2014/10/28

NO、36 「フンドシ村」

Photo 今日は10月28日(火)先日は3日間程晴天が続いたが昨日と今日は曇り時々小雨となつたが「霜降」は23日、
昨日は「木枯らし1号」が吹いたといわれた。

24日(土)は地区の小学校創立140周年記念行事と毎年恒例の「なでこし祭」が行われた。
小学校の村、大和川村には海岸の東西に並んでいるが東西は幅が狭いので「フンドシ(褌)村」であり、小学校校舎の建築も村が豊かでなく糸魚川の女学校校舎の一部の払下げを受けて建築をし1025 たが朱色が塗られていたが「ベンガラ学校」とユイされ、フンドシ村とベンガラ学校の子供達だと笑われていたと古い昔であつた。
東京大学の「赤門」は国指定重要文化財となつているが加賀藩13代藩主前田斎秦(なりやす)は文政10(1827)年に建立された御守殿門であるとの歴史があるが、当小学校にもそうした歴史もあると聞いている。

「なでしこ祭」に公民館も行事に参加し、盆栽の一部屋と大きな教室には毎年通り写真、絵手紙、絵画、、書道などでようやくカッコが付いていたが寂しい。
1025_2 それでも最近は若者の写真や絵画の出展でありもつと多く趣味の人がいるからもつと参加が必要である。

当地区内の公共事業は毎年多く行われているが海浜の市道は春から3ケ月で終了して便利よく利用しているが海水浴の活用に役立つていたが多くの人は少なかつた。
その直後に浜場を広げる為に「海岸養浜工事」と言うテトラポツトに砂を運んで砂浜を広げるので、姫川港の浚渫(しゅんせつ)の砂を揚げたものをトラツクで運搬しているのである。
21025  今年の夏以来は大波は出る日は割に少ないが大波が来るとその砂は直ぐに運んでされてしまう、こうした工法なのだろうが素人には解らないが地区の人に説明が無いから「サイノ川原」だと言う人もいてこれが工法なのである。

国道8号線東バイパスの最後は北陸鉄道をまたぎ、更に国道8号線をまたぎ海川に陸橋をつくる工事はようやく結びつながつた。
工法は陸橋を持つて来て結び合わせるのが従来は普通のように見て来たが今のはまつたく違うし、工事の作業の人の数が少ないように見える。
こうした工法は年毎に進歩しているがこうした大きな事業はこの地区で行われている21013 のはこれで最後になるのだろうか。

写真の説明
1枚目 東京大学の赤門、文京区の病院に通院のさいに見にいつた事がある。
2枚目 町区のMさんの絵が2~3枚出展されていた。
3,4枚目 家内の書道である。
5枚目 大和川の海岸に「海岸養浜工事」として、テトラに砂を運搬し埋め立てする工法であり大変多く運ばれてくる。大波が来れば沖に運ばれるのである。この写真は10月13日に撮影したもの。

2014/10/22

NO,35  報恩講

Photo 今日10月22日(水)朝から休まず一日中小雨である。
今年は本年は春からお寺の世話役の一年の期間となり配り物等を配布している。
昨日は早朝の小雨の降る前に大至急で13戸の檀家に「同朋新聞」10月号とお寺の寺報を配布した。
「同朋新聞」は真宗大谷派東本願寺が毎月出している。
12ページであるが書かれている内容は難しく一般の人は祖父や祖母の方が若い衆が勤めに出ていられる家であれば若い衆は読んでいないのではないだろうか。
編集者の内容の狙いはこの読む人の学歴をどこに中心を置いているのだろうか。

Photo_2 お寺の宗教感について一般的にいわゆる寓話としていわゆる子供の頃から信州・善光寺の「牛につれられ善光寺」の善光寺に近く住んでいながらお寺をお参りをしていない。
越前・福井の寺の若い嫁の宗教心に嫉妬を焼いてお婆さんが鬼の面をつけて脅した「嫁おどしの肉つきの面」で嫁と一緒にお寺へ行き改心した話である。
何れも2人のお婆さん、年寄りであるが現在のこの「同盟新聞」は読まれているだろPhoto_3 うか。

家の西性寺さんには今月の10月29日(水)は報恩講であるから大勢の人の参拝を願つている。
この報恩講は宗祖親鸞聖人の命日(弘長2(1262)11月28日・90歳)であり、特に聖人750回御遠忌讃迎記念に力を入れている。
本来はこのように11月28日頃になると雪が降り出す荒れ模様の季節であり、参拝者の年寄りを考えて昔から当お寺は1ケ月を早くしている。
梶屋敷・田伏の子供達は「雪が降りやゴマンさん」(御満座のこと)と言つていた事が子供の時に聞いていたものである。
越中・富山は真宗王国、この頃になると荒れる、「荒れは鰤おこし」、この時節でもある。

高田別院と言う、真宗大谷派高田別院である、秋になると高校に通学していた頃に「おたや」と言う法要があつた。
稲の刈り取りの最盛期の頃であるが、3日間であるが多くの人が近郷の農家から参拝に来ていた。
通学の途中にあるお寺であるがその法要を見るとは思わず見た事は級友からも声がかかる事がなかつた。
「おたや」とは何んであつたのかは知らなかった。
稲刈りの多忙の最中に参拝するそれが高田の人達の信仰心が高かつたのである。
この高田の仲町に瞽女(ゴゼ)の住む家がある、早春から西頸城を始めとし中頸城、東頸城えと廻り信州善光寺平、松本平方面までも旅をしていた。
その中でただ「おたや」には必ず帰り参拝していた。
Photo_4 これが高田瞽女の宗教心であり、旅を毎年行う旅人であり、この旅で倒れをしなく健康で回れる事に感謝をしているのである。
盲目は仏の願いである。

米 「絵日記ごぜを訪ねて」斎藤真一著(日本放送出版協会) 高田瞽女 杉本キクイ6人の家族であるという資料がある。

写真の説明
1枚目は 「おこさん袋」と言う主に米の1升と2升を入れていた。
2枚目は 横町・西性寺家の菩提寺である。
3枚目は 親鸞聖人の像、郷津の浜陸上の地に立つ。
4枚目は 瞽女の旅姿である。

2014/10/21

NO、34  焼山

Photo今日は10月21日(火)朝からくもり時々小雨である。
最近は噴火した御嶽山以来山について関心が急に高まつている。
深田久弥(1906・3~1971・3)よつて昭和3年1月の「小説新潮」の「わが愛する山々」によつて雨飾山(1963)が百名山によつて有名となり、頚城三山と言う焼山(2400)、妙高山(2454)、火打山(2462)も百名山に入っている。
深田は昭和16(1941)年に入つて38歳の秋の10月に下早川・新町をバスで通り笹倉温泉に宿泊して焼山に登山をしたと言う記録がある。

Photo_2 焼山は昭和39(1974)年7月28日に噴火により国立千葉大学生・園芸学部の学生3人が高山植物調査の為に遭難している。
それ以来登山には禁止されていたが、いつの頃からか指導者が居れば良いとされた。
昭和に入り噴火は何回もあるが、昭和24(1949)年2月5日の朝に突然噴火し、火山灰は風に流され東は200km離れているが茨城・筑波山(877)まで火山灰が降つたと言われている。

11192 私達が中学2年生で全校生徒が梶屋敷の浜の畑からそれを見たことがあつた。
戦前、戦後はこうした有名な山があるから、白馬岳(2932)や雨飾山(1963)、焼山は学校行事で元の中学校や女学校の生徒は登山が行われていた。
私が小学校1年の蓮華温泉の湯治の際に女学校生徒と同席し白馬岳の途中であつたように、学校行事となつていた。
しかし戦後になつてからわそうした学校行事の登山はまったくなくなつたようである。
私達は中学校も高校時代にも無く登山はなくなり焼山には登る事がなかつた。
青年団の時代に入りようやく県教委の登山者指導者講習が白馬岳で行われ参加した。
近年はようやく郷里の山を知り、山を誇れるようにと上早川は鉾ケ岳、根知は雨飾山、小滝は明星山(1188)は公民館行事として行われるようになつた。

御嶽山の噴火で多くの登山者が死亡して以来、登山者向けの安全対策が強化されるよう要望されているが当然であるが、安全の登山の機会を失うようになつてはならない。
特に世界ジオパークとは皆んなで考えなければならない。
洞爺湖有珠山、当市糸魚川、山陰海岸、島原半島、室戸、隱岐、阿蘇の7ケ所が世界ジオパーク ネツトワークに認定されており、これが観光が根幹であるとされているが、これは地球活動に関する自然遺産を保護し、それを教育や科学の普及とされ、これが地域づくりに一層の力を入れなければならない。
丁度良い機会となつた。

写真の説明
1枚目は 笹倉温泉である
2枚目は 焼山が昭和49年7月の噴火の際の写真である
3枚目は 早川・鉾ケ岳である。

2014/10/17

NO,33  秋たけなわ

1014 昨日は晴れを迎え里芋掘りや、花の手入れのアジサイやジンブキ(うるい)の手入れを行なつた。
朝夕は寒くなり、畑の仕事も遅くなると「秋の日はつるべ落とし」である。
地元の秋祭りは11月であり、祭りの行事もなくその準備も特別にはない。
今日の17日(金)は午前は雨を時々降っていたが昼過ぎには晴れとなつた。

この時季の秋の花は色々と咲いているが、もう少し大菊はまだである。
108 山野草の中に家に色々と多くあり、彼岸花は早く終わつているが、ホトトギス(ユリ科)、シユウカイドウ(シユウカイドウ科)、シユウメイギク(キンポウ科)、ツワブキ(キク科)などが咲いている。

今年の夏の海は天候が悪く海水浴が残念であつた。
こと当大和川の海岸は浜がなく、急な岸となり深くなつている。
この海岸を埋める事をなんとかならないか、テトラポツトや沖防波堤を入れるような要望は何年も前から行って来た。
ようやく今年の6月より「海岸養浜工事」と言う事業が始まった。
こんな事は始めてであるが、これは珍らしいものでどこかにもあるのだろうか。
1013 砂を運搬するトラツクは姫川港の砂を掘つたものを大変の大量を運搬するのである。

国道第8号の東バイパス工事も来年3月14日(土)に北陸新幹線の開通日であり、これに合わせて通行がされているが本当に出来るだろうか。
竹ケ花の海川にかかる陸橋と国道8号線をまたぐ橋もようやく出来ている。
こんな工事は大工事でありたいしたものである。

1041枚目の写真は家の前の柿の木が赤く実つている。
2枚目は「やましのほととぎす」である
3枚目は養浜でテトラポツトに砂を入れ埋め立てるので
あるが、一昨日には大波でだいぶ採られている。
4枚目はバイパス立陸橋である。

2014/10/14

NO、32  寒露のころ

101011 今日は10月14日(火)雨が19号の台風くずれで時々降っている。
9月
にブログを一回投稿以来忘れたか、辞めたように1ケ月の間わ過ぎた、本当に1ケ月を過ごす事は早いものである。
8日(水)は寒露(かんろ)であり、急に朝夕は冷気が増し散歩は堪えるようになつた。
農作物や草木の葉も冷えいるが、農作物の収穫の米は全て終わり豊作に喜こんでいる。
野菜は大根や白菜、野沢菜などはまだであるが、里芋やサツマイモは掘り起こしているがイノシシなどの獣なども収穫を手伝つてくれて残念である。
十五夜の月は「芋名月」、「豆名月」そして「栗名月」とも呼ぶが今年はこれも多く採れ1011 た。
里芋は大根、コンニヤク、厚焼き、昆布、玉子などの煮付け
の時期となつて何食も大鍋で食している。
栗も今年も多く採れ、枝を振つて拾い、栗ご飯は何回も作つてくれた。

この時季スポーツ、文化であり、地区の運動会があつたが年寄りは見る事も出来ない。
文化の方は音楽会、演奏会、短歌や人形教室(衣装人形、押し絵、羽子板、まり、など)相馬御風の顕彰、書道等の枚挙にいとまない。

11日(土)には市展第10回がビーチホールまがたまで
行われ、絵画(33点)、彫刻・工芸(3点)、書道(32点)、写真(49点)、和紙絵(21点)、陶芸(20点)等が出品されている。
31011 家内が書道に出品し始めての入賞であり喜んでいただろうが顔には見えなかった。
こうした学習は若い頃の生涯一生でありこうした研鑽で、絵画の「街道の大松」は大工さんの知り合いで2点の出品であり、若い頃からの学習である。
同じ絵画の倉又、小田島さんも今回は入賞してないが今後も頑張るのだろう。

家内の書「宋之問詩」である。

1011_2 この絵が「街道の大松」で田伏の「ゴンばい大松」なのである。
残念ながら約40年前頃に伐さいされているものである。

2014/09/04

iNO,31  二百十日

Photo 今日は9月4日(木)、朝から南風が吹いて快晴であつたが昼過ぎから曇り、小雨となって来た。
9月1日は二百十日で11日は二百二十日で台風の特異日とされ注意が必要とされている。
この日は地域では西海谷・御前山の雲台寺の秋祭りであつたり、根知谷・山寺の「おててこ舞い」である。
昔はこの里には賑やかであり青年の時代の頃には浜辺の青年でなく「おててこ舞い」よりも御前山であつた。
ところが昭和30年頃に「おててこ舞い」と言う「山寺の延年の舞」(国指定文化財・昭和55年2月1日)の方が年毎に賑やかになつて来る。
その御前山集落や市野々、余所、余川の青年はその反面で秋の農作業を早めて東横方面に車のタイヤ臨時工に始める事になつていつたし、これが定職となり一家が離村となつていつた。
又農協にいた青年は賃金が安く証券会社が条件も
良いと富山市方面に出たがそれPhoto_2 も2~3年で条件が悪くなつたりして村に帰るようなこともあつた。
こんな話は各地の農村にはこんなような話があつた。
当時魚沼地方で「出稼ぎの歌」が歌われていた。
県の青年は「青年問題研究集会」に集まつた人が多くなり議論が行われた。
薮神青年は「サンヨ サンヨ」の「浦佐昆沙門堂裸押合大祭」を行い出稼ぎから帰り盛大に集まるようになつた。
こうして地域づくり、村おこしが始まるのであつた。

私の地域の今年の盆は15日も16日も雨が降り年一回の盆踊りは出来ず、27日は諏Photo_3 訪神社の盆踊りも出来ずであつた。
23日は「処暑」(しよしよ)二十四節気の涼風も吹き暑さがおさまるといわれる、そして8日は「白露」(はくろ)で大気が冷え始め朝夕の風にもいくらか肌寒さを感じさせる。
この1~3日は八尾「おわら風の盆」が盛大であつた。
稲も豊作黄金の花が咲く。
盆踊りがないと盆踊り歌がわかる人が段々となくなつている。
こうして大和川の「盆踊り唄」を記載してみた。

大和川 大村なれど
踊る若い衆はこればかり
若い衆やおしこめかいこめ踊れ
あき間の風は毒だ
二百十日の風さえ吹かにや
稲にや黄金の花が咲く
今年は豊作穂に穂が下がる
枡はとり除け箕ではかる
若い衆や盆だらこそ踊れ
秋の八月誰が踊る
若い衆の白手拭は

藍の惜しみか身の伊達か
若い衆を踊らしよ為に
派手な浴衣を染め置いた
若い衆や精を出して踊れ
唄は袂に千もある
唄の数千までいらぬ
唄を三つ持ちや夜を明かす
若い衆やでつかい事しよまいか
小豆五斗煮で団子しょまいか

根知の根小屋の棚戸の川原
抱いて寝ごろの石ばかり
根知の大神堂の吾作の娘
目許ばかりで五両がもの
御前山 在郷だと仰言つる
開張ある時は場でござる
見て来たか富山の町を
二階造りの白壁を
夜が明けたそな
天の川原も西、東
Photo_4 一の谷敦盛様は
弓を片手に矢を腰に
若い衆や網かけまいか
沖に小鯖が三つ飛んだ
若い衆や残り多いれけど
これで終いましよあなかしこ

写真の説明
1枚目 「おわら風の盆」のポスター
2枚目 御前山の観音堂
3枚目 「おててこ舞い」の「鉾の舞い」
4枚目 水保の神楽の「弓の舞え」

8月は1回しか投稿が出来なかった、今月もようやく1回出来たが大変である。
7月に治療以来副作用と言う聴力低下、視力低下、白内障を心配しているのである。。

2014/08/09

NO,30   お盆も近く

Photo 今日は8月9日(土)朝から小雨が時々降っておりここ2~3日続く盛夏でなく海水客は裏の浜茶屋はカッコウドリが鳴いている。
強い11号台風はもう2日程続くようである。
7日は「風祭り」であつたが、「立秋」の暦でもありお盆の準備も進めている。
15日のお盆は「盂蘭盆会」(うらぼんえ)であり氏子の神社の境内で行うが多くの人が集まつて仮想盆踊りであるが近年は集まらなくなつている。
それで直ぐに案内の通知が配布されて来ている。
昔は青年団が主催であつたが、今は公民館となり変わつたものとして男女の若い衆をPhoto_2 当にしているがなかなか上手く行かない。

こんな涼しさが昔は浜の屋敷に「とうちんぼ」(俗名)や「よのみ」(えのき)の雑木がありセミ(蝉)が多く飛んでいたりして多くの声もあつたりは今はすっかり聞こえなくなつたりしている。
子供の頃はよく蝉とりに木に上つたりしていたものであつたが、祖母は蝉の寿命が短いので取つたり、トンボ等の生き物をつかまえる事はしないようにとよくいつていた。

Photo_3 稲の架木(はさき)は当地域では浜に作り「とうちんぼ」のものと、主流のものは杉の木や「もうそう竹」であつたが家では杉の架木は何本も多く準備して保存していた。
そうした秋の刈り取りの風景は「稲の架木」が主流であつたがまつたくなくなつてしまつた。
コンバインによる収穫になりその時代になりまつたくなくなつた。
現在は蒲原・岩室に一ケ所に「稲架木」として新潟市の文化財にする状況となつているのである。
この「満願寺の稲架木並木」の表示がある。
今年の刈り取り時期も早まり、もうすぐにコンバインの音が聞こえてくるようである。

2014/07/29

NO,29 「金比羅」・「琴平」・「風祭り」

Photo_2  今日は7月29日(火)、朝から晴れとなるが最近は涼しく海が少ない。
海水浴の時期になり、小雨が降った日が多くあつた。
昨日は北陸地方は梅雨明けとなる、平年よりは4日遅れ、昨年よりは10日も早かつた。

糸魚川・寺町の琴平神社の夏祭りは7月10日では前の日は宵祭が9日で寺町通りは夜店が並び子供達も多く出歩いた。
2729 「うぐいす餅」が琴平祭りの名物であり食べた。
今頃の「うぐいす餅」は春だけでなく年間通して銘菓として店頭にあたるようである。
この宵祭りには15~16歳の高校生の年が始めてであり、友達は直江津の商業高校に通学する琴平神社の向かいに海産物店を行う長男であり二階の部屋でその「うぐいす餅」を戴いた。

この糸魚川・寺町の琴平神社は「琴平神社」であり、当大和川は「金比羅宮」でありここも7月10日が祭りである。
「琴平神社」と「金比羅宮」の他に「さぬきのこんぴらさん」として親しまれる海の神様は「金刀比羅宮」で総本宮なのだろう。
糸魚川の「琴平神社」は「金比羅大権現」があつたが遷宮で昭和4年の火災で変わっていつた。

Photo_3 大和川は10年程前に7月10日の祭りを行うのは大変で8月7日の「風祭り」に日わ平併して祭りを行うようになつた。
この大和川の「金比羅宮」は小丘のエントビラで祠を明治初期の時点に建立したものである。
カマボコ、クシガタ、鰯の漬物、鰯の煮干し、エビのしめこみ等四十物師と言う者や、米酢作りが地元の親方となり氏子になつた。
昭和の初めには神社に相撲場があり近郊の寄り相撲があつたり、鳥居は木製であつたが朱色のものであつた。
スヤの庭には旗竿の囲いがあつたり旺盛な時代もあつたが、昭和に入り立ち待ちに農村恐慌が村中が襲いかかり、漁業、勧業興産が微塵もなくなつた。
金比羅の仲間講もあつたが抵当権の早いのは明治30年に「長代の春」の者もいたが「砂原」や「あわら」、「前波」地があつた。
これを機会に金比羅宮を大和川惣代(自治会)に革命し、更に水頭・児出にある
ある児出神社や、同水頭の小富山(241)の富士神社、中原の山崎の秋葉神社、同稲荷神社を全部惣代のものとし管理した。

8月7日の「風祭り」は「金比羅宮」といつしよに夕方に行い、「風祭り」の神事は大松の高い所に若い竹に幣帛を立てて結び付ける。
この地域にはこの時期に神社の松や杉に幣そくを立てたもの、又
水田の神田に幣そくを立てるものもある。
4 この時期の能登の気多や藤懸(ふじがけ)、重蔵(じゆうそ
)、須須(すず)等の海辺に鎮座する多くの社叢(しやそう)には神木という「タブノキ」に「鎌打ち」神事を行うもので、風神を奉(まつる)つて風避けを祈願する奇祭なのである。
稲穂と白木綿を付けた2丁の鎌の打ち込こむのは残酷でもある。                             タブ
ノキは神木であり魂、旅、賜(たまわ)ぶ、食ぶに通じ るタブ(椨)は能登のさまざの神事舞台にも登場している。
能登には諏訪神社は無いと思つていたが中能登町金丸にある。

このタブノキはこの地方の能生・白山神社境内にも多くあり、浦本・中浜の諏訪神社境内、田伏の奴奈川神社境内にもあり、大和川神社にはないが、秋山旧神主にはあつたが10年程前に伐さいした、岩﨑大主(割り元・大肝煎)の庭には2木の古木となつている。

Photo_4 「風祭り」は作物わ風の害から守るための竿の先に薙鎌(なぎがま)を付けて立つ風切り鎌と言う祭具にされている。
これは当糸魚川市根知谷の信越国境の白池の「塩の道」南側を小谷村(戸土)としている。
この国境も今も600m程の境界が入つていないのである。
領土境界と言うよりも諏訪信仰の諏訪大社の勢力範囲、神社境界の標識として使われている。
小谷の地は昔から諏訪大明神の敷地として7年に一度の「薙ぎ鎌」(または内鎌)打ち神事が行われ、根知・山口村の方こそ越境して行うセレモニーである。
薙ぎ鎌打ちは「信濃の木」(しなのき)とか、諏訪大社の御柱の神木は樅(もみ)、ヒノキとし、戸土は杉の木神木として打ち込んでいる。
この鎌は古い時代から、竜蛇を象つたもの、タツノオトシゴのような形になつているもの、背中に鋸歯状の切り込みが刻まれている。

安曇地方で現在は鶏の頭部、丸みを帯びる鶏冠を思わせる刻みが付いている。

Photo_5 「風祭り」に際し少し調べて見たが、6月から「脳神経の放射線治療」が始まり副作用で物わすれや記憶がなくなるようになり、こんなの程度になつた。

写真の説明
1枚目は 西海・真光寺の神田の幣帛
2枚目は 岩﨑旦那の庭の「タブノキ」、保存が大切
3枚目は 能登「鎌打ち」神事・中能登町金丸の鎌宮諏訪神社
4枚目は 諏訪大社の鎌・「鶏冠」の箱入れ・昭和24年9月17日のもの
5枚目は 神木に打ち込んだ「薙鎌」
6枚目は 大和川の「風祭り」と「金比羅宮」の祭り案内

2014/07/23

NO,28  浜

Photo 今日は7月23日(水)、朝から晴れで今日は4日位の盛夏となる、21日(月)は7月の第3月曜日を「海の日」とした。
「海の日」は平成7(1995)年に制度され、翌年平成8から施行された。
「海の日」は以前の昭和16(1941)年6月5日に次官会議において「海の記念日」と制定され、第1回が「7月20日」となつた。
明治天皇陛下が明治9(1876)年東北ご巡行の帰途、灯台視察船「明治丸」で青森から函館を得て横浜にご安着された日に由来されたのだそうである。

723 19日(土)の土曜日から当大和川地区の海水浴場が開設された、大和川小学校の東側に監視場を毎年のようにしている。
大和川のテトラポツトで海水浴場でなくなり、海岸を「養浜」として姫川港の屈折の砂を5月から運搬しているのである。
反面梶屋敷や田伏は海岸は広いが、海水浴場の乗用車の駐車場がなく困つている。
昔から海水浴場や魚釣り等もあるが、これからが恵まれながらトイレも無いなどそうした施設がない。
この海は「福寿海無量」でありながらこれを知らない。、

2 最近は海の波叩きの散放が多くなつているが、田伏には3ケ所の祠(ほこら)があり、漁師は御万度社(おまんどさん)といつている。
大和川にも西区の浜の市道海浜線に新らしく移転した「ほこりこ」を作った。
子供のころからイワシの漁師とアキモノ師(四十物)等が祭りを行っていた。

6月22日(日)に県立海洋高校の「さかなまつり」が姫川港と魚市場で行われた。
実習船「くびき」も体験航海を行つたり、又海水産物も販売していた。
珍しい産物として「魚しょう」もあつたが高校生の加工は珍しく、能登の「道の駅」等では売つておられていた。
昨晩のNHKのニュースでは高校生の大型実習船「海洋丸」が17人の実習生が能生港に寄港したとの事で、函館港、長崎港を40日間も航海したのだと報道されていた。

2014/07/17

No,27   電車

79 今日は7月17日(木)、朝から時々小雨であるが、こんな日がここ2~3日続いて涼しさが私の体に豪暑よりもよい。
先般富山市内の特殊の病院に電車で出かけた、妻と一所にしてもらつたが、富山市の事は知らない。
約30年前に富山空港から札幌に忘年会に旅行をした頃があつた。
富山駅は新幹線大工事であり不便であつた。
病院を駅前からハィヤーを利用した、ハイヤーも住所が判からずカーナビで目標がわかったが賃金が少し高くなつた。
難しい住所の「鵯島」(ひよどりじま)がある、「鵯」(ひよどり)と読む書物があり、こんPhoto_2 な面倒な町名にしたのは歴史かなにかがあつたのだろうか。
新幹線の新しい客にもこんな事の例が無いのはサービスになる。
新幹線はもう8ケ月で開通し、上越市、当市糸魚川、金沢等も大変な行事がおこなわれている。
富山も一生懸命にやつていないとは言わないが、ハイヤーの一つでもその悪点が目に見える事もある。
昼過ぎに帰るために駅構内に入った。
もう直ぐの越中の「おわら風の盆」のポスターを見かけた、これ一枚でも本当の観光の大切さを見かけた。

それと富山県東部地方のどこの駅だつたか女子高校生が乗車されたが、夏休みの試験上りだつたのか、想像出来る。
客席が少数で生徒は皆んな座り、小声で何かを語り楽しんでいた。
こんな光景を私はもう65歳も前に通学した、そんな同じのような光景を思い出した。
糸魚川から高田への通学は農業高校と工業高校の男子、女子は家政高校の二校があつた。
車内ではお互いに話したり、交流をするような事はなかつた。
当時は当然のようにその時代はそんな事がなかつた。
今頃のはこの時季の夏の服装はどんな服装であつたがシャツは白色だが、胸に学校の校章が付いていたので学校は当然判る。
もう時期の夏は長く、この女子の生徒とは顔を見られない、会えなくなり寂しくなり初恋、思慕などないだろうか。

今高校生の女子の制服がカッコよいものでないと入学生が少ない等の話が何10年も前にあつた聞いた事があつた。
この富山市東部の女性高校生はどこの駅から乗車し、数駅に下車した。
女子生徒の服装は上着のシャツは白色の少し厚地のもの、スカートは極端に短い丈のものでなく、長くもなく丁度のよい丈であつた。
これが私たちの時代の服装が目に浮かび出て、これがこの女子生徒と同じように思われた。
C 80歳になつたが、15歳の高校になつたのであるが、こんな事もあるのであつた。
当時は農業高校には女子は一人も入ない時代であるが、ただ高士の分校の定時高校には女子はいた。
高校3年の夏(昭和27年8月4日)に新潟県学校農業クラブ臨時大会が赤倉・日本鋼管(株)厚生寮であり、これで高士分校の女子と合い写真を撮つた。
一番後ろの左側2人は私である。

2014/07/07

NP,26  祇園

Photo 今日は7月7日(月)夜から雨が一日中降つている。
今日の7日は「七夕」であるが、東京・台東区浅草寺は「ほうずき市」、入谷は「朝顔市」と夏の風物詩である。
京都の八坂神社は「祇園祭」が行われている。
貞観11(869)年に疫病が大流行し、鍞める祈願が始まる行事となつた。

この地方でも夏の行事として海辺地方は7月7日には祇園の行事が行われるが、山間部にはその祭りはない。
田伏の漁村はこの祇園は7月7日、そして14日には御帰りになられる祭りである。
ところで近年は日曜日にならないと祭の子供と若い衆が参加できず、近年は7日に近い日曜日としている。
そうした日に変更してもう何十年以上もたつている。
昨日は一日中晴れとなり、午前は地元の田伏の一部と大和川と竹ケ花を神輿の巡行が行われ、午後は残りの田伏と梶屋敷が巡行し、梶屋敷駅前には旅所が出来て宿276 泊する。
神輿の巡行の露払いはジョバ、ペタ、ハナが出て、子供達を払つたりしたものであるが、子供達の行事がほかにもありそうした姿が見えていなく寂しい巡行であつた。
夕方には住民皆に祇園の御札という「蘇民将来子孫門也」が配布された。

当大和川は子供の保育園児の「七夕祭り」も日曜日に行つて夕方に行事を行つた。
夕方の舟は麦からで作ったものでこれに子供が乗つて地区内を引いて廻つたものであるが、ずつと何年も前から、麦がらから耕運機になり、それからは軽自動車へと変Photo_2 わっていつた。
この七夕行事の歴史も古く、戦争前から行われていた。
各集落の集会所や農作業所に女の子が集まり、紙の人形や、布の人形やサルボボ等を作ったり、遊戯の練習をおこなつていた。
道路にそうした人形やサルボボを吊していたので、女の子の手芸の上達や、この行事は女の子の厄祓と健やかな成長を願う行事なのである。
このサルババは飛騨地方の民芸品となつている。

2014/06/29

NO,25  六ケ月のころ

Photo 今日は6月29日(日)、夜中に雨が降り続き、朝方からは雨が上がつたり、陽性の梅雨と言えるもので湿っぽくないのがよい。

今年は何もしない中でとうとうその半分が過ぎ去る。
家の檀家のお寺では今日は「永代経」と「追悼法要」が行われ、お斎も用意するので多くの方の御参りをして欲しいとの通知が来ていた。
氏子の神社は明日の30日は正半年の夏越えの大祓え祭りである。
大きな神社では半年が過ぎ「茅の輪」(ちのわ)が新しいものに取り換えられている。
石川・羽咋市の気多神社と群馬・富岡市の一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじや)の茅の輪に農協の農家組合長の旅行の際に参拝する機会となつたものである。
新潟県にはあまりないようであり、新潟市の護国神社は行われているようである。

623 この時季の暑い夏を乗り切るために特に「半夏生」(はんけしよう)の日には食べるものがあるとされている。
この地域では特別にないが、古くからこの時期にはラッキョや梅つけや梅酒が少しであるが行っている。
子供の頃は土蔵のヒサシに味噌桶と一所にラッキヨの亀が並んでいたものであるが、今は自家用の味噌は作らなくなつて味噌桶はなくなつてもう数10年にもなる。
食べ物の中には本県では昔から「クジラ汁」があつたが、今は貴重品となり口には入らなくなつている。
物の本などによると、福井県では「焼きサバ」であり、老化防止、ビタミン群も豊富でPhoto_2 栄養優良食品である。
江戸時代の大野藩の時代から奨励されて来たものである。
「タコ」もこの時季の食べ物として関西地方では疲労回復等の食品として奨励し、「タコの日」の指定日まである。
「うどん」は四国、香川は讃岐(さぬき)は「うど
ん」の本場であり「うどんの日」さえもある。

「うなぎ」は土用の日、「恵方まき」は節分と一所に多くのものが市民権を得て活躍している。

写真の説明
1枚目は 明日の大祓いの掲示
2枚目は 家の「半夏生」が23日に咲いた
3枚目は 群馬・富岡市の一之宮貫前神社の「茅の輪」である

2014/06/20

NO,24  花菖蒲

Photo_2 今日は6月20日(金)、朝から時々小雨が午前中に降っていたが午後は晴れとなる。
明日の21日は二十四節気の「夏至」である。
昼間が一年で最も長い日で夜は一番短いと言われている。
梅雨の最盛期でアジサイは咲き出したり花菖蒲(はなしようぶ)も咲き出した。
県内の各地の名産地や全国の有名園(苑)では花菖蒲が「まつり」の最盛期である。

県内では新発田市は城跡園と五十公野(いじみの)公園が花菖蒲のまつりが行われ、特に新発田城は「あやめ城」とも言われたり、市内には「あやめ」の名のつくものが多く、幼稚園を始め高校に至る校章にもあるそうである。
先般はテレビを観ると新発田城に明治神宮から花菖蒲を頒布され整備されているものだとの内容であつた。
この市内の多くの人の願いの中で昭和43~45年頃に実施されたようである。

6242 明治神宮は古くから育苗の頒布事業を行っていたので、当大和川の灌漑用水の「水頭」を築造し昭和9(1934)年に竣工し、この溜池に少しの花菖蒲の白色と紫色の二種類を頒布を受けている。
祖父はこの溜池工事の監督であり、少しの育苗を家にも山田の畦畔に分植していた。
溜池の苗が痛んだ時に補植用に育てていたものである。
それに関わらず溜池の花菖蒲はいつの間にかまつたくなくなつている。
私が役所を定年後には用水の役に関わる事になつたが、そんな事が残念ながら明Photo_3 治神宮から頒布された事は今の人は誰れ一人も知っていない。
私の家の山田にはそうした経過の中で少し残っているが、なかなか増殖しようと手入れをするが中々増えないでいる。

明治神宮の御苑の花菖蒲は明治26(1893)年、明治天皇がお后の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)をいたわつて植えられたものだと言われている。
現在約150種1500株が咲きますが、明治神宮の花菖蒲は「江戸系」の品種が多く、特に江戸時代に数多くの名花を作出したその流れをくんだものが多くあるのだとPhoto_4 されている。
私の家の白色と紫色の二種類を守つているが、私の80歳と同じ80年の経過で残念ながらその品種の名前は解からず終いである。
江戸時代の原種は原種として今後も永く種の保存が必要だが、改良種もこれと別に新しい品種の改良に永い年数を要するものであり大変の事業でもある。

