八十八夜だそうだ。
八十八夜の別れ霜、霜も降らなくなり初夏を迎える頃とされている。
今日は3日続きの夏日となり、高田の気温は午後3時頃には30度を超えたと報道があつた。

里山には通水も始まり水田(みずた)も多く見受けられるようになつたが、気の早い人は田植を始めた。
畦畔の草刈も終わっていない者、田の耕起もされていないもの農作業の進みぐわい24_2 はまちまちである。

こうした中で当地区の坂井集落水神社の春祭りであるが、旧西海村の「谷祭り」とされて水保の日吉社は春の大祭である。
日吉社から二基の神輿が石段を下り、同じ水保の観音堂の石段を登り、観音堂を囲んでお走りし、競い合いの喧嘩神輿となるのである。
その後に観音堂に舞台が造られ「神楽」が行われるのが恒例である。

242 この祭りについては市内でもあまり知られておらず、「水保の観音さん」と言う事位である。
観音様は秘仏で33年毎にご開帳とされ数年前に開帳の大法要が行われた。
木造十一面観音立像で身の丈155cm、桜材の一木造りナタ彫で藤原時代の作とされ大正12(1924)年3月に国指定重要文化財となつている。
法要は11時から「高野山」と書かれた衣をまとつた僧侶お1人で勤められいた。
この祭りも神仏習合の祭礼である。

2基の神輿の巡行は残念ながら今年はなく、「神楽」の始る前の挨拶では、「今年は大雪で消雪が遅れ祭りの諸準備が出来なかつた事、去る4月3日の大風で観音堂の前の大杉が倒れると言う災害にあつたので」と中止せざるを得なかったと言つておられた。

24_3 「神楽」は11時半より開始され10種目の演出で午後1時まで楽しんだ。
下早川日光寺の「神楽」は3種目であつたがこちらは種目も多く見ごたえがあつたが保存活動は大変だろうと感激した。
「一の宮のケカン祭り」の「舞楽」とは違って華やかさとか、美しさとかはないが、山間部の農村に根付いた素朴な舞いとして観賞して来た。
それにしても参拝者や見学者が少なく、保育園児と地元小学校1~2年生位の子供Photo_2 が「海幸」や「山幸」の播いたキャンデーにはしゃいでいた。
こうした農村に残る素朴な文化財を守り、それを育てる意味でも多くの参観者が集まつて欲しいものである。

写真の説明
1枚目は 日吉社の大幟
2枚目は 「神楽」の演目
3枚目は 「鈴の舞」
242_2 4枚目は 「弓の舞」
5枚目は 「海幸の舞」
6枚目は 「山幸の舞」

2012/04/25

NO,16  祭礼 Ⅲ

Photo 今日は4月25日(水)朝から晴れ二日続きの春らしい日となつた。
家の周りは春の花で一杯だし、遅く咲いた桜も散り出し、昨日からの黄砂も春霞みで黒姫山は今日も見えない。

地域の春祭りも9日の梶屋敷・立壁神社、13日の当大和川・国造神社、そして昨日の田伏・奴奈川神社、来る27日は竹ケ花・明正神社、5月1日は坂井・水神社と旧西海村の谷祭りと執行され春本番となる。
Photo_2 奴奈川神社の祭礼も昼前から行われるが、神輿巡行や特別の行事もなく平日てもあり静かな一日であつたようだ。
昨年の秋祭りに際し大幟が新調されたと聞き写真を撮りに行つて来たが、祇園の祭りの際には氏子の軒先に祭礼の提灯を下げるが、この祭りには下げていた家は数軒しかなく寂しかった。
当大和川も祭りには提灯位は下げようと言う話もあつたが今だに実行されていない。
Photo_3 祭礼には提灯位は軒下に下げて祝いたいものだ。

当大和川も24日は「若お宮さん」と言われる「山崎の先」に稲荷社と秋葉神社があり、この春祭りであつた。
そして27日は諏訪神社祭と続いた。
24日の祭りは「若お宮さん」の現地で行われ、稲荷社には朱色の鳥居と土俵もあり寄り相撲も取られたと言う。
昭和に入り農村恐慌で村中がヒエイし、続く祭りどころでなくなり、27日の諏訪神社祭に統合し、児出地区にある児出神社も、高ノ峰の小富士山(241,8m)にある小富士神社も併せて行うようになり現在に至っている。

「触らぬ神に祟りなし」と昔から言う。
27日に統合を決め、24日に祭礼を執行しなかつた2日後に人家火災が発生した。
事もあろうに私の家の西隣りの人家から昼に出火し、人家1棟、納屋は私のものの外に2棟を全焼した。
私の家の土蔵は落ちる事はなかつたし、家の南側の下見が燃える程度で東風に向きが変わり類焼を免れた。
Photo_4 納屋には集落に配達する化学肥料が多く積まれていたが、小学校高等科の生徒が大勢来てくれて持ち運んでくれた。
日中の昼休みの出来事でありこれが幸いした。
家の家具類から畳や床の間の板まで「稲場」に運んでくれた。
残念なのは「床の間の板」が火事場泥棒にあいなくなつた。

この日の火事は長い歴史のある祭りの日取りをかるがるしくも変えた祟りであると後に囁かれるようになつたものだ。

写真の説明
1枚目は 黄砂で黒姫山が見えない。24日の撮影
2枚目は 奴奈川神社祭礼の大幟
3枚目は
 チューリップも今が満開
4枚目は 国造神社の桜は花吹雪である。今日の撮影

2012/04/16

NO,15 祭礼 Ⅱ

Photo 今日は4月16日(月)朝から2日続きの晴天となり、家の廻りのラッパ水仙は黄色、椿は朱色、モクレンは白色と早春を彩つている。
午前中は高齢者運転講習で3度目の受講となりこれで3度目の受講となりこれで最後の免許証書替申請になるのかと覚悟をする。

昨日の昼過ぎに旧下早川村日光寺の白山神社の春季大祭を好天に誘われ参拝した。
神仏習合の珍しい神輿巡行と2基の喧嘩、そして6人の仏僧による法要(祭儀)が古式豊かに行われ、最後に「神楽」が行われた。

この白山神社の祭礼は本来は4月18日であるが、神輿担ぎの男衆が集まらないと言い今年は日曜日となつた。
日光寺(真言宗豊山派長谷寺)から稚児行列が白山神社に向かい、ここから2基Photo_2 の神輿が急傾斜の石段を降りる。
急な石段と言えば梶屋敷・立壁神社や水保の観音堂も2基の神輿が登るがこの白山神社の下りは一番大変である。
この巡行の先導は僧侶が司り、その直ぐ後に神職が繋らなる。
これも神仏習合のなごりの一つとされている。
神社から日光寺の観音堂に向かい、観音堂を廻って広場で喧嘩神輿となる。
Photo_3 喧嘩神輿は予め前の方の担ぎ棒を地面に付けて向かい合い、2の神輿も同じように前の方を地面に付けて2m程の間を置いて双方で滑べらせてぶつかり合う。
神輿はドシンと鈍い音を出す。
観音堂を6回程廻り、4回もぶつかり合をして観客を楽しませていた。
壊した神輿の修理費は大変であると聞く。

その後観音堂に併設した舞台で法要(祭儀)が行われる。
Photo_4 この時の仏僧は6人であり、その1人には根知・山寺の金蔵院(高野山真言宗)の住職も見受けられた。
法要の最後にはハスの花びらを形どつた紙を信者にまいて終りとなる。

最後は「神楽」である。
演目は1つ目は「獅子舞」、2つ目は「幣三重」、3つ目は「海幸」(鯛釣り舞)であつた。
この演目は1人づつの大人の男衆であり、初めて見せてもらつた。
演ずる人もお神酒が入り、最後の「海幸」は、鯛が大きすぎて釣り糸がはずれたり、被つていた烏帽子が再三外れたりで大あわてし、それが又観客に大受けで大歓声であつた。
そうした目出度い「神楽」であつたが、「神」だけの「楽しみ」でなく農民大衆も「神」とPhoto_5 楽しんでいた。
写真の説明
1枚目 白山神社の大幟、周りにはまだ残雪がある。
2枚目 僧侶の先導で、その後に神職が続く。
3枚目 喧嘩神輿
4枚目 神楽・「幣三重」と言う演目
5枚目 神楽・「海幸」通称「鯛釣り舞」とも言うそうです。

2012/04/13

NO,14  祭礼

Photo 昨日と今日も晴れてようやく早春を感じるようになり、春は「糸魚川のケンカ祭りから」始るとも言う。
桜はまだ1週間も先であるが梅はようやく開花した。
今日の4月13日(金)は当大和川の春祭りである。
お祭の特別の行事もなく10時から祭典が行われる位のもので参拝者も自治会役員位である。
昔は早朝から餅をつき親戚に配り、夕食に間に合うように来てもらうよう「自分使い」を行っていたが、その内に「呼び合い」は自然に行われなくなり、餅も搗かなくなつた。
この時期は早くも田や畑の耕起も始まる「春耕期」であるが、水田の保温折衷苗代の種まきの時期でもあるが、祭りの日と後祭りの日位は農休日にしようと決まっていたが、農家の数も少なくなり農休日もなくなつている。

今日の祭神は大国主命である。
Photo_2 そして4月27日は春の諏訪社の祭りであり、大国主命と奴奈川姫との子の健御名方命(たてみなかたのみこと)が祭神である。
大国主命と言えば日本神話や古事記編纂1300年の主役として大黒様の二つ名で知らぬ者はいない。
「因幡の白兎」で沖ノ島から(2説あり)ワニを本土に並ばせ、その背の上を飛び跳ねて上陸寸前に嘘がばれて真裸にさせられる。
そこを通つた大黒様に「真水でよく身体を洗い、ガマの穂の上で休みなさい」と助けられた。
Photo_3 これを歌にしたのが「大黒様」である。
尋常高等小学校唱歌で明治38(1905)年に発表され、作曲は田村虎蔵(鳥取出身・1873~1943・70歳没)さんで地元の人である。
この田村虎蔵さんと大和川村との関わりはどうであつたのかは不明であるが、大正元年(1912)10月1日に大和川尋常高等小学校の校歌が制定され発表された作曲者である。

この地域の小学校の校歌と言えば当然のように地元の文豪相馬御風の作詞のものが多くありますし、鳥取や島根では当然田村さんの作曲の校歌が多いと聞いている。
唱歌や童話も多く、「花咲爺」、「金太郎」、「桃太郎」、「牛若丸」等々は代表的なものである。
大正元年の田村虎蔵さんの作曲の経緯を知ろうと少し調べた。
 明治37(1904)年 9月東京高等師範学校教授
 明治43(1910)年10月東京音楽学校教授
 大正13(1924)年 欧米より帰国後東京市の音楽担当の視学になられている。
 大正 元年は、明治43年に東京音楽学校の教授になられた3年後になり、その時代にどのような理由で依頼されたのだろうか。
大和川小学校の沿革史(竹内正人・大和川小学校長編)にも出てこない。


写真の説明                                             
2枚目は 4月1日に撮影した梅
3枚目は 「ショウジョウバカマ」の鉢植え、花の色は「白」であり珍しい、4月1日の撮影

2012/03/28

NO,13  ドンデンドンが ・・・・

Photo 去る23日で春の彼岸も明けたが「暑さ寒さも彼岸まで」とか「三寒四温」は今頃の気候を現すものであるが今年の春は直ぐには来てくれない。
それでも昨日の27日は朝から快晴となり盆栽の冬囲いを除いたり、車の冬タイヤを取替えたりした。

今日も朝から小雨が降ったり、曇りであつたりの日となりそうである。
この時期には北アルプスから吹き降ろす南風が里山や奥山の雪を消し農作業を急がせるがこの風が吹かない。
この南風に乗って一の宮のケンカ祭りの稚児の舞の練習の太鼓の音が聞こえて来たものである。
この練習は今日の28日から始るならわしとなつている。
 「つもる白雪 サラリト解けて
   春は太鼓の 音から明けりや」
(糸魚川小唄の一節・相馬御風作詞・昭和11(1936)年8月27日発表)
Photo_2 この歌と共に春が一挙に来るが今年はとりわけ雪が多く降り寒い冬であつた。

一の宮のケンカ祭りは4月10日(火)であり、祭典は午前9時、神輿渡御のオハシリは11時からである。
その後に「稚児の舞」と言う「糸魚川・能生の舞楽」(国重要無形民俗文化財・指定昭和55(1980)年1月28日)が午後1時から厳かに演ぜられ、翌日も午後から行われる。

Photo_3 演目は 1、振鉾(えんぶり) 童舞2人  2、安摩(あま) 童舞2人
      3、鶏冠(けいかん) 童舞4人  4、抜頭(ばとう) 大人1人
      5、破摩弓(はまゆみ) 童舞4人 6、児納曽利(ちごなそり) 童舞2人
     7、能抜頭(のうばつとう) 大人1人 8、華籠(けこ) 童舞 4人
     9、大納曽利(おおなそり) 大人2人 10、太平楽(たいへいらく) 童舞4人
    11、久法楽(きゅうほうらく) 童舞2人 12、陵王(りゅうおう) 大人1人
こうした12番の舞楽曲であるが、当地独特の「能抜頭」と言う珍しい曲を伝え、これらの演目の半数以上は稚児舞として演じられており、舞い振りや伴奏楽器とその奏Photo_4 法も中央舞楽にない味わいがあるとされている。

能生・白山神社の舞楽は4月24日(火)である。
桜の花はまだ咲かないが晴天となり近郷近在から多くの人が出る事を望んでいる。
「ドンデンドン」の太鼓の音が聞こえて来る。

写真の説明
1枚目 ケカン祭りのポイター
2枚目 一の宮・衣紋所
3枚目 天津神社
4枚目 舞楽「鶏冠」の童舞4人

2012/03/20

NO,12  エトイゴの上るころ

7 今日は3月20日(火)、春の彼岸の中日である。
2~3日は小雨が降ったり小雪が舞つたりしていたが今朝から晴れとなつた。
宗門の彼岸法要が今日の10時半からの案内が23年度の決算書と24年度予算書と一緒に届けられた。
案内の中には参拝の際には子供さんやお孫さん達も連れて来るようにと書いてある。
昔は多くの子供や孫達も来てくれて廊下やお御堂を走って賑やかであつたが今はそんな姿が見られず寂しいと住職が書いておられる。

319 家の周りの雪がようやく消えたが主幹農道の大原線の雪が消えず開田耕地へは行けない。
昨年よりも10日以上も遅れている。
自動車の冬タイヤも昨年はこの時期には取替えていたがこの彼岸が終らないと安心して外せない。
この時期、本県に多く自生し、雪解けと共に咲く「雪割草」(キンボウゲ科オオミスミソウは本県に多いとされている)の展示会が各地で一斉に行われている。
当糸魚川でも去る17日(土)、18日(日)と駅前の「王国館」で行われた。
早春の山野草であり、その花の色や花形、そして多弁のものなどその種類が多くあり、自分で品種改良をして楽しむ事が一番のようであるが多くの仲間と交流し自慢し悦に入るのである。
(品種と言われるものとして、スハマソウは岩手から関東、ミスミソウは中部以西、スケハマソウは中部地方以西、四国等に分布すると言われ、本県を中心として裏日本に分布するオオミスミソウは多様な変異があると言われている。)

この彼岸を迎えると川の水も温み、当地区の「前川」や用水路に「エトイゴ」(イトヨ・トゲウオ科)が遡上し、オスは営巣し求愛ダンスでメスを誘う。
その時期になると眼と背側が青色、ノドから腹にかけて鮮紅色になる鮮やかな「婚姻色」を示す。
Photo オスの産卵後は巣と孵化した仔魚を保護するために縄張りをもつオスの役割は大きい。
この地区のイトヨは「降海型」と言い海に下るが、海に帰らない「陸封型」もおり、福井・大野市の盆地に生息し、昭和9(1934)年5月1日に国の天然記念物に指定されて保護されているが、「降海型」はまつたく見られなく絶滅種となつている。
それと残念なのは、能生町と青海町と合併し、新しい市章となつたがその前の糸魚川市の市章は、大正10年頃に中村又七郎町長が考案Photo_2 した町章を合併した昭和2981954)年7月23日第3回臨時議会で決定したものであつた。
3匹のイトヨは多数の市民を表し、お互いに密接に交錯しているが、毫末も他を犯さず、犯されず、お互いに分を守つて他を尊重することを意味するとされている。
そうしたものがイトヨと共に歴史から消滅して行き誠に残念である。