写真の説明
1枚目は 明治神宮御苑のポスター
2枚目は 私の育てている花菖蒲・昨年の6月24日に撮影されたもの
3枚目は 明治神宮御苑の花菖蒲「都の巽」である
4枚目は 同じく御苑の「宇宙(おおぞら)である。

2014/06/13

NO,23  思い出のギオン

25 今日は6月13日(金)、夜中雨が降って朝の9時頃にようやく上がった、大きい雨は梅雨でなく豪雨である。
3日程の降雨が続き、気温も30度程も続いた暑さは22~23度となり寒い体感で体調をくずしてしまつた。
晴天がいつかも続いた時は雨が欲しいと言い、雨が続けばもう雨はいらないと好きかつての我がままを言う。

そうした梅雨期の晴れ間は貴重な天気である。
田伏の奴奈川神社のギオン祭はこんな時季の祭りである。
子供の頃のギオン(祇園祭)の思い出はなんとなく楽しいものの一つであつた。
田伏の人達はその太鼓の音はドンデンドンが鳴れば今でも血が沸きたつと言うが、そんな事があるまいと思うが、一の宮の喧嘩祭りもそうであPhoto り、男衆だけでなく女性の人も生り立つ位であると言われている。
私達大和川の子供は田伏の子供でないからギオンの祭りには参加することがないが、神輿巡行の露祓いの「ジョバ」と「ハナ」と「ペタ」に追われて逃げるのが楽しみである。
大開道の国道だけを逃げまわるのでなく奥屋の路地までも、農道であつたりで所構わず逃げ廻わつたものである。
この頃になるとギオンは待ちきれずに「ギオンごつこ」を行つたものである。
又、ギオンが終わった後にも「ギオンごつこ」があつた。
ペタとハナの表面をボール紙で作り、面を被る役と逃げる役があるが、面を被る役は当然上級生である。
ペタの面は平らだから作るには簡単であるが、ハナは、鼻が高いのでこれを上手につくるのが大変である。
面を付けて走ると直ぐに鼻が取れてしまう、ノリで貼るのだが、ノリはなかなか上手く行かない、ご飯の粒で貼つていたものである。
Photo_2 面を付けて追うもの、逃げる者も皆んな一生懸命であつた。
奥屋の狭い路道が遊び場所である、たまには「エドシロ」(お勝手の排水溜め)にはまりこむなどはしょつちゅうであつた。
そんな光景は今では考えられない風景でもある。

田伏の祇園の露祓いの「天狗」は「ハナ」であり、まさに恐ろしい天狗の形相である。
梶屋敷・立壁神社のお祭りの露祓いにも天狗がいるが子供達を追い払う事はない。
同じように下早川・日光寺の春祭りと、西海・水保の春祭りにも天狗が出ているが、何れもその面を何と呼んでいるかを調べていない。
肝心の天狗のハナの鼻は高いが、それに反して低いもの、又曲がつているようなものもあり、それぞれ、それは何にか由来があつたのだろう。
651 それにしても面白い表面もある。

写真の説明

1枚目は 田伏のギオンの「ハナ」
2枚目は 梶屋敷の祭りの露祓いの天狗
3枚目は 下早川・日光寺の春祭りの天狗
4枚目は 西海・水保の春祭りの天狗

2014/06/12

NO,22  ほたる

610 今日は6月12日(木)夜中から小雨が降る典型的な梅雨である、何日も快晴が続き今年は梅雨入りは遅いのかとおもつていたが、それに反し平年よりも7日、昨年よりも13日も早く梅雨入りの気象庁が5日に発表があつた。
快晴が続き休耕田や畑の草刈りの毎日が続いてブログの投稿がおごそかになつてしまつた。
少し気を緩めるとたちまちの内に日数が飛んでしまい、6月の半年の「夏越の祓い」も直ぐに来ていまう。

6日は二十四節気の「芒種」(ぼうしゆ)で「種子まきや麦の刈り入れ、稲を植えつけ62 るのに適した時季とされ、梅雨入りの前でもあり、農家は一気に忙しくなつたり、梅も黄色く色づき始め、黄昏時には夏の風物詩、蛍が飛び始める」とあるが、この地方とは時季の合わないものもあるが、麦の刈り取りはもう少し後になつたり、「かいこ」(養蚕)の上蔟も皇后さまの伝統的作業として行われている。

行事のユニークなのは「狐の嫁入り」を津川町(現新潟・阿賀町)ではこの時期に行い第24回にもなる(第1回は1990年に開始)。
この行事は他にも全国何か所にもあるようである。
529 夜の神秘さと、晴天なのに小雨が降る「日照り雨」とか「天気雨」は、昔は晴れているのに雨が降ると言う現象は怪奇そのものである。
そう言う不思議なことは何でも狐の仕業と考えられていたのである。
この「狐の嫁入り」は夏の季語になつているのである。

ほたるの方も既に飛び始めたと報道されている、私の庭の「ホタルブクロ」の白色も紫色も一斉にこの間の暑さで咲き始めた。
このホタルブクロの開花の期間が長いようであるが、「カキツバタ」(杜若)や「センダイハギ」の開花の期間は暑さのためいつもの年依りも短い期間で終わってしまつた。
当地区の「ホタル祭り」は29日の日曜日の夜に現地で行う事になつている。
515 子供の頃はホタルは田伏の「おてんのさん」(祇園祭)について飛び立ち、「おてんのさん」について上がる、たつたの一週間の短い寿命だと聞かされていた。
ゲンジボタルの発光周期はホッサマグナを境に西日本型はせっかちで2秒位、東日本型はそれよりもゆっくりと4秒位である事がわかっていると言われるようになつた。

写真の説明
1枚目は 家の庭の「ホタルブクロ」 6月10日撮影
2枚目は 「カキツバタ」
3枚目は 「センダイハギ」紫色
4枚目は 「センダイハギ」黄色

2014/05/16

NO,21 神楽(かぐら)

Photo今日は5月16日(金)、朝から晴れとなつたが朝は寒い
西風が吹いている。
今日は「旅の日」である。その由来は松尾芭蕉が江戸を立つて東北方面に向かって旅に出た日であるからである。
そして私は今日は傘寿の誕生日である。

ブログ先回のNO,20「後の祭り」はあまりにも「神楽」を今年は日光寺も水保の春祭りの後に奉納されるのを見そこねた事にあまりにも落胆し「後の祭り」となつた。
神楽を始めて見たのは中学1~2年生のころで昭和22~23年の時で田伏の奴奈川Photo_2 神社の秋祭りの大祭に「鯛釣り舞い」と言つ能生谷の「太(た)よさん」が来て舞つた。
神楽の事を「鯛釣り舞い」と一般的にはいつているが、本当の演目は「海彦の舞い」であり、「「太さん」一人であり、「太さん」とはこの辺では神職・神主の事である。

「能生ふるさとサークル」(旧能生町)が発刊した「翡翠」(かわせみ)第15号記念特別号(平成20年3月1日)に伊藤伸一さんが「木浦舞楽」・「十二の舞い」について調査研究された資料の中では神主を「太夫(たい)さん」と能生地区では呼んでいたと言つている。
「神楽」であるが、旧能生町では旧磯部村や旧木浦村、そして旧能生谷村の各集落や各神社では「鯛釣り舞い」と称して春祭りや秋祭りに奉納して来た実績がある。
旧能生町の地理不案内であったり、頼れる人達も知らず貴重な文化財的な資料を見い出す事が出来ず誠に残念なのである。

24 旧磯部村の筒石では4月27日が浜祭りであり、午後3時頃より笛と太鼓で「鯛釣り舞い」が始まる。
舞い手に披する「船玉大神」(ふなたま大神)が登場し、舞台を取り囲む若い衆は竹竿で舞台を叩き挑発し竿を挟み、舞い手と若い衆が竿を引き合うような大物を釣り挙げ
る際の格闘そのもの、舞い手が見事に釣り挙げると竿先には水揚げ直後の鯛やアンコウがどつさりと、舞い手は観衆に釣りの結果を自慢げらに報告し、賑やかに大漁を祈願する。

村が異なるが隣の名立・名立小泊でも4月28日に日前神社の春祭りで「海幸の舞い」があり、鯛の釣り挙げが観衆に大喝采を受けている。(平成19年の上越タイムスより)

旧木浦村では中尾、新戸、浜木浦、鬼舞、鬼伏の5集落があり、各神社があり、春と秋の大祭があり奉納舞いがあつた。
この村では「神楽」ではなく「舞楽」(ぶがく)と言つており、又、「十二の舞い」とも呼んPhoto_3 でいた。
そしてこの舞楽は神主であり「太夫(たい)さん」が舞うので「太夫舞い」とも言い能生谷や木浦、磯部などの近郷の神主が祭礼の際にはお互いに行き来し継承をして来たのである
この「太夫舞い」から段々と地元の青年に舞いが継がれるようになり、上越地方(上越市五智・善光寺浜諏訪神社等)や妙高、柏崎等の呼び名は色々のようである。

「神楽」の演目については、西海・水保の今年の目録は、1 獅子の舞い 2  鈴の舞い 3 御幣の舞い 4 弓の舞い 5 鉾の舞い 6 鏡の舞い 7 海幸の舞い 8 山幸の舞い 9 榊の舞い 10  岩戸の舞い の10曲である。
下早川・日光寺の演目は今年は行けなかったので平成24年4月15日(日)は 1 獅子の舞い 2  幣三重 3 海幸(鯛釣り舞い)の3曲であつた。
木浦の「十二の舞い」と言われるようになつた演目は、1 獅子 2 太平楽 3  三番叟 4 當社(とうしゃ)  5 狩護(かりご) 6 魔王伐(まおうぎり)  7 児屋根太玉(こやねふとだま)  8 鏡舞い  9 海幸 2 10 戸隠(とがくし)  11 天女(てんによ)  12 十二増気大兵(ぞうきだいおう)の12曲である。
3神社の演目を挙げて見れば名称が異なるものがあるが「海幸」の「鯛釣り舞い」や、天照大神を天の岩戸から誘い出すものなど同じ場面がある。
こうした神楽の伝承のルーツは戸隠神社を始めとする長野県北部の「太太神楽」と、「三条神楽」の由来によると「出雲神楽系統」に属する舞いが山陰から北陸を径て本県三条に約200年以前から伝わつたものと考えられている。
笛や太鼓の旋律や太鼓も締め太鼓や脇に胴長太鼓を置いて演奏する様式など神楽と言えども奥が深い。

Photo_4 三条市内には6社があり新潟県の無形民俗文化財に昭和38・1963年3月22日に指定されている。
文化庁ホームページを見ると佐渡市羽茂村山「鬼舞つぶろさし保存会」他佐渡には2団体も県の無形民俗文化財に指定されていて、昭和25・1977年3月31日である。
又、「下中野神楽舞・下中野神楽連中」・燕市吉田下中野も平成10
・1998年3月31日に指定されている。

古代出雲は神々のふるさと、島根県石見地方は全国でも有数の神楽どころ、100をPhoto_5 越える神楽団体の多くが盛んに活動を行って神社の祭典以外にも各種のイベントなども上演されて地域で愛される存在となり、観光などの産業とも成り立つている。

写真の説明
1枚目は 今年の石見の夜神楽のポスター
2枚目は 木浦の太夫舞い 何年であったかは記録がなくなつた。
3枚目は 下早川・日光寺の「鯛釣り舞い」24年4月15日のもの
4枚目は 西海・水保の「鯛釣り舞い」(海幸の舞)                                                    
5枚目は  佐渡の「佐渡つぶらさし保存会」
6枚目は 下中野神楽舞
7枚目は 石見神楽「大蛇」

文化庁ホームページをクリックすれば文化庁の神楽資料が見られます。

2014/05/13

NO,20  後の祭り

51 今日は5月13日(火)、昨日の夕方から夜に小雨が久しぶりに降ったが、野菜ものにはもう少し欲しい雨量となり、今日は曇り後晴れの天気となつた。
疲れ休みの「晴耕雨読」となつた。

今年の春祭りは一番早いのがこの地方では来海沢・日吉神社が3月9日に積雪の中で始まり、最後は5月1日の水保・日吉神社の喧嘩祭りであろう。
昔であればこの祭りは「谷祭り」で盛大に行いゆっくりと親戚を招いて観覧し楽しんでいたが、今は一斉に平場も山間部も田起こしや田植えが始まつている。
せわしい、寂しい春祭りとなつている。

4月10日(木)は一の宮の喧嘩祭りで久しぶりに見にいつたが、すつかり準備も出来て、これから神輿巡行とお走りがあろうと言う時間になり551 小雨が降り出した。
私は体調を心配して風邪でもひいては困るので急いで帰えつた。
雨の中をお走しりは行われたが、舞楽は中止され、翌日の11日に奉納された。
1曲目「振鉾」(えんぶり)と2曲目「安摩」(あま)を見て帰えつた。
天候は悪くはないが平日の精もあるのか、参拝や見学の人出は少ない。
651 そんな中、どの祭りでも多いのは中高年の人で、女性のカメラマンが目につく。
拝殿に三脚を定め一番良いアングル位置で構えている人が多い。
皆んないい場所でいい写真を撮りたいと一生懸命になるのが解るが、お互いにそうなのだからしんしゃくが必要である。
最近の中高年の写真ブームの一端が伺える。

1251 日光寺の喧嘩祭りは本来は4月17日であるが、神輿担ぎの若い衆を集めると今年は4月20日の日曜日となり晴天となつた。
昨年は見に行く事が出来ず、今年こそは行きたいと思つていたが、風邪で微熱が出たので当等行く事が出来なくなつた。
神輿の喧嘩祭りよりも神楽の方に興味があるので残念なのである。

そんな事で水保の祭りでも神楽の奉納があるので見に出かけた。
神輿巡行は少し離れた日吉神社から観音堂の急な石段を2基が登り、観音堂を2~3回回り、神輿を重ねて喧嘩が行われるが、担ぎ手の人も年毎に少なくなり、高齢化し、若い衆が多く集まらず、神輿のキシギ合いの怪我と、神輿の保修に出費を懸けないようにとの思いが伺えるものと思われる。
正午から観音堂の一段と高い舞台で神楽であるが、その頃から小雨が当たり出し、2基の神輿は早速又、急な石段を下って日吉神社に戻す仕事にかかり時間がかかつた。
神楽をやるとか、観音堂の中にしようとかでまよつていた。
神楽の演目は張り出されていたが、その内に保育園児や小学生が帰り始めた。
14 私も残念ながら体を気遣つて帰ってしまつた。

今年は日光寺の神楽も、水保の神楽も見る事が出来なかつた。
こう言う機会でないと神楽を見る機会はなく「後の祭り」となつてしまつた。

写真は5月1日の春祭りの風景です。

2014/05/12

NO,19   野ぶき

512 今日は5月12日(月)、5日程の連続の晴れとなつているが、昼過ぎに雨になる予報が出ている。
すっかり初夏のよそおいとなり昨日は上越高田の最高気温が25.5℃であつた。
ブログの投稿をダラケテいたら2日は八十八夜、5日は立夏となり山は日増しに緑が深く濃くなつている。
当地の田植えの最盛期であつたり、夏野菜のトマトやナスの苗木の方も配られ定植が最盛期となつている。

こうした時期、家内の産直市場に山菜のワラビや野ぶきを売るので採取の手伝いをした。
その前にはウドやギンブキ(ウルイ)を少し山田の休耕地に栽培しているものを出した。
何れも200円位の束にして出荷しているが、何れも山菜を料理するには手間がかかり、若い主婦の皆さんにはあまり歓迎されなく持ち帰りも出ている。
2 家では食べ切れないので隣り近所にオマイソをすると又何かになつて帰って来る。

野ぶきは休耕田に毎年多く繁茂し、植栽したものではないが長く太く良いものになる。
「ラワンブキ」に比較すれば天と地の違いがあるが時季のものとして美味しく食している。
この野ぶきの時季となると思い出す事がある。
子供の頃はそれ程美味しいとは思わないが、小学校就学前の年には信州・小谷温泉、そして小学1年生の年には蓮華温泉に湯治に行き、自炊であるから野ぶきや竹Photo の子を採つて食した事を覚えている。

「絵日記ごぜを訪ねて」(斎藤真一著・日本放送出版協会)を読んだ事がある。
「高田ゴゼ」杉本(家)キクイ(明治31・1898年生まれ・死亡平成12・2000年 84歳)さん25歳の大正12・1923年6月20日に5人で根知谷から小谷村戸土を径て小谷温泉に旅回りし、山田旅館に当留した。
旅館の沢に入り、ふきなど多くの山菜を採つて料理した。
温泉旅館には多くの湯治客や村の若い衆や、役場の人も多く来ていたのでいい稼ぎとなつたようである。
ある時、ふき等の山菜を砂糖等の調味料を使つて料理していたら小谷の村長さんが通り、ツマミ食いし「これは美味しい」と驚いていたこともあつた。
どうせお世辞でいつているのだろうか、盲人のゴゼだからろくな物が出来ないだろう位に思われていたようだが、その後にその村長さん宅に呼ばれ芸の披露の慰労の席で、奥さん手料理のふきの料理が出たが、砂糖や調味料が使われずまずい料理であつた。
山の中で砂糖も調味料も使われず貧しい山村と、高田の街の生活の差が出ているようであるが、当時の西頸城や東頸城の山村でのゴゼ宿での料理はどうであつたのPhoto_2 だろうかは記述にはなかつた。
それから、まずい料理が出ると「小谷の料理」が出たと人前で大きな声で話していた。
ゴゼさんだけの符丁であつたのである。

写真の説明
1枚目は 我が家の野ぶきである、草丈55㎝前後である。
2枚目は 小谷温泉山田旅館である
3枚目は ゴゼの巡業の貴重な写真である
4枚目は ふきの料理「きゃらぶき・佃煮」が一般的な料理である。

2014/04/11

NO,18    闘魚と喧嘩祭り

26 今日は4月11日(金)朝から晴れとなつた。
昨日は一の宮の喧嘩祭りで天気を心配しながら何十年振りに出かけたが予報よりも早く雨が降り出した。
体が心配なので小雨が降り出したすぐに帰つたが、10時半から神輿降臨祭でありその準備中に帰つた事になる。

小学校就学前には祖父の弟さんが寺町に分家していたので祭りには祖父と出かけ、喧嘩祭りを見てから夕食にご馳走になつていた。
そんな事は数年あつた事を覚えている。
小学校の4~5年生になると友達3~4人と歩いて行つたものである。
ある年は今の奴奈川線は農道位の幅員であり、北陸本線のガードから一の宮までの間には住宅はまだ一軒もなかつた時代であり、田圃であり、田は水が多く冠水していた年も何年かはあつた、糸魚川駅裏からは水湖のようであつた。
22 小さな用水路も多くあり、この用水路には「城の川」から遡上するエトイゴ(イトヨ)が多くいて一の宮の祭りに着く前にこのエトイゴを追つて捕まえる遊びがあつた。
このエトイゴの中には鮮紅色の魚がいたもので、これはエトイゴでなく「とうぎよ」(闘魚)だといつて呼んでいたが見たのは始めてであつた。
まつたくエトイゴと同じ大きさで背鰭と腹部に鋭い棘があり、エトイゴだろうと言うと「と26410 うぎよ」は別の魚なのだと皆んなが信じていた。

このエトイゴ、いやイトヨは海から3月下旬頃にこの辺では「城の川」と「前川」にしか遡上しないし、用水路に上がり、雄は巣を作る事位しか知らなかった。
たぶん中学生の何年の時で何の教科の時に習つたのだろうか。
海から遡上し、産卵後には再び海に下る「降海型」と区別されている。
産卵期は5~6月と言われているが、この地域ではもつと早いように思う、用水路の砂泥底のくぼみに雄が水草や繊維を集めて巣を作り、そこに雌が産卵する、雄はナワ張りをもち、巣や仔稚魚を保護する。
体長は6~10cm位で背鰭に独立した太い棘をもち、この産卵期の雄は喉から腹にかけて鮮紅色になり、鮮やかな「婚姻色」を示し、雌を巣に入れるために誘いの求愛ダンスをする。
Photo 雄はこうした役割を果し、鮮紅色の「婚姻色」を示す事等は当時は知らずイトヨでなく「とうぎよ」と言う魚だと言い思いこんでいたのである。

国の天然記念物に指定(1934・昭和9年5月1日に)されている福井県大野市のイトヨは「陸封型」であり、一生を清水域で住んでいるもので体長は「降海型」より小型で頭部はやや大きくずんぐりした体形と言われている。

こうした喧嘩祭りに行く前に「とうぎよ」との格闘があり、神輿の競り合いや舞楽の観賞よりも多くの人出に酔い、露天を見て回るのが楽しみなのである。
小遣いは持つていたり、もらつて出たかはあまり定かでないが、食べ物などは買つた覚えがない。
多くの人の出る所は行つて見たい、これが目的みたいなものであつた。
こんな昔の祭りの思い出がよみがえつた。

2014/04/04

NO,17  「清明」のころ

B 今日は4月4日(金)、朝から予報通り小雨が降る天気となつた。
昨日まで2日続きの快晴で、南風の暖かい風が吹き込んで日中は暑い位で上着を脱いで畑の草取りを2日も続けて疲れてしまつた。
今日の雨は「晴耕雨読」の体休めの良い日となつた。

この辺では、子供の頃から北アルプスから吹き降ろす南の風を「ジモン」とか「ジモン風」とかいつて、暖かい風で時にはナマ臭い風の時もある。
又、この時期には水稲の育苗が始り、ビニールハウスをいく棟も作る農家や農協が強い南風で吹き飛ばされたり、壊されたりしたものである。
こうした災害をもたらす強風でなく、ここち良い南風により、昼頃にはこの時季に一の宮の喧嘩祭りの太鼓の練習の音が流れて来たものである。
2 このドンデンドン ドンデンドンは糸魚川の春を呼んでいるのである。
 ♪ つもる白雪  サラリと解け
   春は太鼓の  音から明けりや
   若い力で  せり合う神輿
    稚児の舞う手に  花が散る
糸魚川小唄(作詞 相馬御風 作曲 中山晋平)の一節である。

21 又、夕方や夕方近くの静かな一時には汽車(電車)が海川の鉄橋を渡る時のゴト ゴト ゴトの音が南風の微風に乗って聞こえて、この音がリズム感がいいのか、何か安堵感がいいのか、何かを感じさせる音であり、子供の頃の音と、齢とつた今も何一つ変わっていない音である。
そしてこの音は汽車に乗って遠くえ旅した事が思い出せるし、又、遠くへ行きたいものだと思いにかられる音でもある。
そして又、子供達を一生懸命に育て、大きくなつたら皆なゴト ゴト ゴトと音のする汽車に乗って親元から遠くへ離れて行つた時の音でもある。

万物が春の陽光を受けて明るくすがすがしい様子を表す「清明」は明日であり、桜前線も関東地方から北陸地方にも到達し富山は昨日咲いたと放送がされた。
そして8日は花祭りのお釈迦様の誕生日である。
こうした草花も咲き始め、里山には野草の「猩猩袴」(子供の頃はキセルバナと呼んでいた)が咲き出し、白梅が満開である。
畑仕事は馬鈴薯も「男爵」と「キタアカリ」、「メークイン」の3種類の品種を栽培し食にあわせる料理となるような贅沢な時代となつて、狭隘な猫の額いほどの小面積でも区割りしている。
Photo 耕起の前には草取りがあるが結構雑草が繁茂している。
一番手におえないのは「スギナ」であつたり「ツクシ」であり、すでに「スギナ」となつて太刀が悪いが、「ツクシ」の時には料理になつたり、童謡に歌われたりし万人に親しまれている厄介者なのである。

それと同じようなものに「イヌノフグリ」(オオバコ科クワガタソウ属)がある。
丁度今花が咲いている最中である。
42 年毎に増えているが、これが環境省の絶滅危惧類(VO)に指定されているとは驚いた。
最近は多くの人達に親しまれているようで有るが、どこが良いのか理解出来ない。
畑作農家の天敵みたいなものまで幅を利かせて咲いている。

写真の説明
1枚目は 寝台特急「日本海」のB寝台、平成24年3月17日のダイヤ改正で引退した、一度だけ函館の叔母さんの病気見舞いにこれに乗車した思い出がある。
2枚目は 糸魚川一の宮喧嘩祭りの舞楽「鶏冠」
3枚目は 野草「猩猩袴」
4枚目は 「ツクシ」
5枚目は 雑草「イヌノフグリ」の花、今が最盛期

2014/03/31

NO,16  春耕のころ

Photo 今日は3月31日(月)、曇りのち快晴の天気となつた。
今日は3月弥生の晦日、この月も何事もなく駆け足で去って行く、家や親戚にも学校の卒業とか入学等の慶事もなく、そうした事が一層日々を早めているのだろう。

一昨昨日などは暖かい日が続き、春耕を早めた。
畑の草取り、耕起と「春い出し」で夕方には足腰が痛かったり、肩が凝るなどする。
昨日の一日中降つた雨は疲れ休みのよい日となつた。
Photo_2 病気をしてから水田耕作を全部止めたが、少しの畑があり、これを妻と二人で耕していれば丁度よい体力づくりになつてる。

丁度よいと言えばこの時季には童謡に「春の小川」(高野辰之作詞・岡野貞一作曲)がある。
 ♪ 春の小川は さらさらいくよ
   岸のすみれや れんげの花に
   すがたやさしく 色うつくしく
   咲いているねと ささやきながら
Photo_3 子供の頃は沼田には小さな用水路が多くあり、この時季には「エトイゴ」(イトヨ)を追つ駆け回つていたものである。
その沼田も土地の区画整理事業で宅地化し用水路がまったく無くなってしまつた。
この用水路にはタニシやタンガイ(イシガイ・イシガイ目イシガイ科)、ビンドジ(カワニナ)などの貝類やカジカやドジョウ、ナマズなどがいて、この春休みは田圃の畦道を駆け回つていた。
そうした姿は今は少子化のためか姿が消えてしまい寂しい位である。

この時季には「前川」にはエトイゴが遡上したものであるが、その姿も消えて50年も60年も経っているのだろう。
この姿を復活させる運動を展開させようと言う話はあるがなかなか一朝には行かない。
前川の河川改修はほぼ終了しているが、海から前川に遡上出来るような「魚道」が必要である。
海から上がると前川の河口には「よどみ」があり、こうした所にはエトイゴばかりではなく「ボラ」の稚魚の「おぼこ」~「いなっこ」も多くいて「汽水域」と言われる所であるが、これも見事になくなつていてこういう所も復活させねばならない一つでもある。

Photo_4 エトイゴ(イトヨ)と言えば福井・大野市は有名であり、「本願清水イトヨの里」(tel0779-65-5104)のように早くから保護と水環境の保全啓発を目的とし学習活動を展開している。
「本願清水」のイトヨは海から遡上し、海に戻る「降海型」ではなく、「陸封型」ではあるが、生息地は南限として国の天然記念物に指定されており、早くから視察の話もあつたが、未だかつて実現していない。

写真の説明
1枚目は 前川の改修の終わった部分 去る3月15日の撮影
2枚目は 家の周りの紅梅も満開を迎えている、3月25日の撮影
3枚目は 「イトヨ・降海型」の写真、残念ながら写真でしか見るしかない
4枚目は 前川河口の現状、飛び跳ねないと遡上出来ない。

2014/03/20

N0,15 暑さ寒さも

Photo_2 今日は3月20日(木)、朝から小雨が降る天気となつている。
明日は春の彼岸の中日である。
「暑さ寒さも彼岸まで」、「三寒四温」のこの頃で確実に春はそこまでやつて来ている。
Photo_3 去る3月9日は所謂「山の神」の日であり、海辺のある地域は「海開け」があるように、「山の神」は「山開け」なのである。
昨日と一昨昨日は晴天となり、里山の畑に植えてある梅の木の縄はずしや、アジサイなどの冬囲いをはずしたが、ユズの木だけはもう一回は寒波が月末頃までに来るので、それが過ぎた後になる。
今冬の降雪量はいつもにもなく少なく、すつかりと消えて、田や畑の仕事が出来るようになつている。
Photo_4 梅の花はまだ蕾であるが、家の周りの椿は咲き出し、水仙は日本水仙の方がラッパ水仙より早いので咲いている。
最近ブームとなつている「雪割草」も幾つかの鉢物は咲き出している。
「早春」はこうした花木からの恵みから感じられるが、子供や孫達のおられる家ではその他に学校の卒業や高校、大学の入試等を迎えられるが、小子化で近所の子供達が少ない為にそんな話題が聞こえてこない春である。

Photo_5 先日の晴れの日に国道8号線東バイパスの二級河川海川陸橋の工事の写真撮影にいつて来た。
この東バイパスの全線開通は北陸新幹線の供用開始日に併せて開通する事になつているので果たして出来るのだろうかといささか心配になつている。
こうした陸橋は海川だけでなく、既存の国道8号線と北陸本線の上を、更に北陸新幹線の上をまたぐ工事があり大工事である。

北陸新幹線の供用開始日は来春のダイヤ改正日に併せて「3月15日」の日曜日に決定しているようであり、東京~金沢間の運賃も想定額が新聞にのる時期となつた。
又、それに伴う第3セクターになる在来線の「えちごトキめき鉄道(株)」が、マスコットキヤラクターの「トキテツくん」の発表や、直江津~市振間を走る「日本海ひすいライン」には「姫新線キハ122系」、直江津~妙高高原間を走る「妙高はねうまライン」は「E127系」の改修で車両のデザインが新聞にのつた。
その優雅な姿は日本海沿線や頚城平野(高田平野)を走るのであるが、果たして一Photo_6 日に何本姿を見せてくれるのであろうか。

写真の説明
1枚目は 「日本海ひすいライン」を走る「姫新線キハ122系」のデザイン

2枚目は 「ふきのとう」 3月17日撮影

3枚目 椿の赤色
4枚目 椿の白色 いずれも3月19日の撮影

5枚目は 海川陸橋の工事中の写真、3月15日の撮影である。

2014/03/12

NO,14 万徳寺散策

Photo 今日は3月12日(水)朝から二日続きの晴天となり、10日に降った小雪もすつかり消え、早春を感じる日となつた。

こうした晴天の日には波たたき側溝を東は早川、西は海川まで歩く人が多く目に付くようになつた。
私も先般の暖かい日に歩き、梶屋敷の万徳寺(浄土真宗大谷派)にお参りして来た。
立派な山門の前には東本願寺第12世・教如(きょうにょ)上人(永禄元・1558年~慶長19・1614年)の足跡の石碑が建立されている。
Photo_2 豊臣秀吉の天下の時代、その命により隠退させられるが、その間にも加賀や越中等へも再三布教に回られており、越後のこの地にも足を入れられたのだと解る。

境内には多くの石碑があるが「長野知蔵」のものもあるが知ることが出来ない。
「下鳥先生」とあるは梶屋敷校(明治23・1890年10月に梶屋敷村立梶屋敷尋常科小学校になる)の先生で明治18・1885年~明治28・1895年の長きに亘り勤められ近世教育の発展に尽くされた人である。
先生は中頚城郡五十公野川浦の出身であつた。
この石碑は明治42・1909年12月に生徒達(門弟子とある)により建立されたと刻されている。

Photo_3 万徳寺の向には「浜の地蔵尊」があり、4~5尺の石仏であり毎月24日は参詣者が多いと聞く。
今までも何回もお参りをしたが、壁に「鶏」の絵を書いた「絵馬」が貼られている事に気がつかないで来た。
これも「鶏絵馬」と言えるのではないかと思う。
願掛けとすれば、子供の「夜泣き」(鳴き)の治るように、とか夜泣きのしないように、更に子供の成長を願うものなのだろうか。
名古屋市中区・天寧寺(てんねいじ・曹洞宗)には「守鶏の絵馬」があり、願い事に「雄Photo_4 鶏」を、祈願成就の際には「雌鶏」の絵馬を奉納するので、セトモノの鶏と木製の絵馬が用意されている。

こうした願掛けの絵馬は田伏の奴奈川神社の「船絵馬」は多くの人は参拝して知っているが、同じ田伏の薬師堂にも何枚かがある事を知る人は少ない。
そして目に付くのは朱色のお椀の底に穴を開けて奉納してある事に気が付くだろう。
これも目の病気、耳の病気、鼻の病気の治癒の願かけであるが、強いて言うならば一生涯元気で三度の食事がとれるようにとの願いもあるだろう。

万徳寺の浜には「福寿海無量」の石文がある事は今までも何回か書いて来たが、ここから2~30m程東に「三ツ井」の石文が少し頭を出している事を始めて知った。
これも「福寿海無量」と関連して梶屋敷の船問屋や船主と言われる人達の何らかの印なのだろう。
元治元・1864年の記録によると梶屋敷村には650石、35石、20石の各1艘と600石の2艘の計5艘となるが、もう1艘があり合計6艘となつている。
この年より103年前の宝暦11・1761年には梶屋敷村に2艘とありこの間に4艘が増えているが、西浜では次第にジリ貧の道をたどり、追い詰められていつた。
特に鬼舞村や鬼伏村は激減していつた。
その長い間には小型化の沿岸回船をする事から大型のものに変わり遠方に行くようになつた。
梶屋敷村の船主は「三井」又は「三ツ井」と「沖」と言う二人の名が出ている。
「三井」は2艘、「沖」は3艘と文政6・1823年の記録がある。

Photo_5 こうした千石船(一般的にはこう言うが、当地区では「弁才船」とか「はがせ船」と呼んでいる)は何時まで続いたのだろうか。
一つの例として、明治13・1880年11月に旧青海村・西蓮寺の鐘堂が建立されているが、これは大工の「名工」と言われた名立区名立小泊の板谷弥代吉(別名・江崎長三郎の名前のものもある)によつて行われ、この巨額の建立費は全て当時の青海の回船主が出し、海の航海中に沖からも見え目印になるように大きな高いものにしなさいと言つたと言う逸話が残っている。
今から丁度130年も前の出来事である。

なお板谷弥代吉(別名・江崎長三郎)についてもう少し述べたい。
彼の携わった建物については、五智国分寺の三重塔(新潟県指定重要文化財)や京Photo_6 都・東本願寺大門、奈良・唐招提寺などの国宝級の神社仏閣の建築修理があるとされているがこの事実を知る人は余りにも少ない。

郷土の偉人として伝承活動をする必要があるし、梶屋敷の千石船の歴史のヒントになれば幸いである。

写真の説明
1枚目 「北前船」(弁才船)の復元で「みちのく丸」北方漁船博物館財団が復元した。
2枚目 万徳寺山門前に立つ「教如上人」の石碑
3枚目 地蔵堂に貼られた「鶏絵馬」
4枚目 下鳥先生の碑
5枚目 「三ツ井」の碑
6枚目 「長野知蔵」の碑