さかなクン(東京海洋大学客員准教授)がクニマスを山梨・西湖に生息していた事を発見したように奇跡が起きないものなのだろうか。

写真の説明
1枚目は 「雪割草」の多弁のもの
2枚目は 家の「雪割草」で縁側の日だまりに置いたので早く咲いた、外に置いてあるものはようやく咲きだした。
3枚目は 「前川」の河口、穏やかな日は「魚道」が無ければ遡上出来ない。子供の頃はエトイゴだけでなくボラも遡上していたものだ。
4枚目は 「前川」は国造神社を囲んで流れている。

2012/03/09

NO,11  「神かくし」

8 今日は3月9日(金)朝から曇りであつたが昼過ぎから小雨となつた。

今日はこの地域では古くから「山の神」の日とされていた。
しかしこんな事を言い出すのは60代以上の者位だろう。
多分昭和30年後半位までは続き、この日は材木商のキコリや先山の人、堀子と言つた土木業の人など山や山林に関わる人達がこの日は仕事を休み慰労会を行った。
Photo 特別の神事があるわけでもないが、会社みたいな所は会社で、数人の掘子さん達は親方の家などで酒を酌み交わすのである。
私の家では先程の職業とは無関係であつたが、今日は「山の神」の日だと言つて夕食には「ボタモチ」を女衆が作ってくれたものである。
この地域で全ての家でそんな風習があつたかわ定かではない。
ただこの時期に「客土」や「肥出し」の農作業の最盛期であつたがこの日は休んでいた。

この日に山に入ると「山の神」さんは女神であり、嫉妬され、山に入つた者を「ゴー」(壕)や「ドー」(洞)に落とされたり、行方不明や遭難に遭うという「神かくし」伝説である。
こうした話は全国各地にあり、女神を祀り神事を執りおこなつている。
そしてその神事も男性だけのもので女性は参拝も堅く禁じられている所もある。

Photo_2 この日は当市来海沢集落(旧西海村)の日吉神社は春祭りである。
祭神は大巳貴命(おおなむらのみこと)、健御名方命(たてみなかたのみこと)、木花咲耶姫命(このはのさくやひめのみこと)の2男1女の神であるが、日本神話や日本書紀、古事記に出てくる神々であるが、今年は「古事記」編纂1,300年で島根、鳥取は盛り上がっている。
中でも当国造神社の祭神である大国主命はその主役としてキャツコウを浴びる年となろう。
この地方の一番早い春祭りであり、例年雪の中で行っているが、今年は特別の豪雪で猿の狛犬はおろか、鳥居さえも今も雪に埋まつている。
何故そんなに急いで豪雪の中で祭りを執り行うのだろうか。
「山の神」と関係があるのだろうか。

雪や冬の行方不明や遭難は「神かくし」にあつたものとされ、この来海沢集落には「ふすべの雪崩」と言う民話がある。
「集落の5人の男衆がタキ木作り中に雪崩に遭い、4人が死体で雪の中から掘り出されたが、太助さんだけの遺体が発見されず40日後に捜索の結果洞の中から元気に出て来たと言う話しで、「神かくし」に遭った民話の一つである。」

3 冬の遭難と言えば蓮華温泉の経営者の田原さん親子が昭和11年に悲しい出来事として記されている。
満76年も経過して余りにも知られていないようである。
昭和10年の冬に幸治郎(47歳)さんと息子の3男芳朗(18歳)さんの2人で温泉で越年していた。
翌年11年の1月5日頃から父の幸治郎さんが風邪気味で家庭薬を呑んでいたが一向に治らず衰弱するばかりでヤセテ来た。
そこで天気の日を見て2人で下山する。
Photo_3 1月19日付けの下山の記録をノートに残していた。
白池の直ぐ上の細池がありその辺で休みご飯などを執られたようだ。
ここで倒れ2人は凍死していた。
早春になり親戚の木島さんが蓮華温泉にスキーツァーに行き、温泉が空である事が判るが家には帰っておらず捜索が開始された。
5月中旬に2人の遺体とスキー、カメラ、水の入つたウイスキーなどと共に発見された。(新潟県人物百年・頚城編)「新潟県上越人物史研究会編集・昭和40年9月20日発行」より

写真の説明
1枚目は 木材出しの共同作業・昭和35年の早春に当集落の集会所建設の木材を出した。
2枚目は 日吉神社は豪雪の中で鳥居は殆ど埋まっていた。3月7日撮影
3枚目は 「猿」の狛犬、県下でも大変珍しい。
4枚目は 道平橋から御前山を望む、海川は雪で埋まっている。3月7日の撮影
5枚目は 蓮華温泉ロッジ

2012/03/05

NO,10  「ヒスイ海岸線」

Photo 今日は二十四節気の「啓蟄」の3月5日(月)である。
啓蟄とはそろそろ地面から虫などが生え上がつて来る頃だそうである。
今日は朝から冷たい小雨が降っており積もっている雪も消えるだろうが、県では雪消えは平年よりも10日も遅れているが、所によっては25日も遅れ、農作物栽培によつては消雪剤散布が必要だと喚起を促している。

昨日は快晴であり、雪が有るといつても海岸はさすがに無くなり、フキノトウが芽を出Photo_2 していたり、寺町の浜に来たら「ゲンギョ」を大量に干していた。
昔は「タラのヒモノ」を干していた場所である。
こんな風景も何年か振りなので戻って写真に収めた。

平成27年3月に開通する北陸新幹線に伴い糸魚川駅南口の整備も進められているが、北口の方も年の暮れ頃から立派なアーケードが取り壊わされており2月の末には完全に撤去されて駅前通りは広い感じをうけている。
この通りは電柱の地下埋設にするのだと聞いた。
本町通りはシャツター通りとなり人通りも少なく寂しい通りとなつているが、駅前通りはイベントも行われるような広場や施設も期待する。

新幹線が通れば北陸本線の直江津駅から県境の市振駅の間60,6kmと、信越本線の直江津駅から県境の妙高高原駅の38,1kmは新しい鉄道株式会社が設立し、並行在来線となる。
この鉄道会社の名称と、直江津~妙高高原間の路線名と、直江津~市振間の路線名の一般公募があつた。
2月末に締め切られたが、私は直江津~市振間を「ヒスイ海岸線」と命名して欲しいと応募した。
Photo_3 この海岸線は夕陽の美しい海岸線でもあり、作家・五木寛之さんが月刊誌「ラジオ深夜便」(2月号・NHKサービスセンター)で日本一美しい夕陽が見られる所だと絶賛している。
そして「深夜便のうた」では「冬の旅」を作詞し、糸魚川を唄つている。(作曲小六禮次郎・歌賠償千恵子・2007年1月~3月に放送された。)
糸魚川はジオパークにも指定されており「ヒスイ海岸線」はそれにふさわしい路線名だと思う。

Photo_4  冬の旅
越後はつついし 親不知
はるかな波間に 日が沈む
ひゅるる ひゅるる
寒い風が 吹くだけ

あなたと旅した思い出を
たずねて ここまできたけれど
ひゅるる ひゅるる
夜の海が 鳴るだけ

東へむかえば 糸魚川
直江津あたりで 雪になる
ゆらり ゆらり
遠い灯り 揺れてる

以下省略

写真の説明
1枚目は 海岸に出たフキノトウの芽 3月4日撮影
2枚目は 糸魚川寺町の浜辺に干していた「ゲンギヨ」
3枚目は 糸魚川駅南口の整備
4枚目は 糸魚川駅北口のアーケイドのすっかり取り除かれた歩道 何れも3月4日撮影

2012/03/03

NO,9  ひな祭りのころ

242 今日は3月3日(土)、昼前から日も出て残雪を融かしているが北風が冷たくなかなか思うように無くならない。
暇を見ては雪をツツイて消雪を促進している。
昨年はもうこの頃は開田耕地まで車で一回り出来たが今年は大雪で「山崎のハナ」でもう行けない。
関東地方の梅は3週間も開花が遅れたと報道があつた。

今日は「桃の節句」、「ひな祭り」であるがこの地方は1ケ月遅れで「節句」などの行事を行っているので特別の行事やイベントはない。
県内ではほとんど雪の中であり、節季市や雪の上のイベントのようである。
Photo ただ報道によると佐渡市相川の「佐渡国相川ひなまつり」や村上市の「町屋の人形さま巡り」の「ひな祭り」を開催し、商家などの江戸時代からのものを座敷や店先に飾って皆んなに見てもらつている。
考えて見れば相川も村上も港町で千国船の寄港地であり、上方や京都方面の由緒あるおひな様であり、競って屏風や書などと共に飾って自慢出来るだろう。

当地方では昔から「おひな様」を飾つているなどと言う話はなく、3月の彼岸の頃となると雪も消え「ミソ煮」と言う大豆を煮て味噌造りの作業を「釜場」を借りて一家挙げての作業を行うが、この頃になると信州上田から「土人形」(土ひな)を売りに来たと言う覚えがある。
信州上田でなく中野市近郷のようであり、戦後の一時期には途絶えていたようであPhoto_2 るが、近年は又復活しているようである。
毎年一つ二つと買つて貰つていたが、私が長男で女の子はづーと後に生まれたのでこの人形も「ひな様」でなく「チンコロ」(犬)や「兵隊さん」のようなものであり、乱暴に扱う勢もあり直ぐに欠けたりしていた。
そんなものも大東亜戦争が始まる頃には無くなつていたのではないだろうか。
そんな事を考えれば金さえ在れば何でも買える時代となり、何段飾りとか、何組みかを並べて楽しんでおられるようで平和の時代の象徴かも知れない。

家では日だまりの部屋に置いた梅や雪割草、洋ランが満開になり玄関に飾って一足Photo_3 早く春を満喫している。
「第6回世界ラン展日本大賞」は毎年観覧に行つていたが今年は行くことがかなわず残念でしたが、東京ドームの絢爛な雰囲気が創造出来るのでそれで満足している。

写真の説明
1枚目 桜ケ丘の「花爛漫」の碑、ようやく雪が消えた。
2枚目 我が家の玄関の梅や雪割草や洋ラン
3、4枚目は「信州土びな」と言う人形

2012/02/26

NO,8  春よ来い

Photo 今日は2月26日(日)薄曇で時々小雪が舞っている。
去る19日は二十四節気の「雨水」であり、確実に雪から雨に変わる季節になり一日毎にあれほどあつた雪も少なくなつた。

広報塔の夕方のチャイムも「春よ来い」に変わっている。
郷土の文豪相馬御風の作詞によるもので
  春よ来い  早く来い
  あるきはじめた  みいちゃんが
  赤い鼻緒の  じょじょはいて
  おんもへ出たいと  待っている
24218 大正12年1月の「木かげ」に発表されたもので、その後弘田竜太郎が作曲したもの。

3月3日の「ひな祭り」も近かずき、各地でのひな壇飾りのニュースが放映されている。
この地方では「ひな祭り」や「節句」は1ケ月遅れでやつているが、保育園や小学校ではこの時期に飾つているし、商店などもこれに併せるのが当然となつている。
桃の花の咲く季節に併せれば1ケ月遅れが当然である。
24218_2 今年は甲府市に眠る娘の墓参りには行ける体でなくなつてしまつたので行けなかったが隣町の笛吹市の「ハウスの桃の花」が毎年咲いており春となつていたり、「吊るしひな」も見かけていた。

この時期は今年の稲作や畑作、そして農協の方針や用水組合の運営などの集落懇談会や会合が色々とある。
家長が出る会合に家長が出席せず奥さんが出る家、家長が高齢で息子に家督を譲ってもよい家、定年の年齢になつても働きに出て欠席の家、女性部も70代、60年代で若い者が入会してくれない等もう1ケ月はこうした議論も続く。

春を待つうた、春のうた、多くのうたがあるが希望と暖かい春が待ち遠うしい。

写真の説明
1枚目は 桜ケ丘にある公園、そこには「花爛漫」の石碑ももう少しで見える。
2枚目は 家の後ろの煉瓦塀 2月19日の撮影
3枚目は 我が家 2月18日の撮影

2012/02/13

NO,7  団子まき

24 今日は2月13日(月)久し振りに朝から晴れとなり5日振りに車庫から車を出せるように除雪した。
「越後の雪は余寒に降る」と言うように真に今冬はそうである。
今までに「道踏み」は3回程実施した、もう雪はいらない。

昨日の12日(日)は午後から地区の禅寺の禅林寺で「団子まき」が行われた。
「団子まき」とは「涅槃会」法要の後にウルチ米で作った団子を参詣に来た子供連れ24_2 の門徒の皆さんに「節分の豆まき」のようにまくのである。
本来「涅槃会」法要はお釈迦様の命日である2月15日に行うのであるが、今ではこの日の近い日曜日に行っているのである。
山間部では豪雪の最中であり1ケ月遅れで行っているようである。

子供の頃はこの「団子まき」を冬の楽しみとしていた。
就学前に祖母に連れられていつたものであるが、国民学校の3年~4年生頃にはPhoto 友達と行くようになり、禅林寺の団子まきが終ると隣の田伏の大雲寺の団子まきにまで行つた事もあつた位だ。
大東亜戦争のさなかや戦後の食糧難の時代もこの行事は取りやめるような事もなかつた。
団子用の米は門徒のお母さん達の托鉢により80kg(6斗)も多く集まり、その内60kg(4斗)を団子にまるめる。

寺に入ると右側に「おびんずる」さん(お釈迦様の十六人の偉い弟子(十六羅漢)の一人で本当の名前はビンドラバーラドーバージャと言うそうです)が居られ、これを拝むのであるがオツカナイ(恐ろしい)顔をしておられどう言う仏様なのかは知らなかった。
正面には大きな「涅槃絵」、その裏には閻魔様に尋問されている絵や舌を釘抜きで抜かれている絵、又は大釜でゆでられている絵など何幅もあつたようだ。

「涅槃絵」ではお釈迦様の入滅を悲しみ万物の動物もその臨終にいち早く掛け参じたが、一番早かつたのは「雀」であり、身なりも整えずとりあえず走った。
それに反して、キツツキ(クマゲラ)は化粧したり服装も派手な物に着替えて遅れて来たそうである。
その結果、雀は食べ物は身の回りの近い所に多くあり、たやすく食べられるが、キツツPhoto_2 キは食べ物を獲るには木をコツコツと掘つて苦労し虫を獲らなければならないと言う仏罰なのだと教えられたものである。
地獄絵も嘘をつけば閻魔様に舌を抜かれるとか、悪い事をすれば大釜でゆでられたり、針の山に追いやられたりするのだとその絵を見ながら祖母から教えられたものである。

私も3人の女の子供がいたが、私は一度も連れていないが、母は連れていつてくれたのだろうか。
こうして子から孫えと「団子まき」を通して「良い子になれ」と教えられたものなのである。
今でもこんな場面があるのだろうか。

写真の説明
1枚目 「団子まき」の掲示版
2枚目 雪の禅林寺
3枚目 「閻魔大王の絵」
4枚目 キツツキ(クマゲラ)

2012/02/05

NO,6  山下の雪崩

Photo 今日は2月5日(日)、朝から日も出て豪雪地は日曜日でもあり、屋根雪降ろしや除雪に汗を流すだろう。
気温が上がらず雪が硬くなかなか消えない。
家の車庫が市道より少し離れているので除雪が出来なくもう10日位も車を出せずにいる。

毎日のように屋根雪降ろしや除雪作業中の死亡事故の発生が報道されているが、表層雪崩も早くも発生した。
大糸線は糸魚川から南小谷の間は雪崩が発生する恐れが有るので2月1日から2月21日の長い間に亘り運休されると発表されている。