2014/03/05

NO,13 啓蟄のころ

Photo今日は3月5日(水)である、朝から一日中小雨がふつている。
この時季の雨の事を養花雨(ようかう)とか甘雨(かんう)慈雨(じう)、催花雨(さいかう)とかさまざまな呼び方があり、いかに昔の人達が植物を愛し、花が咲誇る春を心待ちにしていたかが分かるといわれている。

明日の6日は二十四節気の「啓蟄」(けいちつ)である。
冬ごもりをしていた虫達が目覚める頃とされ、春雷が鳴る時期でもあり、虫達がそのPhoto_2 雷の音に恐いて地上に出て来るとも考えられ、この初雷を別名「虫出しの雷(いかづち)」とも言われている。
又この頃には強い南風が吹く「春一番」が太平洋側で観測されるが今年はまだ吹いていない。
それよりも「立春」が過ぎた2月14日から降り出した雪が関東甲信に記録にない大雪となり、梅や桃、ぶどうに大打撃を与えてしまつた。

それでも暖かい春風が吹き出し、河津町(静岡)の河津桜が咲き誇つて多くの人がめでている。
この暖かい春風を東風(「こち」とか「あえの風」とか「あいの風」)とも呼び、この風は、冬は荒れ狂つた日本海も時には凪ぐ時もある。
   東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣する
                 小舟漕ぎ隠(か)くる見ゆ
                     大伴家持・万葉集
このように詠んだのは越中伏木(高岡市)である。
この詩を越中の人や能登の人は際立つて大切にし誇らしくしている。
この風は昔から豊漁や豊作、幸福をもたらす風としている。
この「あいの風」はよく当地域でも漁師達が使っていた。
何となく潮の香りが匂う言葉だが、古くから豊かな風土を作り、その地ならではの文化を育んで来た。
この風が吹いた後は「必ず大漁になる」と子供の頃から古老達が話していた事を聞いている。(「能登・加賀 東風(あいのかぜ)に吹かれて」・回天蒼生塾発行)の一部を引用する)

この度北陸本線の並行在来線の各路線の名称が新聞で見たが、当市の市振~直江津間が「日本海ひすいライン」であり、妙高高原~直江津間は「妙高はねうまライン」となつた。
36 富山の越中宮崎~石動間は「あいの風とやま鉄道(株)」となつている。
本県のような一般の人は「あいの風」とは何なのか疑問に思われたのではなかろうか。
富山や能登の人は大事な文化なのである。

昨日は晴天なので棚田の見回りをした、今年は小雪で早くから雪が消えフキノトウが出ていた。
早くも他人が来て採っているところに出くわした、道路から見える所でなく棚田の奥まで上がってのもので、以前にも採った覚えがあるから来ているのだろうと思うが、地区の人であれば誰の土地か419 は解るはずである。
これからはギンブキ(ウルイ)やウド、ゼンマイ、ワラビと出て来るが、所有者よりも先に採られるのは憤慨する。
啓蟄ともなればこうしたヤカラも出没する。
猪が先般大和川小学校前に出没したと警戒していたが早いお出ましである。

写真の説明
1枚目は 東バイパス海川の陸橋工事 3月4日の撮影
2枚目は 早春の海・田伏の海岸を映す 3月4日

2014/03/01

NO,12  遠方より

Anaja8197 今日は3月1日(土)、今日から弥生3月である。
一日中曇りの天気で寒い一日であつたが「三寒四温」の兆しも感じられるようになつた。
10日前に子供が孫を連れて5年振りに帰省した。
「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」論語の「学而編」の一節であるがそんな心境である。

水族館を見学したいと言うので先の日曜日に出かけた。
この水族館が始めて出来た頃に2人の子供を連れて行つた事があつたが、今度はその孫達がその時の歳と同じ頃になつている。
Photo 約40年程になろうとして施設も一段と大きくなり魚や生き物も当然多くなつていた。
名前の知らないものばかりであり、海辺に育つた者も、山辺の子供も一緒である。

この水族館に「ドブネ」が開館した時から展示されている事を知っていたし、当市中宿の伴助船大工が造った事も知っていたが、どうして知つたか、又「ドブネ」と言う名前も変な名前だ位いにしか思っていなかつた。
「糸魚川市史・昭和編 1」によると明治16年(1883)3月に東京上野で第1回水産Photo_2 博覧会が開催され、それに浦本から「ドブネ」と呼ばれる船(中頚城の「犀浜(さいはま)ドブネ」と区別して「西浜ドブネ」と呼ぶこともある)が出品申請されたようで関係文書が残っているとの事である。
それによると出品された「ドブネ」は文政5年(1822)頃に、浦本の田代七平が名立や能生で用いられていた「ドブネ」を改良を加えて発明したものである。
当地方においては8割が「ドブネ」であり、2割は「サンパ」と呼ばれる船だとされている。
Photo_3 この「ドブネ」の規模は長さ5間半(約10m)、幅は1間(約1,8m)程度であり、「サンパ」の方は長さ4間(約7m)、幅は1間位でありやや小型である。
この「ドブネ」は帆を掛けられるようになつていた。

「サイハマ ドブネ」(犀浜ドブネ)は製作に船釘を使用せず接合部はいつさい「タタラ」及び「チキリ」と称する接合片を差込み漆を流して接合する。
当「西浜ドブネ」も同様であろう。
この船の重量は軽量であり船の出し入れは少人数で出来るし寿命も比較的長いし、船足が速いのが特徴とされている。
操法はもっぱら櫂(かい)によるものが主で地引網に用いられた土地の生活に結びついた漁船である。
昭和30年(1955)頃に中宿の船大工永越猪之松さんと、大正7年(1918)頃に大潟町九戸浜の船大工佐藤亀作さんによつて造られた。
この水族館に展示されている「ドブネ」は明治34年(1901)に造られたもので昭和30年(1955)4月に櫓(ろ)と櫂(かい)も含み国指定重要有形民俗文化財に指定されている。
Photo_4 永越さんは最後の船大工とされ昭和34年(1980)7月に死去されている。
そうした長い伝統の技術はこれで途切れているのである。
当糸魚川市にはこの「ドブネ」が保存されていないのも誠に残念でたまらない。

写真の説明
1枚目は この航空機に乗り子供と孫がやつて来た
2枚目は マゼランペンギン
3枚目からは名前は残念ながら知らない

ドブネ」の写真の紹介は「文化遺産オンライン」にあり、ここをクリツクして下さい。

2014/02/20

NO,11 淡 雪

Topimage_2 今日は2月20日(木)朝から曇り時々晴れの天気となつた。
寒い一日であり、昨日は朝に少しの降雪もあつたがすつかりと消えた。
その19日は地区の神社では「祈年祭」が執行され、「大祭」である。
「大祭」は「春祭」、「秋祭」そして「新嘗祭」(11月23日)と4回ある重要な祭りの一つ24 である。
この祭りについて調べると「としごいのまつり」とも言い、全国の神社でも行われ、普通は2月17日のようである。
この年の五穀豊穣を祈願する祭りと秋の「新嘗祭」と相対する祭りである。
五穀豊穣をもたらす「山の神」は春になると山から降りて来て「田の神」となり、農作物を見守り、秋の収穫が終ると又山にお帰りになられる神様である。
稲穂を蒔く季節の初めに当たって、その豊穣を祈願するわけですから、言い換えれば人間の生命の糧を恵んで下さるようにもお祈りする祭りで一粒の米にも神様の御霊(みたま)が宿ると考えられている。
又、この祭りは稲だけでなく五穀の豊穣と国の繁栄、そして皇室の安泰や国民皆んなの幸福なども祈願される。

この祭りについては奥能登に伝わる「あえのこと」の行事にも通じる。
2月9日に一冬の間に家族と一緒に過ごして来た「田の神様」を田圃にお送りすると言うものである。
行事は奥能登を代表する民俗行事で昭和51年(1976)に国重要無形民俗文化財に指定されたり、更に平成21年9月には世界無形遺産にも登録されている事を知った。

こうした「田の神様」を迎える時季は又二十四節気の「雨水」の時季でもある。
今年は2月19日であつた。
「雨水」の時季は雪が春の雨に変わり、本格的な雪解けが始る時季で、固く締まっていた土壌がゆっくりと潤い始め忍び寄る春の気配に草木が蘇り、北国や山間部の川や池に張っていた氷も次第に解けて行き水に戻るとされている。
ところが今年はまつたく当たらなかつた。
普段はあまり多く降らない関東甲信に多くの雪が降り明治以来とか史上最高の記録にないもので国中が冷え切って、「立春」や「雨水」の暦の通りではなかつた。
反って北陸の方は今年は雪が少なく暦みの通りに進んでいるようである。
Photo 昨日の雪は淡雪となり、昼には消えて田や畑も見え出した。

この地域には特にこの時季の行事は無いが、雪国の山間部では克雪、利雪更に遊雪として「雪まつり」が実施されて楽しむようになつた。
その代表的なものは「札幌雪まつり」や「本県の「十日町雪まつり」、秋田・横手の「かまくら」など多くある。
上越市では昔の防寒着の「角巻き」をはおつた婦人と「二重まわし」の旦那が雁木をPhoto_2 歩く「あわゆき道中」の行事がある。
この時季淡雪となり、梅の蕾もふくらみ、東風(こち)が吹く日も近いのだろう。
菅原道真は次のような詩を詠っている。
  東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花
     あるじなしとて 春な忘れそ
がある。
早く暖かい春が来ることをまつている。

2014/02/17

NO,10  大 雪

Photo今日は2月17日(月)朝から曇りの天気となつている。
先にも書いたが立春の去る4日を過ぎてからの降雪の日が続いていた。
「越後の雪は余寒に降る」のたとえ通りとなつた。
そろそろ「三寒四温」の暖かさが待ち遠しい。
昨日の16日、日曜日の午後は地区の禅寺・禅林寺では「団子まき」と言う「涅槃会」であり、伝統の宗教行事である。
子供達はインフレエンザの流行で外出禁止で寂しい行事となつたそうです。

Photo_2 御大典の年、昭和2年(1927)の大雪はこの地域の語りぐさとなつている。
この雪も立春を過ぎた2月6日から降り出した雪は一晩に2mにも及び大雪で二階から出入りし、電線をまたいで道を往来したり、国鉄の北陸本線も何日も不通になり、陸の孤島となつたそうである。
この話はよく年寄りから聞かされ、雪の恐ろしさと、余寒になつても気をゆるめるなと言う戒めとしている。

新聞のコラムに、加賀の前田公にある藩主が、北陸は雪が多く積もり生活にも軍事にも大変だろうと見舞つた話しがある。
前田公は、この雪の多い時期には誰も攻めてこないから枕を高くして安心して眠れるし、兵隊もゆっくりと休み、鋭気を養う事が出来ると言つたと言うものである。

Photo_3 14日と15日には全国的に大雪となり、特に関東甲信は大変であつた。
16日の日曜日には亡くなった娘の七回忌とお父さんの一回忌法要が甲府市で行われる事になつており、その前日の日の15日には石和温泉で宿泊して出席する事として越後湯沢駅まで心配しながらでかけたが案の定上越新幹線は終日不通となりここから引き返した。
中央本線も14日から間引き運転のニュースもあり、果たして甲府まで行けるものかと案じていた。
それでも何とか新宿駅まで行つて見ようと出掛けたのである。

甲斐の名将武田信玄公の像は甲府駅前に鎮座しているが、1,14mの雪ですつかり埋まつている。
戦国時代にはこの雪の量や、降雪期を戦略として争った実史は少なくはない。
さすがの武田信玄公もこの雪では身動きも出来ないだろう。
「山梨県庁では、富士山の噴火の前兆が気象庁が発表された時に災害本部の設置が考えられるが、元々雪の少ない山梨県は考えられなかつた」。
「元々少ない県で、120年に一度の出来事で、大雪に関するノウハウは少ない。対策本部を設置すべきかどうか判断するに必要な被害状況すら把握する事が難しい」S378 と今日の新聞(読売)に載っていた。
又、「想定外」の行政が疑われている。
武田信玄公だつたらどのように差配しただろうか。

農業関係者であれば、今頃にいつも石和温泉に行くと、ビニールハウスには早咲きの桃が咲いていたり、ブドウのビニール張りもそろそろ始まつていたり、剪定の時期になつているが、こうした果樹王国には大被害が発生しているのだろう。
そうした被害が想定出来る。
小田原城の水攻めの話は有名であるが、今回の大雪は武器を使わずにして冬将軍に敗北した堤である。

写真の説明
1枚目は 武田神社の正門、今は大雪で埋まっているのだろう。
2枚目は 甲府駅前の武田信玄公の銅像
3枚目は 同信玄公の銅像も大雪で埋まっている、14日の写真である。
4枚目は 昭和37年(1962)8月の大和川を横断する国道、手前は木戸間紋三郎宅で、大和川には茅葺屋根の家が多く「屋根屋」を成合としていた家も多くあつた。

2014/02/11

NO,9 春を待つ

Photo

今日は2月11日(火)朝は小雪がちらちらと降っていたがその後天気となつた。
今日は「建国記念の日」で初代神武天皇が即位した日であり、今年は紀元2674年である。
小学校の頃は寒い運動場で ♪ 雲に聳える高千穂の
高根おろしに草も木も  と歌った。

立春を境にすっかり真冬に逆戻りし、日本中が厳寒の毎日でふるえている。
当市のチャイムは童謡「春よ来い」を鳴らしている。
この歌の作詞は当市の文豪相馬御風であるが、本当に早く春が来て欲しいものである。
この詞が発表されたのは大正12年(1923)1月の「木かげ」であり、待望の女の子が大正10年2月20日に生まれ、その文子さんを歌ったものとされている。
2歳になり本当に「おんもへ出たいと待っている」その状況描写が目にうかぶ。

Photo_2 3月3日の雛祭りに向かって早くも雛壇飾りがなされたり、最近は「吊るし雛」も多く見受けられるようになつた。
手芸を楽しみ、飾って楽しむ事もあるかなと思う。
私の家では3人の子供は皆な女の子であつたり、私の兄妹も3人女の子であつたが雛飾りはなかつた。
この地域ではその時代には殆どの家はそうであつた。
そして節句と言う「雛祭り」や「端午の節句」は1ケ月遅れであり、4月に入れば本当に梅が咲き、桜が咲き、次いで桃が咲き北陸にも春本番を迎える。
子供の頃は春の彼岸の頃になると味噌煮をし、麹を作るので甘酒も作ってもらつたものである。

この頃になるとオオカイド(旧国道)に「土びな」とか、「土人形」を売りに来ていたと言う話を聞いているが、大東亜戦争の始る前の昭和15年(1940)の紀元2600年の祝賀行事が行われた頃までのようである。
私の兄妹は私と弟が上であつたが、そうした「土人形」などが2~3個ころがつていて、手足に傷があつた。
Photo_3 この「土人形」とか「土びな」は北信濃の上田の方から売りに来ていたのだと聞いた。
この人形は金を出して買うのではなく、たいていの家は女の子や母や祖母が髪の毛をすいた「クズ毛」を貯めておいてこれと交換してもらつていた。
祖母は特に日当たりのよい部屋で「お六櫛」をよく使っていた事を覚えている。

「土人形」売りや「ダルマ」を篭に入れて担いで来ていた。
Photo_4 この土人形は上田市や近郊とは中野市である事を知った。
しかも明治の時代の古い伝統があり、この土地に暮らす人々の信仰や風習などと深く結びついて庶民に愛されて来た。
本県の十日町市の「チンコロ市」や松本の「あめ市」のように中野では早春に「土びな市」が開かれ多くの人が集まって賑わうそうである。
その「土びな」も伏見の流れをくむ「奈良家」のものと、三河の流れをくむ「西原家」の二系があり、これが切磋琢磨して今日の旺盛を築き上げて来ている。

写真の説明
1枚目は 相馬御風の胸像
3枚目は 西原家の「土びな」で「歌舞伎物」が主体だそうです。
4枚目は 奈良家の「ダルマ恵比寿とふぐ乗り大黒」で縁起ものが主体なのだそうです。

2014/02/07

NO,8  余 寒

27 今日は2月7日(金)曇りとなつていて一休みなのか。
「立春」になり「余寒」に入り案の定真冬となり、寒さも一段と厳しくなり、5日よりも昨日の6日の方が小雪であつたが一日中降り続き夕方には25cmになつた。
今年の最高積雪である。

3日の節分は有名な寺院ではタレントや力士を招いて豆まきの様子が報道され益々盛んになつているようである。
又「恵方巻き」の方も7種目の具材を入れた太巻きがスーパーなどで売られていたがどれだけ売れたものなのか気になる、米の消費拡大に繋がるからである。
こうした節分とか立春を前後して色々な行事が各地で行われている。
Photo 佐渡では特に伝統的行事が多くあり、「佐渡の車田植」(国指定無形民俗文化財)や今日の新聞(読売)にのつていた「田遊び神事」などがあるが、立春には「百万遍念仏講」や新酒「立春大吉」を売り出すニュースとして時季の風物詩となつている。

佐渡の真更川(まさらかわ)集落では古くから伝わる宗教行事の「百万遍念仏講」があり、立春の日に集落の年寄りだけでなく皆んなが集まり、大数珠と共に駆け回るのはこの時期の運動不足解消に役立つもので古くから理にも適っていて継続の一因にもなつているのではないだろうか。
この大数珠は30kgもあるもので、カンカンカン、トコトコトコと鐘と太鼓の音が会場に響いている。
「なむあびだぶつ」、「なまんだぶつ」(南無阿弥陀仏)と唱えるところもあるが、この集落は何と唱えているのだろうか。
数珠の珠の数は幾つあり、一回回れば何回分となり、百万回、五百万回、一千万回となる。
こうした百万回達成を祈念して「南無阿弥陀仏」の石碑を建立したものが佐渡の各地に多く実在しているのだそうである。

Photo_2 当地域には真宗門徒は多くおられる、それは親鸞聖人さんが国府の居多ケ浜に配流され、その後の布教のせいもあるのである。
ところが「南無阿弥陀仏」の六字名号の石碑は極めて少ない。
当大和川の教念寺の入口に大きな「南無阿弥陀仏」の石碑がある。
これは大和川尋常高等小学校が始めて今の地に新設する際に砂原の中から出土したものである。
小学校の工事は明治41年(1908)であるから106年は経っている。
「口碑伝説稿」(新潟県西頚城郡教育会・昭和12年発行・新潟県西頚城郡郷土誌稿)では田伏の大雲寺の前に納めたとあるが大きな間違いであり、禅宗の寺の前に置くことはない。
Photo_3 どうしてこの砂浜にこんなに大きなものが埋まっていたのだろうか。
それとただこの石碑だけが出土した事も不思議であり、たいていは幾つかの石仏類もあつたと推察するが、それらは何処にも安置されたのかも口碑伝説稿にはのつていない。

もう一つの佐渡の北雪酒造の「立春大吉」は立春の日に朝搾りし、新春の新酒として売り出している。
販売は「会員」加盟店のみの限定であるから確実に売れている。
こうした立春に新酒を「立春大吉朝搾り」とか「立春朝搾り」とかの名をうつて全国各地の酒造店や酒蔵がある事を知った。
ただその酒の売り方は「会員」制とか「日本名門酒会」取扱店のみとかの限定で売り出しているところが多い。

Photo_4 近年「日本酒」が「売れないとか」、「売れるとか」いつているが、婦人や若い女性の愛好家が増えているようだがまだ不足なのだろうか。
一時は「日本酒で乾杯」と言つた事を覚えているが、今度は「日本酒で乾杯」を呼びかける「乾杯条例」を市町村の自治体が制定するところがあるそうで、当市でもある市議が一般質問で発議をしているようである。
この条例には罰則は無いと思うが、嗜好品にまで条例をつくらねばならない時代となつたのかと考えさせられる。
上記のように日本の四季に併せて酒造店や酒蔵ももつと売り出す工夫も必要なのではないだろうか。

「余寒」は「あかん」なのだろうか。

写真の説明
1枚目は 今朝の我が家の降雪風景である。
2枚目は 佐渡の「車田植」の風景
3枚目は 大和川の教念寺入口にたつ「六字名号」の「南無阿弥陀仏」石碑
4枚目は 大和川小学校の前庭に立つ「大熊浜」の石碑で、これも砂原から出土した物だと聞かされている。
5枚目は 「立春朝搾り」のレッテルが貼られている見本である。

2014/01/31

NO,7   風 化

Photo


今日は1月31日(金)朝から曇りの天気であるが雨や小雪が降ると言う予報である。
夜中北西の強い風が吹きまくり窓や下見に当たる冬特有の騒音がしていて昼ころまで続いた。
ここ数日は天気の日も出たり、気温の高い日が出たので少し積もっていた雪はすっかり消えた。
一昨日に近間の畑に残っていた少しの白菜を採って来た。
1月の月もあっと言う間に過ぎ去り、2月如月となり3日は「節分」、4日は二十四節気130 の「立春」となる。
近年こんなに雪の少ない年はまれである。
市の積雪表示によると(1月30日現在)能生谷・権現荘で112cm、小滝は115cmで山間部も少なく喜んでいる。
ところで昔から「越後の雪は余寒に降る」と言い生活を戒めている。
立春になれば「余寒」であり、降雪は予断無く、寒さも一段と厳しくなる。
Photo_2 この頃になると昔は「寒餅」をついて、「かき餅」や「あられ」を作り、農繁期の作業に来てくれる人達の一服のお茶うけとなる。
この餅つきの頃になると正月用についた餅も無くなり、ついでに今度は「草餅」や「ビリ餅」をつき、ご飯の食いだしをしたものである。
今年の雪は山間部も少ないが昭和61年(1986)1月26日(土)の深夜11時頃に権現岳(1108)から新雪雪崩が襲い、11戸倒壊、死者13人、負傷者9人を出す大雪となり、その中には土曜日で下宿から帰った高校生もいた。
又、大正11年(1922)2月3日午後8時頃に起きた「山下の雪崩」がある。
北陸本線前線開通100周年を迎えたと昨年には行事があつたが、この悲しい事故ももう92年になり、すっかり忘れ去られようとしている。
Photo_3 大和川では死者25人、負傷者4人と記録されている。
糸魚川町では蓮台寺の22人、磯部村筒石25人の人達がいて、大和川では一戸に2人も亡くなった家もある。
家にいてワラ仕事の俵編み、縄ない、みの作り、草履、ワラジを作つても自家用が主であり、お金にはならなかつた。
国鉄の仕事は日銭が入ると、誘われめったにない事だとこぞつて参加した。
一家で2人の犠牲者は親と子である。
まじかに春たちとなり今年の稲作をどうしょう、今年の生活をどうしょうと苦しい暗いものが永年に村中にただよつた。

時まさに全国にただよつた昭和恐慌、農業恐慌で大不況が続いていた。
真に富国強兵、殖産興業が救済となり、大和川村では国道8号の竹ケ花~押上間と砂山・大雲寺前の改良工事や大和川アワラの区画整理事業や水頭溜池新設工事(竣功・昭和9年)、小畑溜池新設工事(竣工・昭和19年)等が主な救済事業として行われた。

よく大和川の大村(大字大和川)で神輿がどうしてなかつたのかと言われ誰も答えてこなかつた。
多分こうしたヒエイしきつた時代の中で神輿の事など、どうして言える状況ではなかつたのだろうと思われるのが妥当だろう。

Photo_4 もう90年も達ちその代も3~4代となつていて、もうその家はどこなのかは表面上は解らなくなつているが、そうした歴史の中で今日がある事を忘れてはならない。
年前にお寺から配られた東本願寺高田別院の寺報によると、春には「尾神岳(757)の殉難」の法要を現地で行うとあつた。
旧吉川村(現上越市)の尾神岳の雪崩が明治16年(1883)3月12日の午後2時頃に起き、浄土真宗東本願寺復興新築のケヤキ大木の引き出し中に起きたものである。
熱心な真宗門徒が多数集まり、中には母親に負ぶさった乳児もいて27人もの死者がいた、その内15歳以下の子供、4歳以下の幼児もいて一家挙げての奉仕で信者とは言え悲惨な出来事であつた。
131年前の事であるが、今では地元小学校では伝承学習を実施し発表会などを行っているようである。
一時期は「宗教」行事だといつて議論があつたと聞かされている。
Photo_5 いずれにしても「風化」とはなんなのだろうか。

写真の説明

2枚目は 浦の浜を走る市道海浜線の新設工事の写真
3枚目は 大和川国造神社境内に立つ親不知殉難碑
4枚目は 秋の親不知
5枚目は 尾神岳の報尽碑
6枚目は 水頭の溜池

2014/01/25

NO,6   占う

26124_2



今日は1月25日(土)朝から晴れとなつており気温も少し上がるといわれている。
昨日も快晴であつたが気温が上がらず少しの雪もなかなか消えない。
今日の25日は初天神であり、この日が最後の正月となる。
124 田伏の奴奈川神社の境内に天満宮が祀られているが、この地域では数が少ない。
各家では昔から床の間に天神さんの掛け軸をかける習慣があり、鏡餅と共に払われる。
こうした家も段々と少なくなつているようだ。
昨日のNO5「鳥追い」で小正月の「鳥追い」や「さいの神」のことを書いたが、何れも農耕民族の五穀豊穣や無病息災を祈念するものであるが、その他にも14日と15日にはまだまだ多くの風習や行事がその集落の大事な行事として残っている。
124_2 子供の頃に何の教科の時であつたのかは忘れた話の中に、成りものの木に「木いじめ」の風習がある事を思い出した。
成りものの木は「柿木」であり、木に傷をつけ、「なるか、ならぬか」とせまる行事である。
これが14日や15日と言う日であり、民話「サルカニ合戦」に通じている事を知った。
又、傷口にお粥を塗り、「なるか、ならぬか」と唱える「生樹木」(なりずもく)と言う所もあり、いずれも全国に柿の産地が多くあり、それぞれ豊作を祈っての行事である。
信州の戸隠神社の「講」があり、当地区でも昔は各集落に世話役がおられ会費やモチ米を集めておられたが、今は地区全体でも10戸未満にまで減ったそうである。
この戸隠神社の「種兆」(たねうら)は農作物の出来や大水、台風までも占い、大変にご利益があるとされている。
こうした農作物占いの神事は各地にもあつて当市では、能生・白山神社も14日15日にかけて「お筒粥」神事を行っている。
又、下早川・日光寺の白山神社でも15日に行われ、その結果を掲示している。
今年の作柄は 早生もの 7分  中生 8分  晩生 9分  となつている。
こうした14日15日は大切な意味のある日なのである。
余談であるが、上越市旧桑取の「鳥追い」、「さいの神」の他にも「嫁祝い」があり、
前年に嫁に来た人に早く子供が出来るようにと嫁さんの家に行き、唄を唄いながら頭の上を太刀をぶつつけ合う行事だそうであるが、この太刀の木もヤナギ、マツ、スギ、ヌルデ、クルミ等の木となつており、「この木」、「この棒」を「粥杖」(かゆつえ)、「祝木」、「祝棒」、「幸の木」、「大(だい)の子祝」と各地各所によつて異なっている、それほど各地や各所で行われていたと言う事になる。
そしてこの「棒」や「太刀」だけでもなかなか面白い。
こうして継承されて来た小集落も段々とこうして文化と共に消滅して行く。
集落から地域え、子供会や小学校えと輪を広げないとだめだと考える正月でもあつた。
写真の説明
2枚目は 雪の日光寺・白山神社である
3枚目も 雪の日光寺観音堂である、何れも昨日の撮影である。 



2014/01/24

NO,5 鳥追い

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今日は1月24日(金)朝から快晴の天気となつた。
山間部では屋根雪降ろしや除雪に勢を出していただろう。
家の裏の市道海浜線工事もこんな日が毎日出れば大変助かるといつていた。
小正月もあっと言う間にすぎてしまい、今年は田伏の「お松つつあん焼き」(15日9:30から)にも青海の「竹のからかい」(15日昼頃~)にもでかけなかつた。
115 天候はそれ程の荒れでなく近郷の人が多く集まりカメラマンは飛び回つていたであろう。何年も前から撮り貯めていた写真の整理にはまり込んだらニッチモサツチも行かなくなつてしまつた。

テレビを見ていると「寒九の水」をポリタンクを背負って運ぶものや、「鳥追い」の映像が映っていた。
小正月の行事として14日の夜に行うもの、又15日に行うものと小さな集落でも伝統的行事として行い、「サイの神」などは集落の年男の行事2 でもあつたが、人が居なくなつた事や、祝祭日を変えるため人が集まりにくくもなつたりして、小集落から地区の行事としたり、子供会行事としたりして苦労をしている。

私の地区にはこうした正月行事は昔からなく、今頃は俵編みや草履作りなと゛の藁仕事に専念していたのだろう。
私はもう50余年も毎に寺町に事務所があり、宿直の15日の早朝、4時か5時頃かに子供たちの「鳥追い」で家の下見を叩いたり、石油カンを叩いて回って来て何事かあつたのかと目を覚ました事があつた。

Photo_2 よくテレビに放映されるのは十日町・松代や上越市桑取・西横山のものがある。
この「鳥追い」の唄を集めれば面白いが「糸魚川町」のもの、「能生谷・西飛山」のもの、「能生・槙」のもの、「魚沼方面」の「魚沼地域」、「小出町」、「湯沢町」、「旧薮神地区」や「信州・上田」、「群馬・安中」などと記録してみた。
追つ払う鳥は害鳥であるが、「どう」とは「とき」(朱鷺)であり、「つんばくろ」は「燕」である。
追いやる先はほとんどは「佐渡ケ島」である。
遠い所え追いやるにしても、どうして「佐渡島」となつたのだろうか。
皮肉にも今、「佐渡島」には100羽はいるのだと思う。

能生・槙地区の神社の壁に張られているのは
♪ 鳥追いだ 目をさませ おら前の早生稲に
  鳥がついたら ホーイホイ
  追ってもたたず たたいてもたたず
  たたずの鳥は かしら切つて しら切つて
  小俵につめて 牛つこにひかして
  猿つこに追わせて 佐渡が島まで ホーイホーイ
’ネツトワークひすい25年2月17日 NO,67より

上越市旧桑取・西横山
♪ コーリヤどこの鳥追いだ
  ダイロドン(大地主)の鳥追いだ
  シロウ(尻)切つて カシラ切つて
  コンダワラ(小俵)へほうらいこんで
  佐渡島へホーホ
  こうもり鳥のニンジヨ(仲間)で ホーホ

この2つの唄の中には「どう」は出ていないが、小出地区や旧薮神地区の唄の中には入つている。

2014/01/13

NO,4 遺 産

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今日はもう1月13日(月・祭日)曇り時々小雪、夜中中季節風が吹きまくり、下見や雨戸がゆれるおとがしていた。
一時大雪の警報が出ていたが昼前に解除された。
7日の七草を過ぎれば直ぐに10日の「初えびす」、「初金毘羅」(神社によつては金比羅・金刀比羅・琴平がある)である。
そして11日は「蔵開き」・「鏡開き」で今日は「成人の日」、15日は小正月と足早に1月が逃げて行く。

Photo_2 糸魚川の寺町には「琴平神社」があり、宵琴平がある、おこもりが執行され、今年の五穀豊穣や家内安全のお托せんがあると聞く。
それは参拝者が「大黒引き」と言う宝くじを引く占いで、大黒さんの唄を唄う。
   ♪ おおべつさんが ござつた
     1にや俵をふんまえて  2にやにっこり笑らつて
     3にやさかずき(盃)いな(た)だいて 
     4にや世の中ええ(いい)ように
            
     5にや泉のわくように 
     6にや無病息災に
     7にや何事ないように
     8にや屋敷をたいらげて
     9つ小倉をぶつたって
                     10にやとうとうおさまつた 
                                                       

                   この唄は子供の頃に祖母から聞かされたものである。

当大和川にも「金毘羅神社があり、小高いカントビラに祠が鎮座している。
Photo_3 この祭礼は真夏の7月10日であるが、10年位前から風祭りの8月7日に統合してしまつた。
この金毘羅さんは明治以前の建立であり大和川の「四十物」(あいもの)商の人達で、水島、金子、木戸間等の人達で蒲鉾、さつま揚げ、甘えびの加工などを行い一時は羽振りがよかつた。
何年かに鳥居を取替えたり、土俵を作り寄り相撲をおこなつたことがある。
又、「金毘羅講」も行っており、当時の抵当権の名残が時々出て来ている。
この商売も昭和の農村恐慌のあおりをうけて、地区内の銀行までも倒産するようなあおりを受けて、廃業していつた。
その名残は子供の頃には境内に土俵もあつたり、家の前の「おおかいど」(大きな開いた道)には幟の幡竿があつた事を知っている。
「おおべつさく」の唄のような目出度いものにならなかつた。
こうした負の遺産についてはあまり話されて来ていなかつた事が事実である。

Photo_4 糸魚川寺町の「琴平神社」も「四十物商」が中心となつて執行して来たものだろう。
往時の繁栄は信州・松本の深志神社に見られる。
昨11日と12日は「松本あめ市」が行われ、長い歴史が感じられる。
敵蒋武田信玄に上杉謙信が塩を送り「塩の道」から塩や魚の乾物等が運ばれ、1月11日に待望の念願が叶つた日なのである。
松本地方の人びとの喜びがわかるし、糸魚川の四十物商も相当潤つたのであるう。
Photo_7 その記は松本・深志神社の玉垣に4本の大型のものを奉納している。
その玉垣には糸魚川の「四十物商中」と深く刻している。
又、一方松本の魚問屋も喜び、その印は糸魚川一の宮・天津神社の入口にある。
明治33(1900)年庚子4月と刻した石灯篭一対があり、「信濃松本魚問屋」とある。
7名の奉納者の名前がある。

「松本あめ市」はそうした戦国時代の塩の供給を断られ困っていたが永禄11(1568)年に1月11日に塩が届いた故事にちなみ「塩市」がいつしか「あめ市」になり、商都松本の新春の伝統行事となつている。
今年は七福神が加わる時代行列や全国あめ博覧会・即売会、塩取り合戦、子供の福ダルマ売りなど多彩な行事となつておりテレビやラジオにも流れていた。
Photo_9 こうした行事や歴史を知る糸魚川の人は多くはいない。
写真の説明
1 枚目は 松本市・深志神社前にある「牛つなぎの石」
2 枚目は 当大和川の金毘羅神社
3 枚目は 糸魚川の四十物商が奉納した深志神社の玉垣 大きな文字が刻まれている
4 枚目は 「松本あめ市」の幟
5 枚目は 松本の魚問屋が奉納した石燈篭に刻まれている文字の拡大したもの
6 枚目は 「松本あめ市」で売られている「あめ」 