Photo_2 秋田県仙北市の玉川温泉では去る1月31日の夜6時20分に裏山からの雪崩で3人の湯治客が圧死している。

こうした雪崩事故と言えば丁度90年前になる大正11(1922)年2月3日の夜8時に北陸本線親不知の勝山トンネルの上から鉄道除雪作業の人夫を乗せた特別列車に雪崩が起きて前から2号、3、4号車が海の方向に転落し88人の死者、負傷者36人の大惨事を起こした。
この事故を当大和川では「山下の雪崩」と言つている。
軍事輸送優先の国鉄の時代、1月22日からの降雪、冬季間で家に居る大人や若者が良い賃稼ぎと役場の要請でそれに応じた。
死者の多く出た旧磯部(当市能生)25人、当大和川24人、蓮台寺(旧糸魚川)22人であつた。
大和川の人は茅葺職人の「屋根や」が多く、冬季は仕事は無くそれに応じた。
一家で親子の2人も亡くなった家もあり、40代の働き盛りの人、若い人は17歳、18歳の人がいた。
突然のことであり、昨日や今日当たりは大変な悲しみに暮れ、何をどうすればよいのか親戚や隣組の人が集まつても手の付けようがなかつただろうし、火葬場も今のように近代的なものでなく、2Km弱の「野」であり、そこ迄の雪道踏みや蒔き運びと隣組の人達も大変であつたろう。
こうした悲しい事故が満90年前に起き、どこの家だつたのかも語られないようになつたりし、国造神社境内にある慰霊碑を見に行くも献花もなく慰霊するものがなかった。
こうして一年一年風化していつている。

Photo_3 能生谷棚口の雪崩も昭和61(1986)年1月26日(土)の深夜11時頃に権現岳(1108)からの新雪雪崩で、棚口集落をおそいかかり、戸数11戸、死者13人、負傷者9人を出している。

古くは旧吉川村(上越市)尾神岳(757)の雪崩は明治16(1883)年3月12日の午後2時頃に起き、浄土真宗東本願寺復興新築のケヤキ大木の引き出し中に起きたものである。
熱心な真宗門徒が多く集まり、母親に負ぶさった乳児をも含めて27人もの死者がいて、その中には15歳以下の子供、特に4歳以下の幼児が4人もおり、家中家族挙げての奉仕で信者とは言え悲惨な出来事となつて伝えられ、地元の小学校では発表会などで伝承学習を毎年行っている。
こうした伝承活動や学習を通して末永く伝えたり語ったりする必要がある。

写真の説明
1枚目 北陸本線を走るローカル電車
2枚目 神社境内に立つ「親不知殉難慰霊碑」
3枚目 「尾神岳慰霊塔」

2012/02/03

NO,5   節分のころ

23 1月の月もあーと言う間に過ぎて如月の2月に入った。
今日は3日、雑節の「節分」である。
1月23日から雪が降る荒れた日が続き、大雪警報も何日も何回も出て当市にも2月1日に豪雪災害対策本部が設置されている。
今日は久し振りに朝から日が出たが一日中どうやらもつた。

「節分」と言えば「豆まき」であるが家には子供もいないので豆まきはしないが「鬼は外」、「福は内」で今年こそは入院や病院に通う回数を少しでも減らしたいものであ23_3 る。
この「節分」にもう一つは「恵方巻き」を食べる、しかも今年は北北西の方向を向いて食べると運気が増すなどと大阪方面から商魂と共にやって来たが巻き寿司は米の消費拡大にもつながるかなとも思う。

三条市の本城寺(法華宗総本山)の豆まきは「鬼おどり」で有名になつて来たが、5色の鬼の赤色は悪の心、青色は欲深い心、黄色はグチや甘えの心、緑色はおごりたかぶりの心、黒色は疑いの心を持つ鬼達であり、人間の物欲や心の欲を戒めている。

Photo こうした欲や「一国平和主義」ならぬ「一家平和主義」で自分の家は平穏であれば隣や近所の家はどうでもよいと言うような風潮が益々増えており、自治会の輪番制の組長もしたくない、公民館の委員も受けたくないと役員改選で思わぬ時間がかかった。
又地域内の小さな集落は自分達だけでは集落を維持出来る自治活動が出来ないから、どこかの集落に入れてもらつて面倒を見てもらいたいと区長から要望が出るような「限界集落」の現実である。
お宮の維持管理もお祭も出来ない、ましてや農道や水路の管理も出来ないとされている。

Photo_2 当地区は「豆まき」ではなく「団子まき」である。
2月15日はお釈迦様の入滅の日の「涅槃会法要」であり、「団子まき」である。
今年は12日の日曜日の午後からであり、既に「お団子」用の米は禅宗(曹洞宗)の門徒の人達が托鉢に廻られ今年も80kgも集まつたそうです。
法要にはお釈迦様の入滅に際し多くの動物達までも集まりその死を悲しんでいる掛軸「仏涅槃図」と「地獄絵」の掛軸も何福も掛けられ自戒や物欲を戒めている。

写真の説明
1枚目は 今朝の我が家の積雪の風景、積雪は40cm
2枚目も 家の前の煉瓦塀の積雪
3枚目は 恵方巻き
4枚目は 「仏涅槃図」の掛け軸

2012/01/21

NO,4   大寒のころ

24 今日は1月21日(土)「二十四節気」の「大寒」である。
寒気加わり降雪もしげくなる、とされている。
あいにく朝から小雨で最低気温がマイナスでなくプラスの5℃で、最高気温は8℃になると予報されている。
この頃の風物詩は越後では「越後縮み」の「雪ざらし」(小千谷縮・重要無形文化財指定・昭和30年5月12日)や妙高市旧新井市の「とうがらしの雪ざらし」が話題となり、信州・諏訪地方の「寒天作り」や岩手や福島などの東北地方の「凍み豆腐作り」の寒風もある。

Photo この辺でもこの時期に「ゲンギヨ」の天気干しが多く見られたものであるが、獲れなくなつたのか魚屋の軒先に少し吊り下げられている程度で価格も高騰しており庶民の魚でなくなつている。
庶民の魚でなくなっていると言えば「アンコウ」は真にそうであり、この時期今だ口に入つていない。

こうした寒風や雪を利用するものとして、もう少しすると能生谷・飛山のスゲ笠の天気干しが有名である。
Photo_2 昔は又、冬の間に作った「ミノ」や「背なこち」、「荷縄」等も雪の中に入れたりして利用していた。
厄介者の雪を利用する「利雪」は昔からの「文化」なのである。
山間部では又雪が多く積つてもらわないと山田の天水田の水源にならない。

南米ペルー沖に発生している「ラニーニャ現象」は海面水温を基準値より低くなる現象で、東・西日本では低温傾向となり、多雪で寒い冬になるとされている。
その現象がクリスマス寒波となり北海道や東北の一部に豪雪をもたらした。
こうした「ラニーニヤ現象」も春には終息すると発表されており、平穏な気候をもたらせて欲しいものだ。

下早川・日光寺集落の白山神社の「豊作占い」(筒粥神事)は去る13日に行われ、水稲早生種は6分作、中生種は9分作、晩生種は8分作との神託がなされた。
当地域の主要品種のコシヒカリは中生種であり、豊作の出来が間違いないようだ。
病虫害の発生や水害、台風の異常発生のない事を祈っている。

写真の説明
1枚目は 白山神社の社務所に貼り出された「豊作占い」
2枚目は 「ゲンギヨ」の天気干し
3枚目は 旧新井の「とうがらし」の「雪ざらし」の風景

2012/01/15

NO,3   老人パワー

2 今日は1月15日(日)、小正月である。
昨日と今日にかけて正月の伝統行事が多くある。
14日の夜は能生・白山神社の「ローソク祭り」(献灯祭)と「豊作占い」、夜から今日の早朝にかけての「鳥追い」(能生谷や真光寺等)等である。
今日は田伏の奴奈川神社の「お松っさん焼き」は昼前に、夜は山間部では「さいの神」の伝統行事が行われる。
昨日の午後から雪が止み晴天となり今日も朝方は小雪が降っていたがその後は晴れとなった。(午後2時前まで)
Photo それと幸いにも土日曜日と重なつて都合が大変よかつた。

こうした正月の伝統行事は長い歴史の中で山間部では「限界集落」と言われるように少ない老人だけですたれていつたり、内容も大きく変わつて行われるようになりその意味も変化した。
そんな中で、国の無形重要文化財指定(昭和62年12月28日)の「青海・竹のからかい」が昼過ぎから行われた。
この行事は江戸時代からのもので、民間信仰から生まれたと言われ、五穀豊穣、除Photo_2 災招福、家内安全を祈念するものだそうだ。
近郷の行事であるが冬季の積雪時であり今まで一度も見学したことがなかつたが天候に恵まれ多くの人で狭い街道が黒だかりとなつていた。
中でも望遠カメラを2台は必ず提げ、ナップザックの高齢者には驚くし、女性の多いのにも又驚いた。
いい写真を撮ろうと前え前えと出て他のカメラマンの事は尾構えなしである。

子供の「からかい」の部もあり、男女共に隈取をし、警備の巡査もしておりカメラの対照となつていた。
「竹のからかい」は東西に別れて3~4間程の長い2本の青竹を引き合うものである。
 「蝶々 左義長 菜の葉に止まれ
    菜の葉にあいたら 葦の葉に止まれ」
と唄いながら拍手を叩き、その竹の周りをゆっくりと回ります。
こんな事を数回行い最後には子供の部が行われる。

2012/01/10

NO,2  出発点

19 今日は1月10日(火)朝から曇り時々小雨となつている。
昨日は「成人の日」で3連休となつていた。
朝は小雪がちらついていたが10時頃から日も出て雪も少し消え出し歩きづらくなつていた。
その天気は夕方まで続き夕日雲が赤く染つていたので今日は天気になるのかと期待していたが外れた。

当市の「成人式」は5月3日の「憲法記念日」の連休であり、この正月の行事の一環とはしていない。
私達の時代は小正月の15日が第3回目の「成人式」であり、村の主催で小学校の室内運動場で式典を行ってもらつた。
19_2 祝いの酒はなく村長と村の名士の祝辞と記念撮影位であり記念品があつたのかは記憶にない。

その当時を思うとテレビに映る現在の「成人式」の衣装は男までもドハデとなり驚くばかりである。
どうせ借り衣装であろうが果たして自前の金で支払しているのだろうか。
「衣食足りて礼節を知る」とか「馬子にも衣装」とかもあるが、私達の時代は「新生活運動」もあり、「普段着の服装」で出席しようであつた。

この「成人の日」に併せて老人クラブ等では「壮年成人式」とか「熟年成人式」とかと銘うつて還暦を迎えた人とか古希を迎えた人、又は喜寿の人、傘寿の人の節目に併せて改めて第二の人生の出発点と銘うつて行っている所も多くなったようだ。

私もこの日を「第三の人生」の出発点として、心を新たにし、その人生は長いものか、短いものになるのかは知れないが悔いの無い一生涯を過ごそうと決意した。

写真
1枚目 裏の海岸の冬景色 昨日の撮影
2枚目 家の庭の山茶花 昨日の撮影

2012/01/01

NO,1  迎春

Photo ふる里の新年は午前5時の歳旦祭から始る。
久し振りの晴天に恵まれ道路の雪解け水が凍りつき、コロバないように注意して参拝した。
初日の出は午前7時半過ぎに頚城連山の烏帽子や阿弥陀山の方向から見えていた。
なにげなく普段は見あきている太陽であるが今日の太陽は特別の太陽であり、どこかから借りて来て演出しているような風景であつた。

今年のお正月は二人きりのお正月であり、30日に付いた餅の「おぞうに」を少し食べる事が出来て毎年のお正月と変わらない出発となつた。
Photo_2 地区のお正月の特別の行事もなく各家庭では穏やかな正月を過ごしている。
昨年は77歳の喜寿の年であり、結婚50年の金婚式の年であつたが、お盆前から内臓の大手術をする為の各種検査が始り、生まれて始めての入院、そして親からもらつた大事な体にメスを入れると言う事になり、親不孝のそしりを招いてしまつた。
幸いにも手術後4ケ月を経過し順調に食事も摂れるようになり、減った体重も減り止まりし、これからは早く回復するように努めなければならない。

海も穏やかとなつているが漁船は一艘も見えない。
公共事業の北陸新幹線工事も国道8号バイパス工事も、2級河川前川改修工事も休み、静かな幕開けを感じる。
しかしながら山間部では大雪で屋根雪下ろしや家の周りの除雪の作業に汗を流しているものと思われる。

写真の説明
1枚目は氏子の国造神社の鳥居 12月31日午前10前の撮影
2枚目は家の二階より初日の出を撮る。

2011/12/24

NO,53  ユズとミカン

Photo 今日は12月24日(土)昨日からの冬景色が続き今朝は30cm程の積雪で屋根や地面が真白になつていた。
9時頃から日が出て快晴となり、天気予報が大きく外れた。
夜中中時々雨戸を叩くようなアラレが降っていたり、大波で障子が揺れていた。
いよいよ今年も残すところ一週間となつてしまつた。

去る22日の冬至には近所の人から貰ったユズ(柚子)を風呂に入れて楽しんでいたがあまりにももつたいないので昨晩も風呂を立て直して入れた。
又、冬至の日の夕食には南瓜のおかずが出た。

11 近年の温暖化と夏の猛暑でこの地域でもユズやミカン(蜜柑)の柑橘類も大分畑の隅に植えられるようになり、それが又成育も良く、良く成るようになり、ユズもミカンも鈴なりとなつていた。
このユズの摘果がもったいないからと言つて行われず、小粒の実となつている。
人に上げるには質より量であり、これが家にも廻って来たのである。

小粒と言えば、当市には「上刈ミカン」が明治の時代から集落「上刈」に栽培されており、ミカン栽培の北限だとされ、そのミカンの木を保護して来たり、新しい接木による増殖を試みて来た。
母の実家の裏の畑には数本の「上刈ミカン」が栽培されている旧家であり、父は毎年晩秋には冬囲いに行つていた。
そんな事が終戦直後まで続いていたが、毎年の豪雪と銭湯の煙突の煙で木が弱るPhoto_2 と言つていた事を覚えている。

帰りには「お講様袋」に一杯入ったミカンを貰って来ていた。
当時はまだ「温州ミカン」は高い時代であり、お正月には1箱をやつと買ってもらう時代であり、この温州ミカンに比べれば型は小粒だし、味はスッパク比較にならなかつたが、食べ物がない時代であり、貴重な果物であり皆んながけなりがつていた。
年末には本町通りの雁木の下で、この上刈ミカンが升で売られており、お正月の食べ物と、正月飾りのおそなえ様の上に乗せるミカンとなつており、このミカン売りの風景は年末の糸魚川の風物詩となつていた。

写真の説明
1枚目 今朝の積雪の風景、玄関前
2枚目 ユズの木

2011/12/19

NO,52  荒れる「おとりこし」

Photo 今日は12月19日(月)朝から冷たい小雨が降っており、今日で4日間続き、17日には初雪で一時地面が白くなつた。
今後も一週間は冬将軍が居座り寒波が続く予報となつている。
それでも今年の初雪は2日遅く、真光寺の大銀杏の落葉と共に雪降りとなり、黒姫山は3回目の降雪は里の降雪と一緒なつていまつた。

こうした荒れる師走の風物詩に「報恩講」がある。
私達浄土真宗門徒の宗祖親鸞聖人の命日(11月28日)を中心に行われており、親鸞聖人の恩徳とご先祖様の御恩に謝し如来のおたすけにあずかつた事を喜びあいます。
明日の20日昼前の一時、家に住職さんが廻ってこられます。
これは古い以前からのならわしであり、「おとりこし」とか「ごまんさん」とも言つているPhoto_2 が、子供の頃にはもつぱら「おとりこし」であり、父はお経の終わった後にお昼には住職を接待してお酒を飲んでいた。
近くに魚屋さんがあり、仕出しを頼んでいた。
父と住職のオトキであった。
今は車で廻られるのでそう言う風習もなくなつているがこうして今年の歳も暮れて行く。

寒冷に鍬や斧を振って田を開拓し、雑木林に植林をして私で5代目になつた稲作農家も今年限りで廃農となつてしまつた。
お盆前には買ったばかりのトラクターやコンバインを農機店に引き取ってもらい農舎は空となつている。
本当にご先祖様が汗水流して営々と励んで築いて来た農業を止めるんだと一口にくくつて言う事が簡単であるが何と申し訳け無い事だと思う。
こうした区切りのついた「おとりこし」となつてしまう。
本当に心も荒れる「おとりこし」となつてしまつた。

写真の説明
1枚目 12月17日の初雪
2枚目 12月10日の2回目の降雪の黒姫山

2011/12/07

NO,51  納めの薬師

Photo 今日は12月7日(水)朝は小雨が降っていたが午前は曇りのようである。
この今日は二十四節気の「大雪」でもある。
昨日、真光寺の大銀杏(県天然記念物)の落葉のようすを見に行くとすっかり落葉が進み、落ちた葉は黄色の絨毯を敷いたように地面は真黄色になつていた。
いよいよ里にも雪が下りて来る季節となつた。