2014/01/03

NO,1 お正月

1

今日は正月の3日(金)朝から快晴となり、「一陽来復」の今年し始めての太陽が輝いている。
今年は何事もない良い年となるように思うが、それに向かって心がけねばならない。
今年は子供達は帰省しないので二人切りの年取りと、3ケ日であり特別に手を掛けた幾く品もの料理を作らなくともよいと言つた。
チラシなどで宣伝していた豪華なおせち料理でなくとも歳はとれるし、新年を迎えることが出来た。
たしかに老人だけの家族や、又、若い夫婦と子供の家が増え、この地域の伝統的な決まっている料理も段々と省略されたり、親から習つたりしないからあたりまえの事でもある。
家でも稲作を止めたので今年は何十年も続いた餅つきはせずに切り餅を農家の直売所「食彩館」で買って来て「お雑煮」とした。

2 今年は「午歳」、家にとつては馬とは切っても切りはなせない歴史があり、馬が生活を支えて来た時期もあつた。
「人と馬」、言うまでもなく中国の「兵馬俑」(へいばいよう)が歴史を物語るように秦の始皇帝陵の一部から出土し1987年に世界遺産に登録されているように、死者を埋葬する際の副葬された「兵士と馬」を模つた物であり、地下に2,000年も眠っていたものを堀り出したものである。

日本でも馬の埴輪が全国各地に出土し、いかに馬と人が古くから関わつたかがわかる。
そんな例として、有名なのは埼玉・熊谷市中条日向鳥出土の「埴輪馬」(国重文)があり、古墳時代後期に築造された中条古墳群からのものである。
更にもう一つは、奈良・橿原市四条1号古墳からのもので「飾り馬埴輪」がある。
Photo こうした馬や牛は家畜として朝鮮半島から持ち込まれたと考えられ古墳から沢山の馬の埴輪が見つかつている。
この頃は既に家畜として飼われ、西暦390~490年にかけて造営された古墳からの発掘とされている。

家の馬も私が生まれた時には既に飼育され、1.3haの水田経営と農閑期の「馬車引き」とし木材出し、「水頭溜池」(s9年築造)と「小畑溜池」(s19年築造)の工事に築材運搬等を「大和川組」を作り活躍した。
又、国鉄北陸線新設工事に際し、陸橋やトンネルのレンガを当大和川のレンガ工場から運搬に係わつて来た。
この北陸線本線の全線開通までは直江津駅まで、この浜で獲れた鱈(たら)を運搬したが冬季の積雪と寒さは大変な作業であり、真に「人馬一体」となつて働いたと祖母がよく語っていた。

そうしたご先祖の働きを知り、伝えて行かねばならない歴史なのである。
私も今年は傘寿、もう先は見えて来ているが、ひとムチ当ててゴールしたいものである。

今年もこのブログを何回投稿できるか頑張って書いて行きたいと思っている。

写真の説明
1枚目は 家の庭の「なんてん」
2枚目は 武豊G1通算100勝達成の勇士 11月17日京都競馬場で、第30回スマイルチャンピオンシップて゛トーセンラーに騎乗して
3枚目は 奈良・橿原市出土の「飾り馬埴輪」複製

2013/12/23

No,53    まめに暮らす

E73 今日は12月23日(月)天皇誕生日の祝日である。
冬型の気圧配置で天気が定まらない。
雲であるが小雪も時々降っていた。
地面が真白になるようではない。
市内の観測地点の小滝と権現荘は15cm(20日)の最高である。
越冬用の少しの野菜類も既に収穫も終わり、いつ何時ネ雪になつてもよい準備が出来ている。
Photo 家内達数人は一日がかりで一昨日に集落の集会所に集まり白菜漬けを行った。
韓国流で言えば「キムジヤン」であり、もう10年も続いているが、寄る歳には勝てず参加者は減っているようである。

昨日は「冬至」、この日にはこの地方は一般的な風習で南瓜を食べ柚子湯に入ると言うパターンである。
冬至の「7品目」と言う「なんきん」(南瓜)、「にんじん」(人参)、「金柑」、「れんこん」(連根)、「ぎんなん」(銀杏)、「かんてん」(寒天)、「うどん」の「ん」が付く物を口にして運が付くように願う。
又、「あずき粥」(小豆)を食べて無病息災を祈ると言うような風習もない。
Photo_2 この時期農家では南瓜は有るが、昔のように多くの人が栽培しなくなつた。
大型の南瓜は爺さん、婆さんの2人の世帯であれば食べ切れず、農家でありながらスーパーで求めている現状である。
一年中どこかの物が出回つている。
この冬至に南瓜を食べ厳寒の冬を乗り切る栄養のビタミンC,やE、クエン酸が多く含まれ、風邪の予防や美肌効果に役立つとも言われてい2 る。
南瓜も寒くなると早く腐り易くなり、早く食べなさいと言うサインでもある。

又、冬至の柚子湯に入る風習も、最年の温暖化の勢と品種改良も進み、この海岸地帯では多くの人が1本、2本と植えて楽しんでおられる。
今年も豊作で小枝が垂れ下がつており小粒である。
撤果をして大きいものにすれば良いと思うが「もったいない」と行ってしていない。
どうせ自家用なのだからとも言う。
Photo_3 昔は上刈ミカン(当市・上刈地区)は北の「北限」だと言われて栽培されていたが、実は小粒でスッパイが特徴であつたが、栽培が難しく減退していつた。
私の母の実家には裏の畑に何本もあつて正月には毎年貰っていたし、父が冬囲いに出掛けていたものである。
こんな時に 「蜜柑 金柑 酒の燗 親は折檻 子は聞かん 相撲とりや裸で 風邪ひかん」 を思い出すのである。

柚子湯の効能も風邪をひかない、香りは5月の節句の菖蒲湯と同じように強い香りをPhoto_4 持ち、邪気を祓うとも言われている。
毎年この冬至の風物詩として銭湯の柚子湯の写真が写るし、伊豆シャボテン公園(伊東市)の人気者のカビバラや渋温泉の地獄谷野猿公苑の日本猿の入浴写真が定番となつている。
こうして元気で風邪や脳血管疾患を防ぎこの冬を元気で乗り切りたいものである。

風呂と言えば面白いのは、富山の売薬の常備薬「ケロリン」(頭痛・歯痛)の風呂桶Photo_5 である。
富山の売薬の歴史は400年とか300年とか言うが、市販薬局等が多くなつたり「薬事法」等でその伝統ある常備薬も売れなくなり、大部薬の種類も変わって来ているようだが、「ケロリン」の宣伝は今も健全であり、観光地の温泉でも時々見る事がある。
木製の桶は不衛生になるとの事であり、東京オリンピツクの1年前からヒントを得て以来継続していると言う兵(つわもの)である。
3 見られなくなつた常備薬の中に「神薬」がある。
家の薬箱の中に入つていて、「暑気当たり」、「気付け」の効能があるとの事であるが、子供の頃はよく取り出してなめていた。
適度な爽快感と清涼感を与えたものである。
薬の中には黒砂糖、水飴、カルメロースナトリウム、香料が含まれていたものだそうである。
そうして家には売薬の箱は2箱と紙袋の物もあり、○(まる)に「久」の店紋が付いた箱が最後まであり、平成16年の春を以つて終つている。
今までは農協の「売薬さん」が年に2回程回って来ている。

そうした歴史と隔世の感がある中で、いよいよ東京から金沢までを2時間30分で結Photo_6 ぶと言う北陸新幹線が平成17年3月には開通することになつており、12月1日には試験車両E7系が走行し、次いでE2系「やまびこ」(東北新幹線を走る車両)が走行した。
試験走行は黒部宇奈月温泉駅間であるが、金沢まではもう直ぐである。
今でも大きい買い物は富山や金沢え行く人が多くいると聞くが今後は益々関西圏にも目を向けなければならない。
富山の交流は以上のように書いて来たが、古くから上市町の真言密宗大本山・大岩山日石寺を「お岩さん」と言つて参詣していたり、富山の蒲鉾も名物として土産に買い食卓に上がっていた。
又、婚姻関係も多いようだ。
そんな一例として当市の文人相馬御風が昭和11・1936年に「富山売薬歌」を提供している。
作曲は山田耕作のコンビである。
そうした中で恐ろしいのは、売薬の中の有名な「反魂丹」や「萬金丹」がある中で、高岡の菓子屋が「反魂旦」(たんの一字が違う)や「萬金旦・羊羹」と言う名の銘菓を出している。
売薬に「紙風船」や「世相」や「偉人・文人など」の版画をも「おまけ」として配っていた。
これにヒントを得たのか銘菓にも「紙風船」が付いていたものもある。

   富山売薬歌
1、富藩の英主正甫公 名医万代常閑が
  伝え来たりし調薬の 道を開かせまししより
  星霜茲に三百年

2、慈恵を旨と奮い立ち 山又山の奥までも
  磯又磯の果てまでも いやつき゛つぎに行商し
  富山薬の名声を 高め広めし祖父の徳

(3番から5番まである)
こう言う事から往時の勢いを偲ぶ事が出来る。
果たして平成の時代はこれを乗り越える事が出来るのだろうか。

写真の説明
1枚目 新幹線E系車両
2枚目 鈴なりの柚子、11月14日撮影
3枚目 信州・渋温泉の地獄谷の野猿公苑の日本猿
4枚目 「ケロリン」の宣伝風呂桶
5枚目  「神薬」の薬ビン、往時は50軒もの製薬店も有ったが、そのビンが無くなり発掘してまで集めている。そうした歴史物となつている。
6枚目 越中「反魂丹」の看板の架かる店舗
7枚目 富山の銘菓「反魂旦」と紙風船。今は紙風船と言えば本県出雲崎が全国の約90%を作っている。
8枚目 店頭に並ぶ「家庭薬」
9枚目 木箱、紙箱の他に「紙袋」もあり、台所など手近な処に掛かつていたものだ。       

2013/12/21

NO,52  食文化

3 今日は12月21日(土)、朝から小雨が降ったり、日が出たりの定まらない天気で「キチガイ」天気とこの辺では言う。
明日はとうとう二十四節気の「冬至」となる。
冬至に「かぼちや」(南瓜)を食べ、ゆず湯に入ると言う風習が古くからある。
ものの本によるとこの風習の外に「あずき(小豆)粥」を食べて無病息災を祈ると言う習慣もあると言う地方もあると言う。
その他にも「なんきん」(南瓜)、「にんじん」(人参)、「金柑」、「れんこん」、「ぎんなん」、「かんてん」、「うどん」の7種類の「ん」が付く食べ物を口にすると「運」が付くと言われている。
又、「土用の丑の日」には「うなぎ」を食べるのは江戸時代からで平賀源内が発案者であるが一般的である、この他に「う」の付く「牛肉」や「梅干」を食べて暑い夏を乗り切るのだと子供の頃から言わPhoto れて来たが、「うな重」などは到底口には入らずせいぜい奮発して「牛肉」であり、梶屋敷駅前の店であつたが「売ってやる」の時代であつた。

そう言えばもう直ぐお正月であるが、そのお正月の「おせち」料理の中には「くわい」がある。
「くわい」は「芽が出る」。
「れんこん」は「先を見通す」である。
「黒豆」(黒大豆)は「まめ」(まじめに)に働いて「まめ」に(健康で)過ごせるように。
「きんとん」(金団)、金団は金の団子もしくは金の布団と言う意味で、転じて金塊や金の小判等に例えられて商売繁盛、金運、財運をもたらすと言われ、正月の料理の野菜類だけの定番を拾つてみPhoto_2 た。
今年は早くから百貨店や料理店等は豪華な「おせち」料理を宣伝している。

年が明ければ7日は7日正月の「七草」で「七草粥」の「せり」、「なずな」、「ごぎょう」、「はこべら」、「ほとれのざ」、「すずな」、「すすしろ」の春の七草としてスーパー等の店頭に並ぶが、この地域にはこうした風習は無かった。
先の私のブログで「ボンカレー」や「インスタントラーメン」(即席麺)が急速に発展し世界の食生活をも変えたとまで言われていると書いた。
Photo_3 そうした例として「恵方巻」もコンビニが仕掛けて極く短期間で全国に広がつたと言われているものである。

正月には「ぶり」(鰤)がなければお正月を超す事が出来ないと言い高価な金をはたいてまで買う地方と、いや内の地方は「鮭」で年を超すのだと言う地方があり、食文化としてあまりにも有名になつたのは糸魚川・静岡構造線(ホッサマグナ)である。
全国には「塩の道」の他に「ぶり(鰤)街道」とか「さば(鯖)街道」と言う食文化もある。

家の近くに料理の好きな人がおられ、自分で料理を造つたり、又旅行にも出掛けかなりの食通であつた。
そこで旅行の時季には、今はこれだね、とよく教えてもらつたものである。
小説家「池波正太郎」(大正12・1923~平成2・1990年)を思い出し「剣客商売」等にも必ず時季、時季の料理が出ていた。
そんな中で富山に行くと今は「ます(鱒)の寿司」が全国区になつているが、「ウルカ」とPhoto_4 言う日本三大珍味があり、店頭に行つて「売るか」(ウルカ)、「売らないか」とからかつた事があつた。
「ウルカ」とは「あゆ」(鮎)のニガワタ(内臓)を加工した塩辛だそうである。
「からすみ」は「ぼら」(鰡)の卵巣の塩漬け。
「コノワタ」、これは「ナマコ」(海鼠)の腸の塩辛であつたり、「ウニ」の塩漬けしたものなど、能登半島を控えて珍味の名物の宝庫であり、古くは江戸時代の徳川将軍家などの献上品となつていたと言う歴史のあるものであるが、一般的には知る人しか知らない。
そんな事で金沢に「治部煮」があるが、これも知る人しか知らない。
高価な高級料理で料亭や高級料理店でないと食べられず敷居が高く二の足を踏んでしまうようであつた。
Photo_7 その点庶民的なのは「松任駅」であつたか「津幡駅」であつたかの「あんころ餅」(餡衣餅)がある。
子供の頃に父や祖父が旅行の際には土産として買って来てくれた。
こんなに美味いものがあるかと思い、夜遅くまで帰りを待つていたものである。
子供の頃の修学旅行と言えば新潟は「梨」であつたが、富山の土産は何であつたのPhoto_6 だろうか。
黒部の西瓜は知っていたが、富山は薬の街であり、常備薬の「ケロリン」や「反魂丹」で売つていた。
「越中富山の反魂丹、鼻糞丸めて、萬金丹、馬の小便水薬、お前のかあちゃんアンポンタン」と言う悪口かざれ唄があり、これが逆に「反魂丹」、「萬金丹」の宣伝になり、全国に散らばる「売薬さん」によつて有名になつていつた。

去る12月5日には「和食・日本人の伝統的食文化」がユネスコの世界無形文化遺Photo_8 産に認定された。
「和食の本場」だと言う京都では京都市長や料理店、百貨店等の代表者が高島屋京都店で酒樽のこもかぶりを何本も持ち寄り記念イベントで祝杯を挙げていた。
しかしながら食糧のの生産基地である農村ではその生産とその為の行事などの風土に根ざした大切なものまでも合理化や採算が合わないと言う理由で行われなくなつて来ているものも多い。
ある農業新聞のコラムの中に「子供の頃を振り返って見ると、中秋の名月にススキと団子を飾ってめでたが今はやらなくなつていまい、こうした年中行事が徐々に生活から消えて行く流れと、和食の衰えが連動しているように思える。」と言つている。
これは一つの例に過ぎないが「和食」は何の為に認定され、今後はどうした運動を展開して行くのか
気がかりになる。

125 写真の説明
1枚目は お正月のおせち料理
2枚目は クワイ
3枚目は 黒豆
4枚目は 「鮭」の切手・画家高橋由一(文政11・1828~明治27・1894年)近代洋画の開拓者として貴重な絵が切手に用いられた。
5枚目は 小説家池波正太郎の「剣客商売」
6枚目は 「鮎のウルカ」
7枚目は 「カラスミ」西京漬け
8枚目は 世界の食生活を変えて50年と宣伝する即席ラーメン
9枚目は 「和食・世界無形文化遺産」に認定され京都で祝杯を挙げる面々。  

2013/12/11

NO,51  越冬

129今日は12月11日(水)、昨日は季節風が吹きまくり、波浪警報が出たり、JRは高級電車は休止となつていた。
今日は朝は晴れであつたが昼過ぎ頃から曇りとなつた。
黒姫山は3度目の降雪があれば今度は里にも降ると言われて、地区の山間部は二十四節気の「大雪」が過ぎれば「ね雪」となると言われそれに併せて越冬の諸準備もしている。
昔に比べれば降雪の量も少なくなつていたり、「ね雪」の時季も遅れている。
1293 しかしここ2~3年は山間部は大雪となり、高齢化や車社会のため、車を出す為にも除雪機が必需品
となつて来た。
農家で使う機械類は、この除雪機もそうであるが、トラクターもコンバインも単一作業の道具であり、その作業毎の装備品であり、その投資も大変である。
去る9日に真光寺の大銀杏の落葉の状況を見にいつて来た。
6日か7日のみぞれと季節風で全部の葉が落ちていた。
今度はこの里は降ると雪になるが、家の周りのたたずまいは昔のように家の中が日中でも真暗になるような囲いではなくなつている、
これで無事越冬が出来るのかなーと思う位である。

食べ物も山間部では越冬用の食品を町から多く上げ112 て雪の中での買い物をしなくともよいような知恵があり、生野菜の大根や白菜や人参等は家の近くに保存し何時でも掘り出せるようになつている。
沢庵漬けや野沢菜漬け、白菜漬けは長い冬の間の保存食品の
代表格であるが、近年は若い者達はこれらを好まず年毎に大根や白菜、野沢菜等の栽培も急激に減って来ている。
かつては裏の川辺にお母さん方が多く集まり「かぶ菜」(野沢菜の事)を洗う風景があつたが、いつの間にかその姿は見られなくなつている。
大根を家の軒下に干す風景もあつたがこれも見られなくなって来ている。
同じような事がテレビによると韓国のキムチ漬けを大勢の女性が集まって共同作業で「キムジャン」を楽しんだものだが、若い女性に嫌われ少なくなつて来たり、隣国中国からの多量の輸入もありその伝統的料理の嗜好も変わって来ているとの事である。

Photo こうしたこの時季の風物詩となつているものの中に宗派を問わず多くの寺社の「大根たき」がある。
「報恩講」等に併せて門徒の人や門前町の人達が大きな釜で沢山な大根を煮て寒い中に参詣にこられる善男善女の体や心を暖める慈愛の奉仕が行われている。
又、曹洞宗の「永平寺」では若い修行僧が村中を托鉢にまわり大根を集め、一年間の沢庵漬けをする作業の報道があつた。
そうした有名な話は、沢庵禅師(天正元・1573~正保2・1645)が托鉢で貰った大127 根や寺に届けてくれる多くの大根を「たくわえ漬け」と称していた。
ある時徳川家光が寺を訊ねた際にこれを供した。
家光は大いに気に入り「たくわえ漬け」にあらず「沢庵漬け」なりと命名した逸話がある。

時代と共に食の嗜好も変わつて来ている。
先日昼に一人になったので久し振りにラーメンを食べたいと思い、10数年振りの食堂(ラーメン店)に入つたが、早い内は少ない客も段々とPhoto_2 多くなり列をなすようになつた。
客も職場からの外食の若い男や乗用車での社員風の連れなどが目立つた。
注文も単品のラーメンだけでなく数品のものを食べていた。
色々なメニュー開発と若い者の嗜好が一致し、段々と食文化も変化している。
そうした中でこの度ユネスコの世界無形文化遺産に「和食・日本人の伝統的な食文化」が認定された。(12月5日付け)
そもそもこれからはどのようにその「和食」は変わって行くのだろうか。

写真の説明


1枚目は 真光寺大銀杏の落葉、黄色いジュウタンを敷いたようになつていた、9日の撮影
2枚目は 同じく真光寺の大銀杏の落葉直前の撮影 12月2日の撮影
3枚目は 同じく真光寺の大銀杏、9日には全部落葉していた。
4枚目は 我が家の大根干し
5枚目は 京都市上京区の千本釈迦堂の「大根だき」風景・12月7日の共同通信
       から転記
6枚目は 福井・曹洞宗本山「永平寺」山門

2013/12/05

NO,50  走る

Photo_6 今日は12月5日、朝から快晴の珍しい天気となつた。
来る7日は二十四節気の「大雪」である。
「師走」、おおいに僧呂や先生方が走りを早めている。
それに加えて今年は去る2日から北陸新幹線の試験車両「イースト・アイ」が走った。
にわかに表日本と裏日本が結ばれ平成17年3月に開通が熱く期待されている。
その開通に併せて国道8号東バイバス線も完成し竣功開通する事になつている。

124 車社会になり、農村の中山間地にも蜘蛛の巣のように道路が新設、改良が進み、農家には農業用の軽トラツクや自家用車が導入され、若い者を家に留め置く必須の道具だと言われてもう久しくなつた。
トラクターやコンバインを買う金があるのなら高級の乗用車を買ってくれろと言う話が実しやかに言われている。

行政も山の奥まで如何にして道路を作る補助事業があるかは課題であつた。
1249 「農免農道」と言う「農林漁業用揮発税財源身替道路事業」や、「電源立地道路」と言う「電源立地地域対策交付金」、「広域農道」と言う「広域営農団地農道整備事業」等はその代表的なものなのだろう。
今、当地区では海岸の波たたき側溝に添って市道「海浜線」の工事の真最中である。
大波が来れば護岸を乗り越えて波たたき側溝まで来る事は冬期間には何回もあるが、普段は便利な道路であり、災害等で国道8号線等が通れない時の緊急用道路としての役割があると利便性1300 だけが要求され、土地代は無償で提供された。
こうして益々車社会は便利になり車が猛スピードで走り去って行く。

私は昭和38(1963)年7月に長野の穂高町(現安曇野市)の自動車学校に免許を執りに通つた、「10日で執れる」と言う触れ込みであつたが1ケ月以上も大糸線を通って取得した。
当時は「穂高免許」と言つて「安くて、早い」がキャツチフレーズであつた。
15人未満の農業団体の職場であつたが、先ず最初に自家用車で通勤したのは女性であり、「日野コンテッサ1300」(昭和36・1961年)であり、エンジンは後方に付いており、自家用車も珍しく羨望の的であつたが、エンジンの後に付いていたのも又珍しかつた。

141 こんな車は欲しいなーと、何時になれば買えるようになるのだろうかと思った。
車が買えないし、自動車の雑誌でまぎらした。
当時の車の雑誌は唯一「月刊自家用車」(内外出版社・1956年創刊)であり何年愛読したのだろうか。
昭和41(1966)年にトヨタ・コロナ(3代目・中期型)が出て、その勇壮はかっこよくその雑誌の人気投票NO,1が長く続いた。
昭和50(1950)年9月にフルモデルチェンジし「アローライン」と呼ばれた傾斜のフロントノーブのデザインが特徴であり、これで人気が急上昇し、昭和40(1965)年1月に初めて日産ダツトサン・ブルーバードが出て、壮烈な販売競争があり、所謂「BC戦争」と言われて国内販売台数も第1位を保持し、その後暫く抜きつ抜かれつの状況が続いたが、ついに昭和45(1965)年末頃から第1位の座を磐石なものにしたと言う伝説31966619676 があるそうです。
その雑誌の中に「譲ります」、「買います」の欄があり、長野市役所に勤める人が「スバル360」(昭和33年・1958~1970年)を譲るとあった。
この車は1958年~1970年の延べ12年間に39万2000台も売れたと言う人気車となっていた。
当時は「国民車」と言う国策で、誰れでも車が持てると言うことで、これに乗つたのも360 一つの要因だつたのだろう。
その車を見に長野市まで汽車で行きましたが金の無い事等もあり乗つて帰る事も出来なかった。

都会では若者の車離れがあるのだと聞くが、にわかに信じがたい。
そうした中で「第43回東京モーターシヨー」(日本自動車工業会主催)が従来の千葉から東京ビツグサイト(江東区)に会場を移し、11月23日~12月1日の間に開催された。
12か国から178社が参加し最先端の環境技術を採用した次世代車や奇抜なデザ Photo_7 インの試作車等426台が披露されたと新聞やメリアが熱く報道していた。
入場者数は90万2800人で目標としていた前回の2011年の84万2600人を上回つたが、モーターシヨーの最高は平成3(1991)年の約202万人をピークに減少していたが、2011年に続き2回の連続で「前回超え」の目標を達成したとされている。
私も関心をもつて見守つていたが、どう転んでも買えないし、乗れないのにどうしてこんなにも年寄りの心を揺さぶつたのだろうか。
車はこうした年齢を超越したロマンと未来と夢をも乗せて走る魔物なのかも知れない。

写真の説明
11301枚目は トヨタ・2000GT 1967年型、クラシックカー専門に取扱うRMauctions社が行うオークションで日本車として最高価の116万ドル(約1億1800万円)で落札された事がある。
2枚目は 「広域農道」の表示
3枚目は 市道海浜線の新設工事中・昨日の撮影
4枚目は 日野コンテツサ1300
5枚目は 「月刊自家用車」14年1月号
6枚目は トヨタ・コロナ3代目・中期
7枚目は スバル360
8枚目は モーターシヨに出品したメルセデス ベンツSLS・AMG・GT
9枚目は 戦前からの名車パレード(11月30日)「クラシックカーフェスタin神宮外苑」で戦前から高度経済成長期にかけての名車約く100台が勢ぞろいし神宮外苑から銀座までの片道約く6Kmを往復した。
  

2013/12/03

No,49   年の瀬

Photo_2 今日は12月3日(火)師走に入り3日目となり、一年間の総括と言つていいのか、この年の結果等も色々と発表されている。
その「師走」、僧呂や先生方だけでなく今年は北陸新幹線の試験車両も走った。

今年生まれた子供の名前のランキング発表(明治安田生命)や昨日は又「新語、流行語大賞」(自由国民社)が発表された。
近日中には「今年の漢字」の発表がある。
これは12月12日は「漢字の日」であり、京都・清水寺の貫主
が揮毫する。
主催は日本漢字能力検定協会で平成7(1995)年から開始され「震」から「食」、「倒」、「毒」、Photo_4 「末」、「金」、「戦」、「帰」、「虎」、「災」、「愛」、「命」、「偽」、「変」、「新」、「暑」、「絆」、昨年は「金」であつた。
さて、今年は何と言う漢字になるだろうか。
「お・も・て・な・し」の漢字があれば文句無で決まると思うが無いので、私は「擬」(ぎ・もどき)又は「疑」がよいと思う。
「オレオレ詐欺」、「還付金詐欺」等の「特殊詐欺」やホテル、百貨店等のメニューの虚偽表示、そして「特定秘密保護法案」によりだまされるのではないかと疑つてい
E2 る。

昨日は一日かかつて年賀状を作る準備に入つた。
来年は「午歳」、馬は我が家の生活と共(友)にあつた。
私が生まれた時には既に飼われており、25歳位までの間に生活を共(友)にした。
小中学生の頃は「飼馬切り」(かいば切り)が仕事の一つになつていたし、父の留守の際には餌くれも仕事になつていた。
この餌くれは自分の食事の前に必ずするように強く言われていて、馬を大事にしていた証である。
作業も木出しの運送や一人での馬耕、代掻きも出来るように教わっていた。
そんな中で国民学校3年生の折に祖父が落馬し急死した悲しい事故もあつたが馬により農業の経営や生活がなりたつていた。
そんな事を思い出し、7回目の「午歳」の年賀状のイラストを考えている。

122_2  昨日から北陸新幹線の走行の試験が行われると聞いていたが、何時頃に通るのかは知らされていなかつた。
小雨の降る寒い午前に「金比羅宮」の丘陵地に何人かのカメラマン等が集まっていたと聞いた。
この場所は新幹線を撮影する格好なスポツトであると早くから言われており、読売新聞の39ページ全国版(3日付け)にその場所からの撮影の写真が掲載されていた。
この走行は長野駅から黒部宇奈月温泉駅までの136Kmを時速30Kで走行し、当初1222 は東北新幹線を走るE2系「やまびこ」と聞いていたが、実際は試験用車両「イースト・アイ」であり、来年3月28日まで続ける予定だとの事であり少し暖かくなれば写真を撮りに山え登ろうかと思つている。

この時季、黒姫山は2回目の降雪があり、3回目ももう直ぐである。
3回目が降れば今度は里にもやってくる。
真光寺集落
の大銀杏の写真を撮りに何回も通っているが、全ての葉がもう落ちているかと思って昨日行くとまだまだ全部の落葉には日数がかかるようであり、昨年は6日だと日記に書いてあるので、今年もそんな頃になるようである。

写真の説明
1223 1枚目は 南部地方の色々な絵馬
2枚目は 過っての馬による代掻き風景
3枚目は 東北新幹線を走るE2系「やまびこ」であり、当初はこれが試験車両として走ると発表があつた。
4枚目は 糸魚川駅に着いた試験車「イースト・アイ」と言う列車だそうだ。
5枚目6枚目は昨日の昼過ぎに撮影した大銀杏で、
もう少し葉が残っていた。

2013/11/28

NO,48  西風吹けば

11283 今日は11月28日(木) 夜中朝方までも南西の強風が吹きまくり、物置や納屋の下見等を叩く音で何回も目が覚めた。
そして今日は一日中時々小雨が降った。
この時季の句で与謝蕪村(よさぶそん)は「西吹ケば 東にたまる 落葉かな」と詠ったものがある。
家の前には他所の家の柿の葉や栗の葉が舞い込んで来て、掃いても掃いても舞い込んで来る。

去る22日は二十四節気の「小雪」、そして23日は新嘗祭
(にいなめさい)、今は国民の祝日の「勤労感謝の日」となつている。
当氏子でも新嘗祭は小祭、中祭、大祭とある中の大祭として執行されている。
この日は宮中の収穫祭に当たるもので天皇は五穀の新穀を天神地祇(てんしんちぎ)1123 に進め、天皇がこれを初めて食し、この年の収穫に感謝する日とされ、子供の頃の大東亜戦争中に教わり、稲作農家であつても天皇陛下が食べられる日までは新米を食してはならないとまで言われていたものである。
これに関連して、10月17日は神嘗祭(かんなめさい)であり、皇室のご繁栄と国家の安泰、五穀豊穣、国民の平安をお祈りする大祭である。
ところで今では本県では8月末には早生種の「越路早生」の新米が店頭に出るし、「コシヒカリ」は9月の25日頃になると一斉に売り出される。

Photo 先のブログは「えびす講」の事で、11月20日の夕食には家では「ライスカレー」を大変なご馳走として戴いたものだと書いた。
「ライスカレー」であり「カレーライス」ではなかつた。
この「えびす講」大売出しのチラシが入つたり、幟が立つて糸魚川の街の本町通りが大変賑わつたものだと書いた。
そうした「えびす講」大売出しもいつしか言わなくなり、もう4~50年もたったのだろうか。
山間部の過疎化が始まったのは道路が急ピッチで新設、改良されると「引越し道路」と揶揄された時からであろう。

今度はこの「えびす講」に変わって「酉の市」のチラシをホームセンター等が入れるようになり、11月の10日頃に入つた。
この地方には「酉の市」の風習はなく、季節の風物詩としてテレビ等でそれを知る程度である。
今年は3日と15日と、そして昨日の27日の「3の酉」まであり、「3の酉」がある年は火災が多いと言う俗説がある。
この年は平年にまして歳末にかけて社会一般で火の用心が心がけられ、熊手商の多くは縁起熊手に「火の用心」のシールを貼って売り出すと言う。
「おかめ」や招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並ぶ。
Photo_2 又、寺社によつては小さな竹熊手に稲穂や札を付けた「熊手守り」が授与され、福を「掃き込む、かきこむ」とのお洒落にことよせ「かつこめ」と呼ばれていたり、熊手の外に「頭の芋」(とうのいも・唐の里芋)や栗で作った「黄金餅」(こがねモチ)があり頭の芋は頭(かしら)になつて出世すると、芋は子芋を多く付ける事から子宝に恵まれる、黄金餅は金持ちになれる等、縁起物として威勢良く商なわれている風景を見る。
この初冬の風物詩は神社や寺院の関東圏に多く行われているのも面白い。

「西吹ケば 東にたまる 落葉かな」、家の前には他所の家の柿や栗の葉が舞い込Photo_3 んで来ている。
掃いても、掃いても舞い込んで来る。
何気ない初冬の景色からどこか寂しさのようなものを感じるが、これが縁起物の福や札束が舞い込んだとすれば又楽しい。

  写真の説明
1枚目は 真光寺の大銀杏で落葉が始まっているが、昨年よりも遅れている、今日の昼に撮影した。
2枚目は 11月23日に撮影した「こまゆみ」の葉
4枚目は 縁起物の「稲穂熊手」である。

2013/11/16

NO,47 「えびす」と郷土料理

Photo 今日は11月16日(土)、朝から快晴となつた。
貴重な日和である。
暖かい日が続いていたので急に初雪が降る寒さとなり、長袖のシャツやズボン下を出してもらつた。
どこの地方でも初霜や初氷、初雪がいつもの年よりも数日も早く来て、今年の冬は急いでいる。
除雪車の出陣式や安全祈願が初雪の降った後となり、関係官庁や業者をあわてさせた。
時々見にいつている真光寺の大銀杏(新潟県の指定天然記念物)の葉はまだ黄化もせずに青々としている。

Photo_2 こうした寒い日には収穫の終わった物やまだ畑に残っている物を少しずつ採つて来て食べるものに「こくしよ」(又はのつぺ汁とも言う)がある。
大根や人参、牛蒡、れんこん、里芋の短冊形に切つて鶏肉と焼き豆腐、コンニャク等の季節の物を入れ醤油で煮る郷土料理である。
それとこの時季には野菜を色々入れる料理に「やたら」がある。
この主役は採れたての「ゆず」と「しおの実」であり、人参や大根等を細かくみじんに切つて「しおの実」で和えるシンプルな物である。
「やたら」とは「なんでも入れる」と言う方言が適当だろう。

昔はこの時季、「えびす講」大売出しのチラシが入り、町まで越冬の食品や衣料品等を買いに男衆や女衆が出掛けたものであるが、その大Photo_3 町の本町通りもシャツター通りとなり、往時の賑わいはみじんも感じられない。
「えびす講」の日は11月20日であるが神事や祭典は行われていない。
この地区では昔の職種では大工、左官、掘り工や木出し、運送引き等の職人がいて、一日中朝から休むか、午前だけ働いて午後に休むかして酒宴を開いた。
その仲間達ははそれぼど多くなく数人であるから親方の家で賄われていた。
4 飲む酒も、この地区では清酒であるが、山間部に入ると焼酎で飯茶碗で豪快にやつていた。

この地方では祭りではないので一般の農家は「えびす」(恵比寿)や「大黒」等を神棚に祀るような事はなかつたし、「神札」等を「えびす願人」と言う在地の宗教者達によつて配られていた事はなかつたようである。
書物によると近畿地方では兵庫・西宮神社や島根・美保神社が海に関係する神社であり神事が執行され、漁師の家には「えびす」の神棚があり、えびす像が鯛を抱えている。
このえびす講は漁村だけでなく、農村の信州でも「えびす」に田の神の信仰を重ね合わせ、春から田で働き稼いでくれた神として沢山のご馳走を供え、尾鰭(おびれ)も神棚に飾られている。
このへんは能登・珠洲市の「アエノコト」に酷似している。
面白いのは信州は山国であるから鮮魚がおいそれと手に入らないので、丼鉢に水を入れ生きた鮒(ふな)を供えるところさえあるそうである。

Photo_4 役所にいた頃に一度だけ漁師の「えびす講」だからこいと呼ばれ集会所に行きお呼ばれをしたことがあつた。
コンパニオンをはべらせての賑やかな祝宴となり、コンパニオンに千円札を振りまいていた事を見た事があつた。
私の家では今日は「えびす講」だと言つて夕食に「ライスカレー」のカレー粉のきいた味で何よりのご馳走であつた。
戦中戦後直後の頃であり、当時は「カレーライス」ではなく「ライスカレー」なのである。
カレー粉の味と、肉は鶏肉か牛であったかは定かではないが肉は貴重であつたし、それと「ライスカレー」と言う名前と料理はハイカラであつた。
母の手作りの料理で、母はどこから習って来たのだろうか。

写真の説明
Photo_5 1枚目 昨日初雪の黒姫山を撮つた              2枚目 「ゆずの実」 今年は多く成った
3枚目 郷土料理「やたら」
4枚目
 「鯛釣り舞い」 西海・水保の春祭りの神楽
5枚目 「ボンカレー」女優松島容子を使っての宣伝、昭和43・1968年に大塚食品工業が発売し、国民の食生活を変えたとも言われた大ヒツト食品である
6枚目 兵庫・西宮神社の「えごす」の神札

2013/11/13

NO,46  秋祭りのころ

Photo 今日は11月13日(水)、今日もまた曇り時々雨の降る天気で4日続きの冬型気圧配置で寒い日である。
昨日の朝と昼に初雪が降り一時は地面が白色と変わったが直ぐに消えた。
駒ケ岳(1487)や黒姫山(1222)は一回目の降雪で裾野まで白くなつたが、普段であれば初冠雪があつて、それから裾野まで降るのが普通で、今年の冬は急いでいる。
ただ初雪は昨年よりも2~3日早いだけである。
東京の木枯らし1号は11日に吹いて7日も早いと言う。
10142 夏の暑い日が長く続いた分それだけ秋が短く野に咲く花も、家の周りの花も、また庭に咲く花も一緒に競い合うように咲いていた。
「美しい花は短命である」と言うが誰が言つた言葉であろうか特に今年はそのようである。
そんな事で思い出すのは小説「野菊の墓」(歌人 斉藤左千夫・明治39 1906年発表)や映画「野菊の如き君なりき」(木下恵介監督・昭和30 1955年)である。

1012 初秋から晩秋の秋の唄もまた多くあるが、「里の秋」(作詞 斉藤信夫 作曲 海沼実・昭和16 1941年12月に作られた)の旅情は昔も今も変わりがないが、ただ『「お背戸」に木の実の落ちる夜は』の「お背戸」や栗の実煮てます「いろりばた」の「いろり」は今の家には無くなつており、若い人達には実感がないだろうが我々の世代にはその実感が鮮明にあるよりも生活体験であつたからである。
今年はとりわけ果物も豊作であり、栗は早生と晩生はいつまでもイガからポツ、ポツ10152 と落下し、何回も栗ご飯を食べたり、柿も「平核無」(ひらたねなし)「通称おけさ柿」も多くなり、「吊るし柿」にもしたが、親戚にも多く配った程で処分に困った。

今日は氏子の秋祭りで11時より祭典があつた。
祭典のみで特別の祭事や行事もなくひっそりとしている。
祭神は大国主命であり、大国主命の総社は出雲大社で今年は60年の遷座祭と伊勢神宮の20年の遷座祭と重なり、幸いにも近年はパワースポットブームが女子旅で大変の賑わいであつたと聞く。
子供の頃はこの祭りにも数店の出店も来ており、幾らかであつたか小遣いを貰いオモチャの買い物をした。
今でも覚えているのはブリキの「ぽんぽん蒸気船」であつた。
111 庭の泉水に浮かべて遊ぶのであるが、直ぐに釜のハンダが取れてしまい走らなくなるメードイン ジャパンの粗雑品でよく言われた「安かろう 悪かろう」であつた。
こんな秋祭りの思い出がある。

写真の説明
1枚目 今日の雨の晴れ間に撮影した初雪の黒姫山
2枚目 のぎく 10月14日撮影
3枚目 はまぎく 10月12日の撮影
4枚目 紫色のホトトギス 10月15日撮影
5枚目 こまゆみ 11月1日の撮影

2013/11/06

No,45  文化の日

Photo 今日は11月6日(水)朝は冷え、2日続きの晴天となつた。早いものであっと言う間に11月に入つた。
明日の7日は二十四節気の「立冬」である。
10月の下旬には暖かい日が何日も出て果樹の梅や梨の木の枝を囲ったり、椿やアジサイの花木の冬囲いを何日もかけて行った。
そのあげく、つい油断をして風邪をひいてしまいのどが痛く扁桃腺がはれ直ぐに治るだろうと思っていたがなかなか治らず3連休は病院は休みであり、市販薬を買つて養生をした。

近畿地方は昨年よりも6日遅く,4日には木枯らし1号が吹いたと報道されていた。
113 頚城3山の妙高山(2454)、火打山(2462)、焼山(2400)はいつの間にか初雪が降り頂上は白くなつているのが雲間に見えている。
10月は暖かつたので初雪の降るのも遅れ、紅葉も遅れているが、この辺では紅葉の名所もなくモミジ狩りは出来ない。
妻達は10月の末に「白山スーパー林道」に出掛け、白川の土産の「トチ餅」と夕食用に富山の「鱒寿司」を買って来てくれた。

3日は「文化の日」でこの名称になり久しい。
Photo_2 「明治節」の頃から「晴れ」の得意日であり、大菊の鉢が多く観られていたが、近年はめっきりとこの「大菊」が観られなくなつた。
こうした菊作りは大方は年寄りの趣味で行われて来たが、その年寄りが多くなったが、菊を育てるには1年がかりの仕事であり、土作りからの始まりだと聞いたことがあり、稲作りと同じだなと感心して聞いた事もあつた。
そんな手間隙かけるようなものから遠ざかつたり、避猿されがちである。

先般のブログで「市展」に出品するに至るには長い間の努力や忍耐が必要だと書いたが、3日の日には当地区の公民館を会場に絵画の個展が開かれていた。
近所の友人に誘われたので見に行く気になつた。
市内に住む青年で、1967(昭和42)年からのものが40点程飾られていた。
1972(昭和47)年に「新潟県展」に出品され奨励賞をもらつた「春の詩」と言う題材である。
1132 糸魚川市内の山や川や海の風景画であれば門外漢の私達であつてもその風景画を見て良く描かれているなと直ぐに解るが、この人の絵はそうではない。
ずーと以前に「戦没画学生慰霊美術館『無言館』」(上田市)の絵を見たことがあるが、入場料を払っているにもかかわらず、こんなワカラン絵を見せるのはけしからんと言い出した客がいた。

こうした絵を描く若者が間近におられ、何かを訴え、叫んでいるのが私達にはそれが通3 じていない。
それと同じように、直ぐ近くに女性「漫画家」がおられ「糸魚川市の有名人」よりも「新潟県の有名人」としても通用しているようである。
直ぐそこの手の届く所に住んでおられるが、その手の延しようがない。
もつと私達が近ずき、延ばした手が届く所まで進まなければならない。
「文化の日」にこうした地域の文化の一端やありようを見たような気がした。
これが私の「文化の日」であつた。

1027
写真の説明
2枚目はその「県展」奨励賞の「春の詩」である。
3枚目は 「戦没画学生慰霊美術館『無言館』」のある事業のポスター
4枚目は ざくろの実
5枚目は 山野草「ホトトギス」の花
6枚目は 山野草「だいもんじそう」の花

2013/10/17

No,44  生涯学習

1014 今日は10月17日(木)、朝6時頃まで小雨が降っていたがその後上がり晴れとなつた。
昨日は大型台風26号の来襲で当市も大雨、洪水、波浪警報が出ていた。

去る12日~14日の連休に糸魚川市の9回を数える市展が開催されており、妻が長い年月習っている書道の出品を見に出掛けた。
書道39点、絵画31点、写真52点、和紙絵21点、彫塑・工芸23点の出品があつた。
この出品者の中に知る人が数人しかいないが皆な熟年者でまだ働いておられる人達である。
しかもその人達は「40の手習い」からの出発であり、よくぞここまで上達出来るものかと感心し、その長い間の学習意欲と努力に敬意を表する。

1014_2 例えば絵画の小田島さんは公民館の副主事として私と働き、私が人事異動で出た後に主になり絵画教室を取り入れてお世話をする側ら一緒に学習されたのだそうである。
毎年のようにこの市展や市文化協会フエスティバルにも出品され奨励賞や佳作に入っているが、今回は惜しくも逃がしたようである。
本当に時間をかけて学習しようとする努力があれば無からでもここまで出来るのだと感心し、何か趣味をもつ事が羨やましくなるのである。

1013 私の父は「鳶」と言う職人でした。
若い頃は東京に出て働き、結婚してからやむなく家に帰つて来たが、農家の長男でなければよかつたと言う事を何回も聞かされていた。
短気でいっこく者であり、妥協は許さなかった。
よく軍隊や職人気質の中に「早飯早糞芸のうち」と言うのがある。
作業で昼食を食べた後の休む時でも、その暇があるなら午後の段取りをしろ、とか鎌などは磨いでおけである。
こんな事は大工さん達もよく言う言葉でもある。

終戦直後に土蔵の壁の塗り替えに「左官」が何日か来ており、昼食に右膝であつたか左膝であつたかを立てて食事をとつていた事があつた。
普通であれば正座であるから何と行儀の悪い人かと思ったものだ。

Photo  こうした職人気質と言うか、謹厳実直と言うか、又質素倹約、働かざる者食うべからずの精神が家訓と言えよう。
賭け事は時間が長くなるからしてはいけない。
習い事は時間の無駄になる。

職に就き昼休みには将棋や碁を皆んなで楽しくやつているような時代であつた。
とうとうそうした趣味の一つも持たずに終わった。
もう一つに「道楽」と言うものもある。
書道を習う、絵画を習う、写真を習うは趣味であり「道楽」とは言わないのだろうか。
何だか「道楽」と言えば現代では品が悪いようにうつるが、「端唄」、「小唄」に出て来る小噺や落語は師匠は女性であるからかもしれない。
それらの「習い事」は生涯学習の範疇に入らないのだろうか。
金沢は古くから「謡」や「能」や「茶道」などは盛んであり、「タシナミ」となつている。
そうしたものが伝統文化の一つであり、生涯の学習として位置ずけがなさられているようである。

2013/10/11

NO, 43  寒露のころ

Photo 今日は10月11日、朝方小雨が降ったが直ぐに止んだ、今日も蒸し暑い日となつた。
去る8日は二十四節気の「寒露」であつた。
この頃になると朝夕は冷気が増し、草木の葉先に結んだ露にも少しばかり冷たさが感じられるようになる。
この候になると農作物の収穫作業がたけなわとなり、農家は大忙しとされているが、稲の刈取りはこの地方は殆どが終わっている。
甘藷の掘り採りは終り、今度は里芋と移って行く。
96 標高の高い所では紅葉の便りが報道されているが、ここ2~3日は高温が続いている。
去る9日は台風24号から変わった温帯低気圧に向かって暖かい南風が流れ込み日本海側を中心に気温が上がり、当市では午後1時53分に何んと35.1℃を記録した。
10月に35℃以上の猛暑日となつたのは観測史上初めてだそうである。
当市はもう一つの日本一は最低気温の最高気温が去る去る7月6日の朝5時に既に35℃に達した事である。
52 1990年8月22日にも30.8℃と最低気温の最高気温を記録している。
何か変わった事や日本一の何か変わった事をしないと当世忘れられてしまつたり、糸魚川とはどこにあるのかも覚えてもらえない。

来る14日(月・体育の日)は「鉄道の日」でもある。
子供の頃は従兄弟の家に鉄道員がいてこの記念日を祝福して毎年家族慰安会が行629 われ、金沢とか高岡だとかに行くのだと学校でよく話されていた。
この時季はその当時はまだ稲刈りが終わっておらず、そうした旅行にも出掛けるのが大変羨ましかつた。
それと当時はまだ列車の走る本数は少なかつたので上りや下りの列車が通ると、今の時刻は何時だと言い当てていた事を覚えている。
お昼などを知らせるサイレンも時計も勿論ない時代での事である。

今年は北陸本線全線が開通して100周年で各地で記念行事があるようだ。
当市は14日の日に駅前を歩行者天国とし、白嶺高校の吹奏楽部の吹奏や翡翠太鼓の披露、タレントの糸魚川ジオパーク大使の永井大さんの一日駅長で写真撮影や、握手会があつたり、近隣市町の特産物販売で、富山・朝日町や長野・大町市、小谷10089 村、北陸の駅弁などがあるが、極めつけはやはり上越三色同麺(同盟)の「謙信公義の塩ホワイト焼きそば」、「妙高赤倉温泉レット焼きそば」そして当市の「糸魚川ブラック焼きそば」が揃って出店する。
何をおいても当市の場合は人を集めるには先ず「食」でなければ集まらないと言うような雰囲気が抜け切れていない。

「上越妙高」駅と駅名が決まり、関係者は今度は早速当駅で売る駅弁の試作品を準107 備し始めているようである。
昨日は列車名が決定し発表があつた。
金沢から東京までのの停車駅の少ない「速達型」は「かがやき」、停車駅が多い「停車型」は「はくたか」と決まった。
停車駅の少ない「かがやき」はどことどこの駅に止まるのかが関心事となつている。
この列車名に「こしじ」(越路)とか「えつさ」(越佐)、「らいちょう」(雷鳥)など北陸に起因する名称が入るものと思っていたので期待外れであつ108 た。

写真の説明
1枚目は 北陸新幹線を走る列車イメージ
2枚目は 北陸本線全線開通百周年記念のプレート
3枚目は 大糸線を走る「キハ52型」
4枚目は 函館市電百周年記念「花電車」 5月30日
5枚目は 富山地鉄百周年記念「花電車」 8月9日
6枚目は 今盛りに咲く山野草「ホトトギス」 10月7日撮影
7枚目は マリーゴールド 10月8日撮影


2013/10/07

NO,42   仏の心

Photo今日は10月7日(月)朝から快晴の一日となつた。
この時季を「七十二候」では「蟄虫坏戸」(ちつちゅうを閉ざす)の候と言う。
この暑かつた夏も終わり涼しくなり、虫達が巣ごもりの支度を始める時季である。
人間にとつてはまだまだ冬の気配は遠いものであるが、虫達にはもう直ぐだと感じ蝶の幼虫は蛹になつて寒さに備え、クワガタやテントウムシは成虫のまま木の根元などで春を待つし、蜘蛛は木の葉の裏側に巣と同じ糸で卵床を作り卵塊を産み付ける。

昨日畑の草刈をしているとカマキリの巣を2個を見つけた。
早い越冬の準備である。
女郎蜘蛛の巣も各所に張りめぐらせて最後の餌を狙っていた。
Photo_2 その蜘蛛は丸々と太つていた。

この蜘蛛の巣の糸を取り払って作業を続けたが、「蜘蛛の糸」(芥川龍之介の短編小説・大正7(1918)に児童向文芸誌「赤い鳥」創刊号に発表・芥川・明治25(1892)年~昭和2(1927)年没)を思い出した。
高校の現代国語に出ていて学習した、又中学3年であつたか国語で「鼻」(大正5・1916年に「新思潮」創刊号で発表)もあつた。

Photo_3 「蜘蛛の糸」のあらすじは、
釈迦は或る時に極楽の蓮池を通して、はるか下の地獄を覗き見ると、幾人もの罪人共が苦しみもがえていたが、その中にカンダタ(犍陀多)と言う男もいた。
カンダタは生前に様々な悪事を働いた泥棒であつたが、一度だけ善行を成した事があつた。
小さな蜘蛛を踏み殺そうとしたが思い留まり、命を助けたのだ。
それを思い出した釈迦は地獄の底から極楽に導びこうとし、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。
極楽から下がる蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を伝たつて昇れば地獄から脱出出来るだろう、あわよくば極楽に行けるかも知れない」と考えた。
それで蜘蛛の糸につかまって地獄から何万里も離れた極楽を目指して上へ上へと昇り始めた。
ところが糸を伝って昇る途中でふと下を見下ろすと数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いて来ている。
このままでは糸は重さに耐え切れず、切れてしまうだろう、それを恐れたカンダタは「
この蜘蛛の糸は俺の物だ、お前達は一体誰れに聞いて上がって来た、下りろ下りろ」と喚いた。
すると次の瞬間に蜘蛛の糸がカンダタのぶら下がつている所から切れてしまい、再び地獄に堕ちていつてしまつた。
その一部始終を見ていた釈迦はカンダタの自分だけ地獄から抜け出そうとする無慈悲な心と、相応の罰として地獄に逆落としになつてしまつた姿が浅ましく思われたのか、悲しそうな顔をして蓮池から立ち去っていつた。
これがあらすじであるが、これに似た話が山形や福島・愛媛県に「地獄の人参」と言Photo_4 う昔話が伝承されていて、ストーリーは「蜘蛛の糸」に似ているとの事である。
(以上この文書は「ウイキペデイア・フリー百科辞典」を参照した)

私はこの蜘蛛やカマキリを助けようとしなかつた。
ところで我が浄土真宗の宗祖親鸞聖人は「善人なほもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人でさえ、救われる。悪人ならば、なおさらだ)と「歎異抄」(たんにしよう)で示されている。
阿弥陀仏の力に全てをお任せする心、ただただ「南無阿弥陀仏」、「南無阿弥陀仏」と唱え、「他力の本願」におすがりするのである。

写真の説明
1枚目は 10月5日に撮影の女郎蜘蛛です。
4枚目は 信州・善光寺境内に立つ親鸞聖人像である。越後に流罪された親鸞は赦免後この善光寺に暫く逗留された。

2013/10/04

NO,41  生かされて

Photo 今日は10月4日(金)、朝から快晴の兆しが見えている。朝夕はすっかり肌寒さを感じるようになり薄物から厚物に着替える準備をしている昨今です。     昨日は久し振りに半日雨が降った。
このところ毎日天気が続いていたので本当に久し振りである。
この天気続きで稲刈りが進み稲の姿がどこにも見えなくなつた。
刈取りの前半は圃場が軟らかく刈り取りに大変苦労したが、この天気がもつと早く出てく918 れていれば大助かりであつたのに、刈取つた跡の圃場は波打つたようにコンバインのキャタビラの跡が残っている。
そうした圃場があちこちに見受けられる。

こうした9月の刈取りの最中に20回の放射線治療に上越の病院に往復83kmを車で通つた。
幸いにも前記のように天気にも恵まれ海岸線は楽しいドライブでもあつた。

918 この病院の施設は数年前に放射線治療棟を竣工し、治療装置の専用機を導入されたものだそうである。
近年の地域医療、最先端技術が要求される時代であつて当然である。
一般の外来病棟のように多くの通院患者が待合室や長椅子等で待つのではなく、治療の時間を予め決めて治療するのであまり多くの患者と対面しないが、大概は高齢者の男性と中年の女性が見受けられていたがプライバシーがある程度保たれているのだと思う。
「同病相哀れむ」と言う言葉があるが、病や悩みを持つ者同士が励まし勇気ずけるなどはここでは出来ない。

こうした最先端技術が放射線と言う第3次元治療計画用コンピュウターシステムによつて一般的には頭頚部がん、肺がん、乳がん、前立腺がん、食道がん、婦人がんが効果的なのだそうである。
  「今 生かされて  生きている」
102_2 それは神や仏によつてのみ生かされているのではなく、こうした技術革新や周りの多くの人や物、環境によつても生かされているのだとも気ずかされるが、本当にそうなのだろうか。
それでも「今 生かされて 生きている」とは何んなのかと問いただしたくなる。

写真の説明
1枚目は 黒姫山と白馬連峰
2枚目は 能生海岸のトットコ岩・9月18日撮影
3枚目は 能生マリンドームに係留する旧能生水産高校の実習船「越山丸」と風車・9月18日撮影
4枚目は 彼岸花・10月2日撮影

2013/09/21

NO,40  名月を

Photo 今日は9月21日(土)朝から快晴である。
16日の台風18号の洗礼を受けてから毎日が快晴の天気が続いており、残暑の厳しいと言つてよい天気であるが朝夕はめつきりと寒くなり、秋の彼岸の中日を向かえようとして「暑さ寒さも彼岸まで」、真にその通りの気候である。
庭の彼岸花も咲き、そして白い萩も咲いており秋を演出している。

この好天のもとで3連休のコシヒカリの刈取りが最盛期を向かえている。
この天気を待っていたが、田圃は大雨の為に軟らかく、倒伏もありやり憎い刈取りで922 ある。
コンバインも年々大型化し、能率が上がるが四角は埋まり泥だらけになつており、オペレーターは鼻歌を歌つてのんびりとコンバインを走らせると言う訳には行かない。
あちこちと稲を詰まらせて立ち往生しているようである。

こうしたあわただしい農繁期の最中に名月をめでて一晩を過ごすなど悠長な気分にはなれないだろう。
 「名月をとつてくれろと泣く子かな」
これは一茶の名句である。
915 19日の「仲秋の名月」は午後6時過ぎに鉾ケ岳(1316)から大きな顔を出してくれた。
こんな月は初めてで、こんなに月は大きかつたかと思う程である。
この月を観る為に団子や芋(主に里芋)や大豆、大根などの野菜、栗や梨などの果物とススキ、萩をしつらえて祝う風習が各地にあるようである。
この風習は農家では農耕行事の一つとして結び付き収穫の感謝、収穫の儀礼で「いも名月」とも呼ばれるゆえんである。

Photo_2 この「十五夜」の夜だけ他人の畑の作物を盗んでも良いと言う風習が各地にあり、この作物は大豆に限られている地方や、「片足御免」と言つて他人の土地や敷地に片足だけ踏み込んで取る位が公認されている地方もある。
そんな事で「片足御免」(秋田県仙北郡)とか「まんだかな」(長崎五島)とか一般的には「十五夜泥棒」、「月見泥棒」とも言つている。
一方この縁側に供えた団子等を子供達が盗んで回る風習も全国にあり、これを「団子刺し」とか「団子突き」等とも呼んでおり、多く盗まれた方が縁起が良いとされる地域(愛知・三重等)もあり、近年は和製「ハロウィーン」とまで言われるようになつた。

自家用車で上越の病院に通院しているが、時間がある時には直ぐ隣の「えちご上越Photo_3 農協」の産直市場「あるるん畑」に顔を出しているが朝は10時の開店でお客様が毎日並んでいる。
大型店舗であり、さすがに多くの野菜や果物、加工食品等が並んでいた。
驚いたのは「糸魚川真白」の鉢物が3~4千円で売られている事である。
そして病院の敷地内に保育園がある事である。

2013/09/08

NO,39  手前味噌

95 今日は9月8日(日)である。
今日の天気は朝から小雨が降る薄ら寒い日であり、8月末から天候が定まらず時々雨が降って来る。
雨が欲しい時には降らず、コシヒカリの刈取り時季になり、雨で倒伏した稲が相当見受けられるし、田が柔らかくなりコンバインの刈取りに苦労し、時間がかかるであろう。
踏んだり蹴つたりで泣きたい心境であろう。
畑の方も大根や白菜等の秋野菜の播種や管理作業が出来なく相当遅れている。

Photo 昨日の7日(土)は二十四節気の「白露」であつた。
大気が冷え始め朝夕の風が肌寒さを感じるようになり、ランニングから半袖のシャツに替えた。

「白露」とは草木の葉先に白い露を発見する事が出来、まるで透明の宝石のようであり秋の深まつて行く事が感じられると言われている。
そして明日の9日は「重陽の節句」である。
古くは中国では奇数が良い数字であり、3月3日の「雛な祭り」、5月5日は「端午の節句」、7月7日は「七夕」とこの中で一番大きな9が重なるこのPhoto_2 日は特に重要視され盛大にお祝いをした。
これが日本に伝わり、平安時代の宮中では邪気を祓うとされ菊の酒を飲んだり、菊の品評会である「菊合わせ」が行われたと言われている。
この重陽の節句を「菊の節句」や「栗の節句」とも言われる。
菊の花びらを酒に浮かべて飲むなど宮中や雅の人などが優雅な祝いをしていた。

本県では菊と言えば「もつてのほか」、「おもいのほか」、「かきのもと」と、その地域での呼び名が変わる食用菊であり、旧白根市(新潟市東区)方面が主産地であり、酢の物等にして食しているが、又この花びらを酒に浮かべて飲めば雅の気分になるだろう。

「栗の節句」の方も、早生種の栗が採れ始め、近所の友人が20粒程持つて来てくれた。
早速今日の朝食に「栗ご飯」を炊いてもらつた。
その友人は「重陽の節句」、「栗の節句」を知ってくれたかは定かではないが「栗ご飯」を食して不老長寿をまっとう出来るように祝う膳となつた。

94 先週の4日間は上越の病院に入院し治療を開始した。
今週からは通院に切り替えて治療する予定であるが、副作用が出れば再入院になる。
どこの病院に入院してもよく言われるのが「病院食」と言われるものがある。
「味気ない」、「美味しくない」である。
「歯ごたえのあるものを避け、味付けが薄い、香辛料などの刺激物を控える、更に調理や配膳に時間がかかり、口に入る頃には冷たかつたり、冷めたりで味が損なわれている事が多い」などと言わ96 れている。
10日間程の献立メニュー表が貼られており一日1700Kcal摂取が取られてる。
料理の特徴は野菜中心であり、中には人参や大根が必ずのように使われており全てのものが地元産であり「地産地消」である。
とりわけご飯の美味しさは3度に3度共であり、有り難たかつた。
それに反し、味噌汁は私の口には馴染めず閉口した。
「和食の主役は味噌にあり」だと言われており、私達は子供の頃より豆味噌を食して来たが、名古屋方面の「赤味噌」、「八丁味噌」、「赤だし」、九州地方の「麦味噌」、「信州味噌」に代表される「米味噌」とあり、その地方の気候風土により醸成された文化であり、「俺れんちのものが一番」だと自慢する。これが「手前味噌」であり「病院食」の味噌もそうしたものに改善して欲しいものである。
「食はどこどこにあり」はあらゆる地方や国の食文化を自慢して言っているもので、
その代表的なものが「食はパリにあり」とか、「食は広州にあり」である。
「食はなになに病院にあり」と言える日が待ちどうしい。
こう言う事も「手前味噌」と言うのだろうか。

写真の説明
1枚目は 病院の写真
2枚目は 食用菊の畑
3枚目は 栗ご飯
4枚目は 病院食・9月4日の昼食
5枚目は 同・9月6日の朝食

2013/09/01

NO,38  稲は黄金の花が咲く

827 今日は9月1日(日)、月が替わり「長月」、早くも9月に入つた。
ここ2~3日は天候が定まらず大雨が時々降っている。
この1日は「雑節」の「二百十日」である。
「立春の日より数えて二百十日であり、台風襲来の季節になり稲の開花や倒伏を安じ百姓衆の厄日」である。
当大和川の盆踊り唄に
 ♪ 今年豊年穂に穂が下がる 枡は取りぬけ箕ではかる
   二百十日の風さえ吹かにや 稲にや黄金の花が咲く
と唄つている。
82030 その当「村」では8月7日に「風祭り」を執行している。
鎮守の森の松の木の一番高い木の頂上に御幣を結わえつける。
神様はそれを目安にこの里に降臨され、風を鎮め、五穀豊穣をもたらせてくれる。
この祭りは、日こそ違うが、この地域では多くの神社で執行されている。

Photo 風を鎮める祭りと言えば年毎に有名になつている、元禄15(1702)年以来と言われる「越中八尾のおわら風の盆」であろう。
夕方ともなれば胡弓の音や三味線の調べが哀愁をおび幻想のなおわらの世界に酔いしれて行く。
とうとうこの祭りを見学することが出来なかつたが、前夜祭はなんと8月20日から30日まで続き、本番は今日から3日までも続く、この間の人出は20万人以上を予想しているそうである。

Photo_2 そして今日は当市根知谷の山寺・日吉神社の秋季礼祭であり、国の重要無形民俗文化財に指定(昭和55・1980年1月28日)されている「根知山寺の延年おててこ舞い」が午後から行われる。
神事の後には稚児行列、舞楽の奉納と続き11曲の「おててこ舞い」が奉納される。
この日の日吉神社の境内は桟敷を作り、多くの人で埋まる。
普段は山間部の過疎地で年毎に人口が減り、稚児の舞は近年は女の子も入るなど、小さな集落で大きな伝統文化を継続するにはなみなみならぬ努力が必要である。
そうした努力こそが黄金の花となり結実する。

写真の説明
1枚目は コシヒカリの稔り 8月27日の撮影
2枚目は おわら風の盆 前夜祭のポスター
3枚目は 山寺のおててこ舞い
4枚目は 同「鉾の舞い」

2013/08/24

NO,37   処暑のころ

今日は8月24日(土)朝から曇りで時々小雨が降ったり
時々日も出たりする天気であつた。
Photo
昨日は一日中雨が降り、大雨警報と洪水警報が出ていて17日間も続いた真夏も一休みとなつた。
そんな事で昨日は涼しさよりも寒い位であつた。
「暦」では今日は二十四節気の「処暑」であり、「七十二候」の「初候」の「綿のはなしべく開く」(綿柎開)である。
綿の実を包んでいたガクがはじけて中から綿毛をまとつた種子が飛び出す頃なのだそうです。
この地域では「綿」などは栽培した事が無く知らない人の方が多いであろう。

「処暑」とは暑さが和らくと言う意味だそうで、日中はまだまだ暑い日が続くが、夜になると虫の声が響き、秋の気配が色濃くなり始める。
夏の終わりを迎え、少しばかり「寂しさ」さえ感じる時季でもある。

Photo_2 確かにこの時季になると、昔の青年団の頃の若い時でも真夏に県青年大会や夏期研究集会等の活動で飛び回り多くの青年男女との交流があつたが、これらの行事が終り、秋の収穫が終る間の一時期ではあるがその間には皆なと会えないと言うような寂しさを覚える事があつた。
それと賑わつていた浦の浜辺もこの時期になると人一人もいなくなり、今は「夏草や兵達が夢の跡」の静けさが寂しさになる。
9月も10日を過ぎれば稲の収穫が始まり重労働の作業が続くが、その間までは仕事らしい仕事もなく、毎日1回や2回も圃場に行き、稲の登熟ぐわいを見て、何時になれば刈取りが出来るかと思案し、無駄の事だと思ってもついに足が向いてしまう。
何かしないと気が休まらず寂しさからの逃避でもある。
稲作を放棄してから2年目、そうした作業も無くなり季節の寂しさがまたよみ返つて来る。

今日は又、「地蔵盆」である。
地蔵尊は各地の里山や道辻にたた住んでいるものから広い屋敷内に祀られているものもあり、身近な存在でもある。
Photo_3 大和川と早川との境に立つ六地蔵は27日の諏訪神社祭の夜の仮装盆踊りに若い娘となつて踊りに来たり、貧しい老夫婦の家に大晦日に笠を貰ったお礼にと金銀を施したと言う「笠地蔵」の民話もある。
新町(しんまち・寺町区)の地蔵も梶屋敷の地蔵も海辺に近く、砂原から掘り出されたものだと言われている。
寺町区では信者が集まり供養祭が行われ、昔は子供相撲が行われ、夜は盆踊りもあつた。

昨年の晩秋に金沢に旅行にいつたが、金沢一の繁華街の香林坊に「香林坊地蔵Photo_4 尊」を見かけた、この地蔵尊は、比叡山の僧であつた香林坊が、薬種商の養子となり夢枕の地蔵尊のお告げで前田利家の眼病を治し、以後繁栄した事に由来しており、香林坊の地名にもなつたり、地蔵尊は寛永の大火の時に火止めとなつたと言われ、「火伏せ」の地蔵尊としても知られているそうである。
地蔵盆の日であり、そんな事を思い出した。

里山はもう初秋である、萩やススキも見られるようになつた。

写真は、1枚目は金沢・香林坊に鎮座する「香林坊地蔵尊」である。
2枚目は梶屋敷の地蔵尊である。

2013/08/20

NO,36  去り行く夏

714_2 今日は8月20日(火)、早朝3時から降り出した大雨は一日中時々降り、畑の農作物は恵みの雨となつた。
この雨は17日振りの降雨でありもつと早い時期に欲しかった。
この所朝夕の内早朝だけはすつかり涼しくなり、畑仕事は早朝に限られていた。
「暦」では「立秋」(8月7日)の末候「濃霧昇降す」(七十二候の第39候)で「残暑が厳しい時候だが、朝夕の空気はCx5 ひんやりとしたものになつて来る。
早朝は森や水辺などには白い霧が立ちこめる様子が見られる。」とされている。
この時季に鳴く「カナカナ」のヒグラシの声もまだ聞こえて来ていない。
夜中に鳴く「コオロギ」や「まつむし」などの虫の声も今年は特に少ないようである。
それと「ミミズ」が夜の内に路上に這い出し昼の暑さで多く焼けて死ぬ現象は子供の頃から見て来たが、今年はこれも特にその数が少ないよPhoto うである。

来る23日(金)は二十四節気の「処暑」であり、ようやく暑さも収まつて来たと言う意味だそうである。
浦の海水浴場も18日の日曜日を最後に夕方には店じまいをしていた。
日曜日にも関わらず人出も少なく、駐車場の松本や長野、諏訪等のナンバーの車が10台位しか止まっていなかつた。
暑い日が何日も続いたがその割りに人出が少なく短い夏であつた。