明日は8日(木)は大東亜戦争が勃発して70年目になります。
当時国民学校1年生で講堂の朝礼で校長の真珠湾攻撃での「九軍神」の話があり、寒い朝であつた事と併せて記憶がある。

Photo_2 12月の師走は「納めの月」であり、毎日のように今日は「納めの何々」だと言つている。
この8日はちなみに「琴納め」、「針供養」、そして「納めの薬師」である。
当地区にも「田伏の薬師」とか「山の薬師」とか言われる「お薬師」があり、その歴史は古く、あらたかだと近郷の多くの人から信仰をあおいでいたものだ。
お祭は春は5月8日、秋は11月8日であり、明日の8日は「納めの薬師」となる。

私の母の母親も信者の一人であり、上刈からこられて、私の家に泊つてから前の日の「おこもり」から参拝しておられた。
子供の頃からお薬師さんは眼の神様だと言つて、眼の悪かったおばあさんは再三こられた覚えがある。
Photo_3 そしてこの田伏の薬師は今は大雲寺さんが貰い受けて(寛文4・1664年)管理しているが元々は田伏・砂山の斉藤家(屋号山岸)のもので、この屋号山岸さんの「青い薬」の「田伏御夢想薬」と言う膏薬で薬師伝来の秘薬として作られ、昭和の初期頃まで使われていたと聞いている。

北陸新幹線の保守基地の施設が出来る場所を見に行き、その用地の直ぐ前にお薬師さんがあり、何年振りかに拝見して来た。
以前に有った「六地蔵」は残念ながら無くなつていたが「松」を刻んだ燈篭と「竹」を刻んだ二基の燈篭は珍しいものだと言われ、天明7・1787年に田伏・新田下澤類衛門が寄付されたものであり、これもこの場所から移動をしないでこの場所に長く保存を願いたいものである。

こうした薬師如来を祀る「お薬師さん」は全国各地にあり、厚い信仰をあおいでいる。
「薬師如来」は「東方浄瑠璃世界」の教主で、正式名は「薬師瑠璃光如来」であり、大医王仏とも呼んで広く人々の病気を治し延命するだけでなく精神的な苦痛までも取り除くと言われていて、奈良の法隆寺(31代用明天皇)や薬師寺(41代持統天皇)、新薬師寺(45代聖武天皇・眼病平癒)のように各天皇の病気平癒を祈願して建立されているもので有ると聞いている。
私も一日も早い病気平癒を祈願して帰った。

写真の説明
1枚目は 真光寺の大銀杏
2枚目は 田伏のお薬師さん
3枚目は このお薬師さんのまえに立つ地蔵
何れも昨日の12月6日午前の撮影。

2011/11/29

NO,50  初冬の風景

Photo今日は11月29日(火)、4日続きの晴天となつた。
この時期にこんな天気が続くのが珍しい。
この後が心配だ。

いよいよ明後日から師走、まだ里には初雪らしい初雪が降っていない。
暖かい晩秋であつて頚城連峰の初雪が半月も遅く、里山の紅葉も遅れている。

真光寺集落(旧西海村)の銀杏(県天然記念物・指定昭和35年3月)の葉は落葉せず黄色は青空に映えていた。
昔から銀杏の葉が落ちれば里に雪が降るとか、黒姫山に3回雪が降れば里にも来るとも言われていて、1回の降雪があつた。

集落には師走や越年の行事や祭りは昔からなく寂しいが、それだけ歴史が浅いからPhoto_2 らだと思う。
農耕と一部の時期の漁業で生活を支え、歳とりの日まで体を動かして貧しい生活をどうやら営んで来た集落である。
それでも漁村や山村のように歳とりを1ケ月遅らせて生活費を稼ぐと言う風習が昭和15年代まであり、そうした村よりも恵まれていたがそんな事で当時の新しい行事や祭りには手を出すような余裕がなかつたのだろう。

ただ宗教だけは真宗王国とは越中富山を言うが、当地域も浄土真宗が多い。
Photo_3 この時期に「田伏は雪や降りやゴマンさん(御満座)」(報恩講のこと)と子供の頃はよく田伏の子供たちが叫んでいた。
これは昨日の11月28日は親鸞聖人のお命日(弘長2・1262)であり、この日に真宗のお寺では一番大切な「報恩講」の法要を行っている。
しかしこの時期は天候が荒れるので家のお寺は1ケ月前に以前から行って来ている。
そして門徒の各家にも「報恩講」と言つて僧侶がお経を読みに廻つて来て下さる。
午前3軒、午後も3軒と地区には13軒の門徒がおり、僧侶は忙しい師走となるのである。

写真の説明
1枚目は 真光寺の銀杏、11月26日の撮影
2枚目は 駒ケ岳の雪、11月27日に根知谷・根小屋にて撮影
3枚目は 取り残された柿の実 11月23日撮影

2011/11/26

NO,49  線路が続くよ

Photo 今日は朝から晴天となり、大根の運搬を手伝つた。
昨日と一昨日は北陸特有の初冬の景色で夜中じゅうも強い西風が吹いて軒下を叩きつけてアラレ混じりの暴風雨となつた。
窓ガラスが割れるのではないかと思う位であり、こうした薄暗い毎日がこれから4ケ月も続くのである。
今日のような天気は貴重な天気でもうけものであるが長くは続かない。

こうした暗い裏日本と晴天が続く表日本とを結び裏も表もない日本にするのが日本列島改造論であり、高速道路や新幹線であつた。
Photo_2 その北陸新幹線工事が始まつてからもう何年になるのだろうか。
平成27年3月までに金沢までの全線開通の槌音高く響く毎日が続いていたが、当地区の高架は出来上がり、工事の人の姿もめっきり見えなくなったし、高架の両側の柵は高くなり内側はまつたく見えなくなつた。

市の広報誌によると去る10月29日(土)にこの新幹線の高架の出来上がつた一部を解放し、梶屋敷の立壁に掘った「金山トンネル」(全長657m)から大和川の方面1,6kmを歩く行事があつた。
参加者は予定の倍以上の100人にも達し足場の悪い所を歩いた。
Photo_3 レールの一部は既に取り付けられていたり、積み込まれていた。
このレールは昨年の10月に姫川港から陸揚げされており、親不知方面に附設されるのだと聞いていたが、当方面の物はいつ、どこから、どのような方法で持ち込まれたのかは報道がなかつたようだ。

田伏地区の新幹線保守基地には手が付けられておらず、どのような施設や建物が出来るのだろうか。
この附設された一部のレールは既に東京に繋がっているのだと思うとロマンを感じる。
この現場はもう二度と立ち入る事が出来なく、開通後は何と言う名の列車がここを走るのだろうか。
その機会が早く来る事を楽しみにしている。

写真の説明
1枚目は 金山トンネルに向かって撮影
2枚目は 西側に向かっての撮影
3枚目は 昨年10月に姫川港に陸揚げされているレール

2011/11/23

NO48   小雪のころ

Photo 今日は11月23日(水)、国民の祝日「勤労感謝の日」である。
雨の日がいつかも続いたが昨日と今日は晴天となつた。
今日は滅多に天気になる日でなく、北陸地方では雨の得意日である。
そして二十四節気の「小雪」である。

この日は氏子の国造神社では「新嘗祭」の大祭で午後の2時から祭典が行われる。
終戦前は「新嘗祭」と言う国民の祝日であり、宮中では一番大切な行事として行われ今も祭祀が行われている。
今年獲れた新穀の内、お手植えの「ニホンマサリ」や「マンゲツモチ」の米を神に捧Photo_2 げ、その後に新穀を始めて天皇陛下が食されるのである。
この外に10月17日は「神嘗祭」と言う祭祀も宮中で行われ、これもこの年の初穂を天照大神に奉納する儀式で大祭である。

稲の収穫作業の遅い東北地方の一部も既に終わり全国ほとんどは終了していると思われるが、新米は9月上旬には早生種の「越路早生」が本県でも口に入り、天皇陛下よりも数ヶ月も前に食している。
戦前、戦中の時代は食糧難であつた勢もあるが、天皇陛下よりも先に新米を食べてPhoto_3 はいけないと言われ、生産農家ですら食していなかつた。
もう一つの理由には、何年には飢饉や不作の年があるので備蓄米は9月の収穫の後の年を超したお盆近くまで持っており、古米から古米を食べていたものである。

今年の晩秋は割りに暖かく初雪が遅れていた。
黒姫山(1222)と駒ケ岳(1487)の昨年の初雪は同時に10月26日であつたが、今年は11月15日であり20日も遅かった。
ところが一昨日の雨は山間部では雪降りとなり、駒ケ岳は2回目の積雪となり、黒姫山も初雪が下の方まで積もった。
昨年よりも26日も遅い初雪である。

こうした暖かさで白菜の結球が遅れていると嘆く者や大根の収穫や大葱の収穫は殆ど終わっていない。
庭の冬囲いは数日かけて終らせており、冬将軍の襲来も万全の備えである。
この冬はラニーニャ現象が南太平洋上に発生しており、一段と寒くなり、降雪も多いと言われるような予報に変わった。
果たしてどうなるのだろうか、小雪の年であつて欲しいものである。

写真の説明
1枚目 駒ケ岳の2回目の積雪 11月22日撮影
2枚目 東北地方の「杭掛け稲」の風景
3枚目 黒姫山の初雪 11月22日の撮影

2011/11/13

NO,47  小遣いと駄賃

Photo_2                                       
今日は氏子の秋祭りである。
氏子の春と秋の祭りには3ッブでいいから雨が落ちないと村に災いが起きると言うとてつもない言い伝えがある。
そんな事を知っていたり、言つた年代も少なくなつた。
今日は雨降りの一日となりそうだ。

秋の収穫も、米は豊作となつたが、地区の上位等級比率が農協でも最低の成績で昨年の反省が生かされなかった。
野菜の収穫はサツマイモや里芋は既に終わり、次は大根や白菜の順となる。
この時期、野沢菜の収穫の最盛期となり、昔はこぞって野沢菜洗いが裏の川で行われ賑わつた。
Photo_3 家でもおばあさんやおふくろさんは着物の「張り板」まで持ち出して川に渡し、その上にどつさりと野沢菜が積み上げられていたものだつた。

子供の頃の小遣いは定期的にもらつていたものでなく、春と秋の祭りの時位であつたような気がする。
どこの家でもそうであり、まだ良い方だと思う。
祭りにはオオカイド(大開道・旧国道)には露店が最盛期には10軒位は出ていたが、Photo_4 戦中、終戦直後がその時期で、私達あくたれの小学高学年であつた時代である。
小遣いを貰って良く買ったものがブリキ玩具の「ポンポン蒸気船」であり、2~3回は買った。
家の泉水に浮かべて走らせるのであるが、直ぐにハンダがとれてしまい、これで万事きゅうすです。
made in japanの安かろう悪かろうの象徴であつたようだ。
大和川にはまだ「わたあめ」屋が来ていなかった。

一の宮の喧嘩祭にも祖父に連れられて良く見に行つた。
弟さんが寺町に分家していたからである。
この祭には小遣いを貰った事はなかつたので多くの露店が出ていたが何も買つてもらつた事もないし、欲しかった「わたあめ」も食べたのは大人になつてからであつた。
どうして買つてくれなかつたのだろうか、高かつたのだろうか。

5年生頃になり自転車の「三角」に乗れるようになり、祭りの早朝に親戚の3軒に黄な粉モチを重箱に入れて配った。
荷台に座布団を乗せ、その上にゆわえるのである。
春祭りは4月13日であるがまだ寒くて手がかじかんだが幾らかのご褒美の駄賃が貰え、これが余禄となつた。
これも楽しい祭りの一つでもあつた。
こんな祭りの風景も、鎮守の森も少なくなつたり、昔のような祭りを各地で復活させる運動が全国に始まったようだ。
梶屋敷の若い衆の祭りを見習うべきである。

写真の説明
2枚目は ぽんぽん蒸気船である
3枚目は 三角乗り・「土門拳の筑豊の子供ちた」より こうして子供の頃は練習し、乗れるようになる。

2011/11/08

NO,46  冬じたく

Photo 今日は11月8日(火)、暦は立冬を迎えた。
この数日雨が降り急に寒くなり、病み上がりの者にとつては堪えるようになり風邪を引かないように充分注意している。

この時期冬支度や冬囲いの報道が多くあり、既に上越市高田公園の冬囲いがあつたり、越後平野を通り抜ける道路の防雪施設の取り付け、又積雪を前にして飛騨・白川郷の防火一斉放水の訓練等があつた。

家でも母屋の冬囲いは新築してからまつたく行われなくなつたし、地域でもすつかり季節風の西風や北風を防ぐ、防風、防雪の冬囲いをしなくなつた。
ただ家の廻りの植林や植木鉢の冬囲いは始めなければならず、こんどの晴天の日から開始しようと思っている。
Photo_2 価値のある庭木や盆栽は持ち合わていないので冬囲いにはお金を掛けるような事はしないが、毎年この時期にテレビに放映されている金沢の兼六園の「雪吊り」などは大変なものなのだろうと思う。

これは冬の観光と結びつく風物詩なのだろうが、金沢市内の軒先の冬囲いや能登・輪島や珠洲市地方の「間垣」も有名であり風情がある。
以前ブログの「砂山」で投稿したように、昔のように西風や北風の吹きまくる期間や風力が少なくなったりし、どこでもこの冬囲いの材料のカヤや細竹が少なくなつて来ている中で幸いしている。

22117 かつて山間部の寺では檀家(門徒)が寺に「カヤの供出」の制度があり、秋に市役所の仕事で集落廻りをすると、「今日は秋晴れで寺のカヤ刈りだ」と言つて、供出用のカヤ3丸を立てかけている風景を晩秋の時期に見かけたものである。
今は「カヤ場」もなくなり、山村は年寄りばかりで寺の冬囲いは土建業者からブルーシートを張ってもらつている。
その内に寺の維持管理も出来なくなり檀家の多い寺は平場に移らざるを得なくなり、寺も檀家もこうした悩みをかかえて今年も越冬して行く。

2011/11/06

NO,45   水路

Photo 晴天の暖かい日が続いていたが今日は朝から雨となつた。
秋たけなわと言うか、晩秋と言うか一段と秋が深まり、家の周りには小菊が盛りに咲いており、砂壌土が菊にフサウのか、毎年少しづつ増えている。

里山の紅葉はまだ進んでいないが、開田は収穫が終わり延び切つた雑草やカヤ(尾花)やクズ葉(クズ)が一段と晩秋のもの悲しささえ感じさせている。
Photo_2 この開田は明治の終わりから大正の初めに掛け現在の3a(3畝歩)の区画の開墾をしてから、現在の間に何回も圃場整備の補助事業が持ち上がつては消え、議論しては消えて来た。
小作地が多く、農地改革があつたにせよ、地主の呪縛から解放されず、水田の交換分合事業までも1/3位が出来ておらず、所有地が各地に分散し、大型機械化の時代の移動に難儀している現況である。

融雪災害、梅雨時の災害、他所の地区の笹倉用水の崩壊が今年も又あり、番坂の溜池に入る等の工事も降雪までの期間となつており、大変遅れているが何故そんなに遅れるのだろうか。

大原線に添った西側水路は40cmのU字管が100mの距離でこれも今年度のこれから開始されるが、それにしても足元の良い時期に良い工事が出来ないものなのだろうか。
今年の秋は天候に恵まれて来たがこれからは解らない。

2011/11/03

NO,44   農業まつり

Photo 11月に入り年賀ハガキの発売が始まった。
今日は11月3日(木)菊薫る「文化の日」である。
戦前は「明治節」、第122代明治天皇(1852~1912)の誕生日なのである。
今日は晴天の得意日とされているが、今のところ日も出る天気となつているが昼頃には小雨が降る予報が出ている。
菊薫ると言うように家の廻りには小菊の黄色、橙、白色、茶色と限りがない。
そこえ更に黄色のツワブキ、紫色のリンドウの競演である。

Photo_2 この日に農協では「農業まつり」と銘うつて収穫祭を行うようになり、その歴史も長くなった。
家内達はグループの手作り味噌を出品するために早朝から出掛けた。
糸魚川市が誕生したこの年のこの日に市役所産業課が主催し、農産物の品評会が行われたのがベースとなつており、何よりも食糧増産の中の良質生産が目的だつたのかなと思もつている。

この出来秋に始めておふくろから背広を買つてもらい、その品評会を観にいつた。
明けた翌年の1月15日は成人式であり、背広を着た2回目であり、赤いネクタイを締めて参加した。

写真の説明
1枚目は 菩提寺の西性寺の菊花展(昨年の10月)
2枚目は 当市産物の「越の丸ナス」(農協のホームページより)

2011/10/27

NO,43  砂山

2 今日は27日(木)、竹ケ花の秋祭りである。
冬の季節風の吹きまくる季節、東京は昨日の夕方に木枯らし一号が吹いたと報じられた。
今日は晴天であるが、北風が強く寒かった。
浜辺がなくなつたので北風も西風も砂を飛ばすような事がなくなつた。
昔はこんな日には「タガ」飛ばしをした子供の頃が思い出された。

そんな中を元気に海辺を飛び回つていた。
こうした強い風が吹きまくり砂山を築いて来た長い歴史がある。
Photo 小学校の裏山の砂山は10m位であつたのか20m位だったのかすこぶる高く、この砂山が護岸の役割をしており、初雪からスキーが出来るスキー場と早変わりし、浜辺の子供はここでスキーを覚えて行つたのである。
その後上達すると上級生に連れられて忠魂碑のレンガ場や山崎の坂に滑りにいつたものだ。

こうして砂が飛んで来るので風の強い翌日の校舎は砂っぽく、よく掃き掃除や拭き掃除をさせられたものであり、小学生にトラホームの子が多く、大和川の風土病とさえ言われた頃もあつた。

Photo_2 こうした砂山の面影は今はまつたくなくなり、新潟の寄居浜や能登・羽咋の千里浜を思い出し、千里浜はドライブインを何回も通り、その都度当時の大和川を思い出す。
タガ飛ばしとか、タガ回しとかは、ママ先(崎)(磯の先)はゴミ捨て場であり、そこには肥桶や漬物樽のタガを拾い、これを強い西風に風下に飛ばし、それを追い駆けて行くのである。
そんな事を何回もしたが、当時はそれだけ広い海辺があつたのである。
そんなタガ飛ばしも、タガ回しも今の子供は知らない。

こうした砂浜とか砂山と言えば新潟・寄居浜に幾つかの句碑や歌碑が有る中で「すなやま」の句碑があり、北原白秋の童謡が思い出せる。
 「すなやま」
1,海は荒海 向こうは佐渡よ
 雀なけなけ もう日が暮れた
 みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ
と2番も3番も、雀と海を歌っているが、近年はすっかりその雀の数も少なくなり、激減稀少動物の中に入りかねないようになつた。
朝は雀のチュン チュンで目が覚めたが、その声はカラスに変わってしまつた。
白秋が作詞してから約90年、こうした年月の間にも変わり行くものは変わり、万物は不滅だとは言えないのである。

写真の説明
1枚目は 10月13日の夕焼け・裏の浜で
2枚目は 「すなやま」の句碑
3枚目は 千里浜

2011/10/15

NO,42   秋祭り

Photo 昨日は10月14日(金)、「鉄道記念日」(現鉄道の日)であつた。
くしくも、国鉄OBの従兄弟のお父さんの怪我を見舞った。
OBのお父さん達は無人駅の清掃活動を行つており、そこえ行く途中に転倒し腰を骨折してしまつたのである。
過つてはこの記念日には富山で家族慰安会があるとか、高岡であるとか言つていたが、家ではまだ稲の作業があり、当時は娯楽等は少なく、国鉄の家族がケナリ(羨ましい)かつた。

Photo_2 今日は15日(土)、梶屋敷立壁神社の宵祭りである。
朝から雨が時々降っていたが、その後は曇りとなるようだが心配される。
急な石段を神輿が降りるからである。
この石段数が何段であつたのだろうか。
下った神輿は街のお旅所で宿泊され明日の祭りには街中を一日中かけて巡行される。
「よいとまか」は来年がロンドンオリンピックであり、今年はない年に当たる。

立壁神社は大正7(1918)年に熊野神社と稲荷神社と合祀したものである。
Photo_3 熊野神社は田屋梶屋敷村が祀り、稲荷神社は梶屋敷村が祀つていたものであり、現在の拝殿が熊野神社、稲荷神社は社務所にして新しく奥の院(本殿)を新設したものだと聞いている。
そんな関係で参道もおのおのあつたり、鳥居もそれぞれあつたとされている。

この村の名前は、天和の検地で有名な天和4(1684)年甲子2月の検地では大和川の塩田の所有者の面積や取れ高なども出ているもので、この中に田屋梶屋敷村と梶屋敷村として記録されているものがあるが、いつの時代にPhoto_4 統合され梶屋敷村になつたのだろうか。
そうした当時の古地図はどこかにあつたり、梶屋敷のたぶん南側が田屋梶屋敷であつたのだろうと思うが、どの辺がそうなのだろうか。
立壁神社の参道の南側の家が同級生の相沢君の家で、屋号は「かみ」さと言つているようだが、「神」ではなく、参道の上とか、神社の上、旧梶屋敷集落の一番南側の「上」とか梶屋敷の一番高い所であつたのではないでしょうか。
お祭を機会にお教え下さい。

明日の本祭りは晴天になり、心ゆくまで一年の豊穣を楽しめますようお祈りします。
この後は24日(月)は田伏奴奈川神社、11月13日(日)は大和川国造神社と秋祭りが続いて行われる。

写真の説明
1枚目は 北陸本線を走るローカル電車、今新幹線が開通すれば「優等列車」は通らなくなるという議論がなされている。
2枚目は 09年の秋祭り
3枚目は 10年の秋祭り

2011/10/09

NO,41   「あやとり かけとり」の唄か

Photo 今日は10月9日(日)、「寒露」だそうだ。
24節気の一つであり、朝露を踏めば冷ややかなるを覚え、秋が深まり行くのが知られる頃。とされる。
昨日から2日続きの快晴で暖かい日よりとなつた。
「夕陽(ひ)のある日は鎌を磨げ」と言う諺があると天気予報のお娘さんが述べていた。
これは秋の夕日は明日も天気になる兆しであり、農作業の準備をしなさい。鎌を磨ぐなど道具の手入れを怠るなと言う戒めかもしれない。

この天気で「さつまいも」を掘る人も多くいて、いもの長い蔓を鎌で切つている風景も見受けられた。
Photo_2 一方海では早朝から長野や松本のナンバーの車が多く来て、海釣りの光景も見えた快晴の一日であつた。

又、今晩は十三夜の月だそうだ。
先月の12日は中秋の名月を病院の窓越しで眺めていたが、今晩は家で月見が出来る。
この地方では団子や里芋を供えて月見をする習慣はないが、「いぼごや」と言う習慣が当市根知地区にあり、青年団の若い衆が継続していた。

Photo_3 この晩にはアゼ豆(畦畔大豆)を採って来て、稲の収穫作業のある中でゆでてもらつた子供の頃が懐かしい。
そして祖母はよくこんな唄を歌ってくれた。
  にょらいさま(如来様) にょらいさま
  いくつで ござる  13と 7つ
  そらまだ 若い 
  いばらの 影で   ねんねを産んで
  お万に ばせよか
  お千が腹立つ        (以下省略)
これは何と言う唄であつたのだろうか。そこまで子供であり知らなかった。
それを知りたいと調べて見ると、「あやとり かけとり」の唄の中に「お月さま」と言う唄がある事を知った。余りにも酷似している。
1番から6番まであり、2番と3番には次のような唄がある。
   2番  お月様いくつ  13  7つ
       まだ年若いな。
       若船乗つて 唐まで渡れ。

   3番  お月様いくつ  13  7つ
       金の屏風に切子の枕
       あの子を産んで、この子を産んで、
       お万に抱かしょ。
       お千ほ何処往た。
       油買ひに、茶買ひに。
       (以下4~6番は省略します)
こうした唄が有る事を知った。

  

2011/10/05

NO,40  食欲の秋

Photo_2  今日は10月5日(水)午前は曇り、午後からは予報どうりに雨となつた。

高い空、流れる雲のみが見える病室で、秋の虫の音も聞こえず、渡り鳥の行き交う鳴き声も聞こえず、又野辺の咲く花も見られなかつた。
家に帰ると彼岸花の真赤な花が目にしみました。
退院して10日程になりましたが、病院と違い暖房もまだなく寒いのが難となつている。
大和川原の稲も既に刈取とられ、焼山、火打、白馬連山に初雪が来て、秋が一挙に深まつた観がある。

2_2 入院中に中核農家から刈取りを済ませてもらい昨年よりも6俵(360㎏)の増収となるような計算で期待していた通りの豊作となつた。
そうした収穫時の稲姿を見る事が出来ず、又定年後の第2の人生であつた喜怒哀楽の稲作栽培も終焉を迎え、その場に立ち会う事がかなわず誠に残念であつた。

8月22日に入院し、1週間後に手術、9月26日には退院する事が出来たが、終わりの後半には2日の外泊もあり、当初からの計画通りの日程となつた。
昨日は快晴で暖かく、午前は自転車で農協や郵便局、スーパー等に出掛けたり、午後は弟から手助けをもらって小作米の配達を行つたところである。

828 まだ長時間動くと疲れが出るので休みながら、リハビリのつもりで体を動かしている。
何か月続くか、流動物と10時、3時の間食で体力の回復と維持に努めている。
早くコシヒカリの白い米に「香の物」の「奈良漬」をポリポリと音を立てて食べたいものである。
そうした食欲の秋が羨ましい。

写真の説明
1枚目 彼岸花
2枚目 糸魚川総合病院
3枚目 8月28日の昼食で最後の定食となつた。病院食のメニーユである。

2011/08/21

NO,39  くもの糸

Photo 今日は8月21日(日)、朝から一日中時々小雨が降り、涼しい日が3日間程続いている。
明日も小雨が降るような天気予報が出ている。

コシヒカリが出穂してから刈り取り適期の目安として積算温度計が1000度を目標としており、今日現在は557度になつている。
今後の一日の平均気温を25度としても、18日たてば443度に達し、1000度となり、その日は9月10日となる。
今後順調に天候が推移すれば9月10日とし、昨年よりも5日も早まる計算だ。
その刈取り作業が出来ず、病床でコンバインの行き来する風景を眺める事になろう。

入院が延び延びとなり、いよいよ明日となり、不安と心配で一杯である。
農作業を精一杯いしていれば気も紛れるが、最後の今日は雨で出来ず、持ち物の点検位であるが気は休まらない。
「神や仏にすがる」心境は勿論であるが、何んでもすがる心境なのである。
そこで芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」(1918)を思い出した。

Photo_2 多分中学3年の国語に同じ芥川龍之介の小説「鼻」(1916年新思潮)を教わったが、この「蜘蛛の糸」も一緒であつたがあまり芥川文学を理解出来ずにいた。
そんな文学少年に程遠い勉強嫌いの中学生であつた。
「お釈迦さんが、或る日に極楽浄土を散策しておられ、蓮池を通ると一人の男が地獄で苦しんでいるのが見えた。
カンタダと言う名の泥棒で、カンダタは悪事の限りを尽くして地獄に落とされたのである。
お釈迦さんは、カンダタが生前にたつた一つだけ、いい事をしていた事を思い出し、蜘蛛を踏んずけようとしたのを思いとどまり命を救った事であつた。
2 そうした事でお釈迦さんは、極楽浄土の蜘蛛の糸を一本、地獄の方に垂らしてやつた。
カンダタは上から下にするすると下がつてくる一筋の糸を見つけ「しめた、この糸を登つて行けば極楽に行ける」と上に向かって必死に登り始めた。
「これは俺の糸だ、お前らは登つてくるな」と大勢の地獄の亡者に言つたが、その糸はとうとう切れてカンダタは再び地獄に落ちてしまつた。
それは自分一人だけ助かろうとする事を戒める話なのだそうであるが、誰れしも自分だけは助かりたい、他人を跳ね除けても助かるものであれば助かりたいのが人情である。
しかし、「人間は自力では救われない、念仏を唱え阿弥陀仏にお任せするしか救われる道はない」と言う「他力の救い」、「他力本願」なのである。
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」を唱え他力にすがる心境である。
(雑誌「ラジオ深夜便」7月号「明日へのことば・他力の救い」の一部引用)

2011/08/18

NO,38  刈取りまじか

Photo 今日は8月18日(木)、夜中の何時かに雨が降り、焼けきつていた畑にうるおいをもたらした。
お盆も終わり、まだまだ残暑が残る暑い中で秋野菜を播く準備が始まった。

16日(火)に入院予定となつていたが、手術予定日に執刀医のスタッフが揃わず1週間遅れる日程となつた。
入院の諸準備をし、生活の用品等まつたく初めてなので当惑している。
手術後楽になれば読書位は出来るだろうし、何を読もうかと思っている。
まずは、五木寛之・立松和平の「親鸞と道元」(祥伝社)と雑誌「ラジオ深夜便」を鞄に入れた。
8182 そして甲府市の親戚から病気平癒の御守りを武田神社から受けて貰い、身に付ける事にしている。

こうして入院が延びて、当初は8月に入れば直ぐにと言う事であつたが、この遅れのお陰で水田畦畔の草刈も出来たし、水田の水管理も思うように出来た。
もう1週間後の25日には「水番」も終わり、用水路には水が流れなくなる。
猛暑の連続で水不足で3ケ所の溜池も大いに役立つていた。
818 早生種のモチ「わたぼうし」は月末には刈取りが出来るのではないだろうか。
県内では毎年一番早い柏崎市西山では「越路早生」の刈取りが昨日から始まった。
コシヒカリの刈り取りも9月15日頃から毎年始るが、今年は2~3日早まるだろうと予想出来る。

こうして初秋を迎えて行くが里山には萩が咲き、オバナも見えるようになつた。
15日の盆踊りは一時の大雨で16日に延期となつたり、海水浴場も16日に撤去の作業をしていた。
猛暑の夏であつたが海に入る日数は少なく、人出も極端に少なかったのではないだろうか。
海岸にはもう人は誰もおらず寂しいいつもの海となつている。

この海も暫く見られず、豊作が期待されるコシヒカリの刈取りのコンバインに乗る事も出来ず、病床でコンバインの快音を聞く事になる。
818_2 どうかコシヒカリの豊作と無事収穫作業が終る事、一日も早い病気平癒を祈願するものである。

写真の説明
1枚目 武田神社の「病気平癒」御守り
2枚目 モチ「わたぼうし」の実り、今日の撮影
3枚目 「コシヒカリ」の実りぐわい、今日の撮影
4枚目 「小畑の溜池」の渇水状態、今日の撮影

2011/08/14

NO,37   病気平癒

Photo 今日はお盆の14日(日)、今日も朝から晴れで8月に入つて雨らしい雨が降っていない。
この暑さでコシヒカリの出穂も進み、早く出穂したものは穂が傾き始めている。
妻の実家が来る20日(土)に実母や跡取りの兄さんの法要があるが私にも出席するように依頼がありましたが入院中のために出席出来ず、昨日ご挨拶とお墓参りに帰省中の娘と3人で出掛けた。

元気であれば亡娘のお墓参りに甲府市に出掛けるのが日課となつていたり、その際には上野公園内の東京国立博物館で行われている「空海と密教美術展」(7月20日~9月25日)を見学したいと2月の命日のお墓参りの時から思っていた。
今ままでも同じ会場では、平成18年の「特別展~「仏像」~一木にこめられた祈り」(10月13日~
Photo_2 12月3日)、平成21年の「国宝 薬師寺展」(3月25日~6月8日)を見学して来た。それだけに今回は残念である。

「国宝 薬師寺展」は平城遷都1300年を記念しての薬師寺の国宝や重要文化財の多くの仏像や絵画等であつた。
この「薬師寺」は天武天皇(673~686)が皇后のちの持統天皇(686~696)の病気平癒を祈って680年(天武8年)に創建を発願したとされている。
この寺には三尊像や「薬師如来坐像」(国宝・白鳳時代)がおわす。

薬師如来の又の名を「医王如来」とも言い、「医薬兼備」の仏様でもある。
人間にとつて死と言う一番恐ろしいものを招くのが病気である。
体が動かなくなるのも病気なら、身の不幸、心の病も病気です。
欲が深くて、不正直で、疑い深くて、腹が立ち、不平不満の愚痴ばっかり、これも皆な病気だそうです。