お盆の3ケ日も特別の行事があつた訳ではないが、あわただしい内に終わった。
地区内をお墓参りや歩いて回ると、各家には自家用車の長岡ナンバーの外に関東方面の県外ナンバーの足立、品川、練馬、八王子等のナンバーが多く見られ、中には早速に「ご当地ナンバー」の「富士山」の車も見受けられた。

4 まだ自家用車を持つなどは夢の夢、高嶺の花の時代、昭和30年後半、40年前半の頃は雑誌「月刊自家用車」(内外出版社)を買って楽しむ程度であつた。
この頃のお盆の帰省に関東方面に就職した青年達は「品川」ナンバーとか、何々ナンバーの新車で草深い山村にまで乗り付けていた。
そうした自家用車を買ってお盆の帰省には何時は乗り回す事を目標にてモツコになつて働いたのかも知れない。
4_2 努力さえすれば誰でも買える時代にもなつていたのかも知れなかつた。
地元に残り百姓をしていた青年は毎日をもんもんとしていてそれが羨しかつた。
村の青年団に入り動き出した「歌声運動」や「フオークダンス」に興じたりし、それが「読書会」や「話し合い」の学習活動に変わつていつた。
そうした活動は魚沼の薮神青年の「出稼ぎの歌」の「静かなる人間革命」と題し、東京の「日本青年館」(財団法人・神宮外苑)に結集する活動も始まつたが、そうした内で経済成長と共に農村から青年の姿が消えていつた。

都会に出ていつた青年も虚勢を張つて帰省にはレンタカーや友人から借りた車で乗りつけなければならなくなつたと言う事も話題になつていた。
それからもう40年も50余年、もう誰でも買える時代となつた。
無理をしないで帰省し、日々変わり行く郷里をどのように見て帰られたのであろうか。
これも「去り行く夏」でもある。

里山には早くも尾花や萩の花が咲き初秋を向かえた。

写真の説明
1枚目は 田伏の海岸 7月14日撮影
2枚目は マツダ CX-5 日本カー・オブ・ザ・イヤ2012大賞の受賞車
3枚目は トヨタクラウンの新型発表車
4・5枚目は 昭和33.1958年の8月23日~25日の2泊3日で開いた「糸魚川市連合青年団の第4回夏期青年研集会兼大和川連合青年団結成5周年記念の行事風景、「学習する大和川」を魅せしめた・大和川中学校で。

2013/08/13

NO,35   お盆の入り

Photo 今日は8月13日(火)お盆の入りである。
毎日30度を超す真夏の気温であり、クーラーが欠かせない生活となつた。

5年ほど前の13日には日蓮聖人の聖地、身延山久遠寺の門前町の旅館に宿泊した事がある。
夕方に着いたが何軒かの家の前で「迎い火」がたかれていた。
Photo_2 当地方ではそんな風習がなく始めて見る光景である。
ご先祖様が迷わずに家に入れるようにとの迎え火なのである。
燃やす材料は麻ガラ(麻の茎の皮を剥いたもの)である。
そして多くの家から「団扇太鼓」の音がドンツク、ドンツクと響いていた。
当地区ではこの団扇太鼓の音を「だんだん良くなる法華の太鼓」と良くいつていたものである。
そして日蓮宗や禅宗(曹洞宗)では「精霊馬」を仏壇にお供えするならわしである。
810 胡瓜の馬とナスの牛を作る、馬は早くご先祖様が来てくださるように、牛はゆっくりとあの世に帰つてもらうためのものだと聞かされている。
当家は「門徒」(浄土真宗)であり、そうした風習はない。

そしてお盆の郷土料理といえば「笹ずし」は欠かせないが、海辺であるから「ニシンの昆布巻」や「えご」、「もぞくの酢の味噌あえ」が定番である。
身延山の旅館の夕食の料理には特別の郷土料理やお盆の料理と言うものがあつた810_2 かは覚えがないが、「豆腐」や「湯葉」、「くるみの和え物」等の精進料理もあつたのだと思われる。
宿坊も何軒もあるようでそこに投宿すればお盆の精進料理に出会えたかも知れない。

ここ2~3日前から朝はすつかり涼しくなり、早朝の1時間位は畑の水くれ(灌水)や野菜の収穫を行っている人が多く見られる。
昔は野菜の産地と言えば今井(西中、岩木集落等)や大野地区、大和川の竹ケ花や810_3 厚田集落で、このお盆に向けて「なす」、「トマト」、「トウモロコシ」等を作りお盆の換金作物として精を出していたものであるが、そうした人達も今は歳を取り自家用のみとなり、お盆の作業から開放されている。

昨日の夕方近くに農家が野菜等を持ち寄つて直売する農協の施設「食彩館」に立寄つたが大盛況であつた。
中でもお盆の花として「ゆり」や「トルコ桔梗」の花も多く出ていたが、一束400円の「アスター」(きく科)が一番よく売れていたし、多く並んでい810_4 た。
昔は「盆花」と言えば「みそはぎ」(みそはぎ科)であつたが近年は人気がなく「アスター」にその座を奪われている。

お盆で帰省の人も多く見受けられるが、お盆の特別の行事もなく、15日の夜の盆踊り位である。
海水浴場を覗いて見ると車の台数は20台位であり、泳いでいる人も少なかつた。
去る11日の日曜日が今年の最高の人出となり、早くから真夏や猛暑日が出たが泳ぎにくる人数は少なく浜茶屋は儲けがないとぼやいている。

今晩暗くなつてから共同墓地にお参りするが、本来ならば急死された甲府のお父さんの新盆と娘の墓参りをしなければならないところであるが健康を害しているので非礼ながら我がままを通させてもらつた。

写真の説明
1枚目は 身延山久遠寺の山門
2枚目は 精進料理の一例
3枚目から6枚目は「アスター」で6種類の色違いのものを厚田の女性部の皆さんが栽培された、休耕田の活用である。約10aの栽培でこの真夏の気温で水くれが大変である。

2013/08/05

NO,34  秋立ちぬ

842 今日は8月5日(月)くもり後段々と晴れとなり暑くなる。
7月上中旬は晴れの日が多く早くから猛暑日が続いたが下旬に入り夕立があつたりで不安定な天候が続き8月に入つた。
3日には待ち続けていた梅雨も昨年より8日、平年より10日も遅く明けた。
この時季が夏本番で全国で伝統的な祭りや民俗行事、まちおこしや記念行事が行われたり計画がなされている。

2 当市も市制誕生を記念して市民憲章の制定と「おまんた祭り」を実施して来た。
何か新しい事を始めようとすると、そこには波風が立つものであるが、行政が取り組むメンツもあり市長が全職員に活を入れ、特に地域の第一線に立つ公民館主事には名指しの指示まであつた。
そもそも地区や地域には伝統行事や祭りがあり、それと重なつたり、準備期間がありそうした中での「おまんた祭り」の取り組みには多くの無理があつた。

そんな「おまんた祭り」(第38回)は一昨日の3日の土曜日の1日のみの行事となり、唯一のメーンの「市民流し」が夜に行われた。
昼のみの限られた時間に糸魚川駅前広場で「神輿展示」が今年もあり、日中の暑い中を体が不安なので家内を同伴して見にいつて来た。
84 残念ながら展示の数は昨年よりも少なくその意義が半減した。
人を集めるには「餌」が必要のように、当市では特に「食べ物」の行事は本当に多く集まるが高等向けとなると激減する。

丁度この時期に姫川港開港40周年で、港には航海訓練所の訓練帆船「日本丸」(2570t)が寄港し、3日は「セイルドリル」(帆を張る訓練)が行われ、4日には船内一般公開、6日は「登檣礼」(とうしょう83 れい)で全員がマストに登り整列し三度の「ごきげんよう」と歓呼し離岸する。
そんな事で4日の夕方に船だけを見に車を走らせた。

こうして夏の行事も一つ一つ終り、初秋に向かって行く。
7日は「立秋」である。
今年の夏はセミの鳴く声も、虫の声もとりわけ少ないように感じられるが、虫の声はこれからなのだろうか。
花の方は夏の象徴である「さるすべり」や「ムクゲ」、「芙蓉」、「ほうせんか」、「朝顔」83_2 など多くの花木が家の周りに咲き乱れ花木園を定しているが、これらも一日一日と初秋のたたずまいに移つて行くのだろう。
その内に秋の涼やかな風も吹いて来るだろう。
それまでもう少し頑張つて健康に留意しなければならない。

写真の説明
1枚目は 姫川港に接岸中の「日本丸」 4日に撮影
2枚目は 糸魚川大町の八坂神社の神輿 3日撮影
3枚目は ねむの木の変種で名前をしらない 3日撮影
4枚目は さるすべり(百日紅)の花で 3日撮影
5枚目は ムクゲの花 3日撮影

2013/08/02

NO,33   「有難う」

Photo 今日は8月2日(金)「七十二候」では「大暑」の「末候」で「大雨が時々降る」とされている。
その通りでここ一週間程糸魚川に時々大雨警報が出ていたようである。
今日も時々雨が思い出したようにして降って来たり日も出たりで、この地区ではよく「気違い天気」だねーと年寄りが言つていたものである。

この時季、早生のモチ稲は穂が揃つたり、コシヒカリも出穂が始る大切な時季であ82 り、早く梅雨が上がってくれないと今年の作柄に大打撃を与えてしまう。
稲作農家は祈るような気持ちでいるだろう。
そう言えば来る7日(水)は氏子の神社は「風祭り」で夕方に執行される。
大概この日までには梅雨が上がつており、昔は大和川のこの浜で揚浜式製塩が盛んに行われる大切な時季でもあつた。

昨日退院したが10日間入院し「闘病」生活を送った。
716 声門を痛め声が出なくなつた。
こんな事は、同級会等で酒を呑み大声でシャベリ続けると明朝の挨拶も出来なくなる事が度々ではあるが昼前には治つていた。

2年前にも同じ病院に入院していたので勝手はほぼ解るのであつたが、今回も眼科手術の人もいる病棟で4人の大部屋である。
相変わらず眼科手術の人は手術が終れば元気であり朝早くから大声で談笑したり、テレビのイヤホン無で大きな声で見ていたりで「同病相哀れむ」でも戴けない。
この10日間の間に2人の患者が退院して入れ替わつたり、又同じ退院の日には私と3人が退院した。
同年輩の人や30代や40年代の人が同部屋であつた。

以前と同じように看護師さんは若い20代か30代の人で毎日担当が替わり、夜勤の人も入れ替わる。名前を覚えてもらう為にベツトの処に名前の表示する。
医師不足、看護師不足と言われているが若い看護師はこまめに看護に飛び廻っている。
今回特に感じた事は何をするにも「何々をやらせてもらいます」、「有難うございました」、と「患者の本人確認」である。
若い患者の中には「本人確認」は当然本人なんだから再三する必要がないと思つているのか、わずらわしいのか返事をしない事もあるようだし、看護師が仕事ではあるが、処置が終るとやらせてもらつて「有難う」と必ずお礼を言つている。
このセリフは患者の方がいわねばならないセリフであるが患者は感謝をしていない。
そうした事の大切差の教育が看護師に仕込まれているのだろうと思った。
「医者の仁術」と「医者の算術」とがあるが、地域医療とか、拠点病院とか言われて久しいが、病院の運営は益々むつかしくなつて来る。
本当に「有難う」である。
快適な住環境であり、もう2~3日おりたかつたのであるが追い出されてしまつた。
皆がが本当に「有難う」で有りたいものである。

2013/07/15

NO,32  海の日

Photo 今日は7月15日(月)、国民の祝日「海の日」である。
午前中は曇りであつたが昼過ぎから晴天となつた。
今日の「海の日」は色々な経過をたどつて平成15年から7月の第3月曜日となつたが、そもそもその由来は明治天皇が近代日本の改革を断行し、全国を巡幸され、明治9(1876)年に50日をかけて東北地方を巡幸し、始めて船に乗船し、7月20日に青森から函館を経由し横浜に到着された日である。
この日を長く記念して「海の記念日」とされて来たが平成7年の法改正で翌年の8年から「海の日」となつた。
日本は四方を海に囲まれた海洋国家であり、海なくして日本の繁栄はありえない、「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日」となつた。
しかしながらそうした理由、由来は遠のき、ただ一日休日が増えたとか、連休が増えた位にしか思われていないのではないだろうか。

714 子供の頃は浜辺の小中学校であるが、学校行事としての「海の記念日」は特別になかつたようだ。
高校の農業高校にはまだプールはなく学校前の矢代川と高田公園の堀で何回か泳いだが、「海の記念日」には全校生徒が直江津の郷津の海に行き泳ぐ事が恒例になつていた。
収穫したばかりのトマトや胡瓜を海に投げて競いあうなどは農学校らしい。

昨日の14日は「おてんのさん」の上がる日と、地区の「七夕まつり」の順延となつた日Photo_2 であり、午前は時折小雨も降ったが昼前から晴れとなり、「七夕まつり」の屋形船等の準備をし、4時過ぎから ♪「お七夕さまいの また来年ございの」と唄つて廻つている最中に5時頃に急に暗くなり大雨となつた。
幼児にはお母さん方がついていたが大騒ぎとなつた事だろう。
田伏の祇園も5時過ぎには「お走り」と「おねり」が行われる予定であつたが、この急な大雨で本来の「お走り」でなく大走りで神輿を上げたであろう。
笛や太鼓の人も神輿担ぎの人も又多くの参拝者も雨具の用意もなくビシヨ濡れで家に駆け込んだであろう。
その雨も30分位で上がつたが後の祭りとなつた。

浦の海の方も来る21日(日)が海開きで駐車場や監視櫓の準備も出来ており、3連休で松本や長野ナンバーの車が数台見えていたが今日も又不安定の天気で遠くから来た人達には気の毒な位である。

梶屋敷の浜には「福寿海」の碑がある。
「福寿海」の次に「無量」の文字があるのではないかと思われるが埋つており誰も知らないし、誰もいつ頃に設置されたかも知られていない。
「観音経」の中に「福寿海無量」の一句がある。
これを一口で言えば「福徳が海のように広大に集まる」との事であり、掛け軸にもなつてる。
こうした海による功徳からして、梶屋敷には回船業の家が数軒あり、「はがせ船」(千石船)も6艘もあり、西は備後尾道(広島)方面まで行き、財をなしたのであろう。
そう言う人達が建立したのではないだろうか。
しかし、海による恩恵ばかりではなかつた。
川の氾濫での「川流れ」の「梶屋敷川出りや味噌桶け浮いて出る、爺さ婆さ泣いて出る」の災害や、大波も文化の時代(1800代)には数回も人家まで壊れる大被害をうけPhoto_3 ているし、近年では昭和の台湾坊主の大波で殆どの砂浜をもつていつた。
その被害額は測り知れない。
それには姫川港の沖防による侵食が起因すると言う人も多くいた。

この姫川港が開港し満40年にもなり、この港の功績も又大である。
「第19回ひめかわポートフェスティバル」のイベントは8月に入り3日(土)から6日の間に練習帆船「日本丸」が寄港したり、能生・海洋高校の実習船「くびき」で船上釣り体験が行われる事になつている。

写真の説明
1枚目 梶屋敷の浜に立つ「福寿海」の碑
2枚目 田伏の海岸、大和川と竹ケ花にはこうした浜は無い。
     もうじきこの海岸も海水浴客で賑わうであろう、昨日の撮影
3枚目 「日本丸」名古屋港での写真、
4枚目 海洋高校の実習船「くびき」、普段は能生港に係留されている。

2013/07/07

NO,31   祇園祭

Photo_2今日は7月7日(日)、二十四節気の「小暑」であり、この頃には梅雨も明け、本格的な夏となり、太陽が強力に照りつけるとある。
今年は既に早くから猛暑の日が続き、毎日のように熱中症の人が病院に運ばれていると報道がある。
当市も昨日の早朝から気温が上がり、35度以上となり日本一の最高気温を記録した。
この「小暑」に逢わせるように関東甲信地区が昨日梅雨が上がり、平年より15日、昨年よりも19日も早いそうである。
当地区も大雨が時々思い出したように降り、梅雨明けも時間の問題かと思われる。

こうした天候の中で田伏の祇園祭で10時頃に丁度雨も止んでいる時間に「おてんのさん」(お天王様)が通つていつた。
子供の頃からそう呼ばれているが、神輿の巡行の事である。
太鼓とほら貝の音が聞こえて来ると「奥家」の人も「おおかいど」(大開道・旧8号線)に急いで出てお参りする。
神輿が止まり祝詞奏上の儀が執行される家は昔から決まっていて、10ケ所位であ251 る。
昔の金比羅宮の関係者の家や「主達」の家等である。
大和川を通り抜けて竹ケ花まで巡行するが、今までも「村」の区長や惣代がお迎えに出て見送りをするならわしとなつている。

神輿の鳳凰は稲の苗を咥えており、これは五穀豊穣を祈念する象徴である。
この祀りの祭神である素盞鳴命神社のお札が氏子に配られる。
このお札は疫病退散、家内安全、五穀豊穣のお札であるが、このお札と一緒に「蘇民将来」のお札も配られるのが一般化している。
25 なおこの祇園祭と言えば京都・八坂神社が有名であるが、この地区では隣村の浦本や糸魚川、そして下早川の新町でも日にちが異なるが行われる。
この2枚のお札が配られる事や、今日の夕方には「お旅所」がもうけられここに1週間留まり14日(日)には「お上がり」になられる。

この頃になると梅雨も上がり、稲も今年は猛暑で数日は進んでいると言われており、早生種はじきに穂を出すであろう。
255 そしてホタルは祇園が上がればそれについて上がるとよく子供の頃に聞かされていた。

そして今日は「七夕」、有名な「湘南のたなばた」、浅草は「ほおずき市」、入谷鬼子母神では「朝顔市」と毎年十数万人の人達が押しかけ功徳を受けるのだそうです。
この地区では端午の節句と同じ五節句の一つの七夕で1ケ月遅れの七夕が多いようだ。
当大和川は今日であるが天候が定まらず早々と中止の放送があつたが、夕方には子供神輿と屋形舟が地区内を廻る事になつていた。
この行事を心待ちにしていた子供やお母さん方は残念であつた。

この写真は今日撮影したものです。

2013/07/05

NO,30  思い出のギオン

Photo 今日は7月5日(金)午前中は雨降りで蒸し暑い典型的な梅雨景色で、昼過ぎには上がり曇りとなつた。
午前中には歯科医にかかつたり、外科外来にかかつたりで昼食は1時過ぎになつた。
こうした蒸し暑い日には昼食は冷そうめんがご馳走である。
ツブの2~3つぶとトマトがあればそれで良いが、直ぐに腹がすいて来る。

今度の日曜日は二十四節気の「小暑」であり、そろそろ梅雨が明け本格的な夏となる。
七夕でもあるがこの地区は田伏の祇園祭である。
今年は丁度日曜日と重なり、本来の祇園の7日と14日であり、天気予報も晴れマークが出ている。
子供の頃はこの日を一過も前から楽しみにしており、ペタやハナの面を厚紙で作り、22711 祇園ごつこをしたものである。
ペタの面は通称の「お多福」であるから簡単であるが、ハナは天狗面であり、突き出た鼻を付けなければならないから面倒であつた。
鶏爺も厚紙で作ったがどれ程の出来栄えであつたかはあまり覚えがない。

自治会の隣組の回覧板には神輿巡行の時刻を知らせるものであつたが、もう一通711 の文書の中には「鶏爺会」が中心となり神輿の担方や祇園祭の意義等を学習し、親睦を深め、事故のない楽しい祭りにする意気込みを感じとつた。
昔から田伏は漁師村であり、漁師の若者が多くいて、太平洋戦争中も徴兵に多く執られたがそれでも継続し活き上がる祇園が出来ていた。
今はそうした漁師村も漁師の若者は数える程となり、奴奈川神社付近の県営や市営の団地、そして山間部から移住した若者の「まち」となり、梶屋敷や大和川の人達の助けを受けて盛り上がつている現状である。

せっかく回覧板が回るのであるからその中に「素盞鳴命」のお札と「蘇民将来孫門也」のお札の謂われ等を表記し代金はいくらであるから多くの方の協力を求めるべきである。
隣組の組長がいきなりお札を納めて下さいと言つても無理があり、その件数が毎年減っていると嘆いている。

長く続いた伝統的民俗行事をどう継続し、子供達の思い出として残る行事の一つとなつて欲しいものでる。
天候に恵まれ晴ればれとした祇園祭となる事を願っている。

2013/07/01

nO,29  半夏生

71 今日は7月1日(月)朝から快晴となつている。
去る6月19日の大雨以来雨らしい雨が降っておらず空梅雨である。
今日から新しい月「文月」で今年の折り返しが始まった。
この半年は事故もなく災難もなく無事に越す事が出来た。
昨日の30日は夕方の5時から氏子の神社の「六月の大祓祭」が執行された。
2 各地の神社では「夏越の祓」(なつごしのはらい)と言い半年に一度の大祓であり、半年の穢れを祓い、残りの半年間を無事に過ごせるようにと祈るものである。
近年は多くの神社で「茅の輪」(ちのわ)を設置するようになり、半年で新しいものに取変えられているようである。

「七十二気候」では今日までは「菖蒲花咲く」で明日から6日までは「半夏生」(はんげしょう)である。
この日や時期には京都では「水無月」(みなづき)と言う和菓子を食べる習慣が古くかPhoto らあつたり、福井では「鯖」(さば)、奈良では小麦の餅、関西地方は広く「蛸」(たこ)と言うように各地域でさまざまなものを食べる風習があり「蛸」は「蛸の足のように稲がしっかりと根を張るように」と夫々に謂れがある。
ところで、穀倉地帯の言われる北陸や東北地方であるが、そうした稲作地帯の豊作や防災に関する食べ物があるのだろうか。
先般のブログNO,24号「節句」で田植上がりの「サナブリ」には新潟・蒲原地域では「笹だんご」を作り食したり、世話になつた人に配る習慣があると書いた通りである。
土用の丑の日にはウナギの蒲焼きは全国的であるが、当地域では暑い夏を越すために昔は「塩くじら」の脂身の味噌汁を何回も食べた記憶がある。

こうした季節季節の料理や食べ物の中にはお祭りと関係するものもあり、当地区の田伏の祇園祭には「あやめ団子」があり、市内寺町の金毘71_2 羅祭の宵祭りから「うぐいす餅」が売り出され、それが待ち遠しかつた。
それがどう言う理由からなのかは知りませんが「あやめ団子」は祇園の日だけの限定で、アヤメやショウブの咲く時期であり当を得ている。
「うぐいす餅」は子供の頃は金毘羅祭りの頃でないと売り出されなかつたが今は年中あり「和菓子」から季節感がなくなつているように思われる。
和菓子の文化や伝統・歴史等も大切にしたいものである。

今日の誕生日の花は「半夏生」(はんげしょう)(ドクダミ科)である。
家の鉢の半夏生はまだ咲き出していない。

写真の説明
1枚目は 国造神社で外回りの改修を「大祓い祭」までに間にあわせた。
2枚目は 和菓子「水無月」であるが、私は食したことがない。
3枚目は 半夏生の花
4枚目は くちなしの花、蕾が沢山あり咲くのが楽しみである。

2013/06/22

NO,28  梅雨のころ

620 今日は6月22日(土)朝から時々小雨が降つていたが昼頃から止む梅雨の典型的な天気である。
昨日は二十四節気の夏至であつた。
朝から梅雨期特有な天気で雨が降るのかと思っていたがどうやら夕方までもち夜中降った。
19日の日は梅雨に入つたと発表が有った途端に大雨に見舞われた。
水害や崖崩れ等が発生しなかつたようだが、国道8号線は連続雨量が120mmを超えたと言つて通行止め、2 国道148号も北陸高速道も一時は止まつたり、又大糸線も糸魚川~頚城大野の間も止まった。
風が吹くと直ぐに止まる北陸線は今回は止まらず陸の孤島だけは免れた覚えがする。

家でも冬の間に雪で瓦が数枚緩みそこからトイレに雨漏りがする被害にあったり、水田に造成した田を畑に転作した畑に水が一杯に溜まPhoto り畑の中央に置いた管理機(小型耕運機)を丘に揚げるなどのとんだ大騒ぎの一日となつた。
畑作の恵みの雨どころでなく翌日の雨上がりに見に行くと何もなかつたような顔をしていた。

夏至は夏季の真ん中で一年で昼が一番長く、夜が一番短くなる時で冬至の逆になるが、冬至の日暮れの早いのは色々な面で障害が出620_2 たり堪えるが、夏至は昼が長いのが農作業には助かる。
職人を使うにはこの時期だとよく年寄りが言つていた事を思い出す。
天気の良い日には手一杯働いているので夕食は7時過ぎを廻つている。
そんな事で昔は夜の会議はこの時期は7時半と決まっており、それでもどこどこ時間があつて定刻が守られていなかつたが、今はいつの間にか夜の会議と言えば7時と変わり、時刻も厳守されるようになつている。

この時期、雨の晴れ間を見て梅もぎをした。植栽から5年目位でこの年始めて収穫した。5本であるからそんなに多く採れたわけではないが、その半分を弟の家に届け、1瓶の梅酒を作った。
この時期の歳時記は梅酒作りやラッキョ漬けが定番であろう。
昔のように大家族でなくなりもう20年も前位から手間の係る栽培や加工で止めてしまつている。
砂丘地帯の福井や鳥取の主産地では今が一番忙しいと聞いている。
そうして雨降りの蒸し暑い鬱陶しいのが好きなのか栗の木の花が咲く。
花は長く毛虫のようなグロテスクのものであるが、花粉は又異様な臭いを発散し好きとは言われない。
ナラの樹木の花粉は風媒花であるが、栗の花の形態は風媒花でなく虫媒花なのである。
Photo_2 特有の臭いで昆虫を呼び寄せるためこの時期の開花は他の樹木よりも遅いのも昆虫類の活動が活発な時期を待つていたのである。
栗林や栗の植えた畑の近くに最近は住宅やアパートが建つたりでそこに住む住民は四六時中そこにいるのだから多分この時期はどこかえ引越しするか逃げたい位だろうと思う。
どこえ行つても全国広く臭つており我慢するしかない。

ただこの雨の中で咲くアジサイとハナショウブ、暗がりに舞う光のホタルには癒される。
早いものでもう半年が過ぎ「夏越の祓」の30日をもう直ぐ迎える。

写真の説明
1枚目は 栗の花
2枚目は アジサイ
3枚目は ハナショウブ
4枚目は 八重のドクダミ
5枚目は ラッキョ

2013/06/19

NO,27  花に囲まれて

6 今日は6月19日(水)朝から雨降りで当市に大雨洪水警報が出る天候となり欲しい時には降らず、大雨まで望んでいなく思うように行かない。
昨日は北陸地方と東北地方が梅雨に入ったと報道があつた直後である。
梅雨は昨年よりも9日、平年よりも6日遅い梅雨入りである。

この時期花いっぱい運動が巧を通し各家々には色々な花が植えられ、飾られ色々な6142 色の花が咲き競つている。
中でもバラの時期の今、気温が高いのが好きなのか、雨が降らなかったのがよかったのか特別に今年の色のよさが際立つた。
カキツバタから今度はアヤメやハナショウブに変わり、もう2~3日で咲く、ツツジも今が最盛期である。
これからはユリに変わって行く、品種も色々で白いもの、黄色いものなど色々である。
名前の知っているのはカサブランカ位である。
22 山野草も里山から持って来たホタルブクロ(キキョウ科)も繁殖旺盛で庭に何本も増えて咲いている。

そうして花ばかりでなく草木一艘生え茂り畦畔や畑の刈り払いや草むしりに際限がない。
16日の日曜日は村の環境デーの取り組みで、もう30余年を超えている。
6182 一組は道路や農道のゴミ拾い、二組は森林公園高の峰プラトーの草刈り、もう一組は2級河川前川の草刈りや流れて来たゴミ拾い、花の植え付けや管理である。
こうした河川愛護の活動が認められ国の表彰を受ける事になつていると聞いている。

ホタルのいる里山の「ホタルまつり」は今度の日曜日の夕方から行われる。
他の地区で行われているようなミニコンサートもあり楽しい幻想的な一時を過ごす事になつている。
このホタルの里の整備も水辺の確保やアジサイ、カキツバタ等の植栽や草刈り等の作業でピオトープの環境を確保しようやく定着した。
今度は前川の愛護運動の一環として過って遡上した淡水魚のイトヨが再び蘇る川にしなければならないと言うようになつた。

こうした川には魚が棲み、家の周りが花でいつぱいの環境の中で緑を増やし、花いっぱいになればよいと勘違いし特定外来植物の「オオキンケイキク」(指定・平成18年2月1日)を庭や家の周りに植栽されていて今が黄色の花を咲かせている。
この花が繁殖力旺盛で河川や道路、広場等広く全国的に繁茂し困っている。
この繁殖力の旺盛の勢で他の植物や花に害を与え、中でもカワラナデシコが極端にPhoto 減り植物の生態系を崩しているそうです。
多くの花の仲間の中でこうしたヤカラもいて共生出来ない人間社会と一緒である。
先般の自治会活動の環境デーの取り組みの中で考えさせられた一コマである。

写真の説明
1枚目は 前川の親水ケ所
2枚目は カキツバタ
3枚目は アジサイ
4枚目は ホタルブクロ
5枚目は オオキンケイキクである。

2013/06/15

NO,26   黒姫山の雪形

612_2 今日は6月15日(水)、朝から時々小雨が降る天気であるが久し振りの降雨であり貴重な雨であるが夏野菜には恵みの雨となつていない、もう少し欲しいものである。

こうした天気であり黒姫山(1222)は今日は望めないが白馬連峰と共に毎日見る山である。
海辺に住みながら少し位置を変えれば東に鉾岳、焼山(2260)、烏帽子、阿弥陀山(1511)、そして中央には頚城駒ケ岳(1487)と眺める事が出来るが、雨飾山(1963)は駒ヶ岳の影になり残念2452 ながら見えない。

こうした環境にありながら子供の頃の小学校や中学校の時代は戦中、戦後の時代でもあつて、山についての学習や機会がなかつたように思う。
又、山の好きな先生にも恵まれなかつた勢もあるのではないだろうか。
そんな事で焼山や白馬山等の登山はなかった。
ただ焼山が昭和24年2月5日に大噴火した際に梶屋敷の早川河川近くのよく見える場所に全校生徒で出かけた事があつた位である。

1_2 高校時代も火打山や妙高山(2454)の登山の機会もなかつたが、高田付近の同級生は中学校時代に登っていたようである。
そうした時代の中で就職し職場で始めて立山に、青年団の時代に県の主催の登山指導者講習会で白馬山に登山した。
雨飾山は根知公民館時代に地元の山として数回に亘り登っている。
焼山や黒姫山の登山はとうとう出来ずじまいである。

登山家は「そこに山があるから登る」のだと言うが、こうした山を毎日眺めながら生活しており「山おんち」と言う言葉があればそのようにも言える。
春にもなると山に積もった雪が消え出し、「雪形」による農耕期の「農事暦」になつてた時代が永かつたのだろう。
この近辺では上越地方は妙高山の「山」、「はね馬」、「春駒」、「馬形」等と言つている。
信州安曇野地方は白馬山の「代掻き馬」、「種まき爺さん」が代表する雪形だろう。

614 それに比べると当地方では焼山や雨飾山や黒姫山等には「雪形」がない。
「雪形」による「農事暦」の必要がなく、他に頼った「農事暦」があつたのだろうか。
私は黒姫山の「雪形」を毎年見ながら田植の時期の5月中旬頃に「ほまい舟」(帆前船)と、その左側に「鳩」が出現する事を見て来た。
数日前にその「鳩」は消えてなくなつているし、「ほまい舟」の形も消え出し、もう数日で全く消えるだろう。
昨年は6月末には全部消えているので今年は10日程早いように思われる。

写真の説明
1枚目は 6月12日の黒姫山の雪形 既に「鳩」の「雪形」は消えて無くなっている。
2枚目は 昨年の5月7日の「雪形」で「ほまい舟」と「鳩」が浮かんでいる。
3枚目は 妙高山の「山」の「雪形」と言われるもので一番上に浮き出ている。
4枚目は 6月14日現在のコシヒカリの稲姿で暑い日が続き成育が進んでいるようである。

2013/06/12

NO,25 海浜 

510 今日は6月12日(水),朝から南風で暑く30度を超す真夏日になる予報が出ている。
5月31日からの晴天で毎日が25度を超えている。
関東甲信地方が5月28日に梅雨に入り、北陸地方も時間の問題だと思っていたがとんでもない気候になつている。
水稲は生育は進んでいるが、夏野菜は水が欲しくてしおれている。
朝早く起きて水運びや水くれをしている姿もあちこちに見受けられる。

653 雨が降れば「晴耕雨読」で雨降りを待っていたがいつこうに降らずパソコンのプログが出来ずにもう6月も中旬になつてしまつた。
この時期の庭の花は種々あつて色々な花が咲いて楽しませてくれている。
これ又朝夕の水くれも大変である。
「しゃくやく」は既に終り、「バラ」は色々な色の花が次々と咲き、今年は特別にその花の数が多く色も良いように感じ気温の勢なのだろうか。
66 その他「シラン」のピンクの花、「ホタルブクロ」も昨日から咲き出した。

浜辺の花も「むしとりなでしこ」や「はまひるがお」、そして昔はなかつた「はまなす」も最盛期である。
昔は浜辺は広かつたので「はまひるがお」は方々に群生して咲いていたが今はそうした風景は見られない。
先般は旧青海・田海の海辺まで足を延ばしてその風景を見に行つて来ました。
当市内で海浜のある所と言えば田海と旧能生・百川位になつてしまつた。
毎年海浜は侵食が進み、沖防波堤のテトラポツトを投入したり、その補修をしているが一冬で崩れてしまつている。

そんな事で思い出すのは子供の頃の唱歌や童謡で海や浜辺を唄った歌が多くある66_2 が、今はその情景がすつかりと変わつてしまつている。
 「海」 (作詞・作曲者不詳  大正2年5月尋常小学唱歌五)
         ♪ 松原遠く消ゆるところ
      白帆の影は浮かぶ
      干網浜に高くして
      鴎は低く波に飛ぶ
      見よ昼の海  見よ昼の海
こうした風景や情景が無くなり懐かしく思われる昨今である。

66_3 写真の説明
1枚目 沖防波堤の補修 5月10日撮影
2枚目 ばら 6月5日撮影
3枚目 白色のハマナス 6月6日撮影
4枚目 はまひるがお 6月6日撮影
5枚目 「チガヤ」の穂 6月6日撮影で、この穂になる前
     に子供の頃によく食べたものであり、懐かしく撮
     影した。何れも田海海浜にて。