812 「応病与薬」(おうびようよやく)の法薬で、苦を抜き楽を与えて下さる「抜苦与楽」(ばつくよらく)の仏様、だから人々に仰がれ、親しまれ、頼られていらつしゃるのである。

いよいよ16日(火)に入院し、30日になるか40日になるかはわからないが苦闘の日々が続くのだろう。
入院に際し、日頃の生活習慣や考え方等を聞かせて下さいと言う中で、「信仰宗教や硬く信じている事がありますか」と言う設問もありますが、神に祈り、仏に祈る心境である。
薬師如来に一日も早い病気平癒を祈り、家に早く帰りたいものである。
この間のブログ投稿を休み、メールの返信も失礼します。
残暑の候皆様にはご自愛下さい。
写真の説明
1枚目は 家の畑に咲く「芙蓉」、灼熱の赤、真夏を感じる

Photo_3 2枚目は 薬師寺の国宝「薬師如来坐像」
3枚目は 中央大通り線に咲く「サルスベリ」8月12日撮影
4枚目は 盆の15日夜に行われる盆踊りのポスター

2011/08/07

NO,36   「風祭」の神事

  23 今日は8月7日(日)、暑い日が朝から続いている。
明日はもう「立秋」である。
コシヒカリは出穂が出揃うところである。
用水路には水不足もなく取水する事が今の内は出来ている。
もう20日間程頑張ってもらわなければならない。
米に黒い斑点をつける害虫、カメムシ類の内、アカヒゲホソミドリカスミカメムシが穂に飛翔しているものが見受けられた。
この時期が防除適期であり、昨日の早朝に農薬を散布した。

今日の午前はお寺のお参りの日であり、夕方は氏子の神社の「風祭」である。
「風祭」は日こそ異なるが全国各地で行われる神事である。
農家の厄Photo_8日の二百十日や二百二十日を前にして稲穂の実つたこの時期に台風や暴風が来ないようにと祈願する神事である。
氏子の神社は昔から神木の松の木のテッペンに長い若竹に付けた御幣を結び付ける行事が行われる。

この地域では松の木や杉の木の神木に長い若竹に御幣を付けたものを結びつけるものや、田の中に竹に付けた御幣を立てる所、又集落の入口にお札を立てる所と色々のようである。
神木も神社境内には照葉樹林のタブの木(クスノキ科)が多く自生しているのが一般的で沿海地帯や海の近い神社に多い。
そして、大雨を降らせたり、台風をもたらす風を切る「風切りの鎌」を屋根にかざす行事を行う地方や、神木に鎌を打ち込む「鎌打ち神事」(能登地方に多く8月27日)や当市の信越国境の小谷村では「薙ぎ鎌の神事」(諏訪下社から神職がこられて7年毎に行う、8月31日)が行われ、長い歴史があると聞いている。

今年は特別に東北の4大祭りとか6大祭りとかはこの時期に盛大に3_7行われているが
これも五穀豊穣を祈願するものが起源のはずである。
もつとはっきりとしているのは、隣の県の越中「おはら風の盆」であろう。
二百十日の日から2晩とか3晩とかも踊つて台風や暴風雨がこの地に来ないように、この地を避けるように、被害が少ないように祈る鎮魂の行事なのである。

いよいよお盆を迎える。この頃に入院となるが、1ケ月程の加療が必要との事、この春から精魂込めて耕作して来たコシヒカリの収穫作業に手を付けられず、稲が倒れたのか、品質が良かったのか、どんな出来だつたのか、この手でつかんで、この目で見る事が出来ずに入院し、誠に心残りなのである。
定年後17年間の第2の人生の終焉である。
しかし、今後の第3の人生が待っている。
23_2 新しい希望を求めて、道を拓いて前に進む覚悟である。
私にとっての「風祭」でもある。

写真の説明
1枚目は 厚田集落の三神社の御幣
2枚目は 「薙鎌の神事」、神木は当市大久保集落の白池の南側で、ここは新潟県と長野県の県境界線がない所であり、信州の越後侵略の象徴とも言われている。
3枚目は 「おはら風の盆」の踊り風景
4枚目は 「盆花」と地元では言い、お墓参りに持つて行く「ミソハギ」(ミソハギ科)である。田の隅に少しずつ作つていたものだ、今は少なくなつた。

2011/08/02

NO,35  八朔(はっさく)のころ

Photo 今日は8月2日(火)、朝から晴れであるが天候が定まらず夕方には一時雨が降る予報が出ているが、昨日も同じような予報で雨が降らなかった。
台風6号が去って以来、東日本や北陸地方は猛暑から解放されている。

今日は2回目の「土用の丑の日」であるが、そんなことで忘れられている。
その丑の日の定番はウナギの蒲焼であるが、そんな食文化は近年になつてからの事であり、子供の頃は牛汁か豚汁であつたが、夏の間に82 はクジラ汁も2~3回食べていた。
この時期はナスやキュウリの最盛期であり、特にナスは味噌汁の中にも、漬物も、そして焼きナスや蒸しナスなど「ばつかり」料理であつた。
そんな中で「クジラ汁」は小さく刻んだ脂身の塩物であり、具にはジャガイモやユウガオ、ナス、ネギ、インゲンなどが主流であり、山間部では山菜が入ったとされている。
家では何も入らなかつたが味噌味でショツパイ(塩辛い)かつたと思う。

Photo_2 ここは海辺であるから朝食から何らかの焼き魚が出る。
今日は久し振りに「干しだら」であつた。
これも子供の頃からのこの時期の食べ物であつた。
女衆を多く頼んで田の草取りを行い、遠い田に行く時は弁当を持つて行くが、そのおかずには「干しだら」であつたり、イワシの「漬けどみ」であつた。
両方共に塩分が強いが、汗をかく時期でもあり丁度よかつたのだろう。

コシヒカリの出穂日(出穂し、ほぼ揃う頃)は8月5日頃となつているが、猛暑が長く続いたので相当早くなるのだろうと予想されたが、最近の低温で足踏みし、当初の予定日の頃となるようだ。
早生種のモチ米「わたぼうし」は穂揃いし、雀除けのテープを張った圃場も見受けられる。

NO,29のブログ「お一日(ついたち)さん」の投稿をしたが、この「一日(ついたち)」は一般的には「朔」(ついたち)と書くのが定説のようである事を知った。
特に八月の一日(ついたち)は「八朔」と言い、8月の「朔」(ついたち)なのだそうだ。
Photo_3 この8月1日の「八朔」は暦に出ている物は少なく、「雑節」や「節句」にも「二十四節気」にもない。
しかしながら「八朔」とは、「田の実の節句」とも言うそうである。
この頃になると早生種の穂が実るので、農民の間では初穂を恩人等に贈る風習が古くからあつた。
この事から「田の実の節句」と言つたとされている。
この「田」(た)の実(み)」を「頼み」にかけ武士や公家の間でも日頃お世話になつている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになつた。
82_2 そうした例として、今でも残る伝統的行事の中には京都の祇園など花街では新暦8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅に挨拶に廻るのだそうである。(出典=フリー百科辞典「ウイキベディア」より)
その他にも全国に色々な行事や習慣があるようだ。
日付けが違うが当地区では8月7日に地区内3ケ寺の寺や菩提寺に半年の恩に感謝し、お供物や懇志をくるんで法要に参拝する習慣があり、正月2日の寺参りと同じである。

写真の説明
1枚目は 「お講さま袋」でお寺や「冠婚葬祭」の際に「白米2升」位を入れて差し出す入れ物。ほとんど使われなくなり持っている家も少なくなつただろう。
2枚目は 今日のコシヒカリ出穂
3枚目は 早生種「わたぼうし」の雀追いのテープ張り風景
4枚目は 地区内の禅寺「禅林寺」の法要張り紙
5枚目は 家の庭の「サルスベリ」(百日紅)も咲き出した。

2011/07/28

NO,34  涼を求めて

Photo 今朝は雷鳴と雨の音で眼が覚めたが、その後当市にも大雨警報が出る天気となつた。
その朝は南風で生暖かい気温であつたが昼近くになりその風も止み、涼しい風となつた。

32~33℃の猛暑が何日も続き、コシヒカリの出穂が相当早まると予想していたがここえ来て天候が定まらず、その出穂が足踏みしている。
それでも早いものはチラホラと穂先が覗出した。

この猛暑の時期、涼を求めて、山や海に出かけるのが定番であるが、子供や孫達がPhoto_2 いないのでどこえも出かけない。
裏の海にも昨年も一回も入らずしまいであつたし、今年もまだ入つていない。
地区での納涼の行事はお盆の盆踊り位であるが、隣の自治区では区民の納涼会を浜辺の集会所前で今度の日曜日に夕方から行うと掲示が貼りだされている。

家の叔母さん(亡父の妹)は函館におられもう5年も前になるが病気見舞いに出掛けたが、函館は7月が一番良い季節であると良く言つておPhoto_3 られた。
7月末に2泊して市内や大沼公園を観光で案内してもらつた。
内地のように暑くもなく本当によい気候であつたが、それでも函館はその折りは暑いと言つておられた。

そんな北海道はメロンの主産地となり久しい、20数年前から「夕張メロン」として売り出したが、今は全道が産地のようである。
先に訓子府(くんねつぷ)町(北見市の隣町)産のメロンを贈ってもらつた。
「くんねつぷメロン」は北見盆地の中にあり、全国有数の日照時間と、昼夜の寒暖差が大きく、メロンにとつて恵まれた気候だと記されていた。
それにしてもシバレル1月にハウスにビニールを張り、3月に播種、授粉はミツバチで行つており、肥料は化学肥料を一切使わず有機肥料だけだとの事、又接木せずにこだわりの栽培方法を取っておられる。

Photo_4 この地域でも育苗ハウスの跡にこのメロンを栽培した事もあつたが長くは定着していないようだ。
そんな事を思うと北海道のメロンには頭が下がる。
冷たいメロンは何よりの猛暑対策である。
農村と言えば、今頃は水槽にキュウリやトマトが浮いていたが、その水槽はとーに無くなっている。

写真の説明
1枚目は 贈って戴いた「くんねつぷメロン」
2枚目は 函館の夜景
3枚目は 立待岬での記念撮影
4枚目は 函館市のマンホールの蓋

2011/07/23

NO、33  出穂まじか

Photo 今日は二十四節気の「大暑」、旧6月末の月の中気で、新暦の今日、暑気ますます加わり、夏の土用もこの時期。
しかしながら「大暑」と「小暑」が入れ替わつたような昨今の涼しさである。
昨日の上越市高田の最高気温は25.2℃で平年気温よりも約5℃も低く寒い位であつた。
今日も涼しく27~28℃位だと思う。
一日中曇りでどうやら雨が落ちないでいた。
この気候は台風6号の勢である。

こうした気候の中で、今朝の早朝5時前から長野ナンバーの車の大学生が20人程で泳いでいた。
その数名が50m程の沖防波堤までいつていた。
地元の小学生も今日から夏休みになつたようだ。
21日までは毎日が猛暑で稲の方も成育が進み、早生種の「こしいぶき」(出穂予想日・7月30日)、糯の「わたぼうし」(出穂予想日・同じ)は出穂を始めた。
10 里山の萩も早いものは咲きだしているがその反面、アジサイは梅雨が短く短命に終わった。
来年の為に既に剪定を終えている。

水稲コシヒカリは8月5日が出穂予定日であるが、幼穂の長さを測つて見ると13cmにもなり、もう10日位で出穂するのではないかと思われる。
草丈も今年は全般的には徒長ぎみだと言われるように80cmはゆうに超しており、倒伏を心配しながら2回目の穂肥を午後に施用した。
稲の顔色を伺つて、黄色の顔のものに施用したが、少々の量であり、「ムラ直し」とか、「おしょこ」(お焼香)程とか言うような量である。

この穂肥の施用には、「穂肥を打つ」とか、今回のような「ムラ直し」とか「おしょこ」とかの表現で面白い言い方をしている。
昔からの長い歴史の中での経験が物語つているのだろう。
ここで米を多く採ろうと欲を出せば倒伏する可能性があり、グート我慢のしどころでもある。

写真の説明
1枚目は 今日の8時半に撮影したもの。
2枚目は コシヒカリの草丈、今日の午後の撮影

2011/07/18

NO,32  やまい(病)との闘い

2 今日は7月18日(月)、「海の日」である。国民の祝日の改定で7月第三月曜日となつた。
毎日が32~33℃の暑さで閉口している。

昨日は田伏の「おてんのさん」(お天王さん)の帰行、「お昇り」の日であつた。
昼前から「立ちくらみ」がおきて、今日の水田の水管理も出来ずに家内にお願いした。
夕方の5時半から6時過ぎまで東風に乗って奴奈川神社からドンデンドン、ドンデンドンと太鼓の勇壮な音が流れて来た。
「お走り」と「おねり」の太鼓である。
この神輿の「お昇り」と一緒にホタルも上がるのだと子供の頃に年寄りが言つていた。

Photo 月の始めの去る3日(日)と4日(月)はJAひすいの農家組合長の視察旅行であり、南木曽温泉で宿泊の計画となつており、「売らない・貸さない・壊さない」の三原則を運動としている中仙道の妻籠宿、国重要伝統的建造物群保存地区(指定1976年)を再度訪れる事を楽しみにしていた。
ところが体調に違和感を感じたので病院の診察を受けたが難病である事がわかつた。
日頃の生活に支障がなく、体力保持のため今の労働と生活を継続するよう指示があり色々な検査を受けている最中である。

Photo_2 土産には飛騨地方の「さるぼぼ」を戴いた。
この「さるぼぼ」はは一口にはお守りであり、厄除けであるが、「良縁に恵まれます様に」、「子宝に恵まれます様に」、「安産であります様に」、「夫婦円満でいつまでも仲良く幸いで在ります様に」、「交通安全・安全運転が出来ます様に」とこんな祈りを込めていると栞に書いてありました。
私の戴いた「さるぼぼ」には、私の病を一心に身代わりとなつてもらい、病との闘いを祈願している。

2月に東京ドームで行われた第21回世界ラン展の日本大賞を受賞された園芸家の江尻光一先生が5月に入つて逝去されたと知った。
会場で写真を撮らせて戴きましたがこれが遺影となつてしまつた。
たぶん多くの色々なランに囲まれての旅立ちだつたのだろうと思もいます。
私の病も晴天の霹靂であり、この病に負けないように気丈夫を振舞つている。
頑張らなければならない。

写真
1枚目は 「神輿のおねり」である。
2枚目は 糸魚川総合病院
3枚目は 「さるぼぼ」

2011/07/14

NO,31  稲の化粧と勝負

23 ここ数日は32℃を超す毎日でへいこうしている。
稲の出穂を前に草刈をし、虫害のカメムシの喰害を防止する為である。
日中は暑いのでこの草刈を早朝の1時間位と夕方の1時間位である。
この草刈は春から3回目になり、伸びるのが早い。

今日は7月の14日(木)で、水稲のコシヒカリの出穂25日前位となつている。
25 そしてその20日前には第1回の穂肥を撒く(施用と言う)時期であり、追って15日前には第2回を撒かなければならない。
そうしたコシヒカリの一生で今が一番大事な時なのである。
田の水管理もこまめに間断灌水や保水に勤めなければならない。

稲は「3回勝負する」とか、稲は「3回化粧する」と言う所謂、「稲三黄期あり」である。
1回目は移植期の田植で苗が一時黄化し、2回目は丁度今の時期の出穂25日前、3回目は収穫期の黄金色である。
今の時期、春に撒いた元肥をコシヒカリが吸い取つて、もう肥料が無くなつたよーと稲体が肥料の要求をしているサインなのである。
23_2 この時期に2回に分けて肥料を追肥するのが穂肥なのである。
この肥料を貰うか、貰わないかで稲の収穫量が大変左右されるのである。
又、多く貰い過ぎると収穫時には稲がバツタリと倒れてしまい、刈取りに労力を多く要したり品質を極端に低下させてしまう。
こうした稲の一番大事な時期であり、稲の丁か半かの勝負の時期でもある。

この穂肥を撒く、施用する事を、「穂肥を打つ」とも言つた。
「博打を打つ」とも通じるとよく言われたものであるが、段々そんな事を言う人も少なくなつたし、知る人も少なくなつた。

写真
1枚目 ネムの花、今が盛りで咲いている。
2枚目 今日現在の稲の姿である。17日か18日に第1回の穂肥を撒く予定。
3枚目 「適正水管理」の幟も付けられた。

2011/07/10

NO,30   田伏の祇園

23 今日は7月10日(日)、早朝は晴れとなつたが途中で曇りになり、一雨来るかとおもつたが降らずに暑い祇園祭日和となつた。
昨日は北陸地方も平年より15日も早く梅雨が明け、暑い暑い「大暑」を迎えた。
二十四節気の「大暑」は来る7月23日であり、この「二十四節気」はいつの時代に今の中国から入つたものであり、今の日本の気候に合わないので近年中に「新二十四節気」の暦が出来ると報道があつた。

23_2 今日の日曜日は地区の田伏の祇園祭であり、9時過ぎに神輿の巡行があつた。
露払いにペタとハナが若竹を持つて走っていたし、その次にジョバが来た。
そのジョバに頭を噛んでもらいボケ防止、災難防止をしてもらつた。
神輿巡行も所々に神輿を止めて祝詞奏上とお祓いがあるが、今年は特別にそのご利益を戴きたく初穂料を奉納した。
23_3 いつもながら神輿の鳳凰は稲苗をくわえており、今年の稲作の豊穣を祈念していたし、榊神職さんはいつもながらの丁寧な神事であり感服している。
流れる汗を拭き拭き行っていた。

この祇園の巡行には多くの役割があるが、年毎に少子化で子供や若者が少なくなり、今年は田伏地区だけでなく全地区からの参加を募り、事前に勉強会や打合せ会を幾度ももつと自治会の回覧板が回って来た。
伝統的な行事であり、今後も継続してもらいたいものである。
そして午後に「蘇民将来子孫門也」のお札が配布された。

23_4 国民学校の子供の頃は、7月7日と14日が祇園であり、1ケ月程前位から、ペタやハナの面を厚紙で作り、優しい顔のペタ、おつかない顔のハナの面を作り、これを被つて祇園の遊びをした思い出がある。
今のペタやハナは子供を追わないし、子供も逃げない。
そんな風景の祇園である。
この祇園が終れば直ぐに子供達の長い夏休みとなる。
私も8月に入れば1ケ月程ブログを休ませて戴き静養する予定である。

写真の説明
1枚目は 神輿の鳳凰は稲苗を咥え五穀豊穣を祈念している。
2枚目は ペタとハナ。トリジ(鶏爺)を被り、着ている衣装も子供の頃のものと変わっていない。
3枚目は 「大幡」と言う幟
4枚目は お祓いの神事

2011/07/01

NO,29   お一日(ついたち)さん

Photo 今日は7月1日(金)、朝から日が出ているが時々思い出したように雨が降って来て、蒸し暑い日となつている。
午後からは降らないようである。

今日は新しい月の始めのお一日(ついたち)さんである。
今年も半年終り、今日から後の半年の始まりの月の一日さんなのである。
昔は「村休み」と言つて農村では「農休日」で農作業を一日休んだものだ。
この時期は水田の「田の草取り」で疲れた体を休めるよい一日となつていたし、一日さんをハリアイにして働いていた。
そんな習慣もなくなつてもう数年になつた。

今日の誕生日の花は「半夏生」と言うドクダミ科の植物で、花言葉は「内に秘めた情熱」である。
暦の雑節に「半夏生」があり、明日の2日である。
京阪地方の農家はこの日までに田植を終らせ、餅団子を作って食すると言う習慣が630 あるそうですが、この地方にはそんな行事はない。
植物の半夏生も特定の人が植えている程度でめつたに見かけない。
丁度今が葉の半分が白く、蕾や花が咲いているのを見た。

昨日は氏子の神社の「大祓祭」が夕方から行われた。
半年の無事に感謝し、迎える新しい半年も無事に過ごせるように祈願するのである。
この神事は全国的には、「水無月の祓い」とか、「夏越祓」(なごしのはらい)と言われているのが一般的のようであり、「茅の輪くぐり」の神事があつたり、「人形流し」の行事が今朝のテレビで放映されていた。
いずれにしても災いもなく、無事にこの半年を迎えられるよう特別に祈念するものである。

写真の説明
1枚目は 半夏生
2枚目は 家の畑に咲く「はなしょうぶ」であり、増やそうと思っているがなかなか増えない。

2011/06/27

NO,28  魔除け

Photo 昨日の26日の日曜日には菩提寺の永代経・追悼法要が行われお参りしお斎も頂戴して来た。
梅雨に入り、毎日のように雨が降つているが、陽性型の梅雨で時々ザーと大雨となる。
25日(土)午後5時半現在、糸魚川市(平岩)では、72時間の降水量が244ミリと1978年からの観測史上最大を記録し、大雨警報、洪水警報が一日中出ていた。

もう数日で30日(木)、1年の半年が終わり氏子の神社では「大祓祭」が行われる。
又、7月10日(日)は田伏の奴奈川神社では祇園祭が行われ、地区の全戸に「蘇民将来子孫門也」のお札(護符)が配られるのが風習となつている。
糸魚川の八坂神社の祇園祭でも同じように昔から配られている事を近年知った。
「蘇民将来子孫門也」のお札を門口に貼って無病息災、災難避けであるがどう言う事なのかを知る人が段々と少なくなつている。
Photo_2 「蘇民将来子孫門也」についての説話の由来によると諸説あるが、「裕福な弟の「巨旦将来」の家に一夜の宿を断られた旅人に扮した神様は、今度は貧しい兄の「蘇民将来」に頼み手厚く歓待してもらい、これに感謝し、その神様はそれ以後、「蘇民将来」の家の子孫に至るまで末永く疫病の難を免せようと約束したと言うもので」疫病、災難除けの護符となつたものである。
こうした風習は全国各地にあり、神社で配るもの、寺院で配るもの、時期も正月に配るものと色々のようである。

私の家の玄関には「天狗面」が飾ってあり、これも魔除け、無病息災を祈願するものである。
もう一つは「トイレの神様」ならぬ、「トイレの魔除け」を数年前に買って来て飾った。
能登の輪島の「キリコ会館」の売店にあつたものである。
Photo_3 これと同じような物が那智大社の参道の土産物店でも売っている事を知った。
民芸品の中にも「猿ぼぼ」などが飛騨地方や、今度の農家組合長の旅行先の「妻籠宿」(中仙道22番目の宿)等でも売っているが、子供の頃は七夕飾りの中にあつたり、神社の大幟の下にぶら下がつていたものである。

集落や村に疫病や災難を入れないように信州の道祖神や、ワラや麦ガラで大きな人形(ショウキ様と言う所もある)を作つて飾る風習や行事が全国各地にあるようだが、当市旧下早川村出集落には、集落の出入口に「お札」が飾られている。
これも悪霊祓い、疫病退散のものだと思うが、この起源や謂れは知られていないが毎年行われている。

これから迎える新しい半年も良い半年となる事を祈念する。

235 写真の説明
1枚目 田伏の祇園祭に配布される「蘇民将来子孫門也」の護符
2枚目 玄関にある「天狗面」
3枚目 「トイレの魔除け」
4枚目 「下早川出」の木札

2011/06/23

NO,27  木の実うれるころ

622_2 昨日の22日(水)は「二十四節気」の「夏至」であつた。
夏の最中で一番昼が長く、夜間の最も短い日とされている。
朝の4時ともなれば明るくなり、5時前には水田の水管理に出かける日課となつている。
気温が30度を超すと言う予報が出ていたので早朝から中間追肥の「マグコープ」を全水田に撒いた。
この肥料は「珪酸」成分であり、稲の活力を高める根の健康にする為である。
予報道り上越の最高気温は32,5度となり、35度以上の猛暑は全国各地で発生し、Photo_3 熱中症の人も多く出たようだ。

今日の天気予報は北陸地方は大雨で1日中降つて250ミリに達するとされて下越の村上市等が大雨のようだ。
当市は朝から時々思い出したように降り出すが、南風がやや強く吹いており、暖かく、この風が雨を抑えて、風が止めば大雨となるのだろう。

この初夏の時期、子供の頃には野山を駆け回り、「グミ」の実や桑の実、イバライチPhoto_4 ゴの「キイチゴ」(赤色)や「モミジイチゴ」(黄色)の実を採りあさつて食べたものだ。
しかし今はこうした山桑も、イバライチゴはすつかり少なくなり、子供達は食べる事を知らなくなつている。
「グミ」の木は私の耕作している田の畦畔に1本あり、丁度今、真っ赤に熟れている。
「さくらんぼ」は少しなつたが小鳥に採られてしまつたが、「グミ」の実は狙われていないようだ。
そうしてこの時期、「ホタルブクロ」は既に咲き、ホタルも数日前から飛び出し、来る日曜日の26日の夕方から地区のホタルまつりが自治会主催で行われる。

もうじき田伏の祇園を迎える頃となり、そんな話題がちらほらと出ている。
623_2 今年は7月の10日と17日の日曜日となつている。

写真の説明
1枚目は 「グミ」の実、昨日の撮影
2枚目は 「キイチゴ」
3枚目は 「モミジイチゴ」で 何れも子供のころは「イバライチゴ」と言つていた。
4枚目は 「ホタルブクロ」で家の庭に咲いているが、白色のものが紫色に交雑した。今日の撮影。

2011/06/18

NO,26  江刈りとササユリ

Photo 今日は久し振りに朝から雨となり露休みとなつた。
16日には北陸地方も平年より4日、昨年より3日遅そく梅雨に入った。
これから本格的な梅雨となり鬱陶しいジメジメした天気が続くだろう。

こうした天候が草木を繁らせ、気を許すと畑は草だらけになつてしまう。
畦畔の2回目草刈りの頃には用水路の草刈もする。
618 用水路の見回りや、水路を覆う野草や雑木の枝を払つて水温を昇げる役割もある。
旧西海村粟倉から取水する用水路の当村の境界に入った分水路は標高282mの山腹で、森林公園高ノ峯プラトー脇を通り、水頭溜池に通じ更に通称開田と言う耕地まで約2km、その他に支線の水路数ケ所の約1km、この標高約50mに下がる間の水路の「江刈り」を昨日実施した。

4月の上旬の「江さらげ」、今回の「江刈り」は男衆15名程の出役で実施したが数名は刈り払つた草をホークで上げる仕事、後の全員は草刈機である。
今から40年前位は女衆もまだ多く田仕事をしていたので、この仕事は女衆の仕事として今の倍の人数で鎌で実施していた。
動力の刈払機が導入されてから刈り払いの能率も極端に上がり、人数の削減ともなつている。

この土側溝の水路の側道には10年前位から当市の花「ササユリ」が多く自生するようになり、稀少植物としてこの花を切らないように注意している。
雑木林を通る水路で、半日陰と水分が「ササユリ」には適応するのか不思議である。
それとここ数年、森林公園のバンガローの林の中に多く自生するようになつた。
20年前から種子を採種し増殖を試みているが思うようになつていない。
618_2 もう30年も前に富山県南砺市(旧利賀村)に視察に行つた際に、利賀村にも「ササユリ」が自生し、村の花として増殖や保存に努めていると言う話を思い出した。

当市の「ササユリ」は本州の北限とされているようだ。
この「ササユリ」に似ているのに「ヒメサユリ」があるが、このユリは日本特産で、宮城県南部、福島県、山形県の本県境近くと、本県も旧下田村(三条市)、加茂市、すこし離れた村上市の標高600mから800mの高山地域を中心に自生するものであり、世界2 でもこの地域にしかない貴重なものとされている。
「ササユリ」についても先程の水路282mからと言うように「ヒメサユリ」よりも低くなる300mから50mに自生するもので、当市と富山県の一部に限られているようであるが、利賀村の標高は当市よりもそうとう高い所と思う。
世界でもこの地域のみの貴重な稀少植物とならないのだろうか。

写真の説明
1枚目は 「江刈り」の風景
2枚目は 森林公園のバンガローの附近に咲く「ササユリ」、 今日の昼過ぎの撮影
3枚目は 「ササユリ」でこれも今日の昼過ぎの撮影
4枚目は 「ヒメサユリ」です。花の色は「ササユリ」よりも少しピンク色が濃いようだ。

2011/06/15

NO,25  浜辺の花

2 北陸地方はまだ梅雨に入つておらず今日も天気で25度Cになりそうである。
里山には野つつじが橙色の花を咲かせているが、「ササユリ」の開花は今年は少し先になるようだ。

浜辺に住み、朝夕2回は海を見に行くのが日課となつている。
変り映えのしない海であるが、それでも一日、一日と周辺の顔が違っている。
Photo 浜辺に育つ花や植物も又同じである。
子供の頃からの顔であるが、40余年前の台湾坊主大波(昭和45年1月31日発生)以来、海辺が大きくもつて行かれ、そこに育つた植物も多くの種類がなくなつたり、絶滅していつた。

広い浜辺には「ハマヒルガオ」が多く咲いていたが、今はその姿は少なく、ところどころに見られる程度である。
そうした稀少植物と言えば「ハマボウフウ」もあるがこの植物を知る人は地元でもあ3 まり多くなく増やそうと言うような事もない。
こうした浜辺の砂を飛ばさない植物の中には「クコ」や「コウボウムギ」等もあるがこれらも稀少となつている。

今この浜辺で赤色の花を咲かせているのが「ムシトリナデシコ」と「ハマナス」である。
「ハマダイコン」は既に花が終わつており、種子が実つておりもう直ぐにその種子が落下するだろう。
こうした花達に会う楽しみも又格別である。

写真の説明
Photo_2 1枚目 「ムシトリナデシコ」
2枚目 「ハマヒルガオ」
3枚目 「コウボウムギ」

4枚目 「ハマナス」

2011/06/13

NO,24  青田とかかあー

613 今日も晴天となり、毎日が25度の高温となつている。
じめじめとした梅雨には北陸地方と、東北地方が入つておらず快適な毎日であるが、来週位から入るのだろうと言われている。

こうした高温に恵まれ、田植後1ケ月を過ぎ稲は順調に成育している。
2回目の畦畔草刈は今が最盛期で、日中の暑い日照りの下で汗をかいている。
私は既に大部分は終了し、刈り終わった後から休みなく、遠慮なく伸びている。

Photo 昔であれば今ま時は田の草取りは最盛期であつただろうが今は2回目の除草剤を撒布し、雑草の発生を抑制している。
早く植えた稲は繁茂し、1株の茎数が10数本に分ケツしている。
この過繁茂を抑制し、稲の根張りを良くし、登熟後期まで活力を維持し丈夫な根を作るため、水田の水を落水し、中干しを始めた。
こうした青々とした稲を見て、順調に成育し、豊作になる錯覚を覚え、これが又、願望でもあが、まだまだ始まったばかりである。

「青田とかかあーは褒めるな」と言う格言(?)がある。
まだまだ稔らない稲田の出来の良いのは当てにならないと言う事であり、「かかあー」とは、「おつかあー」とか「かみさん」の事であり、褒めるとずにのぼると言う事なのだろう。
これに似ているのは「朝日のテッカリ、姑のニッコリ」もあり、何れもあてにならないと言う事らしい。

Photo_2 この地方では今は麦作は行っていないが、麦作も「青田は褒めるな」と言う格言があるそうだ。
その麦も「麦秋」を迎えようとしている。
今年は豊作なのだろうか。

写真の説明
1枚目は 今日のお昼に撮影したコシヒカリの稲
2枚目は 懐かしい除草機による除草作業
3枚目は 麦の穂

2011/06/04

NO,23  草刈り

531 今日は朝から天候に恵まれ暖かく初夏となつた。
里山の雑木林は春蝉が朝の8時には鳴き出していた。

数日前から2回目の水田畦畔の草刈を始めたが、一雨毎に伸び放だい、秋まではこの草との戦いぞ。
田植の済んだ稲ももう数日で1ケ月となるが、稲の害虫「イネミズゾウムシ」に喰害されたり、カラスが田に入り、育苗の上に飛び乗り、稲を痛めたりで、雑草のようにたくましく生育とは行かない。
水田雑草も「ヒエ」や「ミズガヤツリ」(マルスゲ)も見えるようになり、2回目の除草剤の粒剤を散布した。

昔は田の草取りは「1番除草」、「2番除草」、「止草」等と暑い夏を四つん這えになつて行い、「止草」の頃は稲丈も大きく伸び、稲葉が目に当たつたと言つて母は目を赤くしていた時もあつた。
63 草取り作業はただ草を取るのではなく、「中耕除草」であり、田のベト(土)を掻き混ぜ土に酸素を供給し有機物の分解で肥効力が増す役目もあつた。
農業高校に入り、稲作実習では、この草取りの「中耕除草」を「ガンヅメ」を使って行う事を始めて体験した。
当地域ではそうした習慣はなく、この作業が「実習」の採点となつたのには閉口したものだ。