2013/05/29

NO,24   節句

524 今日は5月29日(水)朝から小雨が時々降る南風の強い日で午後には日も出る定まらない天候であつた。
雨は10日間位も降らなかつたのでもつと降つて欲しいのにままならないものである。
昨日は東海地方、今日は関東甲信地方が昨年よりも11日、平年より10日も早く梅雨に入つたと発表があり、北陸や東北地方も時間の問題であろう。

去る25日の土曜日は地元小学校の運動会が快晴の暑い日ざしの中で行われ大変521 賑わっていた。
小学校の行事と言えば何かと雨に祟られると言うジンクスがあつたがここ数年は運動会は雨が降らなかった。
こうした雨降りと言えば大和川の祭りの日には3粒でも良いから雨が当たらないと村に災いが起きると言う吉兆を子供の頃から聞いていたものである。
どうしてこんな事が言われるようになつたのだろうか。

この小学校の運動会の頃には田植も終つており、以前はこれに併せて「野休み節528 句」を実施し、1日目と3日目は「野休み」中2日は「節句」である。
節句と言えば「笹餅」をつき、田植作業が無事終了した事に感謝し、田の神を送る田植えの稲作儀礼と作業慰労の行事であり、一般的には「サナブリ」(サノボリ)と言う地方が多いようだ。
「笹餅」は上越地方でも糸魚川地方の旧西頚城地方のみのようで、新潟と言えば何と言つても「笹ダンゴ」で知れている。
5282 この笹ダンゴは一般的には端午の節句の頃より作られている。

その田植や苗取りに近所の多くの女衆から来てもらつており、その人の家によっては「ゆい」(結い)、この地区では「いい」であり、「いい」の家もあつたが節句の日までに労賃を支払つて、今度は直ぐに始る「田草取り」の作業の依頼もしておかなければならなかつた。
そうして手伝つてもらつた女衆も殆どが亡くなったり、70歳と言う歳を迎えている。

耕作放棄となつている棚田は35aもあり、30年以上も手を着けていなかつたが、今年は初めて一部の田の手入れ作業を実施した。
一部の部分的に笹が生えたり、野ブキが繁茂し、これも一部は栽培したように成績が良く採って来ては病院前の女性部の市場に出した位である。
30束も40束も持つ行くがその半分位しか買ってもらえないようだ。
ただの物を金にすると言うのだからよいとして残り物は近所の家に配つたが、食べるには皮を剥くなど手間が係るので、直ぐには口に入る物でなく、食べてもらえるか伺つてのお裾分けである。
523 何か変なお前粗であり、あんまり歓迎されなかつたのか先般の残りも処分に困っていたようである。
そんな訳で勤め人の主婦や、幼児の居る主婦は手間の入る物はケエンされ買ってもらえないのだろう。
「節句のただ働き」と言う格言もある。

写真の説明
1枚目は 5月24日の黒姫山の雪形
2枚目は 家の前に咲くフタリシズカ 撮影は5月21日
3~4枚目は 家のバラ 撮影は5月28日
5枚目は 里山に咲くタニウツギ 撮影は5月23日

2013/05/20

NO,23 フジまつり

Photo 今日は5月20日(月)昨日の午後から一晩中降った雨は朝方には上がり、田植の終わった幼苗と夏野菜の定植されたトマトやナス、スイトコーン等には恵みの露となり、今日は晴天となつた。
この地方の田植は今年も豪雪で少しは遅れたようであるがほぼ終了している。
テレビやラジオ等の報道によると無形文化財の佐渡の「車田植」とか、広島の任生の「花田植」や伊勢神宮「環城楽」?の田植等も終わっているようである。

この田植の時期と言うと「フジ」(マメ科)の花の薄紫色や白色の開花の時期でもある。
昔はフジと言えば盆栽か何々公園や有名寺院等のフジ棚で見かける程度であつたが、近年は山林の杉などの手入れが行われなくなり、雪で倒れた杉の杉起こしや、枝打ち、間伐等いずれも重労働であるが、その杉材として売るにも、現場まで5172 林道や作業道が出来て運搬も容易であつても高くは買ってくれない。
自家用等で2~3本程切つて貰うにしても枝の処理費だの運搬費だのと高額の料金が請求されてしまう。
そんな事もあつて「国産材」の利用促進や、当市では当市産木材で住宅等を建てる場合には補助金まで出すと言う制度まで創設する時勢であるが、里山は荒れ放題である。

この時期里山を廻ると杉や雑木にフジ蔓が絡んで天高く花を咲かせている。
それもフジを咲かせようと手入れをしているかのような見事なものも所々に見受けられる。

この地方ではフジの名所と言えば戦前から早川の「月不見の池」が有名であり、近郷517 近在よりも遠く越中の方の人が多く見学に来ていたものである。
この池は安山岩や凝灰角礫岩からなつており、そこに杉やナラが育ち、それにフジ蔓が絡みつき池の周りはうっそうとしていて、夜は月も見えない位にフジの花が下がっていたとされている。
一時期は池の水が溜まらず何回も改修工事を試みた事もあつたが効果がなかつたが、ここに来て最近はどうやら水も溜まるようになり人も集まるようになつた。
517_2 魚も水温が低く色々な魚を入れて見たが生息にまで及ばないようである。

私は去る17日(金)の昼前に少し足を延ばして見に行つて来ましたが長岡ナンバーの観光バスが2台止まつており、中高年の男女が見受けられた程であるが、昔のように何軒もの茶屋がなく1軒で閑散としていた。
そんな事で新町の区ではこの時期にフジの一鉢運動で「街おこし」を実施しもう39回にもなるそうである。
517_3 昨日は新町の県道沿いで地元特産品の「焼山わさび」やオコワ、赤飯、おぼろ汁等の販売もあつたようである。

写真の説明
1枚目 道路標識にまでフジ蔓が絡み花を咲かせていた、正に産地の下早川・上覚である。
2枚目 「新潟県観光地100選の石碑」
3枚目 「月不見の池」
4~5枚目は 県道沿いに並べて競い合うフジ、見事なものである。

2013/05/11

NO,22  山笑う

59 今日は5月11日(土)、朝から小雨がしとしとと降っている、久し振りの雨で露休みとなつた。
稲の耕作を止めて2年目の春となり、子供の頃から稲と関わり長い間それで生活をして来た訳であるから、この時期はどう言う作業の時であり、稲の成育もどんな状態なのかも解るが、自分が関わらないと、どうでもよいような他人事になつてしまつている。

大和川原と言う開田耕地にも足があまり向かなくなり、近間の畑の手伝いや長年ほっぽらかしにしていた耕作放棄地の笹原になつた田や野ブキの畑となつている田の始末をしている。
笹の方は背丈2mにも及んでいるのを刈払機で幾日もかかって刈り払つた。
野ブキの方も何回も採って来て食したり、家内が病院前の朝市に3回程持つて出た位である。

510 開田耕地の方は今が田植の最盛期であり、田植の終わった田、代掻きが終り水が一杯の田、まだ畦畔の草刈も終わっていない田とそれぞれであるが、他の地区を廻つて見ると殆ど田植が終わっており、連休は今や「田植休み」化している。
先日は耕地が隣接する真光寺の天然記念物の大銀杏の芽吹きを見にいつて来たが野や山は新緑で埋まつている。
その内で咲いていた山桜は終り、今度は白い花のウワミズザクラ(別名アンニンゴ・59_2 バラ科)が方々で咲いていた。

こうした野山の今を「山が笑う」と言うと聞く。
今年は是非真光寺の大銀杏の一生を追つて見たいと思っている。

写真の説明
1枚目は 5月9日に撮影した真光寺の大銀杏
2枚目は 開田耕地(中平)の代掻きの終わった田、黒姫山も見える、撮影は5月10日
3枚目は 山椿も散り始めた。5月9日撮影

2013/05/02

NO,21 水保の観音堂

Photo 今日は5月2日(木)午前中は時々小雨が降っていたが午後からは晴れとなつたが北風が吹き寒かった。
今日は雑節の「八十八夜」である。
「八十八夜の別れ霜」とも言い、この日以後は霜害も少なくなり茶摘が本格化する頃とされている。

昨日の1日は「西海谷の谷祭り」と言われ水保の日吉神社の春祭りであつた。
あいにく一日中時々小雨が降り祭典はどうかなーと気にして昼前に足を運んだ。
Photo_2 今年は4月10日の一の宮の祭りも、4月21日の日光寺の祭りも小雨に祟られての神輿巡行等であつた。
昨日の水保の祭りも雨になり2基の神輿の巡行は中止され残念であつた。
昨年は積雪で中止されており2年続きである。
神楽舞いだけは奉納され、「獅子の舞」、「弓の舞い」、「鯛釣り舞」(海幸・山幸)の3曲を観て帰った。

そんな天候であり参観者も少なく地元の保育園児と小学何年生なのかで賑わつていた。
この神楽は観音堂に舞台が作られて行われるのである。

この観音堂には国指定重要文化財(指定大正12・1924年)3月)の木像十一面観音立像があり、33年に一度の開帳と言う秘仏であるが今はコンクリートの収蔵庫に収まっており、祭りの際には扉が開かれている。
Photo_3 観音様は身の丈155mcで桜材の一木のナタ彫りであり、ナタ彫りとは丸ノミを横に使う技法であり大変珍しいと言われている。

この観音様は両手首が失われている。
子供の頃に祖母から、この観音堂の事や観音様の事について聞かされていて、観音様は戦争にいつて両手首を失う功労があり、あらたかな観音様なのだと言つていた。
その戦争とは何時なのか、日露戦争位にしか思っていなかつた。

今から約30年前の公民館主事の折に下大野から観音堂の直ぐ南側の俗に言う「最明寺越え」を踏破した事がある。
その折りはまったく通る者もなく「獣道」位であつたが、「北陸道」であり、「延喜古道」の官道であり史料に残る道なのである。
Photo_6 それらは現在の観音堂に由来するもので、先に私のブログNO,19「日光寺」で投稿したように日光寺集落には多くの宿坊があつたようにこの水保集落にも8坊位があり、その中には「水穂寺」があり、これが現在の「水保」となるもので、明治の神仏分離令(廃仏棄釈)にも由来し、多くの堂宇や仏像、仏具等がことごとく取り壊されていつたとされている。

「最明寺越え」については、坂上田村麻呂が征夷征伐のため(延暦20・801年)に通つたり、又鎌倉幕府五代目執権・北条相模守時頼が入道し、最明寺と称し諸国を行脚しこの道も通つた伝承もある。
これが謡曲「鉢の木」として語られているそうである。
そうした幾くつもの伝承の極めつけは「太平記」にも出て来る「阿新丸」(くまわかまる)の仇討ちで、佐渡島で父の仇討ちの本懐を果たすも敵方に追われこの観音堂附近で多くの猿達に助けられたり、度々旅僧に助けられ「光明院」に戻り十一面観世音にお礼を言う為に近寄ると観音様の腕がなく、傷口からポタポタと血 Photo_9 が流 れ落ちていた。
今私を助けて下さった僧は観音様であつたのだと悟つた。

この「阿新丸」の仇討ちの話は上越市清里地区の福淨寺にもあるとされている。

写真の説明
1枚目は 観音堂
2枚目は 国宝十一面観音立像
3枚目は 子供たちの見学風景
4枚目は 神楽舞い「鯛釣り舞い」
5枚目は 神楽舞い「弓の舞い」である。

2013/04/27

NO,20 ホタルも飛ぶ里

Photo 今日は4月27日(土)朝から小雨が降ったり、日が出たりのキチガイ天気である。
昨日と2日続きの寒い日でもあつた。

今日は当氏子の小祭りで諏訪神社祭である。
隣の竹ケ花地区も明正神社の春祭りである。
この春祭りが終れば本格的な春となり田も畑も賑やかになる。
田には水も入るようになり、田植に向かって「耕起」、「荒くれ」、そして「代かき」そのPhoto_2 間には畦畔の草刈と大忙しである。
市議会議員の選挙で賑やかであつた宣伝車の音に変わりトラクターや刈り払い機のエンジン音が中原の耕地に響いている。
最近は祭りだと言つても特別の行事もなく、役員のみが祭典にのぞむかつこうであり、「野休み」の決め事も無くなつて以来日常の農作業を行っている。
昔はこの時期はヨモギが出るので、ヨモギの入つた餅をついたものであるがそうした習慣もなくなり、スーパーの「ボタモチ」で間にあわせている。

Photo_3 この時期里山は雨が降るたびに新緑が濃くなり、山菜はウド、ゼンマイ、フキ、ギンブキ(ウルイ)、ワラビの順に出始め毎回の食卓に上がつて春を食している。
家内達は4月に入つてから総合病院の前での市場が再開され、出始めたこうしたフキやウド等を持って出て完売している。

家の周りの花は幾種類もの水仙や赤、黄色のチュウリップも咲き出し、こんどはボタンが咲き出す。
Photo_4 果樹は梨やオゥトウの白い花が満開である。
こんな気候と環境の中で昨晩は当地区の「ホタルの里」の整備計画や「ホタルまつり」の実施の話し合いがもたれた。
この事業を始めて5年位になり、年毎に整備され皆んなに関心も持たれるようになつたと言われていた。

もう一つの里づくりの「イトヨの棲む」里づくりの方も「前川」の河川改修が今後も継続され、上流部分にも「親水」や「遊水」の箇所(施設)も何箇所も造られたり河川敷に桜の植栽も実施したいものだと提案もあつた。
先の市議会選の中である候補者ただ一人、具体的に施策を上げ、「市指定の幻の魚イトヨの再生復活」を掲げて当選しておられるが、今後の行動を注視し期待したいものである。
NO,18「イトヨと前川」で私は投稿しているが、このイトヨについての学習会や施設等についての活動があつたのだろうか。
河川はどの川でも遡上するものではない。
4 今ホタルが飛び、イトヨが棲む里の復活を期待している。

写真の説明
1枚目と2枚目はホタルの生息する棚田であり、「ホタルの里」と位地ずけしている。
3枚目は ウド
4枚目は ギンブキと呼ぶ「ウルイ」である。
5枚目は 改修された「前川」の一部、今後「親水」や「遊水」のイベントが期待され、環境の浄化の活動が待たれる。


2013/04/21

NO,19  日光寺

248_3 今日は4月21日(日)朝から冷たい雨が降っており一日中降るとの予報である。
幾日も耕作放棄の棚田の笹薮となつた土地の刈り払いやこれから植える夏野菜の畑の草取りを行い腰痛の状態である。
今日は「晴耕雨読」ならぬ「晴耕パソコン」であるがその投稿には重い腰を上げねばならない。
昨日の20日は二十四節気の「穀雨」であり、この頃の雨は良く百穀をうるおしてその生長を助けるとされている。
Photo 真にその雨である。

家の周りには色々な花が咲き百花繚乱である。
代表的なものの中に水仙があるが、日本水仙からラッパ水仙に変わり、そのラッバ水仙の花も八重のもの、又ラッパ状の色も幾種類もある。
桜のソメイヨシノは散り出したが里山のヤマザクラが方々に咲いていて春の象徴を出現している。
八重の桜はこれからである。

Photo_2 今日の日曜日は下早川・日光寺のケンカ祭りであるが本来は18日であり、平日だと神輿担ぎの若い衆が集まらず今日となつている。
あいにくの雨降りで実施出来ないのだろう。
晴天であれば見に行こうかと思っていた。
この日光寺は、集落名も日光寺であり「門前まち」である。
今はここには本堂と少し離れた場所には観音堂があるが、大同元(806)年代には二百石を与えられた七堂伽藍を有し付属する寺院は十二坊もあつたと伝えられて、幾度の火災で堂塔や宝物の数々を焼失している。
今は奉安殿に平安時代初期の木像十一面観音立像(県指定文化財)がある。

この日光寺の直ぐ前には白山神社があり、この春の大祭は神仏集合の祭りが今に16 残り白山神社で式典があり、これが終るとここから急な石段を下りて観音堂に向かう。
この時の行列の先頭を勤めるのは仏僧であり、その後に神職が続く珍しい儀式である。
観音堂を二基の神輿が廻り、神輿と神輿をブツケ合うケンカ祭りである。
神輿のブツカル、ドンと言う音やキシム音がする。
この音が大きい程豊作になるのだと言う。
これが終ると観音堂のステージで「鯛釣り舞い」と通称言われている「海彦山彦」の神楽(かぐら)舞いが奉納される。

この神楽は当糸魚川市内ではもう一箇所5月1日の水保の春祭りに行われるが、旧の能生町では磯部や能生谷で何箇所も行われていると聞いている。
今度機会があれば是非参観したいものである。

Photo_3 この祭りが終れば早川谷にも、にわかに春が来て田を耕すエンジンの音が方々から聞こえてくる。
まだまだ所により残雪もあると聞く。
今年も豊作になるよう祈念するものである。

写真の説明
1枚目は 昨年の祭りの写真
2枚目は ラッパ水仙の白色 4月9日撮影
3枚目は 4月19日撮影のラッバ水仙 色は黄色
Photo_4 4枚目は 梨の花 4月16日撮影 おうとうの花も咲き出した。
5枚目は 三色すみれ 4月19日撮影
6枚目は むすかり 4月19日撮影

2013/04/07

NO,18 イトヨと前川

44 今日は4月7日(日)、朝は小雨が時々降る天気となつていたが、夜中の暴風雨の予報も出ていたがたいした事もなく水稲の育苗ハウスや夏野菜のトンネル栽培の農家もホットしている一時であろう。

昨日は二十四節気の「清明」で、桜花爛漫、草花は咲き始め万物清新の気に満ちて月光明窓の頃とされている。
今年の2月3月は極めて寒く桜の開花はそうとう遅れると思われていたがここに来て急に気温が上昇し開花し始めた。

Photo この頃はエトイゴ(イトヨ:トゲウオ目 トゲウオ科)の遡上の時期である。
当大和川の丁度真ん中を2級河川「前川」が流れており、この水源は標高241mkの小富士山と森林公園高ノ峰プラトーの丘との谷間が湧水で河川の延長は3.5km位である。
水源の水量は少ないが棚田からの水が集まり、この間に2ケ所もの水田に取水する取水口があり、1ケ所は開田に、もう1ケ所は「宮田用水」25 の補水路として「ヌマ田」に取水しており、現在は区画整理がされた住宅地の「桜ケ丘」に流水している。
過っての山田と言われた棚田も耕運機が普及し、機械化が進んだ昭和35(1960)年頃より急速に耕作放棄が始り、私の家も35a(3反5畝歩)を耕作していたが昭和40年代に放棄した。
そのような事で普段は水の少ない川も大雨が降ればダムの役割を果たしていた山田も無くなり、それが一挙に流れだし洪水となす。
3 そんな事で昭和40年代と50年代には数回も水害が発生し大海となした。

この前川と沼田の暗渠排水路にはナマズやエトイゴが棲んでいたものだ。
このエトイゴはこの時期に前川の河口から遡上し,それを追って水路や畦を走り廻つたものである。
このエトイゴの遡上は前川と糸魚川の「城ノ川」のみのようであり、東から能生川や早川、海川、姫川とあるが遡上していなかつたよう2 だ。
「踊り食い」の「イサザ」(スズキ目 ススギ科)もこれに酷似していて、旧桑取村(上越市)の有間川のみ遡上している。
その他にも近い所では柏崎市の鯨波にも遡上しているが何れも絶滅危惧種である。

小学校の子供は明日の月曜日が入学式であり、長かった春休みが終るが、私達の子供の頃はこの時期に前川の河口のよどんだ入り江に入りエトイゴとボラ(ボラ目 ボラ科)の稚魚を捕まえて防火用水池に放した事もあり、それが大きくなり池の中で飛び跳ねていた事もあつた。

4 エトイゴは遡上し、営巣をオスがし、稚魚が海に下るサケと同じような海遊魚である事を中学か高校の遅くなつてから知ることが出来た。
それもその頃から段々と少なくなつたり、いなくなつたりしてからである。
このオスの行動は褐色から成熟すると体が青つぽくなり、のどから腹部にかけて赤色の婚姻色を発現する。
婚姻色を発現するとオスは縄張りを作り、同種のオスを激しく追い払うようになり、水草の根などを集めてトンネル状の巣を作り求愛ダンスで メスを誘い産卵を促すという面白い習性があるとされている。
寿命は1年でオス、メス共に産卵後は死んでしまうが、まれに生き残つて2年目の繁殖に参加する個体群もいる、これを「陸封型」と言つている。
一般的にはサケと同じように川で生まれた稚魚は海に下り成長するのだと言われている。
これを「降海型」と言つている。

44_2 又このエトイゴに混じってエトイゴと同じ個体で紅色の付いたものを「トウギヨ」と言つて田伏のビル田まで追っかけていつたが、エトイゴの別種ではなくオスの婚姻色を呈したものを言つていたようだ。
糸魚川の一の宮近くの水田にも多く見受けることがあつた。
それと「イトヨ」は「糸魚」とも書き、糸魚川市が合併で出来た昭和29(1954)年7月23日の第3回臨時市議会に市長中村又七郎さんが市章として提案して決定した。
元は糸魚川町章(3匹のいとよ)を継承したもので、大正10(1921)年に一般に募集したが得心のものが得られず町長自から
考案したもので「3尾は多数の町民を表し、お互い密接に交錯しているが、毫末も他を犯さないのは、互いの分を守つて他を尊重する事を意味する」とされている。

この前川の改修も何年も年月がかかりこの春にようやく竣功をみたが、水害や災害に備える施設のみでなく親水を楽しんだり魚の棲み易い環境にすると言うふれ込みであり、この河川を管理したり利用したりする地元大和川の住民がもつと関心を持つて維持しなければ宝の持ち腐れである。
立派な施設になつたのだからその施設を運用する第1回のイベントを行わなければならないのではないだろかと思う。
竣工式などは行わずともよく、川の流れの如くよどみなく流れる自治活動を行ってもらいたいものである。

写真の説明
1枚目は 前川に1枚だけ見つけた「イトヨの棲む環境の」看板
2枚目は イトヨ
3枚目は 前川の河口で、海の水面との高さがあり「魚道」の必要性を早くから感じてるが。撮影は4月4日
4枚目以降も4月4日に撮影

2013/04/04

NO,17  静と動

244 今日は4月4日(木)、朝はもやのかかった曇りであつたが段々と晴れて一日中快晴となつた。
昨日は一日中小雨が降り良い休養の日となつたがまだまだ疲れが抜けきれなかつた。

春始動は人ばかりではない、2日の日には里山に飛来したツバメが数羽飛び交つていたがこの地域ではそうとう早い飛来ではなかろうか。
花の方も方々で梅の花が盛りと咲いているが桜の開花は各地で10日も早いと報道されているが当地域は平年並みで1週間後の開花が予想される。
水仙は日本水仙が一番早く咲き、次いで色々の種類のラッパ水仙と移つて行く。
椿の類も山茶花はすっかり花は落ち、今度は「ゆき椿」が 412 盛りとなつている。
「やぶ椿」はまだまだ先のようである。
畑に行くと里山には今咲き出したショウジョウバカマの花が見られるし、畦にはフキノトウの花が伸びて群生している。
家の庭には白色のショウジョウバカマは今年は10本も花を咲かせているし、雪割草も日中には開花し幾種類もの花が咲いて楽しませている。

44 こうした春の静寂の中にも「動」として市議選と市長選がこの21日に執行されるが、市長選は現職3選で落ち着くようであるが、市議選の方は定数減もあつて数名の定員オーバーになると動いている。
そうした施策論争の中に「市民会館」の立替問題もあるようだが、先の市文化協会フェスティバルの会場の「青海生涯学習センター」には始めて入つたが「きらら青海」と棟続きの立派な建物であつた。
2 331 そうして出品されていた書道や絵画、写真、絵手紙、陶芸2_2 等多く展示されておりその出品者の氏名があるが住所がないのでどこの人なのかは解らず残念であつた。
その点、昨年の秋の「市展」の際は住所があり良かった。
いずれにしても以前より青海町(旧)は早くから公民館活動や社会教育事業は進んでいたのでそうした活動が今実を結んでいるのではないだろうか。
今回のフェスティバルの副題は「出会いにありがとう」であるが、会員の全員が切磋琢磨し競い会う事が生涯学習の中でも大切な一面なのではないだろうか。
そんな事を感じたが、この地域の公民館活動は生涯学習に向かって「動」いているのだろうか。

2013/04/03

NO,16  春始動

25 今日は4月3日(水)、朝から雨降りとなつた。
2日続いた晴天で春始動の畑作業で疲れていたので良い骨休みとなつた。
「春い出し」と言う言葉があるが、冬中遊んでいて体を使つていなかつたから体がなまつている中での最初の作業となり、それを言うのだろう。
その「春い出し」で疲れていたので良い休日となり「晴耕雨読」の日となつた。

今日は一ケ月遅れの「雛祭り」であるが特別の行事もこの地域にはなかつたが、本県では村上市の「お人形様めぐり」の行事や柏崎市の「吊るしひな」の展示会があるような報道がなされていた。
「吊るしひな」のルーツは伊豆稲取地方のようであるが年々に国内各地に広がりその展示や展示会が行われている。
当市も去る3月30日~31日に第7回文化協会フェスティバルが開かれ書道や絵画、写Photo 真、絵手紙等の展示会場に「吊るしひな」の展示もあつた。

4月に入り春祭りも各地で行われるようになるが、9日には梶屋敷・立壁神社、そして10日には一の宮のケンカ祭り、13日は当大和川・国造神社、16日は寺町・横町・上刈の祭り、そして下早川・日光寺のケンカ祭りは今年は21日の日曜日に、田伏の奴奈川神社は24日と春は祭りと共に深まって行く。
一の宮のケンカ祭りの舞楽の稚児の舞いの練習は去る3月28日から開始されて恒例の行事となつていて、昔はこの太鼓の音が南風に乗って大和川まで聞こえて来たものであり、この春休みには「前川」に遡上(そじよう)して来たエトイゴ(イトウオ)を追つかけて田の畦(あぜ)を踏みこしていたものであるが今はPhoto_2 その太鼓の音も、エトイゴも遡上しなくなり寂しい。
ただ開田の猫のシタイ程に割り当てられている畑に今年も子供達が手伝つてジャガイモ植えが始まり春の始動で躍動する春本番となつて来る。

写真の説明
1枚目 一の宮ケンカ祭りのポスター
2枚目 フェスティバルのポスター
3枚目 子供も手伝つてのジャガイモ植え作業、撮影は4月1日

2013/03/26

NO,15 春耕期

Photo 今日は3月26日(火)、朝日のテッカリで一日中薄曇りで気温が上がらず肌寒い日となつた。
雪も消え畑にはちらほらと農作業の人影も見受けられるようになり、日曜日になるとミニ耕運機のエンジン音も聞こえて来るだろう。
いよいよ春本番に向かう序曲の始まりである。
この時期の挨拶に決まって「春耕期に入りお忙しいと頃」とか、「春耕期に入りお疲れの折」とかを聞いたり、言つたりしたものであり、この時期に相応しい挨拶の一つであるが私もよくこれを好んで使ったものである。
ところが田や畑に出て耕す人がめっきり減り少数派となつた今、考えて見れば仕えな324 いようになつた。
それが農家の集う会合でさえの話しである。
その内に「春耕」も死語となるのではないだろうか。

今年の春は桜の咲く日は10日も早いと言われ歓桜会が盛り上がりを見せているようだ。
ようやく家の周りの日本水仙も咲き出しほのかな香りを漂よわせており私はこの香りが好きである。
白梅も紅梅も満開を迎えているがまだウグイスの初鳴きは聞こえてこない。
322 梅と言えば昨日の25日は田伏の天満宮の春の例祭であり、奴奈川神社境内に社がある。
学問の神様菅原道真公を祀るもので、この田伏の天満宮の歴史も古いと言われており、宝永年間(1704~)に田伏の関原氏が奉安されたと伝わる。
この天神様は木像で身の丈は4寸4分のもので33年毎に開扉されるそうである。
この地域ではこうした天満宮の数は少なくあまり知られていないようである。
私の家の親戚には高校や大学に入学する子供もおらず疎遠になつているし、お祝いを上げる気使いが今年はなかつた。

今朝の朝刊には小中高校の先生方の定期移動が発表されていたが関係者にとつては一喜一憂されるのだろう。
又、もうじき一の宮のケンカ祭りの稚児の舞いの練習の太鼓の音が聞こえて来る時期となり春本番を迎える今日この頃である。

写真の説明
1枚目は 天満宮の社
2枚目は 24日に撮影の白梅
3枚目は 22日に撮影の紅梅

2013/03/18

NO,14  彼岸のころ

318 今日は3月18日(月)朝から時々小雨が降り南風の吹く暖かい早春を思わせる一日であつた。
昨日の17日は春の彼岸の入りで暖かく車の冬タイヤを取替えたり、庭の冬囲いも取り外し盆栽も並べ替えた。
日本3名園の兼六園の雪吊りも取りはずしの作業が始まったと報じられている。

里山に行つて見ると雪もすっかり消えこの暖かさで一部の田や畑の耕起も始まっていた。
318_2 今年の冬は極めて寒く平年気温よりも低下して推移して来た。
そんな事もあり日本水仙の咲くのも相当遅れたし、山茶花も相当遅れて方々で今が満開となつている。
それに反し東京の桜は咲き出し、観測以来一番早い開花だそうである。

彼岸を迎え山間部の豪雪地ではお墓の雪堀りをして迎えているようである。
当檀家では20日の中日にはお昼前から法要が行われるご案内が来ている。
「住職は寺に入り40余年になるが、この間に一度も寺に参詣されずお顔を見てないご門徒の方もおいでになる。
都合がつかないのかも知れませんが悲しいことです。
その方のご先祖の方々は悲しく思われるでしょう。
316 仏事は報恩ですから。
『安楽浄土に至る人阿弥陀一仏に帰入せよ』」と参詣者の年々少なくなる事を憂いている。日頃は中々仏壇に向き会う事は少なく、ましてや寺には足が向き難いのが事実である。

「肉付きの面」は越前・吉崎(板井郡金津町)に蓮如上人(れんにょしょうにん)が吉崎御坊を建てて以来一向宗(浄土真宗)の盛んな土地である。
「吉崎の近くの村に清(よし)と言う百姓の妻がいて、夫の與三次や子供に先立たれ、316_2 與三次の母と二人暮らしであつた。
いつの頃からか、蓮如上人の教えを受けて吉崎御坊に通い出すようになつた。
老母はそれが面白くなく、良い男でも出来たのかと嫉妬したりし、母は嫁を脅どそうと思い立ち祖先伝来の鬼の面を付けて途中の竹薮で待ち構えていた。
嫁は突然現れた鬼女を見て恐れおののいたが、じつと心を静めて言葉を口ずさんだ。
『食(は)めば食め 喰らわば喰らえ
  金剛の他力の信は よもや食むまじ』
と念仏を唱え吉崎に向かった。
家に帰った老母は鬼の面を外そうとしても顔にぴったり付いて離れなかつた。
母に念仏を勧め「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると面が剥がれ手足も動くようになり、それ以来悔い改め仏道に勤めた」と言う話と、「石童丸」が母と共に父を探しに高野山を訪ねたが父に会えなかつた話を子供の頃に祖母に「昔話し」のように聞いた事を思い出した。

写真の説明
1枚目は 今日撮影した日本水仙
2枚目は 今日撮影した庭の山茶花
3枚目は ネコのしたい程の畑であるがもう少しでジャガイモが植えられる、少し残雪があつた、16日の撮影
4枚目は 16日に撮影した黒姫山

2013/03/10

NO,13  春一番

38 今日は3月10日(日)早朝は南風強く吹きまくり気温も暖かく生暖かつたが直ぐに雨となった。
この10日は東京大空襲の日で今年は68年目であり、当時小学4年生で東京から疎開して来た人は3人程いて、この情報を担任の先生がされ、その疎開の1人は涙を流していた事を覚えている。
祖母の兄妹の家も一家全員が防空壕に避難し窒息死された悲しい出来事があつた。

昨日の9日は当市来海沢集落(旧西海村)の春祭りであつた。
神社は日吉社で祭神は大巳貴命、健御名方命、木花咲那姫命の三神を祀っている。
この地域では一番早い春祭りであり、今年も豪雪で参道の石段は出ておらず鳥居も半分は埋まっていた。
この神社の「棟札」は市の指定文化財に指定され38_2 ており、又、狛犬は「サル」(猿)であり珍しい。

そして3月9日は「山の神」の日でもあり、駒ケ岳山麓の大岩の上に祠が祀られておるがそこまでは行けないので集落の中程の岩の上に「出張さん」を作りお参りをしているとか。
この地域ではこの「山の神」の日には山に入つたり、山仕事をすればケガや人さらいに遭うと言う言い伝えが古くからある。
238 この「山の神」は「山あけ」の一つで「海あけ」と同じなのだろう。
子供の頃は山仕事の山仕や堀工は仕事を休みお祝いをしたものである。
私の家でも「山の神」の日だと言つて「ボタ餅」を作つたものであるが、こうした風習は話として残るのみであるが、これも時代と共に忘れられて行く運命にある。

それでもこの「山の神」の行事は祭礼としても全国的に各地に残り、色々な形たちで残っている。
この「山の神」さんは女性の神さんであり、祭礼には女性が参拝出来ないと言う結界がある地方や、女性がトンネルの貫通式に入れなかつたり、相撲の土俵に上れない、又は入山禁止の山、高野山の結界があると同じである。
神殿のお供物には「オコゼ」(カサゴ目・オニオコゼ科)を供えなければならない等もある。
女神は嫉妬深く器量があまり良くないからでありそれを避けるためなのだそうである。
こうした風習や神話も滑稽ではありそれなりに伝統の文化として伝承してもらつてもよいのではないだろうか。

392 3日間程晴天が続き7日の日には22℃にも気温が上昇し5月を思わせる程であつた。
この間家の周りの草むしりや畑の見周りをしたが里山は残雪も少なくなりフキノトウが芽を出しチラホラと採る人の姿も見えた。
こうして春耕も待つたなしで待つのは農協の農機展であり、大型のトラクターや小型のミニ管理機が何台も並び農家の購買意欲をくすぐつていた。
本当の「春一番」を感じる日でもあつた。

写真の説明
1枚目は 雪に埋まっている来海沢の日吉社・3月8日の撮影
2枚目は 来海沢集落の積雪の状態・3月8日撮影
3枚目は 海川の上流でこの雪が融け豊かな水となし、「万石用水」や「宮田用水」の水田を潤して豊作となす。撮影3月8日
4枚目は JA農協の農機具展示で大小揃っていた。3月9日撮影