畦畔の草刈や、水田の除草の作業も、よく「精農」(徳農家)は「草を見ずして草を取る(刈る)」、反対に「駄農」は「草を見て草を取らず(刈らず)」と教育された。
Photo このように稲作には労力をかけ、稲の成育状況を見、稲と話をするために朝夕に足を運び、田のアゼがへこむようにならなければ精農家(篤農家)とは言えないと言われたものだ。
しかし、今こんなに米が安くなつては、軽トラツクのガソリン代にもならないと嘆く。
そうした労働の生産性を考えると「精農」は「駄農」なのである。
なかなか「駄農」にはなれないでいる。

写真の説明
1枚目は 畦畔の雑草、黄色の花を咲かせている。5月31日撮影
2枚目は 高い畦畔の草刈りは大変である。6月3日撮影
62 3枚目は 昔の「除草作業」風景で、こうして大勢の女衆を雇つて家でも行ったものだ。
4枚目は 6月2日の午後6時の夕波、落陽にはもう少し時間があつた。土日には大勢の釣り人がこのテトラの上で竿をたらしている。

2011/05/29

NO,22   溜 池

Photo今日は早朝から小雨となつている。
台風2号が本州に接近し、梅雨前線の活動が活発になつているからである。
久し振りの雨で恵みの雨となつている。
そんな事で久し振りに「晴耕雨読」となつた。

地区の田植は特殊の1人を除いて既に終了し、補植や初期除草剤の撒布も終了り、2回目の畦畔の草刈が始まった。
これからは草との戦いが又始る

佐渡の「車田植」(国指定重要無形民俗文化財「めぐり植え」・指定昭和54年2月3日)は27日、天皇陛下のお田植も終わり(24日)、山も里も緑色一色に染まっている。

Photo_2 当大和川の通称「開田」は丘陵地の里山を明治の初期に開墾し、30町歩の水田とした所である。
丘陵地であり水源はなく、隣村の旧西海村の海川の上流「魚止まり」と、支流の「不動川」から取水しているが、この計画は元禄の時代から村の岩﨑肝煎や他村の伊藤肝煎から計画がなされ、幾多の経過の中で実現した山腹用水である。
しかもこの水路と水源は旧西海村の粟倉や釜沢(集落)の土地を通るため、その水田にも共用され、「下流に流す」、更に旧西海村真光寺(集落)に40%を供給する協定が開発当時(明治42・1909年)からなされている。

こんな事で戦前は数年毎に旱魃が発生し、戦後の農業共済制度(農業災害補償法制定・昭和22年1947)が出来たが、水稲の掛金率がこの地域では一番高かつたり、用水費も又高い。
こうした旱魃対策としての溜池は明治時代に築造した「番坂の溜池」(5万分の1の地図では「タンゴの池」となつている)、昭和9年に完工した「水頭の溜池」、そして昭和19年春に完工した「小畑の溜池」と3ケ所をもうけ、「開田用水組合」を組織し運用し今に至っている。
524 個人の農家もこの丘陵地を開墾し天水田として耕作するも充分な水もなく多くの溜池を作っていた。
しかしながら長い歴史の中でそれらの溜池も老朽化し、漏水が始り管理に苦労しているものもある。
こうした溜池の築造の技術は当地区にはなく、旧磯部村籐崎の人や、山腹用水は越中・朝日村方面の人から指導を仰いだと聞いている。
「水頭」も「小畑」の溜池も築造には祖父が大きく係り、当大和川農業の100年の基盤を作ったものである。

写真の説明
1枚目は 「小畑の溜池」の桜
2枚目は 「小畑の溜池」に咲くアヤメ ・27日の撮影
3枚目は 黒姫山の雪形・24日の撮影

2011/05/16

NO,21  新 緑

516 今日は5月16日(月)、晴天となり、2~3日続いた寒い西風は止み、暖かな日となつた。
田植もようやく終わり、初期除草剤も撒布し、一服している。

今日は「旅の日」だそうだ。
松尾芭蕉が元禄2(1689)年3月27日、陽暦の今日に東北地方の旅に出た日である。
寒くもなく暑くもなく真に旅に出かける格好の時期である。
野山は日一日毎に緑が増し、雨上がりには目に眩しささえ覚える。

この時期、里山には白色のアンニンゴ(ウワミズザクラ・バラ科)や紫色の藤(フジ属マメ科)が立ち木に絡みあつて方々に見かけられる。
この地方では下早川の「月不見の池」は「藤の名所」として戦前戦後の頃には富山方面からも観光客が団体で来て大変賑わつた事もあつた。
狭い池に数棟の宴会場が出来て、「新町の芸妓」をはべらして賑やかであつた。
Photo ボートも数はい浮かべ、酔つた客がボートから落ちるなどそうした兵共の夢の跡となつている。
池の周辺の山林と共に藤が多く自生し、その藤により月が見られない事から「月不見の池」となつたのである。
もう30年も40年も前から池には水が溜まらず、又藤も以前のように自生せず、すつかり静まりかえつている。

そんな事から数年前から、この「藤」を「街おこし」としてこの時期に新町の各家庭は1鉢を家の前に飾つてその出来栄えを競いあう「藤まつり」が始まった。
今年は寒かったのでまだ満開とはなつておらず審査が行われていないようだ。

516_2 黒姫山の雪形は、「帆かけ船」と「鳩」がはっきりと現れ出した。

写真の説明
1枚目 出品されている「藤」の鉢
2枚目 「月不見の池」
3枚目 今朝の黒姫山・中央に「帆かけ船」、左下に「鳩」の雪形がはっきりと見えるようになつた。

2011/05/08

NO,20 田植盛り

56 今日は5月8日(日)、田植の最盛期であるが朝日のテッカリで早朝は快晴であつたが、7時半頃からにわかに雷鳴と共に雹が降り2時間程降雨となつた。

このように田植の最盛期で、代掻き作業の者、雨上がりに田植をする者も見えたが、今日は集落の事業である「森林公園高ノ峰プラトー」の「森林公園祭」であり、「森林公園を楽しむ」、「森林公園を食べる」と銘打つて行う計画となつていた。
この悪天候で急遽中止となつた。
55 田植の最盛期に何故行うのか、地域の施設であれば皆が参加出来る時期に出来ないのかと声を大にして叫んでいた。

田を耕作する農家は年毎にめっきり少数派となり、こうした農家の声も届かなくなつている。
かつての食糧増産の頃の国民学校時代や終戦後は「田植休み」とか「農繁期休み」があつたが、そんな時代も遠くなり、懐かしい思いがする。

「荒くれ」、「代掻き」、「田植」の作業を通じ、若い時代は勤めをしており、家業の農業を父や母の親のしていた作業の基本を習つていないから、定年退職後の稲作作業も、トラクターや田植機を購入しても、基本となる「草刈」の仕方や、水路の「江さらげ」もしないで通水となるので、土水路は浅くなつたり、狭くなつたりして直ぐにゴミが度々つまつている。

Photo 昨日は歩行型の4条田植機でコシヒカリを35a植えたが、今日は両肩が痛くなつている。
明日は4条の乗用田植機の試乗をし50a程出来ないかと思っている。
圃場にはツバメが飛び交うようになり、田植の最盛期であり、今年の五穀豊穣を念じながら勤める。
天皇陛下のお田植ももう直ぐだろう。

写真の説明
1枚目は 黒姫山の雪形、5月6日
2枚目は 我が田の代掻き 5月5日
3枚目は 広島・壬生の花田植の早乙女、もうこんな衣装の田植は見られない。


2011/05/01

NO,19  荒くれ

51 今日から皐月5月、「目に青葉、山ホトトギス、初カツオ」は江戸時代の俳人山口素堂(享保年間1716年没)の句であり余りにも有名である。
昨日の午前10時頃から降り出した小雨は今日も時々降って来ている。
南風も育苗ハウスで育苗中は必ず数回吹きまくりハウスが持つて行かれるような状態になるが、この強風は今年は少ないと思つていたが、この風が昨日と早朝も時々吹いている。

昨日の夕方に今年初めて里山の入口の山崎地区でツバメが2羽低空で飛びかつていたが昨年よりもそうとう遅く見掛けた。
庭のボタンの開花も昨年よりも数日遅れ咲き出したり、梨の花やサクランボの花が咲いてようやく春本番が来た。
Photo 水田の水あわせの作業の「荒くれ」の最盛期で耕すと土から「ケラ」が出るのでカラスがこれを求めて数十羽も群がってどこからか飛来する。
数年前まではムク鳥であつたが今は一羽も田にはやつて来ていない。
そしてツバメの水面を飛びかう光景も今は見られない。

馬耕や馬による「荒くれ」や「代掻き」も耕運機を径てトラクターに変つてもう50年に近くなる。
S305 当時は当集落には10戸位の農家で10頭の馬がいて、1町歩(1ha)から多くて2町歩の水田を耕作していた。
私の家は1町2反5畝歩の自作農でその内山田と言う天水田は4反歩であつた。
農業高校在学中に馬耕も教えてもらい一人で作業が出来るようになり、麦田の刈取り後の馬耕も大変であつたが経験した。
「荒くれ」や「代掻き」は国民学校3年生であつたか4年生であったかに山田を祖父の手伝いで馬の「鼻取り」をした。
馬の首の下に長い竹を付けて馬の誘導をする仕事である。
水田を均平に代をかくので「天保銭のようにぐるぐると廻るように」と言われ、同じ所を廻らずに誘導するのが仕事であり、馬の方が長年やつているので私よりも知っていた。
同じ所を何回も廻るとよく叱られたものである。
こんな事から百姓の長男として百姓のイロハを教わるのである。

427 そんな事を思い出すと、今のトラクターの時代は小学生や中学生の時代からこの作業を体験させるような事は全くなくなつた。
定年退職後の新規就農でようやくその作業技術の修得である。
農協では今春から始めてトラクターと乗用田植機のリース事業を始めたがその利用者が少ないようである。

写真の説明
1枚目は もう数日で田植の出番となる育苗
2枚目は 牛による「荒くれ」、道具が違う。
3枚目は 牛による「代掻き」であり、昭和30年5月の上早川地区の貴重な写真で、「鼻取り」は女性、多分嫁さんだろうと思う。
4枚目は 黒姫山の雪形で、まだ「鳩」と「帆かけ船」が現れていない。(4月27日現在の写真) 

2011/04/24

NO,18  耕 す

Photo 今日は4月24日(日)、早朝は快晴であつたがその後は曇つたり小雨が当たったりする変化の激しい一日となり、
育苗ハウスの管理が大変であつた。
この日は田伏・奴奈川神社の春の大祭であるが、神輿巡行などの行事はない。
能生・白山神社も春季大祭で稚児行列や舞楽奉納(昭和55・1980年1月28日国の重要無形民俗文化財指定)も行われる。

Photo_2 当集落の氏子も昭和の始めまでは今日は、秋葉神社と稲荷社の春祭りを行っていたが、来る27日は諏訪神社と児出神社が春祭りであり、農耕期に入り、何日も宵祭りだ、後祭りだと休んでいては作業が遅れると27日に統合し春の小祭りとした。

この祭礼の統合は神を軽んずると言う意見もあつた。
とたんにその年の2日後の26日の昼に、私の家の隣家から出火し、数棟を焼失した。
私の家の納屋と土蔵が焼け、母屋の下見が東風に変つたお陰で焦げる程度で全焼を免れた。
納屋には集落内の化学肥料が沢山積まれていたが、当時の大和川小学校の高等科の生徒が大勢来て運び出してくれる事があつたと伝えられている。
この火災は神を軽んじた祟りだと言う人もいたそうである。

この時期、13日の春祭り前後には水苗代が始り、春耕が動き出す。
集落の共同作業所や集会所は当時はまだなく、家の納屋がその役割を勤め、当時は高価な化学肥料は配布されずに一時保管されていたのである。

424 去る19日には2週間遅れで一部の水路の「江さらげ」の共同作業が行われ、数日前から大規模農家は「水あわせ」の「荒くれ」が始まった。
こうした農作業の工程も農家の規模により大変異なる。
水田の耕起の行われていないもの。
畦畔の草刈も手が付かないもの。
自分の田の水路の泥揚げも、見回りもしていないもの。
人それぞれで兼業農家、高齢化の農家、若い専業農家とでそうした作業が軽んぜられる風潮が年毎に進んでおり嘆かわしい。
田の神様もそうだと嘆いていらっしゃるであろう。

421 東日本大震災で水路が傷んでいたり、農地に海水が溜まっていたり、又放能で村に入れない所。
耕やそうと思っても入れない、栽培途中での栽培放棄、和牛が町に放され、放牧場と化している光景、作つたものが売れない。
「農耕民族」が耕せない、こんな事がかつて日本にあつただろうか。
かつて、終戦後の農地解放までは多くの百姓は自分の農地を持てず「小作」として働き、その収穫物の殆ども取り上げられ、自分の土地を1坪でもよいから持ちたい、そしてそれを耕したいと念じていた。
419 「耕す」とはそうした願いや怨念に満ちていた。
「カラスに投げる土も持たない」小農、「他人の土地を踏まないで通れる」大地主、こんな事を水あわせ作業に入る前の諸準備中に考えていた。

写真の説明
1枚目は 能生・白山神社の春季大祭の風景
2枚目は 同大祭の舞楽「陵王の舞」・糸魚川市の資料より拝借した。
3枚目は 「荒くれ」作業中の中核農家、今日の撮影、カラスが餌を探していた。
4枚目は 桜ケ丘から眺めた黒姫山、雪形の「鳩」や「帆かけ船」はまだ現われない。
(4月21日の撮影)
5枚目は 水仙、家の廻りにはこの花が満開であり、一羽のウグイスも早朝から一日中鳴いている。

2011/04/19

NO,17   穀 雨

Photo 今日は4月19日(火)予報道り朝から小雨で、昼前には少し止んだが又降り続けている。
明日20日も午前中は降雨の予報が出ている。
この20日は二十四節気の「穀雨」であり、百姓にはこれからの農作物の栽培の恵みの雨をもたらす穀雨でありたい。
「穀雨」とは、新暦4月20日の頃、このころの春雨はよく百穀をうるおしてその生長を助けるとされている。

昨日までの数日は晴天が続いたが風が寒く、5月の季節であつたり、又3月の気候になつたりで気候が定まらない。
そんな事でようやく桜は1週間位遅れで咲き出しているが、忠魂碑の桜も、桜ケ丘の桜も木が若いので花も小づくりであつたり、冬の間にウソ(スズメ目アトリ科)によつて蕾を食べられたと言われて419 いる。
家の廻りには色々な水仙が咲き競つており、海岸のママサキにも自然に繁殖した水仙が年毎に増えている。
そして家の前にウグイスが3日前から朝夕鳴き出し、1日で上手になつた。

15日には水稲の育苗も、芽出しを農協の育苗センターから運び、5月7日頃からの田植まで管理する。
こうした低温とジモン風が今年は吹かないので山間部の雪はなかなか消えず水田のPhoto_2 用水揚げ作業も出来ずにいる。
もう1週間もすれば行うのであろうが、水が来れば一挙に水あわせの荒くれや代掻きが始まるであろう。
「我田引水」とは良くいつたもので、水が来れば我れ先と争って水を引く光景がうかがえるようである。

山菜のウドやギンブキ(ウルイ・ギボウシ)の芽も昨年よりも1週間も遅れてようやく写真が撮れるようになり、間もなく食卓に上がる。
419_2 そうした山菜のスノにもなる。
昨日は妻の友達から竹の子を戴き美味しく食しました。

写真の説明
1枚目は 野鳥の「ウソ」
2枚目は 忠魂碑の桜
3枚目は 桜ケ丘の桜
4枚目は ウドの芽 
2枚目から4枚目はいすれも今日の雨上がりに撮影したもの。

2011/04/08

NO, 16 あいの風

45_2今日は4月8日(金)、午前は曇り、昼過ぎから久し振りに小雨となつた。
夜中から強い南風が時々当たり、新芽の出たバラの鉢やパンジの植木鉢等を玄関に取り入れた。

この南風は北アルプスの白馬山方面から吹き降ろす風で、昔は「ジモン」風と呼んでいた。
一般的には「あいの風」の方が通っているようだが、どうして「ジモ