2013/03/08

NO,12  春よこい

今日は3月8日(金)朝夕は小雨が降るが晴天になる2_3
予報が出ている。
虫などの生き物が土などから這い出ると言う二十四節気の「啓蟄」が去る5日であり、その暦に会わせたように前日の4日から晴天が続き気温も上がり暖かくなつた。

昨日は当市の最高気温は22度ともなり5月を思わせる一日であつた。
家の周りの草むしりをしたり、昨秋に採り残した少しの白菜や人参を収穫した。

こうした天気は表日本の関東は毎日のように続いているようであるが、4日と5日2_4 には甲府で葬儀があり旅行をしたが、梅は満開であり、丘陵地にはビニールが張られた桃やブドウのハウスが多く見られたし、ブドウの剪定が終つた棚が電車の沿線近くまで栽培されていた。
「♪ 春よこい」は当市の文豪相馬御風の作詞であるが(大正12・1923年1月「木かげ」で発表)、この地方の丁度今の時期を歌つたもので、海岸地帯はもうすでにすっかり雪が消えたが、里山も雪の消えた畦畔からはフキノトウが芽を出し、これを摘み採る事から今年の春が始動するのである。
明日の9日は「山の神」の日であり、山間部ではまだ身の丈程の積雪があり、融雪までにはもう少し時間がかかるが、まだまだ荒れる日も幾日もある。

Photo 先日の甲府の葬儀はまだまだ若い70余歳のお父さんの死で、日頃は元気で通院もなく生活をされていたのに早朝に心臓疾患で亡くなられた。
綺麗に咲いていた花が一晩の嵐で吹き飛ばされたような無情な嵐であり、今までも幾多の苦難を乗り越えてこられてもこの春の嵐には耐えられなかつた。
心地よい春風も時にはこうした無情な嵐となつてしまう。
この「♪ 春よこい」は無情であつた。

写真の説明
1枚目 昨日の撮影のフキノトウ
2枚目 中原にある小畑の溜池で残雪がある。
3枚目 斎場が供えている霊柩車、何と言う車なのだろうか。

2013/02/22

NO,11  冬仕事

Photo 今日は2月22日(金)、昨日は一日中降った小雪も上がり
朝から晴れとなつている。
二十四節気の「立春」や「雨水」も過ぎたが、「越後の雪は『余寒』に降る」と言うたとえがあり、一晩に何尺も積もったり、昭和2年の御大典の2月に立春から降り出した雪が5日の日には2mにも達し、1週間も降り止まず北陸線の汽車は8日間も止まったり電柱も埋まり、二階から出入りしたそうである。
そんな例もあるが、この時期になるとさすがに降る量も少なくなる。

こうした冬場の時期は農村では冬仕事として俵編みやカマス、ゴザ編み、縄ない、草履作りなどのワラ仕事が寒い納屋のワラくずの中で一人の孤独の作業であつたり、又2~3人の近所の人と世間話をしながら手仕事を進めて来た事もあつたがもう50年Photo_2 も60年も前の昔の事となつている。
又、晴天ともなれば外仕事は個人では「堆肥」運びとか「肥」(こえ)運びと言う「厩肥」運搬が行われていた。
共同の作業では「客土」の作業も戦時中の一時期行われた事もあつた。

こうした作業や風景は農村からはすつかり姿が消えて久しい。
勤務していた仕事で集落廻りや集落懇談会等の会場に行く途中でこうした風景を見Photo_3 ながら足を進めた事もあつた。
今は自分の集落の懇談会が年一回行われる会に出席する立場に変わつたが、その出席者も年毎に少なくなり主催者は張り合いが無い。
又、今年も小さな私の集落でも2戸が稲作を止めると言う事になつた。
一人は高齢で腰が悪いとか、もう一戸は年寄りが亡くなつたからと言つている。
こんな例がどこでも多く出ている。
「懇談会」も「指導会」から変わり、かつては稲作指導や畑作指導が主流であつたが、この懇談会の内容も農協の葬祭センターや介護施設S314 等の運営の要望や厚生連病院についての話題にもなつている。
こうした懇談会や指導会は過っては冬場の間に何回もあつたり、又、研究会も農村では4Hクラブや当地区の農事研究クラブのように精力的に学んでいたが、その多くの人は既に亡くなつたり、その当時の年少の人も今は70歳を出ている。

3月に入ると今年の稲作や畑作の準備に入るので、この間にもう一つの行事として浄土真宗の報恩講がある。
この時期に年寄りのワラ仕事の疲れの慰労、息抜きと体力不足の解消からも寺に集まり、今年も無事に冬が越せたと皆んなで
顔を合わせて喜び合うのである。
普通は浄土真宗の開祖親鸞聖人の遺徳を偲び11月28日の命日の前後に行っているのが一般的であるがこの明通寺さんは2月28日と決めて昔から行っている。
先般は禅宗の「団子まき」を投稿したが、その外にも地方により「百万遍念仏」や「大師講」等があり、これをおやして心おきなく春作業に突入して行ける。
その頃の天候も北西の季節風型から春の移動性高気圧へと変わり三寒四温の暖かい日も出て来るだろう。

写真の説明
1枚目は 明通寺の報恩講の案内
2枚目は 「つぶ」と言うカゴで堆肥や肥を運んだ。
3枚目は 「俵」編みの競技会で過っては技術を競いあい、隣の嫁は一日に何枚も編んだと言つたものだ。
4枚目は 農協の雑誌「家の光」の「子供号」で昭和31年4月号である。

2013/02/17

NO,10  家 訓

Photo 今日は2月17日(日)、午後から「団子まき」である。
天候は朝から快晴となり、久し振りに水桶は氷つていた。
「団子まき」とは「涅槃会」法要で釈尊・お釈迦様の入滅された命日で、2月15日を中心に前後して行われ、この地区には曹洞宗(禅宗)が2ケ寺あり、田伏の大雲寺、大和川の禅林寺であり、禅林寺は今日の午後に行われ、大雲寺は1ケ月遅れの3月である。
この行事は「門徒」と言う浄土真宗は行われていないが、法華と言う日蓮宗や真言宗は行われているのだろうか。

子供の頃は就学前や小学校も2~3年生位までは冬の楽しみの一つであり、禅林寺の団子まきが終ると今度は大雲寺に走つて行つた事もあつた。
この団子はお釈迦様の舎利、骨であり、これを頂くのであ2 る。
拾ったお団子は仏壇に供えてからワタシで焼いたり、ホーロー鍋で炒つてもらつて食した。
このお団子を食べるとこの一年間は病気をしないとか、お団子を身に付けていれば野良に出てもマムシに噛まれないとか、毛虫に刺されないとか、怪我をしないとかで1粒入る布袋をお婆さんやお袋さんから作ってもらい腰に下げていた事もあつた。

「涅槃絵図」はお釈迦様が目を落とされ、民衆がそれを悲しみ、嘆き何をおいてもと駆け参じた。
それは人間だけではなく、獣物の像やライオンや小鳥までもが駆け寄つて来て悲しみに暮れた。
小鳥の中でも一番早かつたのは雀であり、目が醒めて間もなく顔も洗わず、身支度もせずに質素な身成りで駆け参じた。
一方、キツツキ(アカゲラ)は顔を綺麗に化粧し、身支度も派手な物に着替えて時間Photo_2 がかかり遅くなつてやつて来た。
その結果、雀は食物は何不自由なく何でも食べれるが、キツツキは木の固い樹をつついては虫を探して食べなくてはならなくなつたと言うのだそうです。
こうした話は祖母が団子まきの機会に諭すのである。

「近所に不幸が起きたら直ちに行けよ、火事であつたら荷縄を持つて走れよ」である。
2_2 私の家は昭和の初期に類焼にあい、昼の火事であり、高等科の生徒が納屋の農区の多くの肥料を持ち出してくれたり、土蔵の土戸は
○○左衛門が閉めてくれ、雨屋の味噌桶からその土戸に味噌を塗つてくれ火が中に入らないようにして下さったり、多くの人が来て、家の物は、唐紙、畳や床の間の欅の床板までも稲場の屋敷に運んで下さったと言う話が伝わっている。
こうした恩はいつかの機会に返さなければならない「家訓」となつている。
それは必ずしも力仕事ばかりではないと思う。

4 丁度今、NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映中であり、この中の会津藩の「什の掟」
(じゅうのおきて)と言う7ケ条の人材育成の指針があり、9歳以下の武士の子の為に創られたものだそうで「ならぬことはならぬものです」が今年の流行語にネミネートされそうである。
ついでに「年長者の言ふことに 背いてはなりませぬ」と、「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」も付け加えたい。

写真の説明
Photo_3 1枚目は 「キツツキ」と一般にいうが「アカゲラ」でありこれは雄である。
2枚目は 「涅槃絵図」で本堂の中央に掛けられている。
3~5枚目は 「団子」を住職がまいたり、拾っている風景。
最後は地獄絵で生前悪い事をした者は釜茹でにされると言うオツカナイ絵図である。

2013/02/13

NO,9  団子まき

210 今日は2月13日(水)、午前は曇り時々小雪が降ったが午後は日も出たりの天気である。
雪国の去る9日からの3連休は利雪、克雪の雪上スポーツ行事や伝統行事が各地で行われたが、当地区ではそうしたものはなかつた。
屋根雪下ろしや家の周りの除雪もあるわけではなく冬の体力不足や、地域おこしの新しいイベントが必要であるがそうした胎動は見受けられない。
ただ昔からの祭礼として田伏の奴奈川神社では「建国祭」が執行され、地区内の氏25 子惣代達が参拝されている。

当地区の雪の時期の行事と言えば2月15日のお釈迦様の入滅された日の「涅槃会」(お団子まき)である。
曹洞宗(禅宗)の禅林寺では今年は2月17日の日曜日の午後からであり、既に1月末にはお団子を造る白米の托鉢に宗派のお婆さん達が各家に廻っておられた。
『「乞食」に来ました』とえんりよがちに頭を下げてのお願いである。
Photo 昔から白米をお椀か飯茶碗に一杯の量であるから1合位であろうか、集まるとその量は60kgから70kgになるから4斗強である。
しかし顔見知りの近所を廻つても家の「代」が変わり、若いお母さん達には直ぐには理解が出来ず反応が悪いそうである。
双方が気まずい雰囲気になるのである。
それで『「乞食」ごえ』にならざるを得ないのである。

涅槃会にはお御堂の中央にお釈迦様の入滅の絵図が掛けられているが、奥の方の薄暗い所には何本かの地獄絵図が掛けられている。
就学前には何年も祖母に連れられて行き、お団子を拾うのを楽しみにしており、これが唯一の冬の行事としての思い出である。
Photo_2 地獄絵図を見ながら悪い事をすれば閻魔様に舌を抜かれる、針の山に追いやられる、釜湯でにされる等とう何副もの絵図の説明をして悪い子にならないようにと諭されたものである。
こうして祖母と孫との絆のもとで家庭教育、しつけが行われて育つて来た。

「乞食に来ました」と言わせるような世の中となり、又一歩引いて気まずい思いでそう言わなければ集まらない時勢となり、段々と集めて廻る、托鉢の人達もいなくなつて来る。
こうした徳で集まる米も集まらず全量を米屋から購入するか、こう言う伝統の宗教行事も中止にするか、規模を小さくして継続せざるを得ないようになるのではないでしょうか。

写真の説明
1枚目 玄関の早春 2月10日
2枚目 「涅槃会」の案内
3枚目 禅林寺の山門
4枚目 地獄絵図・舌抜き地獄

2013/02/03

NO,8 春寄合い 

Photo 今日は2月3日(日)、朝から雨が今にも降りそうな曇りである。
今日は「雑節」の「節分」で明日は「二十四節気」の「立春」となる。
夜に豆をまく風習と古くからイワシをヒイラギに刺して鬼を避ける風習から何時の間にか「恵方巻」を食べる風習と変わりそれが主流となつた。
この地区では「豆まき」でなくお釈迦様の命日の涅槃会の「団子まき」が昔から行われている。
今年は17日の日曜日である。

今日はこの地区の集落の5自治区ではこぞつて「春寄合い」である。
25 この5自治区とは「自治会」で町であれば「町内会」と同じであり、町内会長に当たる「区長」がいて自治活動の指揮者、先導役である。
その活動の24年の総括と本年の計画や予算案等を区民全員で協議し、終了後に年1回になつた懇親会に入る。
出席する者は家長であるが高齢化と独居家庭も多くなつたりしてご多分にもれない。
それでも家長の代も変わり年々若いお父さん方も出席するようになつて来て、そのPhoto_2 人はどこの屋号の人か解らなくなつている。
仕事優先で早朝から働きに出て、帰りも遅く家に泊まりに来ると言う都会並みである。
唯一こうした席で世代間の交流で自治活動のあり方も論じ、「ならぬ事はならぬものです」、「年長者の言う事に背いてはなりませぬ」、「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」と酔いにまかせてこの時こそ言わねばならない。
しかし昔からの決まり事を声高に言つてももう通用しない世の中になつている。

一パツク2,000円の仕出し料理を取って殆どがビール党になつた若い衆と、酒の年寄りが、戦後の昭和30年代にはその酒を集めるのに苦労した区長、魚も冷凍のイカを解凍し、刺身と酢の物等に朝から役員が出て調理したもので、今の料理に比べるとお粗末ではあつたが心がこもっていて美味しかつたし又、親密感もあつた。

今年も又、5区ある自治区の一番小さな10戸未満の区は高齢化で区を維持も活動も出来なく、ましてや神社の維持管理や祭典が出来なくなり、他の区に吸収して欲しいと言う要望が出ている。
この区は糸魚川の中心の駅や市役所から4km範囲の区域で上下水道や市営ガスが入っている集落でありながら住民自身が自治活動も出来ない限界集落となつている。
市内の山間部ではこうした集落は年毎に多くなつていると言われ久しい。
その顕著なのは集落毎にある「農家組合」の合併があり、廃農や耕作放棄地の増Photo_4 加により山間部ではそうとう加速している。

過疎地に残された廃屋、廃居の屋根には今年も又、雪が積もり、屋根雪おろしも、除雪も出来ていない時期で方々では社会問題となり、市町村では「条例」を創り解決しようとしているが果たして条例だけで解決するものなのだろうか。
こうした家や建物の中には祖先伝来のお厨司(仏壇)が処理に困りそのまま残っていたりしている。
このお厨司の処分に困る話は、市道や県道の整備されて「引越し道路」となつた、過疎化が始まった30年も40年も前から話題となつている問題である。

Photo_3 それと同じように集落に人家がなくなる時に神社の社(やしろ)を解体し祠だけにし整備した所も数箇所あるようだ。
祭礼用の幟を始め社内の祭礼用の諸神器類の更新や補修も思うように出来なく、「さわらぬ神に祟りなし」と手を出しにくくなつておりますが、神社の象徴、祭りの象徴の神輿の維持管理でさえ大変で、神輿の巡行を隔年にするとか、豪雪にこじ付けて休むとか氏子惣代達は苦労しているようだ。
もうじきこの雪が消えれば再び祭りと共に農耕が始まる。
豊かな農村となる事を祈念して止まない。

2013/01/31

NO,7  俚 諺 (りげん)

Photo 今日は1月31日(木)、朝から予報道り快晴になつた。
今日は正月の月の終わりの晦日である。
新しい年の初めの月も何事も無く過ごす事が出来て、そのお礼をしなければならない。
神棚に上げる「しらかけ」(榊)は降雪前に里山から切り取つて来て水甕に入れて保存している。
このしらかけの自生している里山は海抜150m~200m以下位に限られており、市の花「ささゆり」の自生地と同じような地帯であり限られている。
大和川の里山や、そして西海地区の平牛と羽生、糸魚川は蓮台寺の山である。

Photo_2 このしらかけも今はスーパーやホームセンターで売られているが、地元の物とは違うものである。
戦前戦後の直後まではこのしらかけを平牛や羽生の小学高学年の生徒や高等科の生徒が早朝に糸魚川の街に売りに出て、「しらかけいらんかねー」と声を掛けて歩いたものだと言われている。
又、西海の若い嫁さんや娘さんが「割る木」を背負って商家に売りに出た戦前の話もある。
そうした働き者の西海の男衆と同じく働き者の早川の女衆を指したのか、「早川女にPhoto_3 西海男」と言う俚諺がある。
「早川女」の起源はなんなのかは承知しないが、新町(あらまち)芸者を指したのかもしれないが。
「西海男」は西海地区から糸魚川の街に出て財をなした、田原酒造や松木一族、猪又建設、松沢組、斉藤医院等を指して子供の頃から代表格だと聞いていた。

こうした俚諺の中に「豆腐、玄伯、稚児の舞い」と糸魚川の名物を歌ったものがある。
Photo_4 確かにその中の「玄伯」は「相澤玄伯」であり、古く越後高田藩主(25万石)の藩医であり初代玄伯(天正12・1584~慶安1・1649年)から続く開業医で現在の玄伯先生は14代目だそうである。
「稚児の舞い」は一の宮の喧嘩祭に奉納する十二曲の舞楽で貴重な民俗芸能(国重要無形民俗文化財)で誰れでも知っているものである。
さて「豆腐」であるが、何故一番に上がったのだろうか。
確かに大豆はこの地で良いものが生産され、豊かな水もあり、子供の頃は押上の地区には何軒もの豆腐屋があつたにはあつたが、どこが名物なのだろうか。

Photo_5 もう一つはあまりにも有名なのは「名立大工に能生左官」である。
「名立大工」は現在の上越市名立区で旧西頚城名立町で、「江崎の長三郎」で知られ、名立字小泊の板谷長三郎の宮大工で江戸時代末期から明治の初期にこの地区の多くの大工さんが活躍されており、その代表格が「江崎の長三郎」なのである。
地元の神社仏閣(旧青海町田海・西蓮寺鐘堂:明治13・1880年11月 ~ 東本願寺Photo_6 新井別院本堂:明治28・1895年 等)だけでなく京都・東本願寺、奈良・唐招提寺や薬師寺東塔と言つた京都、奈良の社寺建築にも携わつたり、親子兄弟で「新撰規矩階梯」(明治15・1882年6月出版)と言う書物を作り模範書として当時で10万部以上も発行されている。
(この項は上越市教育委員会「みんなのひろば」を参照した。)
それに反し「能生左官」についてはその起源とか、成り立ちはどうなのかを私は知らない。
「現代の名工」の為にも、又、誇れる郷土の職人の為にも明らかにして欲しいものである。

写真の説明
1枚目は 田原酒造の「杉玉」である。
2枚目は 糸魚川駅前の松木商店
3枚目は 相澤医院
4枚目は 「稚児の舞い」の「鶏冠」の舞楽
5枚目は 東本願寺新井別院の本堂
6枚目は 奈良・薬師寺東塔 

2013/01/25

NO,6   学問成就

Photo_2 今日は1月25日(金)、朝から暴風雪の警報が出ており、地面がたちまち白くなった。
昨日は今日と違って一日中晴れの天気となり気温も10度に達した。
その天気で海辺の浪たたき側溝を散歩する人が数人見受けられた一日でこのような北陸の冬は変貌が激しい。
いつもの年であるとこの時期には日本水仙の早いものが咲き出すのであるが、丈が短く開花どころではない。
これは北陸一帯のようである。

こうした中で九州大宰府では梅が咲き始めたと報道があつたが、今日は「初天神」であり、25日正月である。
家の床の間には正月に「天神さん」の掛け軸を掛け今日を迎える風習が子供の時から行われている。
124 そんな事から天神さんの掛け軸は2巾もあり、もう古くなつた方を住宅新築の際に表装しなおした。

こうした「天神さん」信仰は越中や加賀地方に古くから多いと聞いているが、本県のこの地方はどうなのかはあまり語られていない。
ただ田伏の奴奈川神社の境内には「天満宮」が祀られている社があり、今日は祭典が行われた。
124_2 越中の直ぐ近くの井波は彫刻の町であり、欄間や置物が彫られているが、これは浄土真宗井波別院瑞泉寺の門前町が起源である。
この町を数回訪れているが、その彫刻の「天神さん」は多くの家に飾られているが、嫁に出した家が嫁ぎ先の家に男の子が誕生すればこの天神さんの彫刻か掛け軸を贈り、子供の成長と学問学業の成就、家内安全を祈る風習が古くからあり、正月にブリ(鰤)を贈る風習と全く同じである。
こうした風習はどうした事から派生したのだろうか。
そんな事で、この地方では「越中から嫁はもらつても、嫁にはやらぬ」と言う勝手な事を言つている。
越中の人は何事にも金をかけるし、派手であるが、又稼ぎも強いと言われて「勤勉」な風土である。
真に「天神さん」の菅原道真公の遺徳を継承する県民なのかもしれない。
 「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
               主なしとて 春を忘るな」

写真の説明
1枚目は 「天神さん」の掛け軸
2枚目は 昨日の日本海、田伏と梶屋敷には少し「じやり」が付くようになつた。
3枚目は 漁師も高齢化しこのような廃船も見られるようになつた、田伏の浜にて、

2013/01/22

NO,5   小さな集落、大きな占い

25 今日は1月22日(火)、朝から冷たい小雨が降つている。
昨日は一日中快晴となり残雪の道路は朝方はアイスバーンとなつていた。
昨日の21日の暦は「初大師」、来る25日は「初天神」で、どちらが天気であれば、どちらかは雨か雪になるように弘法大師と天神様とが仲が悪いのだと京都の人が言う話しである。

こうした天気の中で今年の天候はどうなるのか心配になるのが百姓である。
25_2 とりわけ今年の夏は暑いのか、台風は何回来るのか、そして農作物の出来、とりわけ稲の作柄はどうなのか、この作柄を「種兆」(たねうら:信州・戸隠神社ではそう言う)により稲の品種を早生種を多くしようとか、晩生種を少なくするとか選定し、スジ(種籾)おろしの計画を立てる。
こうした農作物の農作占いによつて栽培計画を立てる農耕文化が古代より伝承されて来た。

信州・戸隠神社は信州だけでなく広く越後や関東地方まで「戸隠講」があり、多くの25_4 講員の仲間がいた。
毎年「種兆」と言う豊作占いは水稲、陸稲ばかりでなく、養蚕、桑、麦、大豆、小豆、そして台風が多いか少ないか、雨が多いか少ないかを占って講員に配布していて、当地区にもつい最近まで講員が多くいた。

又、信州・諏訪大社は「御筒粥神事」と言うこれ又豊作を占う神事である。
同じ「御筒粥神事」はこの地方にも多くあり小正月の行事として14日の真夜中から15日の明け方にかけて行われている。

当市能生・白山神社は「御筒粥祭」と言つており、葦と石臼で挽いた米を一緒に煮て粥を作り、葦に詰まった粥の具合でその年の豊作を占う。
米は白米3升を石臼で挽き、篩(ふるい)で大粒(早生稲)、中粒(中生稲)、細粒(晩生稲)に分け判断を宮司がし、筒粥は一般参拝者に公開するが、占い結果は公開せず見た人が自分で判断することになつている。

24 その点、信州・戸隠神社の「種兆」のように公開しているのが、下早川・日光寺集落の白山神社である。
この「御筒粥神事」も小正月に行われ、既に神社の社務所に掲示されている。
この地方ではかつては養蚕や麦作、葉タバコ栽培も行われていたが、今は水稲単作となり、稲だけの作柄占いとなつているが、今年は「早生種」の6分は品種から言えば「越路早生」位であり、この地区では栽培していない。
「中生種」は「コシヒカリ」であり9割を占めており、8分の出来とは不満が残る。
昨年は9分の出来と出て、国の作況指数は上越地方は103となつていたが、JAひすい管内は推定98の「不良」で実際は採れなく上位等級比率も2年続きで良くなく、当地区の開田は最も悪かつた。
今年こそこの汚名を挽回し、豊作に持つて行く指標にこれをしなければならない。

写真の説明
1枚目は 日光寺・白山神社の社務所に掲示されている今年の豊作占い。
2枚目は この白山神社も雪の中で参道もわからなくなつている。
3枚目は 春の大祭に「ケンカ神輿」の行われる日光寺観音堂も雪で埋まっている。
4枚目は 信州・戸隠神社の24年の「種兆」と言われる「お札」である。
中ほどの能生・白山神社の「御筒粥祭」をクリックすれば白山神社の祭事のページに繋がります。

2013/01/20

NO,4  あんこう(鮟鱇)まつり

25_2 今日は1月20日(日)、二十日正月でもある。
そして二十四節気の「大寒」であり、越後では本格的な降雪期に入る。
よく「越後の雪は余寒に降る」と言われているが、寒明けにはまだまだ日数がある。
冬の低気圧が少し緩み今日は時々小雨が降ったりみぞれが降ったりの天気で気温が少し上がつている。
それを感ずるのは南よりの風であり、海川の鉄橋を電車が通過する音がゴトン ゴト25_3 ンと聞こえて来るからである。
この音が天候を変える前兆の音である。

こうした天候の日に糸魚川の本町通りを交通止めにして「日本海・糸魚川荒波あんこうまつり」を行った。
この時期日本海で獲れる「あんこう」は「旬」であり、「すの」である。
しかしながらまだ今年になつて口に入つていない。
本町通りに特設会場を作り10時からまつりのテントや雁木通りには屋台が出来て大253 鍋あんこう汁や魚の干し物網焼き、焼き鳥等が焼かれていい臭いがして大勢の人が集まっていた。
この「あんこう吊し切り」の実演は10時半と11時半の2回行われ多くの人が集まり見とれていた。
本町通りにこんなに多くの人が集まったのは何十年振りなのではないだろうか。
昔の暮れや正月の人出をホウフツさせるような風景であつた。

最近の人集めの行事やイベントは「食べ物」が主役となつてお、先日も新発田市の「全国おぞうに合戦」もそうであり、多くの人が集まったと報道があつた。
次回は27日(日)の能生道の駅、2月3日(日)は道の駅親不知でも行われる。
こうした新しい地域おこし、まちおこしの行事として定着し伝統的行事となつて行くの2 かとも思われるが、昔からこの時期だからこそ行われている十日町の「節季市」のように今年の農耕に使われる必要な道具等を売つたり買つたり、そして「チンコロ」のような縁起物の手作り菓子を買い求めて人が集まる。
又、松之山の「ムコの胴投げ」の行事等は寒い最中であつてもほのぼのとするような行事であり風景でもある。

写真の説明
1枚目は 駅前からこのような幟が何本もあつた。
2枚目は 本町通りの賑わい。
3枚目は こうしたライブも行われていた。
4枚目は 「あんこう」の大物を吊るし、これから解体され
       て行く。今年は多く獲れているのだろうか、年
       毎に値段が高くなり冬の庶民の食べ物となり
       にくくなつている。

2013/01/16

NO,3  竹のからかい

9_1_3 今日は1月16日(水)朝から晴天となり久し振りである。
午前中は予約の外科外来の日で診察と薬をもらいに行つて来た。
今日の暦は「薮入り」の日である。
「奉公に出た一人息子が3年振りに帰るので男親は早朝よりソワソワして、天婦羅を食べさせようか、寿司にでも連れて行くかの落語(三遊亭金馬:「薮入り」)が思い出される。」

昨日の15日は「小正月」で小正月の行事は地域によつては色々と残っている。
当地区田伏の奴奈川神社では午前9時半より神社内で火起こしの神事を行い、その種火で「お松さん焼き」(賽の神)を行っている。
この行事に参拝する予定であつたが、近所の友達がおPhoto 茶に来られとうとう行く事が出来なかった。

この「お松さん焼き」は地域内の門松や松飾り、しめ縄、お札等を子供が集め、これを集落毎に15日まで保管する作法に基き行って来たが、この集める子供の行事は出来なくなつてもう30年以上にもなつている。

この「賽の神」の一連の行事としてこの地域で特に有名なのは「青海の竹のからかい」がある。
江戸時代から続くと言う国の指定重要無形民俗文化財(昭和62年12月)に指定されている。
同じような行事は全国に3ケ所程あつたと言われていたが現存するのが青海だけになつたそうである。
昼に1回目が行われ、まずまずの天気であり、平日であつたが時間には多くの人が集まり、主に中高年の人達と見受けたが、今回も一眼レ12 フカメラの重もたいものを2台も首に下げて飛び回つている姿が相変わらず目についた。
その数も20人以上には達するだろうし、そのパワーに圧倒される。

この行事も五穀豊穣や除災招福、家内安全を願う民間信仰が起源と聞いている。
「竹のからかい」は町内を東西に別け、長い竹の根元を交差させ、竹の引き合いが始る。
この主役は若い衆で「隈取」をし、腰にはしめ縄を巻き、ワラジ姿である。
「隈取」は神に仕える人としての強さを表すものなのだそうである。
主役の若い衆はどこでもそうなように少なく年輩の人も多く見られた。
Photo_2 関心なのは国指定だけあつて、揃いのハッピに鉢巻姿、ワラジに靴下は軍足と全員が揃っていた事である。

糸魚川警察署の巡査も地域密着型と事故防止の一役を担って今年も隈取で出派りは勇壮な姿で好感を得ていた。

2013/01/10

NO,2  羽織・袴(はかま)

Photo 今日は1月10日(木)、朝から小雪が時々舞つている。
この正月もあっと言う間に「七草」も過ぎて10日となつた。
今日は5日振りに地面が白くなつている。

この10日は「十日えびす」で全国的には「商売繁盛で笹持って来い」で有名であるが、「初こんぴら」でもある。
当大和川にも小高い丘のカントビラに「金比羅宮」の祠が鎮座しており、本祭は7月10日であるが数年前から8月7日の「風祭り」と合祀して執行している。残念である。
Photo_2 いつの時代から奉られるようになつたのかは資料がないが、地区の「四十物」(あいもの)業者が建立したと言われ、明治の後期頃から昭和の初期にかけてカマボコ作りや甘エビ加工をする家が10戸程あり、一時は「金比羅講」まであつたが昭和の恐慌で廃業に至った。

糸魚川・寺町にも「琴平神社」があり、今日は初琴平で、前日の9日の夜に「おこもり」が行われ、参拝者が「大黒引き」と言う宝くじを引き、今年の幸運を占う、その折に「大黒さん」の歌を唄うそうである。
 「おおべつさんが ござつた」
1にや俵をふんまえて  2にやにつこり笑らつて
3にやさかずき(盃)いな(た)だいた
4にや世の中ええ(いい)ように  5にや泉のわくように
6にや無病息災に  7にや何事ないように  8にや屋敷をたいらげて
9つ小倉をぶつたつて  10にやとうとうおさまつた
この歌は子供の頃に祖母から炬燵に入つて習ったものである。

明日の11日(金)は正月行事の「蔵開き」であるが、土蔵や倉のある家は段々と少なくなつているので,この行事も造り酒屋など伝統的職種のみとなつているし、そうなるだろう。
家にも二階建ての土蔵があり、1町3反の米を入れていたが今は低温庫に10袋程の米が入る程度であり、土蔵は空になつている。
二階のタンスは何代も前からの羽織や袴が入つているものと、朱塗りの膳とお椀があるがもう出番がなくなり何十年にもなる。

Photo_3 羽織・袴も私が着せてもらつたのは婚礼は洋装であり、国造神社の火災による新築の遷座祭(昭和28年秋)と同じく神社移築の遷座祭(平成11年夏)、そして初めて区長になつた年の歳旦祭の時である。
年一回位は惣代や区長は羽織・袴の正装で参拝しようと言う空気となり、新しい家の区長は新しい羽織・袴をこの機会にと新調し、年代ものに比べて色も鮮やかで眩しい程であつた。
こんな事も長くは続かなくもう20年以上も経つている。
そんな事で又、羽織・袴の出番はなくなりタンスの中で長い眠りにつている。

こうした和装姿も近年は府県議会や市議会等でも見られるようになつたが地場産業振興のみでなく伝統的文化としても残したいひとつである。

写真の説明
1枚目は 松本市地方の七夕人形
2枚目は 大和川の金比羅宮
3枚目は 寺町の琴平神社

2013/01/01

NO,1   巳年の始まり

Photo    賀   正

巳年の新しい年の元旦は夜中に降った少しの雪が、大地を白く染め新鮮なものに置き換えてくれた。
昼前から日も出てまずまずの天気となつた。
「朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ 世を」は歳旦祭(元旦祭)等で舞う神楽舞の「浦安の舞」の一節である。
今日の海は決して波立たぬ穏やかな海ではないが季節風も強くなく順調に第一歩をあゆみ出した。

氏子の国造神社の歳旦祭は早朝5時からであり、今日の内に田伏・奴奈川神社の榊神職さんは大忙しである。
奴奈川神社は年が変わる零時から典が始り、「浦安の舞」が奉納される。
25
この「浦安の舞」は昭和15(1940)11月に開かれた「皇紀2600年奉祝会」に合わせ、神楽舞を新たに作る事になり、昭和天皇が昭和8(1933)年に詠まれた「天地(あめつち)の神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ 世を」は神楽の歌詞となつている。
この神楽舞はこの地域では田伏・奴奈川神社のみと聞いており、もう20年以上にもなり舞っておられた巫女さんも高校生になつておられたり、就職されている年齢に達している。
全国的には津つ浦うらの神社ではこの元旦祭や例大祭にも舞つておられるようである。

当国造神社が終れば直ぐに梶屋敷・立壁神社、そして竹ケ花・明正神社、厚田の三神社と廻られており大変である。
どこの神社も今日の歳旦祭のみで特別の行事も、祀りもなく3が日は静かに暮れて行く。
正月の行事は奴奈川神社の賽の神(お松さん焼き)は今年は6日の日曜日になるのか、13日の日曜日になるのか周知されていない。

今年の地区の公共事業は新たに2級河川「前川」の改修の第2次が開始されたり、海辺では防波堤の波叩き側溝に添って新規に市道「海浜道路」の工事が始る。
Photo_2 原山の水田も圃場整備もようやく新規補助事業で取り組む動きが出始め、まず地権者全員の同意書貰いから出発点となる。
こんな動きは過去に何回もあつたがなかなか前に進まなかつた。
竜頭蛇尾(りゅうとうだび)に終らないようにしなければならないし、巳年のコンキョ(困窮)にならないように農作物の技術革新や気象条件の克服等で蛇足(だそく)だけは避けなければならない。
「それ見ろ」と笑われないようにしたい巳年である。

写真の説明
1枚目は 西海・水保の春祭りの神楽「山彦の舞」である。「幸多い年となるように」と
      載せました。
2枚目は 今朝の日本海である。決して凪の良い船出ではない。
3枚目は 本県岩船・関川村の「大したもん蛇まつり」の村起こしまつり。大蛇の長さ
       は82.8m、太さ1.2m、重さ2tで 2001年にギネス社から認定された大物。

「奴奈川神社は年が変わる零時から祭典が始り、「浦安の舞」が奉納される。」をクリツクすると奴奈川神社の写真が出ます。